Chapter.2-2 狐との駆け引き
「――すまなかったな」
汰樺瑚が神社の鳥居の向こうへ消えるのを待ち、やっと女が振り返る。
細面で通った鼻筋はやや長く、よく見ると身長も高い。
容貌も整っているので、モデルのようだ。下半身の着付けは崩れ、スカートのような着こなしで、その下は素足ではなく、腿部分くらいまでの長さのスパッツを履いている。
「分かったと思うが、あの通り、妖と見ればイコール『卑しい』だの『人でなし』だのと言った台詞しか出て来ない連中でな。根はいい子たちなのだが……」
「『人でなし』に関しては人間じゃねぇんだから文字通りだろ。返す言葉もねぇけど」
冴月は、大真面目にボケ返しながら肩を竦める。
「アイツらに向かって、『根はいい子』とか素面で言える辺り、あんたもソートーなお人好しだな。ま、妖に『お人好し』もねぇけど」
「そういうそなたは混血か」
「否定しない、って言ったら、あんたも『妖の恥だ』とか言い出すクチか?」
冷えた温度の目で女を見据えるが、女は臆した様子もない。
「まさか。その昔はわたくしも、人間の男との間に子を産んだ身だ。我が子と同じ身の上の者に対して心ない言葉を投げつけるような、それこそ人でなしな真似は、考えたこともない」
何かを嘲るような表情で肩を竦めると、女は冴月を見つめ返した。
だが、それ以上何か問うこともなく、「今の内に妖化は解いておけ」と言いつつきびすを返した。彼女の履いた、やや厚底気味の下駄が、コロンと乾いた音を立てる。
彼女の向かった先は、汰樺瑚に突き飛ばされ、臀部を地に着けたままの和華だ。
「怪我はないか?」
「あ、……あの、はい……ありがとう、ございます」
辿々しく答えた和華は、女の差し出した手を握り返し、やっと立ち上がった。
「まったく、か弱い者にまでこのような真似を……あとで厳しく……まあ、わたくしが叱っても聞かぬだろうから、あとで部長殿にでも報告を上げておこう。すまないな」
「いえ……あの」
「ああ、申し遅れた。わたくしは、葛葉と言う。見ての通り、妖狐だ」
見ての通り、と言われても、それらしい耳も尻尾もないので、種族は言われなければ分からない。
だが、和華も冴月も、特にそれを指摘はしなかった。
「あの……水無瀬和華です。助けてくれて、ありがとうございました」
和華は、俯いたまま葛葉に頭を下げた。
「何、わたくしは何もしておらぬ」
「じゃなくて……冴月……を、助けてくれて」
やはり、『君』付けか『ちゃん』付けかを迷っているようだ。
「冴月? あの半人鬼の坊やのことか?」
「……坊や?」
言われて、和華は下げていた目線を上げる。
そうして、その視線はしばし、葛葉と冴月の間を行き来した。
「……男の子なのっ!?」
目を一杯に見開いて問われて、冴月は呆れたように細めた目で和華を見つめた。
「……今頃確認されてもな。九十九パー女だと思ってたろ」
「……や、どっちかなって思ってたけど……八割方くらいは……」
消えた言葉尻に続くのは、『女の子だと思ってた』という台詞だというのは明白だ。
「別にいいよ。よく間違われるから」
は、と吐息を漏らして肩を竦め、葛葉に向き直る。
「で? 軽く自己紹介済んだトコで訊くけど、あんたも連中とはお仲間なのか」
すると、葛葉も真顔になった。
「仲間、という言い方にはやや語弊があるが……まあ、同じ組織に属している、という意味ではそうなるのかな」
言いながら、彼女も懐から例の身分証を取り出し、掲げた。
「株式会社『ファントム』の社員だ。普通に人間相手の便利屋業も一応営んでいるが、まあ表向きの話でな。本業は妖搦みの揉め事解決の公的機関だ。但し、退治するのが主目的ではない」
「妖搦みの公的機関って……それで退治が主目的じゃない?」
「左様だ。例えば、民間の祓魔師組織が、妖というその一事だけで襲い掛かって、妖を殺したとするだろう。その妖の仲間が報復に来れば、人間対妖の戦に発展してしまう可能性もなくはない。その為、被害者ならぬ被害妖に害を与えた祓魔師、もしくは霊力を持つ何者かを見つけ出して、正当に処罰するのが我々の仕事だ」
