血みどろ男爵のザナドゥー
執筆のきっかけになったロシアによるウクライナ侵攻の衝撃。
ロシアとアジアは切り離せない関係にあることを再認識し、意外と日本では知られていないアジアに生まれたで二番目の共産主義国の誕生物語をテーマに日出ずる異国日本からの勇者というIFストーリーを展開してみました。
是非お読みください。
新しい時代が生まれる。ジンギスカンの生まれ変わりたる我が、再びユーラシアに偉大なる帝国を築き、モスクワまでボリシェヴィキの首を並べ連ねてやることをこの大地に宣言する!」
辺り一面炎で包まれる合戦の渦中、大量の護符を貼り付けた法服に身を包んだ風体の男が叫んだ。その目は狂気に満ち溢れており、並々ならぬ波動を感じさせるものであった。そして、その周りを囲む異様な風情を漂わす彼の軍団。彼らもまた呼応して雄叫びを上げる。
「「「ウラァアア!」」」」
雷の鳴る音と共に、男は次から次へと果敢に向かってくる軍勢に剣を向けた。
「吾輩は世界を救済するのだ。数多の血をもって我らは大地に贖罪し、赤どもを討つ。さぁ、定めを受け入れよ」
彼の気迫に対して立ち向かう一人の青年はただため息をついたのみであった。
「何か勘違いしているんじゃないか? そんなのはただの乏しい妄想に過ぎん。お前なんかに世界を救済することは出来ない。所詮、お前は血みどろ男爵に過ぎん」
その言葉を聞くなり彼の中で何かが切れたようだ。
「黙れ! 貴様の魂は救済する必要がある!」
剣を両手で構え、ひと思いに振り下ろさんとした。だが、
「酔いが醒めたら地獄へ還れよ」
戦いの覚悟を決めた青年が刀を振り降ろした。
*
源忠一は苦し紛れに息を荒くしていた。歩けどもあるけども大草原。彼は足の疲れと喉の渇きによって疲弊が限界に達していた。厳しい暑さが襲い、彼の体を火照らせ確実に蝕んでいく。ついに源は倒れた。
「ここは…。かの成吉思汗の統べた大地。どこに行くでもなく道草食べ続けてたらいつの間にかこんなところに着いてしまったってわけか。さすが大草原だ。食べ放題の末に飢え死にするとは」
自虐的にふっと笑った彼は、自身を遠くから睨む眼光に気付いた。狼。自身が狙われていることを悟った時、源の脳裏に走馬灯が過る。短い人生で多くのことをしでかしてきたものだと彼は死の瞬間に思い返す。
「神や仏はこんな時、助けてくれるだろうか……」
狼は唸り声を挙げ、彼へと突進してくる。その速さは風の如き。一メートル、また一メートルと狼が近づくにつれその鋭い牙の切っ先がまさに源の首を貫かんとした時だった。
「マジ……?」
首を貫かれたのは狼のほうだった。鋭く長い矢。これは確実に狼を瞬殺するに相応しい代物でしかるべき位置を射抜いていた。
そんな折、ギーコギーコと何やらリヤカーを牽く音が近づいてくる。ゆっくりとだがこちらへあってくるそれの重みが伺い知れる。源は見上げた。
「あなたは死なないわ」
そこには、蒼い民族衣装をまとった少女が弓を背に携え、狼の亡骸を見つめていた。彼女は源より幾分か年下だろうか。大陸の民特有の低めの身長ではあったが、どことなく思春期の情熱を隠し持ってそうな様相であった。
「君が助けてくれたのか?」
彼の問いに対し女性は首を横に振る。
「いえ、守ったの。これが大自然の掟だから」
源は立ち上がり少女へと近づく。彼女がこちらを向いた時、その表情がくっきりと目に焼き付けられる。赤く日焼けした肌。くすんだ黒髪を後ろで束ねており、勝気そうな目つき。今まさに、アジアンビューティーという単語が源の脳内を支配した。
「生きとし生ける全ての命は常に巡る輪の中で、必死に足掻いている。それが定め。生きることも死ぬことも、食べることも食べられることも全て決まっていることなの。そしてまた形を変えて永遠に繰り返す」
彼女は目を閉じ、手のひらを重ね合わせ合掌した。
源も思わずそれに倣い、よく分からないままに祈った。彼女の言っていることの意味……。輪廻転生のことか。彼女には彼にはない独自の無常観があることだけは気付けた。
ふと目を挙げ彼女に向き直る。
「そういや、自己紹介がまだだったっけ。覚えてくれたら嬉しい。俺は――」
それを聞いて彼女はふっと笑う。
「あら、旅人はお互いのことを語り合わないものよ。特に真の名は。名乗るってもしかして……あなたは遠く日の出処るところからやってきた大陸浪人かしら? 初めて見た」
「まぁ、見ての通り。日本人もここまではまだ到達した奴がいないか……。何かお礼をしてあげたいけど、この通りフラフラなものでそれが叶わないのは悲しい。さて、次の狩人が来るか俺の命が尽きるかどちらが早いかの賭けは第二回戦になるか」
善岡はその場に座り込む。しかし、彼女はそんな彼を前にして何を言っているのかと首を傾げる。
「あなたは死なないわ」
「それってあなたの感想ですよね? なんか論拠あるんですか?」
彼女が指さす先には先ほどの狼の亡骸がある。
「さぁ、虫やハゲタカにやられる前に糧へ」
そうだなとばかりに立ち上がった彼の手にはナイフが握られていた。
*
「いただきます」
草原の夜は寒い。焚火を挟んで二人は向かい合い、互いに肉を頬張る。
「どこまでいくの?」
「どこまでも」
「何故、行くの?」
「分からない。で、君は?」
「何故でしょう?」
「知る由も無い」
彼女の問いに源は素っ気なく答えた。
「そういう君はどこまで?」
「フレーまで」
彼女は西を指さす。フレー、漢語に訳すと庫倫。代々、中世前期以降の遊牧民王朝が宮廷をおいた所だ。彼らは隷属民の牧夫を従えて何十何百も集まった大型のゲル集落を築き上げ、そこは蒙古において数少ない都市と呼べるに相当する地となった。バザールもあり、仏教僧も多く、何せ今の外蒙古の大地を統べる活仏、ジェプツンダンバ・ホトクトも鎮座している。それにしても彼女は出稼ぎで赴くのだろうか?
「ところで一人?」
「あぁ、そっちは? 家族とかは?」
だが、ボルテは答えず、源はあまり深く尋ねないことにした。
「しかし、この狼は思ったほど肉がないな」
「多分、この狼もあなたと同じ。生きるか死ぬかの瀬戸際だったんだわ」
自然において弱肉強食の二元論は避けられない。どちらかが死ねばどちらかが生き、その血肉となってさらに生かす。
「日本ではな。ご飯を食べる時に「いただきます」って言うんだ。今からご飯をいただくって意味だと思うだろ? 違うんだな。命を頂くから糧となってくれる動物の魂に感謝と敬意を表していただきますなんだ」
源がぼそっと蘊蓄を垂れた。彼女はそれになるほどとばかりに頷いた。
「そうなんだ。人間は動物とは共に大地を歩み生きていく宿命だからね」
「でも、人間は動物に対しては敬意を払うのに、人間同士が戦う時は相手に敬意も何も払わない。残酷で矛盾に満ちた動物だ」
彼女はそれを聞いて、憂い気に口にする。
「ねぇ、日本人は戦う時、戦の前に名乗るんでしょ。あなたたちは仁義や礼節に対する思いが私たちとは違うのかもしれない。それは軽蔑されるかもしれないけど、ある意味羨ましいところもあるね。ところで、あなたは命がけで戦ったことってある?」
彼女が言っているのは元寇の時のエピソードなのだろう。鎌倉幕府の武士たちは元の軍勢に対して一対一の決闘を申し入れたというやつだ。なるほど、そのステレオタイプを彼女は持っていたのか。しかし、
「俺は武士じゃない。人生でそんな経験なんてあるもんか。でも、そのうち徴兵されて、運が悪ければ戦争だな。その時は殺し合いだ」
それを聞いてふっと彼女が笑う。
「どうした?」
「だってさっきさ。狼相手にさぁ俺を食ってくれなんて言ってたあなたが人を殺せるのかしらって」
源はぐうの音も出なかった。何せ人を、いや生きとし生けるものを殺せる覚悟がないことくらい十二分に分かっていたのだ。
「じゃあ、私がいくつか戦いに関する忠告をしてあげる。命を取る時は自分も命を賭けなければダメよ。でも、死んでもいいと思って戦うんじゃない。それは死ぬ気で戦うこととは違うから。人も動物も戦うのは生きる為だからね」
その口調は源の心をえぐるくらいに強く、彼はそれを聞いて項垂れるしかなかった。
それから夜が明け、二人は身支度をしていた。ふと東の空を見る源。しかし、彼女に向き直る。
「なぁ……」
「何?」
「俺もフレーまで行ってみよっかな」
突発的な言動で彼自身、何故そう思ったかは分からない。だが、何かがあると神秘的な衝動に突き動かされたのだ。
「じゃあ一緒に来て。あと、そのリヤカー牽くの手伝ってね」
そうして彼の旅の色は、行き先と仲間を持ったことで空を覆う灰色から大地の赤色へと変化した。
「長い戦いだな。よろしく」
源は威勢良く言ったが、彼女は何やら不思議そうにしている。
「なんか忘れてない? 日本人なら戦う前に何をするんだっけ」
あぁ、あれか。彼はピンときた。
「我こそは源忠一なり」
それに彼女も呼応する。
「我が名はボルテ」
二人は手を取り合った。今や二人は、ぎらぎらと照り付けてる太陽をもものともしない。
*
かくしてその年の秋、源とボルテはフレーにたどり着いた。暑さも寒さも猛獣も砂漠の嵐も二人の敵ではなかった。道中で数多くの遊牧民や馬賊と出会い、彼らと交流を深めることで食料にもこと欠かさなかった。
大モンゴル国。その首都フレーは北京や南京のような華やかさこそなけれども、行商人の賑わいや旅人たちの大道芸といった活気で賑わっていた。道中のゲルは数が少なくなってしまい、時代の変化と共に固定家屋が増えていったのだろうか。そんな街の中でもひときわ目立つのがこの地を治める活仏にして聖なる皇帝ボグドハーンの住まう大宮殿である。その何層にも瓦が重なり合った翠の正門の荘厳さは圧巻そのものである。
「こりゃすごい。ゆっくり巡ろう」
源はボルテに提案したが、彼女は首を横に振る。
「いや、私たちの旅の目的は違うからここでお別れにしましょう」
「えっ……」
ボルテはリヤカーを推しながら雑踏へと紛れて行った。思わず手を伸ばすも源は何も掴むことができなかった。
その夜、昼間の盛況ぶりはどこへやら、暗闇が街を覆っていた。ところどころ民家の灯りと宮殿の輝きだけが道しるべとなっている。取り敢えず、売春宿を探そう。そう彼は思って道を逸れ、裏筋へと足を踏み入れた。
何やら騒がしい声がする。ならず者どもがどんちゃん騒ぎでもしているのか? しかしそこを通らなければ前に進めない勇気を振り絞る。ところが、
「おい、てめぇ、国民革命軍の縄張りをただで通ろうってのか?」
彼らが逃がすはずがなかった。ふと見るとカーキ色の軍服に身を包んだ大柄でガラの悪そうな男たちが睨んでいた。彼らが喋る言葉を聞いて源は驚いた。漢語。ここは蒙古で主権を保った独立国家であるはず。本来、隣国である中華民国の軍が駐留しているはずがないのである。