また、妖でも人に混じって生きている者が、たまたま霊力を持つ誰かとイザコザを起こして遺体、もしくは何らかの被害が一般人の目にも見える形で痕跡を残した場合、一般人の記憶操作や、世間に不自然でない形で『事件』を終息させる――つまり妖が絡んだ事件の後始末も、職務の内らしい。
「ほかに、人間世界での冤罪事件捜査や、長引いている犯罪案件などの解決助力も含まれるのだが……」
「それって警察案件じゃないのか」
「公的機関と言ったであろう。但し、現世と重なって存在する異界――つまり、魔界のだ。それゆえか、現世警察との情報共有も緊密に行われている。最近は、ファントムがアマクダリ先にもなっておるというもっぱらの噂だが……」
(おいおい)
冴月は呆れたように目を細めた。葛葉には、『天下り』の意味がよく分かっていないらしいが、要するに『不正の温床』というヤツだ。
「まあともかく、あの二人は対妖セクション《Haunted Counter Plan Section》……通称、H.C.P.S.の任務を根本的に履き違えている。部内にあって、霊的な戦闘力は絶大なので、今のところ対妖セクションから外されてはいないがな」
肩を竦めて、呆れ半分哀れみ半分の表情で葛葉は言葉を継いだ。
「そして、今我々が担当案件として捜査しているのがまさにその、カートの中身だ」
葛葉のしなやかな指先が、和華の持っているキャリーカートを示す。
「改めて訊こう。そなたたちは、どういう経緯で、何の目的でその薬を手にしている?」
葛葉の、二人を見る目線が、かすかに厳しくなった。
***
「公的機関の取り締まりが職務って奴は、いっつもそうだよな。最初っから疑って掛かるなら、話すだけ時間の無駄だ」
投げるように言った冴月が妖化を解き、開いた空間の穴から薬の箱を引っ張り出した。そのまま、彼は薬箱を葛葉に放り投げる。
葛葉が慌てて薬箱をキャッチするのにかぶせて、「あとは好きにしろ」と言った冴月は、そのまま空間へ滑り込みそうになった。
「待って!」
思わずその背に追い縋った和華は、間一髪、彼――と今し方判明したばかり――の着ていたパーカーを捕まえる。
「離せよ。何だか分かんねぇけど、公的機関の奴が来てんだ。もう俺がいなくても大丈夫だろ」
「でもっ……!」
「そなたの話も聞く必要があるのだ。あとで面倒なことにならぬよう、今話したほうがいい」
「そーやって濡れ衣着せるのも常套だよな」
投げるように言いながら、顔だけを振り向ける冴月と、静かな表情で彼を見据える葛葉の間で、和華は視線だけを行き来させた。
「そなたも中々、あの二人に劣らず思い込みが激しいな。さっきも言ったろう。我々の主任務には、冤罪捜査も含まれるとな。捜査し、解決するのが任務なのに、わざわざ冤罪を作り出す利点が分からぬが」
和華が冴月の立場なら、恐らくぐうの音も出せずに葛葉に従うだろう。だが、冴月はとことん疑り深かった。
「言葉だけなら何とでも言える。態度を見てから判断しろ、なんて言われて、様子を見てたら手遅れだ」
「それはそなたが大正時代に濡れ衣を着せられ、処刑された件か?」
「へっ?」
間抜けな声を漏らしたのは、和華だ。冴月はと言えば、冷え切った琥珀色の瞳で、無言で葛葉を睨み据える。
睨まれた張本人である葛葉は、平然とした表情で肩を一つ上下させた。
「なぜ知ってる、と言いたげだな」
「……だったら何だよ。どうせ名誉の回復もされねぇし、とっくに終わった話だ」
「まあ、聞け。名誉の回復が成されるとしたらどうだ。交換条件として、今回の件に協力してはくれまいか」
「成されたって関係ねぇよ。俺にはとっくに身内もいねぇし、俺が溜飲下げるだけだ」
「下げたくはないのか」
「今更何に対してすっきりしろって?」
「そなたが敵視している国家権力に対して、かな」
「敵視なんかしてねぇ。失望してるだけだ。国家権力、なんて限定されたモノだけじゃなく、この世界のすべてにな」
「なら、そっとしておいて欲しくはないか。ここで行方を眩ませたらまた鬱陶しく追い回されるぞ。特に、あの二人にな」
それまで固く冷え切って、淡々としていた冴月の表情が初めてかすかに歪んだ。
「永久にそこへ閉じ籠もってはいられまい?」
葛葉が静かに言って、冴月が開いた異空間を示す。