なにせ、かつて蒙古はかの清朝の軛を受けていたが、近代帝国主義の流れで弱った清朝が辛亥革命によって倒れた時、中華には外蒙古の独立を止める術は無かった。そして、外蒙古はロシア帝国の極東政策に乗っかる形で彼らの後ろ盾を得て主権を持った在るべき国としての地位を取り戻したのだ。
「何故、中国軍がここに⁉」
源の問いに、彼らは大声の嘲りで応えた。
「おい、お前なんも知らないんだな。さては日本人か。蒙古なんて所詮、後ろ盾がないと地に足を立っていれねえんだよ、今やチンギスハンもいないしな。んで、今までえらそーにしてたロシアの野郎どもは下らねえ戦をした挙句にぶっ潰れて、内側で争ってる始末。こんな機会、俺たちが黙って見ているだけなわけねーだろ」
それを聞いて源は三年前の衝撃を思い出した。そう、第一次世界大戦の最中にロシアでとんでもない革命が起こったことを。なにせ革命を起こした連中は、労働者が主体の平等で平和な理想郷を作ると宣っていたレーニン率いる過激派なのだ。一夜にして帝国はそれまでの歴史を否定した人工国家となった。雪に包まれた大地では、ボリシェヴィキ率いる赤軍とそれに反発する白軍による血で血を洗う凄惨な内戦が今なお繰り広げられている。その影響がまさかこの外蒙古の地である大モンゴル国にまで及んでいるとは源にとっても予想外だった。
「んで、日本人さんよぉ。お前さんには恨みなんてねえけど、お前さんの国が俺たちの国をいじめているのは正直許せないんだわ。というわけで、何発か俺たちに殴らせてくれや」
言うか言わぬかの内に、中国兵の撃鉄が源を吹き飛ばした。
「ま、待て! 俺は敵なんかじゃない!」
「敵はみんなそう言うんだよ。そして、油断したり情けをかけたりしたら後で裏切りやがる」
ただでさえ武術の達人相手に多勢に無勢。源には一つしか選択肢がなかった。逃げるが勝ち。彼は身をかがめ脱兎の如く駆け出し、中国兵たちの群れをすり抜けた。
「待ちやがれ!」
罵詈雑言が背後から聞こえてくるのも気にしている間がなかった。
かなりの時間走り回りもう追手は巻けただろうか。源は息を荒くしていた。今の彼はあまりに疲れており、何より休息と癒しを求めていた。そして、当初の目的を思い出した。
眼前には赤い色の灯る宿がある。源は躊躇することなく入って行った。
「いらっしゃ~い。ここらへんじゃ見ない顔だね。旅人さんかい」
しわくちゃの肌の女将がぺこぺこと客を迎え入れる。
「あぁ、俺が来たことは誰にも言わないでくれ。そして、一番活きがいいのを頼む」
彼は金の粒をいくつか取り出し女将の掌に乗せる。それを見てにちゃりと笑った老女は人差し指を出す。もう一粒ということだろう。源は舌打ちをするも渋々従った。
「いやぁ、景気いいねえ。ここらじゃ景気良いのはみんな中国の軍人さんくらいよ。でも、あいつら何かと理由つけて料金値切ったり女の子が嫌がる絡みをしたりで、街で女の子見つけたら集団で回したり酷いもんよ。さぁさぁ、今日初出勤の子がいるからその子と一晩楽しんできんさい」
そんなやり取りの末、彼は抑えきれない興奮を抱えながら扉を開いた。薄暗くてよく見えないが、確かに初心な体の影を感じた。
「今夜は好きにしてくれてもいいよ……」
少し緊張を孕んだ誘惑。しかし、それを聞いた瞬間、源は我に返った。
「ボルテ!?」
「源!?」
思わぬ再開である。ボルテは布団で体を覆い隠して枕を彼に投げつけた。
「変態! 不潔! 旅していた時は何もしなかったのに、やっぱり獣だったのね!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待てよ。ここくらいしか泊まれそうなとこなかったんだから」
枕を上手くキャッチして源は咄嗟に言い訳をした。なんとか落ち着きを取り戻してデールに着替えたボルテと彼は向き合った。
「そっちはなんでこんなとこで働いてんだ?」
彼女は、はぁとため息をつき、
「ここで若い女性が中国軍に襲われない為にはこれしかないのよ。奴らは革命でそれまでの道徳や価値観まで破壊されてるから、尼さんまで酷い目に合う。だから毒に対抗するためには毒を呑むしかないのよ」
「なるほど」
源は事情を理解した。そして、口を開く。
「でも、そう軽々しく、こんな形で初めてを捨てようとするもんじゃない」
ボルテはそれを聞き捨てならない。
「もしかして私が処女だって気付いてたの?」
源はいいやと首を横に振る。
「ただの勘だよ。旅の時、いつも両手で身を隠すようにして俺に背を向けて寝ていたからそうなんだろうなって」
「鋭いところまで見ていたのね。私はてっきり、あなたは大人じゃない体には興味がないんだって思ってたけど」
それを聞いて源は吹き出す。
「何?」
「いやいや、いつかボルテも大切な人ができて命を繋いでいくんだろうなって考えたらやる気が起きなかっただけ」
二人はふっと笑った。
夜は長いが、退屈な時間を過ごすことになるだろう。そう思いながら、源は窓の外に浮かぶ昴を眺めた。
*
「では行ってくる」
源は外套を羽織り、宿を出た。どこへ向かおうかは特に考えていなかったが、ふらふらと歩きだす。
裏道には酔っ払いや阿片中毒者がたむろしている。無気力に倒れ込み、何やら訳の分からないことを叫び散らしている者もいるが、彼らはいずれも相当の年寄りのように見える。しかし、恐らく実際は想定よりも若いのではなかろうか。彼らが持っている瓶の汚さを見る限り、それは恐らく正規で流通するものとは別の粗悪品。体内の至る所が爛れ、哀れな醜態をさらしているのだ。中国軍が闊歩する表通りよりここの方が安全とは皮肉なものである。
しばらく歩き続け、彼はこの街に来てもう一度見たい、そして行きたいと願ったある場所へと辿り着いた。かの大宮殿である。
その中にある僧院にでも掛け合って、自身の煩悩でも払ってもらおうと源はふと思った。一見さんをいれてもらえるかは不安であるものの、虎穴に入らずんば虎子を得ずという教えを思い出し彼は門をくぐらんとする。修行僧たちが合掌しながら礼をして迎え入れてくれるか、棒で叩き返されるか。
しかし、現実は夢想を上回った。
「おい、お前は昨日の日本人だよな」
ふと聞き覚えのある漢語を背後から耳にし、背筋に緊張が走る。やばいと思った時にはもう遅い。振り返ると同時に拳が飛んできた。そして、逃げ出す間もなく彼の両腕は掴まれた。
暫らく暴行が続き、源は最初こそ足掻けど抵抗する意思を終いには無くしてしまった。その様を見て、首領格の男が彼の髪をわしづかみにして尋問を開始した。
「日本人如きがここに何しに来た?」
「てめえらこそ何しにこの聖なる寺院へ?」
再び拳が飛ぶ。
「質問に質問で返すんじゃねえよ。それも的外れなもんでよ。ここは俺たちの土地、外蒙古の庫倫だ。何の許可があってお前のような礼儀の知らねえ若造が来たものか。しかも、正体不明の日本人とくりゃ怪しすぎる。だからこうして丁寧にお尋ねしてんだ。第一、この場所がどこか分かってんのか?」
侮蔑した態度に腹が立つが抗議する術は無い。ここは正直に答えるしかないと源は悟った。
「ボクドハーンの鎮座する宮殿だろ。お会い出来れば幸いかと思ったんだけどね」
それを聞いて男の顔が引きつる。
「貴様、関東軍のスパイか! 俺たちの土地をまた一つ奪うつもりなのか! 外道め!」
再び源の顔に拳が飛んでくる。しかし、今度は数発である。彼には男の言わんとしていることがよく理解できなかったが激しく憤っていることだけは確かに感じ取った。
「いや、何を言っているんだ」
「自宅軟禁下にある活仏を勝手に連れ出して、傀儡国家を作る。そういう魂胆だろ。ふん、帝国とやらの奴らが考えることはみんな同じだな。都合の良い自分たちの論理を振りかざして、結局は自分の利益の為に奪う。上品な強盗とはまさにお前らだ」
ようやく源は察した。彼らは大モンゴル国に侵攻して、元首である活仏を軟禁して主権を奪い、実効支配を開始した。だが、それを日本が「解放だ」などと大義名分をつけて奪い取ろうと。満州族の支配が倒れて第一次世界大戦を経ても中華は英仏日の勢力圏として分割されている。それなのにさらに飽き足らず、ようやく取り戻した外蒙古にまで手を伸ばそうとしているという。
しかし、北で起こっている内戦に干渉して、シベリアに出兵中の日本が興味を持つのは地政学的にはロシアよりも外満州だ。そんなさなかにまた一つ手のかかる植民地を作ろうなぞ思うはずがなかろう。しかし、興奮する彼らを説得することは難しそうだ。
「しかし、お前らが大モンゴル国にやっているのは俺たちと同じことだ」
精々口にできるのは嫌味くらいだった。
「だからどうした」
男は淡々と冷徹に嫌味に応えた。
「強きが弱きを殺め、生きる為に餌として食らう。これくらい自然の法則だ。貴様が腹の減った虎を前にして論理を押し付けても、肉塊になる運命は避けられないだろうが」
万事休す。源はスパイとして取り調べを受けることになれば、彼の言うように死を免れないだろう。ここで我を忘れて必死に足掻くのもありかともふと脳裏を過ったが、それは自身のポリシーに反する。泰然自若に自らの定めを受け入れるしかないのか。
引きずられていかんとしるまさにその瞬間。横やりが入った。
「待て、この日本人の旅人は本殿で預らせていただく」
野太い声が響き、一行を引き留めた。軍人たちは振り返るがすぐさま銃口を声の主に向ける。源も思わず目をやると、そこには赤と黄色で織り成した僧服を身にまとった青年が長槍を持って佇んでいた。坊主頭に鋭い目つき、ただならぬ風格を漂わすその男を軍人は怪訝に見つめる。
「スフバートル。お前はこの宮殿と活仏の護衛だけしとけばいいのだ。立場をわきまえろ。お前ら遊牧民を外敵から守ってやっているのは誰か分かっているよな? その俺たちに余計な口出しは無用だ」
中国兵は威圧的に言い放ち、帰れと言わんばかりに門を指さす。しかし、スフバートルと呼ばれた男は彼らを睨み続け、それに続いて他の僧兵たちもぞろぞろと集まってきた。流石にその様子に中国兵たちは思わずたじろぎ、スフバートルに向き直った。
「何の真似だ?」
「ボクドハーン様が彼をお目にかけておられる。旅人は自らの道に迷いここにきたとおっしゃったので、対話したいと所望された」
それを聞いて中国兵は舌打ちする。
「お前ら、やはり内通していたか。坊主だろうと容赦しないぞ」
銃声が一発発せられた。空に向けて撃ち、彼らを威圧するもスフバートルらは彼らに近づいていく。
「だから旅人であると申しているだろう。この際だから言っておくが、我らの土地を守っているのは我々以外の何者でもない。我らが日々祈り、土を耕し、糧を得て成り立っているのだ。侵略者の助けなどもとより欲していない」
中国兵と睨み合いになる内、他の僧兵たちも声を上げだした。
「殺るというのだったら踏み込んできた時にやるべきだったな!」
「北方の様子も気にしないで、酒と阿片と女に明け暮れやがって!」
「強きに屈し、弱きを挫くとは貴様らのことだ!」
罵声が飛び交う中国兵たちは怒りを顔に出しまさに引き金を引かんとしている。だが、僧兵の不満は収まらない。いよいよ血が流れんとする中、スフバートルは彼らを制止した。
「取り敢えずここのところは我らに任せていただけないだろうか。上にかけあって彼がただの旅人であることを確認していただければ幸いだ。疑うなら疑うでいいが、我らに隠すようなものはない」
場に沈黙が流れる。睨み合いが続く中、中国兵は口を開いた。
「また何か分かれば後日、再び伺おう。良からぬことがあれば覚悟しろ」
彼らは乱暴に源を地面へと投げ離すと、煮え切らない様子だったのか唾を吐いて再び空に一発放ち去って行った。銃声を聞いた鳥たちがばさばさと空へと散っていく。源はあっけに取られていたが、すっと手が差し伸べられた。
「酷いお怪我だ。さぁ、こちらへどうぞ」
スフバートルはやはり鋭い目つきで気迫があるが、先程とは違い旅人を迎えるように、丁重に振舞った。
「感謝します。助けてくれて……」
源は手を取り立ち上がりながら礼を言うが、スフバートルは気にしている様子はない。
「いえ、あなたは助かる定めだったが故に助かった。それだけのこと」
謙遜なのだろうか、それとも本心なのだろうか。ふと源は疑ったがもしボルテが言ったのであればそれは本心だとふと思った。
*
「こちらへどうぞ」
質素だが鮮やかな紋様の施された廊下を通り抜けた先にある扉が開く。キィィと音がするのとそれを開ける修行僧の腕筋が張ったことからその重さが伺い知れる。源はごくりと唾をのみ込んで緊張しながらも足を踏み出した。
「ようこそお越しくださいました。わしはジェプツンダンバ・ホトクト8世」
巨大で荘厳な曼荼羅を後ろに控え、座禅を組んでいる老人がしゃがれた声でもてなした。源は思わずかしこまる。
「お初にお目にかかります、ボグドハーン! 私は日本から参りました源忠一と申しますっ。この度はご縁あって幸いに存じます! どうかお見知り頂けましたら幸いに存じ……」
いつもの口調は思わず封印してしまった。しかし、
「まぁまぁ、旅の者よ。聖なる皇帝は済んだ心で話がしたいと申しておられる。そう固くなる必要はないので安心されよ」
ボクドハーンの横で立っている痩せた中年男が緊張をほぐそうと源を諭した。
「そうじゃ。ダンザンの言う通りにせられよ。わしらは偽りの心で話すことは出来ぬ」
ダンザンがすっと一礼してその場を後にすると、部屋はシーンと静まり返った。そして、ハーンは口を開いた。
「見れば分かる。そなたは我らの敵ではない。悩める流浪の末にここにたどり着いたのであろう」
「全てお見通しですね。流石は、転生を繰り返してきた大僧正」
「転生は生きとし生けるもの全ての死後の宿命であって、わしはそれを永劫繰り返す業を持っているだけに過ぎん。死んでは運命を、形を変えて繰り返す。それ以外は許されず、生まれる前のことは断片的にしか覚えていない。ある意味、活仏は貴殿たちが思うほどの良いものではないのだ」
ハーンははぁとため息をついた。
「そうですか。お気持ちは察しますが、私は再び生まれ変われるとしたら自分になりたいと思います」
「ほう、だがそれは未練があるからじゃ。何か心当たりは」
源は問いかけに対して俯いた。
「そうじゃろう。しかし、そなたからは死に対する恐怖がまったく感じられない。だが、悟りとは程遠い。つまり、生に対して一切の幸を抱いていないということじゃ。だから歩むべき道が見えていない」
「では、私はどのようにすればよろしいのでしょうか……」
源はか細い声で尋ねる。
「自らの為すべき使命を見つけるのじゃ」
「それは何なのでしょうか」
「わしにも分かることと分からないことがある。己にしか分からぬことは己自身に聞くしか無かろう。そなたは色々事情があるようだから、それが落ち着くそれまでこの寺でゆっくり考えてみてはいかがかな?」
源は目線をハーンからその背後の曼荼羅へと移した。紅を基調の色とし大小の三角形と四角形が敷き詰められ、総体として形を形成している。そして、無数の仏の姿がそこにあり、その全てが違う顔をしていた。
その壮大さに彼は思わず感動のあまり言葉を失い、そんな源の様子を前にして、ハーンも邪魔すまいと静かに目を閉じ瞑想を開始した。
それからどのくらい時間が経ったのだろうか。源はふと我に返った。その眼前にはハーンがにこやかに結跏趺坐している。
「まるで吸い込まれそうでした」
「こちら側に戻ってこれたことは幸運だ。この地で自ら死を選ぶ民の中にはただひたすら曼荼羅を見つめて食を経ち、そのまま仏になる者もいる」
それを聞いて源は身震いした。ハーンは説明を続ける。
「その胎蔵曼荼羅は仏の慈悲の世界を表している。この現世、人々は智慧を発展させ続けているもののそれをやましきことに用い、そして他者との相互理解に難を生じるが故に争いに明け暮れる。そこに慈悲は感じられぬ。北も南東も争いに明け暮れている昨今を見ればまさに今は末法の世じゃ」
彼は頭を抱える。しかし、どこか達観視している。
「あなたもまた私とは違う苦しみを抱えておられるのですね。この地のハーンにして生ける仏であっても逃れることが出来ない宿命に悩んでおられる」
「そうじゃ、生きることは苦しむこと。我々は仏にすがることしかできない。思えば、物心ついたころ自分が初めてこの宮殿に来た時は何が何だか分からないままで、化身ラマという大義名分すら理解しておらず、修行僧と共に庭を走り回ってばかりいた。その後修行を重ね大人となり、満州族の冊封の中で様々な駆け引きの後に気付いたらこの地の遊牧民はわしを皇帝として祀り上げており、その時も何が何だか分からなかった。そして、時代の流れや諸国の力関係の中で民族の悲願でもあった冊封から脱出を成し遂げた。しかし、今度は革命で道徳を失った漢民族の軛の下にある。彼らは、乾燥したこの地に礼も示さず、生態系の破壊に躊躇すらない。諸行無常の中でわしがやってきたことはただ仏による現世利益を信じることのみじゃった」
「…………」
「もはや今、わしには王を名乗る資格はない。ただの僧に過ぎないのじゃ。だが、民は慕ってくれている。それに応えられないことは身を裂かんばかりに辛い。旅人よ、苦しみというのは逃れられない宿命じゃ。その根源にある争いは決してなくすことはできん。史伝を読んだら分かるであろう。争いのことばかりが書かれておる。戦のない平和な時期などそこには書かれない。あったとしてもごく短い期間、そして人の興味関心を惹かないからじゃ。我らは常にその渦中にある。それでもわしらは祈り続ける。世が荒んだ時、人の心に末法という不安が過る。そして、それに基づき愚かな所業が繰り返される。だが、三千世界がまだ滅ばないのはその度に英雄が現れてくれたからじゃ」
源はそれを聞いて立ち上がる。
「為さねばならぬことは見つかりました」
ボグドハーンは彼を見上げる。
「なんじゃ?」
「戦の作法を教わりたいです。来たる戦いに備える為に」
ハーンが手で指図すると、先程の重たい扉が再び開く。早歩きで入ってきたダンザンにハーンは指令を出す。
「しばらくの間、スフバートルのもとで彼に鍛錬を与えよ」
「拝命承りました。源どの、こちらへどうぞ」
源はハーンに会釈をし、ダンザンに着いて部屋を出ようとする。その背中にハーンは見送りをかけた。
「そなたは心構え次第では英雄になれるかもしれぬ。だから己を卑下するでない」
その頃、モンゴル北部の国境キャフタの丘では四人の男が南を見下ろしていた。
「そろそろ始めるぞ。俺たちの革命を」
彼らの背後は荒廃し炎が燃え広がり、あちこちから戦士の叫び声が響き渡っていた。
*
それから月日が経った。中国軍は源の身柄を引き取ろうとしに来ず、内心焦っていた彼はもう安全だろうとほっとしていた。
「中国軍は北方に集結している。恐らく北の内戦がこっちへ飛び火するのを警戒しているのだろう。日本人一人に構ってる暇なんかないってことさ」
スフバートルはそう言って源の剣を払い除け一本取った。参りましたとばかりに源はため息をついた。
「スフバートルは強いな」
「常に磨いてきたからな。さて、次の段階へ移るか。これからは銃と馬の使い方もやっていく。もしかしたら明日明後日にも実践になるかもしれないな」
スフバートルは冗談めかしたつもりだろうが、北方の国境情勢の話を聞かされただけに源は少し背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ここでの生活は旅と違って栄養のある食事が常に取れるし、猛獣や盗賊の危険にさらされることはなかった。こうしてスフバートルの指南を得ながら武術の作法を学んでいった源は充実した日々に思えたが、一つ気がかりなことがあった。それはボルテのことである。今、どこで何をしているのだろうか。まさか客に初めてをくれてやったのだろうか。まさか中国軍に……。不安が頭を過り、瞑想の時にはいつも集中できない。忘れるしかないのか。修行僧たちもそうした煩悩を捨てることによって日々、祈りを続けているのだから。
源はそう思い、自分の部屋へ戻った。長い廊下を歩いていると向こうの方から誰かが歩いてくる。ボクドハーンへの客人か。失礼があってはならないよう目もくれず一礼してその場を後にしようとしたその時、
「待って!」
聞き覚えのある声が響いた。思わず振り返ると、そこには見覚えのある青いデール。
「ボルテ! 元気にしてたか」
それを聞いてボルテは源に駆け寄る。
「源こそ。いつの間にかいなくなったと思ってたらここで修行していたのね」
笑顔の二人の横ではてと首を傾げる男がいた。
「ボルテさまと源さまは知った間柄で?」
ダンゼンは不思議そうに尋ねた。
「私がこの街に連れて来たの」
「おやおや、これは大きな収穫ですな。ボルテさまはやはり内蒙古の交易者として優秀でらっしゃる」
内蒙古の交易者? どういうことだろうか。源にはよく分からなかったが、そんな様子の彼を察してボルテが説明する。
「蒙古といっても内と外があるでしょ。ここ大蒙古国は外側。中国から見てね。それで、内側というのはここが独立する前からずっと冊封されている蒙古の地。ここ外蒙古と内蒙古を行き来して、色んな作物を交換してくることが私の使命なの」
ふふっと笑って自慢げに話す。それにダンゼンが話を追加する。
「源さまは知っておられるかもしれませんが、大モンゴル国が独立した時、内蒙古は中国に属したままでした。ですので、我らは取り返そうとしたのですが、一歩及ばず当時のロシア帝国の仲介の下、キャフタで住み分けの話をつけたのです」
そう言えばそうだったと源は納得した。
「向こうでも中国兵は好き勝手やってるのか」
「うん、人への暴力だけじゃない、自然に対しても。勝手に自分たちの持ち込んだ種を巻くから草原が痩せこけてどんどんゴビ砂漠に浸食されているの。だから肉や野菜は私たちが届けないといけないのよね」
そう言って、二人は足早にその場を去り、奥のハーンの部屋の扉へと向かって行った。
一方、その頃、
「畜生、畜生!」
北方で警戒にあたっている中国軍の軍人は激しく憤っていた。それと共に彼の目には恐怖で涙が浮かんでいる。
「庫倫で遊んでいればいいだけって言われたから軍に入ったんだぞ。ロシア人と戦うなんて一言も聞いてねえ!」
「あいつら容赦しねえらしいぞ、なんでも言葉だけじゃなくて話も通じねえとか。それに銃や大砲はどう考えても向こうは勝ってる」
「勝てるわけがねえ。俺たちゃ死にに行くようなもんだ」
愚痴を言い合っている軍人たちだったが、その内の一人の眉間に穴が開いた瞬間、それまでの不穏な空気は地獄を作り出した。
軍人たちは散り散りになり武器を構えだすももう遅い。次から次へと飛んでくる弾に撃たれ、血の海を生み出す。
「「「「ウラァーーー‼」」」
ロシア軍の鬨がけたたましく響くと同時に、馬に乗った彼らが貧相な中国軍の要塞に乗り込み、激しい勢いで踏み荒らしていく。
「ど、どうしたっ! 撃てっ! 撃てっ!」
中国軍の将校が動揺と錯乱のままに命令を発するが、パニックを起こしている将兵たちはあたふたしているのみで次々と倒れていくだけである。指揮系統など最早とっくに崩壊しているのみで気付かなかったのは彼のみだったようだ。
そんな中、逃げ惑う将兵も果敢に戦う将兵もロシア軍の重火器と馬による特攻によって次々と殺られていく。
「おや~? 3倍近い兵力だと思ってこっちもビビってたけど、なんだこのザマは。もっと楽しませてくれると思ったのによぉ! 血みどろ男爵さまをナメてんのかぁ!」
戦場の中心で鬼神の如くサーベルを振り回す男が叫んだ。そんな男を前にして腰を抜かした中国兵はそんな男と不運にも目が合ってしまった。
「ど、どうかお慈悲を。お助けください!」
震えながら必死で声を振り絞り命乞いをした。それを聞いて男はにやりと笑い、近づいていく。
「あぁ、願いを叶えてやろう」
呟くが早いか、中国兵の首は宙を舞う。
「吾輩は慈悲深くも、貴様を生き地獄から解放してやった。望み通り助けてやったのだから、涅槃で感謝しながら待ってろ」
あらかた要塞にいる中国軍は駆逐できただろうか。ロシア軍は意気揚々と南方の目的地を目指すことにした。
彼らが去ったそこには、血の滴る骸が無残な姿で折り重なり惨状を物語っていた。しかし、要塞に放たれた炎はそれら灰にしてしまうだろう。風が強く吹き、炎はどんどん大きくなっていくのでそう時間はかかるまい。
*
今日もフレーはいつもと変わらない日常を繰り返していた……はずだった。街を闊歩していた中国軍があたふたと撤収し、代わりにロシア人たちがやってくるまでは。
「喜べ! |韃靼の民よ。再び偉大なる祖国の地は諸君らのもとに帰還したのだ!」
ロシア人たちの騎馬の先頭を歩く男が叫ぶなり、続く兵も雄たけびを上げ旗を掲げた。その旗の先にはついこの間まで偉そうにしていた中国兵たちの首が付きたてられている。
やじ馬で集まってきたフレーの人々は一斉に歓声を上げた。抑圧からの解放。そして、再自立。
「「「英雄! 英雄! 英雄!」」」
人々が喜びの声をあげる。しかし、男はそれを気にすることなく冷徹に言い放った。
「市場にこいつらの首をしばらく晒しておく。立ち止まって唾を吐いてもらっても存分に構わない。あと、近くの広場で捕虜たちの公開処刑を行うから興味のある者はいつでも見に来るがよい」
どんちゃん騒ぎをするフレーの民を尻目に彼の向かう先はただ一つ。ボクドハーンの大宮殿であった。
「ついに来たか」
「まさか僧侶たちの占いの卦で出た吉日にやってくるとは」
ダンゼンとスフバートルが会話をしている。
大群を引き連れて現れた男を窓越しにハーンや源も眺めている。門番たちに相対した男は首にウォッカの瓶を下げており、旧ロシア帝国の将校クラスの軍服に身を包んでおり、どこか狂気を孕んだ凄まじい獣のような眼をしている。彼が口を開く。
「吾輩は、ロシア白衛軍少将にして男爵を拝命したロマン・フォン・ウンゲルン=シュテンベルグである。ボクドハーン閣下の幽閉を解き、大モンゴル国の独立とハーンの統治権が取り戻されたことをここに宣言する。どうか門をお開き下され」
ウンゲルンは馬から降り、恭しくお辞儀をした。その様子を見たハーンは頷いた。
「謁見したい」
門が開く。ウンゲルンは意気揚々と宮殿へと乗り込んでいった。
彼がハーンの部屋に着く間、ハーンが源に言う。
「源よ。ウンゲルンは白衛軍の人間だ、油断できない相手であることは分かるな。やはり対等に話をする必要があるからには、こちら側に後ろ盾があるように演出する必要がある。話の間、そなたが関東軍の密使かのように振舞い、我の横でただ座っていてはもらえないじゃろうか?」
仏にすがるしかないと言ったハーンもやはり一国家を統べた者としての器がある。そう源は思った。ここまで至れり尽くせりで断る理由がない。彼はよいでしょうと答える。
「ただ、具体的な交渉には参加できません。もし、ボロが出れば向こうは一方的に要求を出してきて押し付けてくることを危惧する必要はあるでしょう」
「それくらい分かっておる。こっちには優秀なロシア語使いがおるからそいつに大まかな駆け引きはやってもらおうと思っておる。出でよ、ドグソム」
背の高くインテリ染みた雰囲気を漂わせた熟年男性が現れた。恐らくダンゼンと年は同じくらいだろうか。
「お呼びでしょうか?」
「あぁ、再び我らが統べる時が来た」
ハーンの部屋に入ってきたウンゲルンは自信に満ちた様子でハーンの眼前で胡坐をかいた。時折、首から下げた酒瓶を口へと持っていきながら、部屋にあるものを見てそれに対する蘊蓄を垂れていた。
「これはクビライ由来のものでペルシャから持ってきたものであろう。それでこれはチベットのラマ僧から――」
その調子なので交渉はなかなか始まらず、ハーンや源、ダンゼンは少し不安を感じる。そんな彼を遮ったのがドグソムであった。
「この度は中国軍を駆逐いただきハーンも我らモンゴルの民一同、男爵には感謝しております。こちらとしても独立国として男爵のご要望には出来る限り沿いたいと思い、どうかその件でお話しいただければ幸いです」
真面目な口調のドグソムに向き直ったウンゲルン。その目は平気で何人もの人間を殺してきたような陰があり、見るものを一瞬たじろがせる。さらに彼の酔いも相まってそれは得体の知れない恐怖を感じさせるものだった。そして、彼は畏まる。
「ははっ。これは失礼いたしました。では、お互い腹の探り合いなしで語り合いましょう。吾輩がこの外モンゴルを中国軍から解放したその目的。それはアジアの力を活用し、ユーラシア全土でその文化と信仰を確立して、破壊された母にして聖なるロシアを復活させることにあり、その為の拠点としたいと思ったからにございます。どうか聖なるハーンとモンゴルの民のお力添えを願いたいと思った次第です」
やはり、ただで何かをしてくれる人間はいない。この男には狂った何かがあるが、それが彼を聡明にしている。源はそう分析した。それを聞いてハーンはウンゲルンに尋ねる。
「そなたは一体、何を目指しているのじゃ」
それを聞いてウンゲルンは不気味な笑みを浮かべる。
「十字軍の結成です」
それは? と尋ねられる前に彼はしゃべり続ける。
「先の大戦でロシア帝国は敵との戦いに敗れた末に滅びるという悲惨な結果を辿りました。しかし、戦いは今からまさに始まるのです。西へ南へ進撃し、我々に屈辱を与えた父なる敵国ドイツのベルリンを第二の死の丘へ、憎き仇敵トルコを植民地に。イギリスの言いなりになっているペルシャを我らのもとに。それで故、我らの先祖の夢を復興するのです」
ぺらぺらと喋るウンゲルンはまるで自己陶酔しているかのようであった。いや、しているのだろう。源は座っているだけと言われたが、それでもこの空間から今すぐにでも逃げ出したかった。この男とまともに話すことなどできないと直感した体。しかし、ドグソムは真面目に彼の目を見据え、話を続ける。
「我らの先祖とはあの方のことかと察しましたが――」
「そう! チンギスハン。世界の半分を支配した大英雄。吾輩はその残した夢を継ぐ者!」
興奮状態のウンゲルンだが、モンゴル側はいたって冷静に話を進めようとする。
「何故、そなたはその夢にこだわるのじゃ?」
ハーンは問いかけるが、興奮冷めやらないウンゲルンは即答する。
「吾輩こそがチンギスハンの生まれ変わりだからに他ならないからである!」
それを聞いて冷静だった一同も流石に顔がこわばる。そして、ウンゲルンは話を続ける。
「諸君らの望みは吾輩には分かります。中華民国に属した内モンゴルの奪還でありましょう。この大モンゴル国を取り戻した吾輩の手腕と中国軍の張子の虎は見たでしょう。心配なさる必要はない。十字軍結成の為に、奪って見せましょう」
「その言葉は偽りのなきものとして捉えてよろしいでしょうか?」
ドグソムが凛として尋ねるとウンゲルンは頷いた。
「それまでの間、統治権はボクドハーンのものとして我らロシア白衛軍は認めましょう。ですが、戦時においては戒厳令下として我らにお任せ願いたく思います」
そのウンゲルンの瞳には怪しい闇が深く渦巻いており、モンゴル側は返答に困った。一しきり、首を傾げた後、ハーンは口を開いた。
「そなたの思慮深さには平伏するばかりじゃ。ただ何分、国内の状況も照らし合わせて周辺状況を見ながらそなたに応えたいと考えておる。だから、ここにおられる関東軍密使の源忠一殿と向こう側の意向を確認しながら相談して、その後に返答したい。それでよろしいかの?」
それを聞いてウンゲルンは突如立ち上がり、源につかつかと歩み寄る。何が起こったか分からない源だったが、ウンゲルンが顔面を一発殴ったことで彼の怒りには気付いた。しかし、突発的なものだろう。
「誰を殴ったか分かっているのですか? 少将殿」
平静を装いながらウンゲルンを睨みつけ、問いただすもウンゲルンは舌打ちをして平然としている。
「お前らは得手勝手な連中だ」
ウンゲルンは愚痴をこぼすように言う。
「ついこの間まで頭に豚の尾のようなものをくっつけていたお前らが我ら西洋の必死で作り出した技術や制度をパクリばかりして発展しやがって。挙句、ロシア帝国を打ち負かした時、我らの屈辱はいかほどだったか見当もつかんだろう。ここに来る時もシベリア出兵軍の兵站を貸してもらったが、のろまだったおかげでこんな遅くに着いてしまったじゃねえか。そんな体たらくの貴様らはやたらと武士道の話ばかりする。努力せず人の真似をして一流を気取って、取り繕った美談ばかりするのがお前らの武士道ってやつか?」
ウンゲルンはこれでもかとばかりに蔑んだ。源は内心、怒りに燃えつつも彼を睨み返す。
「人を尊重できないようなら、己一人の力のみでやってみろ」
「尊重? ふざけるな。俺は俺一人の力で、俺の祈りと信念があったからここまで来れた。貴様ら、俺に余計な干渉しようってんなら――」
ウンゲルンはサーベルを柄から引き抜く。その瞬間、部屋を舞っていた紅い蝶が真っ二つになる。
「こうだ」
そして、ウンゲルンはハーン達モンゴル側に向き直り、再び畏まる。
「では、私はこれより十字軍結成の為の準備に移らせていただきます。無用な手出しは不要です。御用の際はまた私から要請させていただきます」
彼は部屋を後にし、彼が去った部屋には沈黙がしばし流れた。
*
「いや、あいつはどう考えてもイカれている。正気の沙汰ではない」
「我もそう思う。血みどろ男爵は何をするか分からない」
「今、この瞬間にも民の命は奪われ続けています。中国軍より性質が悪いですぞ」
「しかし、奴の廉下にある数千の軍勢に今やこの大地は奪われた。もう為す術はないのだろうか」
ダンゼン、ドグソム、ハーン、源は喧々諤々言い合った。四人とも謁見した感想は同じであったのである。はき違えた仏教的な信念やアジアに対する見方によって動かされている。それに尽きるだろう。それと、説得と言うのが通じる相手ではない。
「あの中国軍の輩を次々と処刑して見せしめを盛んに行っているが、人通りの商店街にその遺体を晒すものだから臭いがきつくてきつくて。それにハゲタカや蠅もよってくる。これじゃ商売にならんと思った露天商たちが陳情に言ったら、彼らは次の日には首になっていたそうだ」
「だからわしがウンゲルンを呼びつけて一括したのじゃが、彼奴は「下等な魂が聖なる死によって上位互換へと転生する為に吾輩は救済を与えたのである」などとほざいておった。今にモンゴルの草原は血の色に染まるぞ」
話し合いを他所に街の様子を確かめる為、源は宮殿を出ようとする。だが、その門をくぐって出ようとしているのは自分だけではないらしい。
「スフバートル!」
彼は振り向いた。
「源。突然だが、俺は用事が出来て西のカラコルムに行くことになった」
「そうか、こんなところにいたらいつまでも命がないからな」
「そうだな。でも、絶対に近い内に戻って来る。約束だ」
スフバートルは馬上から手を差し出し、それをぎゅっと握りしめた源の掌は堅かった。スフバートルは去った。唯一、ウンゲルンと戦えそうな男がいよいよ消えたとなればウンゲルンの妄想と苛烈な統治は勢いづくだろう。そんな不安をまといながら源は街へと繰り出した。
やはり話に聞いていた通りに酷い有様だ。死体の山をベルリンに築くと言っていたが、もう既に彼は成してしまっている。腐臭が鼻をつんざき愕然とする源の横に一人の少女がやってきた。
「ボルテ、生きててくれて幸いだ」
「えぇ、でもあなたが身をとして守れと言ったものは守れなかった」
勝気だった彼女の目には薄っすらと涙が浮かんでる。
「夜は眠れているか?」
源の問いかけにボルテは首を横に振る。
「毎晩、白衛軍の雄叫びと死に怯える人々の声、それにこの死臭。たまったもんじゃない。中国から来た奴らは暴虐の限りを尽くしたけど、それは欲にかられたが故。でも、あいつらは、本気で自分たちの意味不明な妄想のままに自分が正しいことをしていると信じて、確信的に破滅への道を突き進んでいる」
そんなことをしているとずんずんと進む馬の足跡が聞こえてくる。
「奴らよ。こっちへきて」
人々は蜘蛛の子を散らすように家の中へ入っていき、源とボルテは路地へと駆け込んだ。しかし、飲んだくれの老人だけは酔って様子に気付いていないようで、道の真ん中で無気力にへなへなと座り込んでいる。
「貴様! ウンゲルン男爵のお通りだぞ。道を譲らぬというなら撃つ!」
護衛がいきり立って怒鳴り声を挙げるも、彼のこめかみから赤い液体と粉々になった脳みその破片が飛び出る。
「うるさい! 吾輩のみに聞こえる聖なるお告げの妨げになったであろうが」
ウンゲルンは馬から降り、護衛の死体を蹴り飛ばし、老人へと歩み寄った。
「そなた、わしと同じだな」
「なんじゃ? 血みどろ男爵」
ウンゲルンは首からぶら下げた酒瓶を開け、口へと持って行った。ごくごくと喉を酒が通過するが早いか、ウンゲルンの顔は赤みを帯びる。
「だが、良い酒飲みとは吾輩のようなものじゃ。酒は自らを解放するための聖水であり、ただ堕落するが為に惰眠をむさぼる為に飲むものではない。お前のような者は生きる価値がないのだ」
ウンゲルンは手元のバックから新たな酒を取り出し、老人を抑えつけ、ボトルを無理やり喉へと突っ込んだ。ただでさえ鬼神の如き肉体的強さを誇るウンゲルンが酔って襲いかかったということもあり、老人は抵抗する術などなかった。
老人はひとしきり暴れた後、手足の動きは完全に沈黙した。そしてウンゲルンの持つ酒瓶は空になった。
「救済完了だ。彼は崇高な魂を持つ生命に生まれ変わるだろう」
ウンゲルンは笑みを浮かべた。兵士たちはそれを聞くが早いか、一斉に拍手をし出す。しかし、その中にはちらほらと顔の引きつった者が散見される。しばらくして拍手は自然と消えたが、その瞬間、ウンゲルンの銃が放たれた。
「貴様。この中で最初に拍手を止めたな。誰が止めていいと言った!」
また一つ死体が増える。兵士たちは慄くも、誰一人としてウンゲルンを咎めようとする者はいない。
「人間とは浅ましいものだ。吾輩に不満があるものは一人や二人くらいいるものだろう。だが、皆、ただ傍観するのみ。家屋の二階を見てみよ。どいつもこいつも他人事のように一連の流れを見ながら、怯えているだけ。そういう悪なる魂を浄化できるのは、チンギスハンの生まれ変わりである吾輩のみなのである!」
やはり訳の分からない論理に基づいて自己陶酔した誰が聞いてるのかも分からない演説をした後、彼らは通りを去って行った。それを確認して、源とボルテは通りへと出た。フレーに着いたばかりの頃は色とりどりの石で埋め尽くされた道路は、いつのまにか赤が混じって斑模様になっている。
「あなたは聖なる地を求めて彷徨っていたのよね。でも、残念。ここは地獄」
「良いものを期待すれば悪い結果が出る。そして、最悪は想定を上回るものだ」
二人はゆっくりと通りを歩く。気まずい空気だけに、互いに言葉が出てこない。先に静寂を割ったのはボルテだった。
「最近、興味深い噂が出回っているんだけど」
「何それ? 世も末になれば人々の不安から怪しげな流言飛語が生まれ、飛び交うものだろう」
「そうかもしれないね」
二人は歩きながら喋り続ける。
「でも気になるな。その噂っての」
「そう、まぁ話半分で聞いてね。何でもボリシェヴィキの理想に染まった若者たちが街中に潜んでいて、小さくても不満を聞きつけてはどこからともかく現れてウンゲルンへの蜂起を呼びかけているとか」
ボルテは声を潜める。やはり、それを聞いても源は期待外れとばかりにあまり興味を示そうとはしなかった。
「遊牧民の風土に共産主義の理屈は相容れない。どうせ、白が駄目なら赤っていう人々の勝手な期待だ。そういや、みんなして最初は中国軍を追い払ったウンゲルンに期待してただろうが。それが今では血みどろ男爵だと」
「…………」
俯いたボルテを他所に源は続ける。
「人の噂も七十五日って言うだろ。みんなそのうち、諦めて死体になってしまう。それに、その手の噂はほとんどが大嘘なんだ」
「でも、ほんの僅かでも本当だって信じてみたくはない?」
「信じたい気持ちは分かる。でも、信じて裏切られることを恐れて信じることができない気持ちも分かってくれ」
悲しい会話が続く夕方草原の太陽は赤く輝きながら地平線を落ちていく。歩き続ける二人は居酒屋の前で立ち止まる。
「元気出せって言うのは無理だけどさ。空元気くらいは出したらどうだ?」
「何の励ましにもなってないね。でも今日くらいは現実を忘れてもいいかもしれない」
二人は扉を開ける。そこほど退廃という言葉が似合う場所はないだろう。裸になった男女が抱き合い、そこら中から阿片と思しき甘くそしてきつい煙の臭い、酔っ払いが踊りながらしどろもどろに唄う喉歌。
あまりにも予想以上なその光景を目の当たりにして言葉を失う二人。ゆっくりと扉を閉め、その場から立ち去ろうとするも、
「まぁまぁ、お若いお二人さん。もうすぐ夜が始まりますよ~」
店員に手を取られ、その渦中へと引きずり込まれることとなった。
「ここは理想郷だー! 血みどろ男爵がなんだぁ? 怖くねえぞー!」
突如として呂律の回らない大声を上げた誰かに呼応するかのようにその場の皆がうぉぉーと雄叫びを上げる。これが俗にいう現実逃避というものだ。源はそう思うも、場違いな雰囲気に圧倒され店内の隅のテーブルで二人して縮こまっていた。
「これは……酷いね」
ボルテが呟くと、源は頷いた。
「この有様じゃ、さっきの英雄が助けに来るなんて噂も馬鹿な話ね」
どんちゃん騒ぎを始める輩を二人はゴミを見るような眼で蔑んだ。
「そういやふと思ったんだけどさ、その噂についてなんだが」
源がはっと思いつく。
「もしかしたら半分くらい本当かもしれない」
「さっきまで与太話だと思ってたくせに今度はどうしたの?」
「あの血みどろ男爵はさ。正直、お仲間たちももう愛想をつかしたんだと思う。恐らく、白衛軍の上は奴をつまはじきにして、シベリアを巡る戦いでロシア人両軍にとっても要であるモンゴルに追い出したんだ。白衛軍はその土地をゲットすると共にめんどくさい奴の顔も見なくて済むというわけで一石二鳥」
「なるほど」
「で、一国一城の主となったウンゲルンだが、調子の乗ってこの有様だからもう白衛軍と共同歩調を踏み出すことは難しい。だから自ずと孤立無援の状況を招いてしまったはずだ。本人は恐らく魂の救済とやらで、人殺しに精を出していて気付いていないのだろうが。そこをもし赤軍が狙ったとしたら」
その源の分析を聞いてボルテははっとする。
「赤軍は地元の民に情報工作をしかけて、内側で革命騒ぎが起こった隙を見てウンゲルンから大蒙古国を奪うつもりってこと⁉」
「とすれば、さっきの噂は辻褄が合う。しかし、この血みどろ男爵の殺戮の地獄でそんな危険なことをやらかす奴なんて相当肝が据わっているんじゃないか。まぁ、ロシア被れかインテリ気取りだと思うが、そんなのがいたら面白いな」
源が話し終えたその瞬間、二人にいくつかの影が近づいてきた。
「これは、これは。良ければお話でもしませんか?」
二人が振り返ると四人の男が笑顔で立っていた。しかし、彼らはこの店にいる退廃的で諦めに満ちた様子ではない。どこか野心を孕んでいる気配を漂わせ、笑顔の裏に闘志が宿っている。
「もしかして――」
「俺たちは、君らの予想を裏切らない。察する通りの者だ」
*
「キャフタから来たそうね。チョイバルサン」
ボルテが尋ねる。四人組のリーダー格であり、チョイバルサンと呼ばれた強面の男はそうだと答えた。
「あなたはボリシェヴィキ?」
「見ての通り。モンゴル人民の解放と民族自決を求める革命を起こすことが俺たちの使命だ」
月明かりの下で源とボルテはチョイバルサンと向き合った。この男ならもしかしたら――源がそうふと思った時、
「ところで日本人。お前は白衛軍の回し者の帝国主義者か?」
「いや、モンゴルの草原に生きる一人の人間だ」
それを聞いてチョイバルサンは怪訝な表情を浮かべる。
「どうも、お前にはマルクス・レーニン主義を理解してはもらえなさそうな気がしてな」
「そうかもしれないな。なんせ難しすぎるものだから」
源の返しにチョイバルサンはふっと笑った。
「苦しみもがく大衆を救うには、立ち上がり搾取者を倒し、大衆自らが主体となった国家を作らねばならない。たったそれだけのことさえ覚えておけばよいだろう」
チョイバルサンはボルテに目を向ける。
「何か言いたげだな」
「あなたが赤軍の後ろ盾を得ているように、源には大きな後ろ盾があるわ」
「何だ? 帝国主義者はこちらから願い下げだ」
「いえ、彼はただの旅人に過ぎないわ。でも、この地のボグドハーンの庇護を受けている」
それを聞いて、チョイバルサン一同は表情が硬くなる。これはまずいかもしれない。ボルテはしまったと言いたげな表情を浮かべるが、源は向き合う。
「俺なら彼らと話が出来る」
「残念だが、自ら立ち向かわぬ指導者の助けなどもとより期待していない」
チョイバルサンは源の提案を一蹴し、続ける。
「日々、叶いもしないのに安寧を求めて仏に祈り続ける。まるで阿片を吸うのと同じことだ。理想は自らの手で勝ち取らねばならないもの。ただ、現実から目を背け願っているだけの者には何も得ることは出来ない。強き者に都合よく利用されるだけだ」
チョイバルサンの説得は難しいのではないかと源とボルテは感じ取った。彼は聖なるものを嫌う性質を持っている。それはだいぶ前に世界全土を揺るがしたニュースの影響だろう。
ボリシェヴィキがロシア帝国の最後の皇帝ニコライ二世を一家丸ごと殺害したと発表したことだ。旧ロシア帝国の宗教・軍・政治といった国家の全ての中心であり、民衆から崇敬の対象とされた存在だけに、白衛軍の憤りに伴う内戦の激化とそれに伴う日本を含めた帝国諸国は緊張感から干渉を進めた。
一瞬の間の後、ボルテが口を開く。
「強き者に利用されるって言うなら、あなたが利用すればいいんじゃないかしら」
「利用する価値はあるのか?」
チョイバルサンはボルテに問いただす。
「それは民が保証するわ。それに」
ボルテは咳払いをした後に口にする。
「ロシアで学んだあなたたちは遊牧民たちの現実を理解できるのかしら? 革命を起こして英雄になりたいなら、民の理解がないと――」
「ほざくな、小娘」
言い終わるか終わらないかの折、四人組の一人が銃をボルテに向ける。一触即発。しかし、火を噴くことはなかった。何故なら、源がその間に入ったからだ。
「民族で団結して敵を討とうっていい感じになってる時に、本音を突かれた程度で同士を撃つことが出来るのか?」
源は四人組を睨む。
「お前たちは民を救う英雄になりたいのか? それとも理想に振り回されるだけで何もできない馬鹿でありたいのか?」
それを聞いて銃を構えた男が叫ぶ。
「のうのうと生きてきた日本人の坊ちゃんが俺たちに説教か。笑わせるな」
「源を侮辱するなら私を殺してからにして」
「俺たちの思想を理解できないような奴に馬鹿呼ばわりされる筋合いはねえよ」
言い合いに発展するが、場を治めたのはチョイバルサンだった。
「お互いに不本意なことはあるだろう。だが、それでも理想を求める心、敵を憎む心は同じだと信じよう」
ボルテに向けられた銃は降ろされた。しかし、源は警戒心を解いていなかった。チョイバルサンの口ぶりから完全な信用を得たとは思えなかったからだ。
「日本人よ、お前が言いたいことは分かる。ならば、石像を動かせ。それでもってお前らを同志として認める」
「分かった。約束する」
遠くから馬の雄叫びが聞こえる。ウンゲルンの密偵がこの辺りを見回っているのだろう。見つかればどうなるかもう分かっていることだ。
「よし、奴らをやるぞ。では、お前らまた会おう。良い知らせに期待している」
「そうか、最後に一つ教えよう。彼に会えば大きな力になるはずだ。源から紹介されたと言えば、必ず味方になってくれる」
源から小切手を渡された四人組は銃を構えて向かって行った。その隙に源とボルテは身を屈め走り出すと、背後からは銃声が轟いた。
*
「それにしても思い切った約束したね」
「あぁ、分かってる」
宮殿の廊下を進む中、ボルテに返事をした源は正直なところ、その約束を成し遂げられるか否か不安だったからである。なにせ、ハーンもボリシェヴィキの所業を知っている。今まで巧みに大国の思惑の中で綱渡りのように存続してきた彼の権威も、今度こそロマノフ朝と同じ運命を辿らんとすることを危惧するはずだ。
「お入りください」
「失礼します」
そこには張り詰めた空気が流れている。多数の高位の僧侶、ダンゼンやドグソムを含めた高官、そしてその奥にはハーンが祀られるが如く鎮座し、静かに辺りを見据えている。
ボルテも額に汗がにじみ出ている。彼女も源と同じ気持ちなのだろう。二人はひれ伏したまま、その緊張と内心で戦っていた。
「面を挙げよ。そして用件を申すのじゃ」
ハーンの声は落ち着いている。顔を挙げた二人は僧侶や高官からの強い視線を感じ、一瞬言葉に詰まる。だが、源は勇気に身を委ねた。
「昨今、街に出現する赤軍の密偵のお噂はハーンの耳に入っておられるでしょうか?」
「うむ。血みどろ男爵の殺戮が激しくなっているのもその影響だろうと推察しておる」
「それも酷すぎる。赤いデールを着ているだけで白衛軍に拉致された女が、膣に酒瓶を無理に押し込められた無残な死体となって広場に晒されている始末だ」
「あいつは英雄でもなんでもなかったただの異常者にして殺戮者!」
僧侶や高官は一斉にウンゲルンの治世と彼の人格への強い非難を叫び出す。
「静まるのじゃ」
ハーンの、鶴の一声で場は張り詰めた空気を取り戻す。
「それで二人から提案があるというのじゃな。大方、皆は予想がついておる。今朝、今後の運勢を占ったら大凶と出たものでな」
半ば諦めているようにも聞こえる。だが、源は強い口調で言う。
「もうこの際、命を賭して一思いに暴れて見せるべきでしょう。そして、モンゴルの民が一丸となって奴を追い出すのです。その為には敵の敵は味方だと考え手を結ぶのです」
僧侶や高官たちにどよめきが走る。
「ボリシェヴィキに話が通じると思っておられるのか」
「奴らこそ全てを赤に染めるだろう」
「ハーンが共産主義者により処刑されればどう責任を取るつもりじゃ。腹を切るのか? 日本人よ」
源を批判する野次が一斉に飛ぶが今度ばかりは、ハーンはそれらを抑えようとしなかった。首を傾げ静かに考えている。埒が明かない状況の中、ボルテが立ち上がった。
「我らは古より戦わずして滅びることを選ばなかったのではないですか」
その言葉に一同ははっとする。それを見てボルテは続ける。
「始まりあるところに滅びがあるのです。それが定めなら受け入れなければならないでしょう。しかし、その形を選べと啓示されたならば、私たちはただ曼荼羅に見入って餓死するつもりはありません。内蒙古からやってきた民の代表として申し上げましょう」
それを聞いてハーンはボルテに向き直る。
「そなたは今の言葉の重さを分かっているのか。そして、己の父母と同じ運命を辿るとして分かっても取り消すつもりはないのか?」
勝気なボルテの眼に過去が映し出される。それは彼女自身が常に封印していたものであった。
「大モンゴル国が独立した一方を聞いた際、中華の軛にあった内蒙古の民もお喜び申し上げました。ですので、私の父母は長として多くを連れて移住し、その交易路を作りました。たとえ中国軍がそれ以上の移住を禁じても。ですので、その死もまた分かりきっていたことでしょう。父母に後悔がなかったように私にもありません。内蒙古から来た民は再び踏みにじられ、そのまま甘んじて受け入れるつもりはないでしょう」
一人の少女が何故、危険な旅をしていたのか。源はようやく全てのつじつまを合わせた。彼女もまた民族の誇りを持ち、それらを防ぐ障壁に抵抗していたのだ。例え、大切なものを失おうとそれでも続けていた理由がようやく分かった。
ボルテの話を聞いたダンザンとドグソムは何やら顔を突き合わせてひそひそと話していたが覚悟を決めたように頷き、二人して立ち上がった。
「そうです。武器を手に取り、立ち上がるしか我々に道は残されておりません」
「このままでは強き者に蹂躙されるだけです。戦う志を持った者のみが生き残るのです。戦士は例え釦の掛け違えがあれども共に敵を打ち倒す仲間です」
それらを聞いてハーンは決心したように口を開いた。
「かの帝国が滅びて以後、我らは独りの力のみで成り立つことはなかった。それもまた当然の定めだったのじゃ。しかし、それでも我らは民族の誇りを片時も忘れたことはない。だから、戦うのじゃ。ここに宣言する。ありったけの武器を集め、外敵ウンゲルンを排除せよ、その為ならいかなる手段も認める!」
その場は歓声で溢れかえった。その様子の中、ハーンは源に手招きした。
「なんでしょう?」
近寄った彼にハーンは刀を渡した。
「これはかつて日本の海を攻めた時、ただ一人果敢に戦って討ち死にした武士から得た妖刀だ。名をムラマサというらしい。そなたは恐らくこれを手にする為、この地へボルテに導かれて参ったのじゃろう」
ムラマサに日の光が反射して輝いた。
*
源は再びチョイバルサン一行と出会うことになった。その待ち合わせ場所はフレーではなく、西のカラコルムの広場であった。源はダンゼンとドグソムを連れて来て、もう一人の来客を待っていた。
「約束を守ったようだな。同志」
「だから言っただろ」
そして、野心に満ちた仏頂面のチョイバルサンもこの時ばかりは満面の笑みを浮かべた。そして、彼らの前にようやくその客は現れた。
「俺も今から約束を守る時だな」
「久しぶり。スフバートル」
鋭い目つきの僧兵が軍勢を率いて現れた。それを見たチョイバルサンも彼に近づき、手を差し伸べた。
「たったこれだけの軍勢でカラコルムを解放したとは。同士、お前は強いな」
「常に磨いてきたからな。チョイバルサン同志、我らは共に戦う戦友だ」
源の予想通りだった。スフバートルが出て行った時、彼が仲間を置いて出かけるわけがないと思い、カラコルムで戦って勝ってくれると信じていたのだ。そして、赤く染まったチョイバルサンとであっても彼なら同じ軍人として対等に話をつけれると賭けていた。
「いやぁ、源どのの才覚には驚かされた」
ダンザンが感嘆する。
そんな中、ドグソムが事務的に話を切り出した。
「最初は皆様がどのような方々かと懸念の声がありましたが、スフバートルが信用するなら私たちも水入らずで話せます」
チョイバルサンはドグソムに向き直る。
「ボグドハーンがボリシェヴィキを警戒しているのはよく分かる。だが、彼には手を出さないとモスクワは回答した。モンゴルを救う心を一つにすることは我々も同じだ」
そして続ける。
「しかし、彼は統治権を持つことを今まで許されなかった。そして、今後も許されることはないだろう」
チョイバルサンはキリル文字で書かれた文書を提示した。それを読んで源とドグソムは驚く。
「「外モンゴル人民臨時政府……」」
「そう、キャフタにいた頃に我らはボリシェヴィキから承認された。赤軍及びソ連との交渉は全てこちらからしかできない。ウンゲルンは残念なことに旧ロシア帝国軍の良質な兵器を持っている。それと同じ装備を持っているのは赤軍しかいないということを理解されよ」
「一方的ではないか? ソ連も崇高な理想を掲げて帝国主義諸国と同じやり口を使うつもりか?」
チョイバルサンとドグソムは睨み合う。しかし、その場をダンザンがたしなめる。
「そちら政府に宮殿の者も入れる準備はできておると私は信じているのだが」
勿論とチョイバルサンは答える。そして、ある一人が提案をした。
「こうも信念の異なる者同士が合併するなら、民が大同団結して政府を運営する前衛党を作ることにするのはどうだ?」
この提案にドグソムも溜飲を下げ、ダンザンも良きに諮らえと頷いた。
彼らの長い話の間、源はカラコルムの街を散歩していた。街の名の意味は黒い砂礫という。そう呼ばれるだけあって、川原石がそこら中を転がっており、雨水を吸収して黒光りしている。かつてはモンゴル帝国の都でチンギスハンが治めていたものの、今はそこら中にゲルが立ち並んでいるだけだ。そんな中、大勢の人々が広場に集まっているのを見て思わず源は近づく。そして、その人々の視線の先に釘付けになった。
「今こそ我らの土地を取り戻す時! 大切な家族を守る時! みんな武器を取って!」
ボルテが弓矢を片手に持って掲げた。人々もそれに呼応し雄たけびを上げた。
「やるじゃないか」
源は呟いた。そして、石を手に取るなり宙へと放り投げ、ムラマサを振るった。一刀両断に石は二つに割れ、その両方を外套のポケットに入れるとまた来た道を戻りモンゴルの熱き革命家たちのもとへと顔を出した。
「で、話はまとまった感じ?」
源が尋ねると一同は頷いた。
「我らキャフタ四天王と東庫倫の三人でウンゲルンへの攻撃方針、そしてモンゴルの今後について全て合意し合併する」
「その名も人民党だ」
そうして皆は結党式だと言い酒を呑みかわし料理に舌鼓を打ち、戦の前の最後の宴を大いに楽しんだ。そんな様子を見て、次から次へと老若男女を問わず現れるが、革命家たちは皆を歓迎する。
「今日、ここに戦いと革命を誓う全ての人を党員として歓迎する!」
少し遅れてボルテが現れた。
「やぁ、来たか。待ちくたびれたぞ」
「料理を作っていてね」
彼女が指さした先の巨大な鍋は煙を放ちながら香ばしい香りを発していた。
「羊肉塩茹っていうの。さぁ、みんな食べて」
怒涛のように我先にと鍋へと人々が向かって行く。
その夜、源とボルテは二人で月を眺めながら話していた。
「これでお別れかもな」
「あなたは死なないわ」
「お前もな。命を捨てる為に戦うつもりなんてない。守るべきものの為に戦う」
「お互いに命を賭けて」
「生きる為に」
源は立ち上がる。
「ではまた会おう。明日の朝が早いからもう寝る」
去っていく源の姿を見ながらボルテはぼやく。
「私たち……戦友だから」
*
時は満ちた。
作戦はまず、フレーに着いたチョイバルサンたちの組織したゲリラが暴動を起こし、戸惑うウンゲルンの軍勢にダンゼンたちが僧兵に指令を出し奇襲をかける。そして、弱った隙に武器の質と兵力で優るウンゲルン軍にカラコルムからスフバートルと源率いる軍勢が突撃をかける。というものだ。さらに、外交・政治上の駆け引きの為、ボリシェヴィキの事情やロシア語に長けた党員とドグソムでキャフタに向かい、領事館を設立し赤軍に介入交渉をするというわけで「解放」は為されるという筋書きだ。
「少将! 大変です!」
「騒がしい! 吾輩の瞑想の邪魔をするのか!」
ウンゲルンは部下からの一報に銃声で応えた。しかし、兵はあたふたしている。
「どうやらただ事ではないな。言ってみよ」
ぎろりとウンゲルンは睨みつける。恐れをなした兵は言葉に詰まりながら現状を伝える。
「じ、実はフレー各所で暴動が起こり……手をつけられず。一部の兵は我らがやってきたかの如く……惨殺され、さらし者にされております……。その様子を見て、脱走兵も相次いでおります……」
ウンゲルンは酒瓶を飲み干した。酔いと怒りで赤ら顔は凄まじい熱を帯びる。
「広場にいる兵と大砲を全て用意しろ! そして暴動に加担している者、そうでない者関係なく皆殺しにするのだ。吾輩はボクドハーンと謁見する!」
ウンゲルンは怒鳴り散らして命令する。だが、兵はうつむいて黙ったままだ。
「わしの言うことが分からぬのかー!」
その気迫に押され、兵もようやく口を開く。
「ボクドハーン門下の僧兵たちが、兵たちがゲルで寝てる隙を見て奇襲をかけ、大砲・重火器を押収したそうです」
ハーンは聞き終わらない内に比較的安全地帯にある自らのゲルを出ると、その直後に砲撃が彼に向けて飛来してきた。しかし攻撃は運よく逸れ、爆風で吹き飛ばされた彼は煤だらけで顔から血を流している。しかし、倒れる気配はない。
彼の望んだ偉大なる帝国の聖都は今や狂乱の巷と化しており叫び声が支配しており、あちこちから火の手が上がっている。流石の血みどろ男爵も西からの侵攻から支配の限界を察したようだ。
「仕方がない! 少し早いが残存兵でシベリアの赤軍を蹴散らしに遠征に行くぞ。また、戻って来るからな。おい! あと女は片っ端から連れて行け」
「し、しかし、兵站が……」
「そんなものより大切なのが何故分からんか! 聖なる祭りと宴を取り仕切るには麗しき血が必要ではないか!」
ウンゲルンはすぐさま馬に乗り、残った兵士たちはその後に進んだ。彼の行く手を阻むモンゴルの民は怒りに燃えて彼へと向かってくるが、狂気に蝕まれた彼のサーベルは紙を裁断するが如く次々と斬り倒してゆく。
しかし、それをただ一人受け止めた者がいた。ウンゲルンは面白いとばかりに刀の主を見る。
「貴様、あの時の武士か!」
「狼藉の報いを受けろ! 血みどろ男爵!」
ウンゲルンは源の斬撃を軽々と避け、隙をついて強力な一太刀で彼を跳ね除けた。馬から落ちそうになる源だったが、なんとか耐え忍ぶ。
「新しい時代が生まれる。ジンギスカンの生まれ変わりたる我が、再びユーラシアに偉大なる帝国を築き、モスクワまでボリシェヴィキの首を並べ連ねてやることをこの大地に宣言する!」
辺り一面炎で包まれる合戦の渦中、大量の護符を貼り付けた法服に身を包んだ風体のウンゲルンが叫んだ。その目は本気であり、並々ならぬ波動を感じさせるものであった。そして、その周りを囲む異様な風情を漂わす彼の軍団。彼らもまた呼応して雄叫びを上げる。
「「「ウラァアア!」」」」
雷の鳴る音と共に、男は次から次へと果敢に向かってくる軍勢に剣を向けた。
「吾輩は世界を救済するのだ。数多の血をもって我らは大地に贖罪し、赤どもを討つ。さぁ、定めを受け入れよ」
彼の気迫に対して源はただため息をついたのみであった。
「何か勘違いしているんじゃないか? そんなのはただの乏しい妄想に過ぎん。お前なんかに世界を救済することは出来ない。所詮、お前は血みどろ男爵に過ぎん」
その言葉を聞くなり彼の中で何かが切れたようだ。
「黙れ! 貴様の魂は救済する必要がある!」
剣を両手で構え、ひと思いに振り下ろさんとした。だが、
「酔いが醒めたら地獄へ還れよ」
戦いの覚悟を決めた青年が刀を振り降ろし、瞬時にウンゲルンもサーベルで受け止める。再び雷鳴がとどろいた時、その光をムラマサが反射し源の目が彼を射抜かんとばかりに輝く。
ピキッ。
金属の折れる音がしたその時、ウンゲルンの顔には大きな傷ができ、大量の血飛沫が噴き出した。彼のサーベルはあまりに血を吸い過ぎてもう錆びついていた。
*
しばらくの後、戦いは終わりウンゲルンと少数の捕虜を残して白衛軍の生き残りの大半はフレーを捨てて北へと駆け出して行った。それを遠巻きに確認した民たちは喜びの叫びを上げ、皆顔を寄せて抱き合っている。街には地で染められた赤い旗がいくつも立ち並べられた。
「追撃はするべきではない。こちらの兵力も温存すべきだ」
「しかし! 奴らに妻や娘を奪われた者の嘆きが耳に入らぬか!」
「革命の為なら如何なる犠牲もやむを得ない」
「貴様ら! 何てことを! 赤い血が流れている同じ人間とは思えん!」
「もしも白衛軍がウンゲルンの奪還に来たら――」
「誰があんなの取り返しに来るか。助けたら最後、俺たちよりひどい目に合わされるぞ」
「でも可能性を考えれば恐ろしいぞ」
「今こそハーンを――」
「神輿はただ担がれていたらいいんだ」
血みどろ男爵が野に落ちた後のフレーの広場では休憩する兵やゲリラを他所に人民党の幹部たちによって言い合いが為されていた。議題は今後のモンゴルの運営方針であるである。
「奴は恐らくキャフタに入るつもりだ。赤軍の支援が来る前に領事館のあいつらが殺されたらどうやってボリシェヴィキと話をしろと言うつもりなのか?」
ダンゼンがチョイバルサンに詰め寄る。だが、彼は、
「替えなら俺がいる。奴らは革命の為に死ねたなら本望であろう。それに赤軍は無敵だ、ウンゲルンを失った士気の低い白衛軍如きでは太刀打ちできん」
ダンゼンが手に持ったペンを彼に投げつけると、チョイバルサンもやったなとばかりに彼へと掴みかかる。それを見るが早いか周りも加勢し、場は揉みくちゃの大乱闘状態になった。
「どうする?」
「元々、意見が違う者同士だからこうなることは織り込み済みだろう」
源とボルテは離れたお堂から見ていた。そこには縄で拘束されたウンゲルンがへなへなと座り込んでいた。彼の体中、袋叩きにされたであろう痣が残っておりその凄惨さを物語っている。最早、戦う気力を失ったウンゲルンは二人を前にして口を開く。
「生きとし生ける全ての命は常に巡る輪の中で、必死に足掻いている。それが定めだ。生きることも死ぬことも、食べることも食べられることも全て決まっていること。そしてまた形を変えて永劫繰り返す」
「そうね。次に生まれ変わる時は何になりたい?」
ボルテの問いかけにウンゲルンはふっと笑う。
「ナマケモノだな。自然とは強き者が弱き者を食らうゲームの連続だ。吾輩はもう疲れ果てた。生きてる限り鬼ごっこをするよりかは、隠れんぼをして見つかるまでの日々を、ただ惰眠を謳歌して過ごしたい。さて、貴様のその手に握られた弓矢は何の為にある?」
ウンゲルンの促しに応じてボルテは構える。鏃を彼の額に当て、弦をギリギリにまで引き絞る。
「吾輩を救済せよ」
ウンゲルンが目を瞑る。しかし、ボルテは矢を放つことはなかった。そっと弓を降ろし、傍に置いてあった台車を彼の眼前に運ぶ。
「いえ、あなたはまだ死なないわ」
そして台車に載せられた巨大な曼荼羅を指さす。
ウンゲルンはそれに描かれた色とりどりの仏を眺め、はぁとため息をついた。
「来世に期待だな」
その呟きは虚しくお堂に響く。二人は時間だとばかりにその場を後にする。
「では、さらばだ」
しかし、ウンゲルンにその声は届かず、彼はただ曼荼羅に見入ったままであった。
長い廊下を歩いているとあの扉が開いているのが源には見えた。遠巻きにハーンの姿が見えた。彼は部屋へとすっと入っていく。そこにいるハーンはすっかり生気を失っているかのようだ。
「時代の流れはモンゴルの大地とて例外ではなかったようじゃ。だから、わしはあの若者たちに未来を託そうと思う。もとよりわしはもう統べることに疲れてしまっていた。それもようやく今になって悟ったのじゃ。遅いことかもしれんがの」
彼の声は弱弱しく、源はハーンと人民党とのやり取りの中での様々な過程を察した。
「されど、あなたは自らの定めを受け入れて死ぬまで仏に祈り続けるでしょう。私は自分の運命を受け入れ、道を切り拓くつもりです。この刀と共に」
ムラマサは夕日を反射して源の目が赤く輝く。彼の傍らにボルテがやってきて、ハーンは彼女に目を向ける。
「よくやってくれた。我が同胞よ。これからはこの外モンゴル地に留まり尽くしてはくれないだろうか?」
ボルテは褒められて少し微笑んだ。だが、
「私の定めはもう既に決まっております」
返答を聞いたハーンはそうかと呟いた。
「それなら源どのと共に往くがいい」
「今までありがとうございました。では失礼しました」
「これからも苦しみは続くであろう。しかし、己を信じ続けよ、そなたらは立派な英雄じゃ」
二人はそそくさと宮殿を抜け、南東を目指した。
「人民党の人たちには挨拶の一つも無しで出ていくなんてね」
ボルテがリヤカーを牽きながらぼやく。
「恐らく直に赤軍がここに到着する。キャフタの奴らが上手くやるだろうからな。そうなれば俺もまた変に疑われたりするのはもうごめんだ。お世話になった人たちには感謝の心を忘れずにいればそれでいい。それよりこれは……」
ふと彼の目に留まったのは、白衛軍が残していったであろう自動車。源はその運転席に飛び乗りかちゃかちゃといじくる。すると、煙を吐きながら雄叫びのようなエンジン音が発せられる。
「いけるぞ、ボルテ! 荷物を全部後ろに置いて乗るんだ」
大丈夫と戸惑う彼女に心配するなと手を差し伸べる。半信半疑ながらその手を取るボルテ。
「なんか前の時より傷だらけでごわごわしてるね」
彼の手の感触は温かく、そして堅かった。
「そりゃこれだけ戦えばそうもなるさ」
ボルテが助手席に乗ったのを確認して源はアクセルを踏む。勢いよく発信した車は草原をガタガタと揺れながら猛烈な勢いで駆け抜けてゆく。
「馬より早いけど揺れが凄いね」
「そういうもんさ。近代化って。何か便利になったら代わりに何かが犠牲になる。直にモンゴルの民も人民党も分かるさ」
夜が明け、朝が明け、昼の太陽が照り付け沈んだ後にはまた夜が来る。それを何回繰り返したか分からないが触れに着くまでよりかはかからなかった。二人はただ揺れ続け、駆け続けた。
「取り敢えず、国境は超えたぞ」
「でも、こんな目立つのに乗ってたら、あなたは大丈夫だけど私はね」
ボルテは荷物を降ろし始める。源はその様子をじっと見つめる。
「何?」
「大変そうだなって思っただけ」
「じゃあ、手伝ってくれてもいいのに」
「手伝っただろ? ここまで来るの誰が運転した?」
ボルテは重いリヤカーを牽き出す。
「これでお別れね」
「いや、また会えるさ。俺たちは戦友だ。ひとたび戦が終わればまた戦が始まる。その時にまた」
源は笑顔で手を振って車を出した。
地平線のその向こうに消えるまでボルテは手を振り続けた。そして見えなくなった頃合いに、リヤカーに腰掛け野宿の準備を始める。
「平和や私たちの名なんて歴史には刻まれない。私たちの存在なんて所詮、ちっぽけで誰も語り継ぐことはないでしょう。でも、その命を賭けて守ったものは永遠に受け継がれると信じるしかないね」
ふと独り言を呟き、じっと手を見た。
そんな彼女に光は無慈悲に差している。まるで我が下へ還れと言わんばかりに。
*
とある病院の一室。部屋の隅に置かれた蓄音機はパチパチと雑音を孕みながらどこか憂い気のあるオーボエの音を鳴らしていた。アレクサンデル・ボロディンのオペラ『イーゴリ公』の劇中歌「韃靼人の踊り」。ルーシの英雄イーゴリ公が、攻め込んだ地で遊牧民の歓迎のもてなしを受けた際、披露された乙女の舞とハーンの栄光を讃える歌である。
「なるほど。源先輩は中学を卒業してからそんな大冒険をされたんですか。流石は世界で二番目の社会主義国家。その成り立ちはなかなかファンタジーな感じだ」
黒い山高帽を被りパイプタバコを咥えた男が感歎する。そんな彼と机を通して向かい側に座っている中年男は他でもない源忠一だった。髪は灰色がかって、顔には皺が増えているが、目はそのままである。
「そうだ、善岡。俺が話したことが全てだ。卒業した後、自分の進む道が分からなくなって大陸に希望を求めて旅をしに行った。だが、そこは想像以上に険しい場所だった。そこで俺を俺たらしめてくれたのはあのモンゴルの大地と民に他ならない」
善岡は源の話を聞いてなるほどと相槌を打った。
「まぁ、それはそれでいいとしてさ。あの後のモンゴル人民共和国の惨状は俺も知っている通りだよ」
それを聞くなり、源の顔に悲しみが満ちる。
「そうだ。あの後、モンゴルの大地は再び赤く染まった」
源が気鬱に語りだす。
「革命の後、ボクドハーンを戴いた立憲君主国家としてモンゴルは近代化の歩みを始め、人民党によるソ連の支援を受けた一党独裁が開始された。ハーンの死後、人民党は彼の転生を認めなかった。彼らは、今までも今でもこれからも化身ラマの存在はなかったなどと言い放った。そして、モンゴル人民共和国としてアジア二番目の共和国がそこに成立した」
「人民党は確か、それで名前を変えて人民革命党になったんだっけ」
「そうだ。そして、人民革命党の支配と急進的な社会主義政策は苛烈を極めた。旧王公・仏教僧たちは処刑され、個人商業の禁止に伴い裕福な牧民の家畜は没収、遊牧民は強制的に集団化され土地への定住を余儀なくされた」
「スターリン主義を導入したというわけか。それで人民党を作った七人はどうなった?」
「あぁ、それらを主導したのは鋼鉄の男の忠実なるしもべと成り果てたチョイバルサンだった。まず、ダンザンとドグソムは資本主義者・大日本帝国のスパイの濡れ衣を一方的に着せられ処刑。唯一、彼に歯止めをかけれそうだったスフバートルは病死、もしかしたら恐れられて暗殺されたのかもな。あと、キャフタ四天王の残りの3人もあらぬ罪によって無残な死を遂げた。それに留まらず何万もの罪のない無垢な市井の人々までも無残に血を流した」
「そうか……」
「そして、チョイバルサンは、古よりの伝統を狂ったように破壊し続け、文字すらロシアのキリル文字へと変更した。さらにフレーも名を赤き英雄へと変える羽目に。彼と人民革命党の政策と大粛清により、モンゴルは我々の知っている聖なる草原から人工国家へと生まれ変わった」
源の話したことをじっと聞いていた善岡はパイプからすーっと吹き込み、空へ勢いよく煙を吐き出した。源は俯いている。
「しかしまぁ、卒業してから何をしてたかよく分からなかったあなたが、いつの間にか陸軍士官学校を出て将校になっていたとは驚きだったよ。それも、先の大戦では駐内蒙古軍のお偉いさんになっていたとは。冒険での知識や実践が活かされたことでしょ」
源は称賛するが源は元気を出さない。
「私はあれから内蒙古の民と真心をもって接しようと尽力した。だが、上層部は圧政を命じ、私には逆らう術など無かった。外蒙古も視野に入れていた。ソ連の一共和国になるぐらいならこちらが解放してやろうと。ノモンハンで事変が起こった時、私は密かに期待した。だが、結果は散々だった。我々はあの時の敗北で日本の最終的な破滅を目に思い浮かべた。そして、まさに今、日本は全世界と戦って負けた」
「残念ながら、我々日本人が戦いもせずに負けることを良しとしない民族だったからさ。源先輩だってノモンハンの時、ソ連とモンゴルの戦車に日本刀一つで果敢に立ち向かったって当時話題になったじゃないですか」
源は手に取った刀を鞘から抜いた。ムラマサは輝きを放っている。だが、彼はすぐに鞘へと戻した。
「これのおかげでどんな敵もどんな戦いも怖くなかった。だが、もう使うつもりはあるまい。どこか元寇ゆかりの寺院に寄付しようかと思っている。それと……骨すら見つかっていないボルテを弔うために」
源の目からつーっと涙が一筋零れる。
思い出話に花を咲かせた後、源は善岡に食い下がる。
「頼む、善岡。今まで誰にも言ってこなかった俺の話を小説にして世に出してくれ。こちらは公職追放されて何も出来ないが、あの『我が偉大なる惑星』を上梓したお前なら、戦後新たな文学が出るこれからの世でまた注目を集めるだろう。今日、俺はアイデアが枯渇したお前に与える為に来たんだ。どうか……頼む」
源は頭を下げ、善岡を揺さぶると、彼の山高帽が地に落ちる。源同様に灰色になった善岡の髪が顕わになった。
「悪いが余命が一年あるかないかでしてね。だからこれからの名誉や人気なんてもう気にしちゃいないんですよ」
善岡の返答を聞いて落胆する源だったが、彼は話を続けた。
「でも、あなたの外モンゴル漫遊記は面白い奇譚だった。だから命ある限り、書いて遺作にしようと思います」
源は顔を挙げ、善岡の手を握りしめる。
「ありがとう。頼んだ、善岡」
「いえいえ、中学時代にアジアの魅力を教えてくださった先輩からの頼みとあらば、命に代えて書き上げて見せましょう」
二人の横の窓では夕日が地平線に沈んでいく。そして、病室の蓄音機は、ハーンを讃える歌を鳴り響かせた。
「では、さらばだ」
病室を出た源は立ち止まり夜空を見上げた。そこには巨大な満月。これを眺めているのは自分だけではない。モンゴルの民、世界の民も眺めているのだ。恐らく涅槃でボルテも。
そう思って彼は足を踏み出した。
『Gegehben101』掲載作品
作者:ストロガノフ(吉岡篤司)
発行者:甲南大学文化会文学研究会
発行日:2022年3月23日