二、三歩、冴月と和華に肉薄した葛葉は、何かに気付いたようにかすかに目を瞬いた。
「……もしや、そなたがこの世に失望しているのは、呪いの所為か?」
「は?」
出し抜けにまた奇妙なことを問われた為か、冴月が間抜けな声を出して眉根を寄せる。
「何言ってんだよ。呪い?」
「気付いておらぬのか。あー、話が長くなるからその空間を閉じよ、早く」
「あんたの指図受ける謂われはねぇ」
葛葉の言い分を無視した冴月は、半ば和華を引きずったまま、空間に入ろうとする。
「あっ、ちょっと、冴月君てば!」
「あんたもだ、離せ。でないと中に一緒に入ったって、外に出るトコまで面倒見ねぇぞ」
「だったらまず葛葉さんの話を聞いてよ!」
「何で聞いてやんなきゃなんねーんだよ!」
「気にならないの!? 冴月君、何か呪いが掛けられてるかも知れないんだよ!」
「あんたな、今更呪いが何だよ、知らねぇでも八百年近くフツーに生きてたぞ、百年くらいは眠ってたけどな!」
「……それがまず異常なことだと気付かなかったのか」
呆れたような葛葉の声が、和華と冴月の言い争いに割って入る。
二人はピタリと口を閉じ、同時に葛葉に目を向けた。
「……それってな、どこ指してんだよ」
眉根に寄せたしわを深くしながら、冴月が空間の出入り口を閉じる。ようやく、話を聞く姿勢になったらしい。
「百年眠っていたそうだな。いつの話だ?」
「……十六の時からだ。一度は自分でも死んだと思ったんだけど、コイツの前世に叩き起こされた」
コイツ、と言いながら、冴月は立てた親指で和華を示す。
「なるほど。見たところ、肉体もそれくらいの年齢で時が止まっているようだな」
「時が止まってるって?」
眉間に寄せたしわがそれ以上深くなりようがなくなったのか、今度は冴月は首を傾げた。しかし、葛葉は聞いていない。
「そなた、生まれ年はいつだ」
「……元暦元年」
「西洋の暦に直すと、一一八四年か……だとすれば、一度眠りに就いたのは一二〇〇年。厳密には八百二十二年前だな。一二〇〇年から百年眠っていたとしたら、目覚めたのは一三〇〇年……」
腕組みして、右手を口元に当てた葛葉は、ブツブツと独り言のように呟く。
最早、和華は付いて行けていない。冴月はどうなのか分からないが、彼も沈黙している。
「……大掛かりな呪術だと、大体相手に定着させるのに百年くらい掛かったりするものだ。例えば、不死の呪い、とかな」
「不死? 死なないってこと?」
疑義を呈したのは、和華だ。やっと目を上げた葛葉は、小さく頷いた。
「呪いだから、通常の不死と違って、弱点がなくなる。何をしても死ぬことはない」
「不死って普通そうなんじゃ?」
「でもないぞ。不死身と言っても弱点はあるものだ。それは妖の体質にも似ているかも知れんな。身体を貫かれる、出血多量、くらいまでは平気でも、腕を飛ばされたらまず再生できる種族は限られているし、首を落とせばくっつけても元には戻らん。首がだめなら脳に直接攻撃を加えればまずお陀仏だ。だが、呪いによる不死者はそうではない。そなた自身、心当たりがあるはずだ。例の、大正時代に処刑された時……」
顔を振り向けると、冴月は顔を強張らせている。確かに、思い当たることがあるようだ。
「事件のことをなぜ、わたくしが知っていたかと説明がかぶるが、言った通り、H.C.P.S.と警察は密接に関わりがある。警察に保管されている膨大な事件記録に目を通す権利も与えられている。その中に、そなたが処刑された事件の記録もあったのだ。容疑者の顔写真は、そなたと瓜二つだった。顔を見た時は他人の空似の可能性もあったが、名も同じだからな」
その頃には、冴月の顔は半ば青ざめていた。彼の細くて綺麗な指先が、自身の喉元を押さえている。
「……あの時……まず、首を吊られた。だけど、……吊られたまま何時間も放っておかれたのに、俺は生きてた。あんたの、言う通り……」
言い募ろうとする冴月の口元を、葛葉の指先がそっと押さえる。
「もうよい。その後の経緯も記されていたから知っている。何をしても死ななかったらしいな。よって、記録上は死んだことにして放免された」
「な、何をしても、って……?」
恐る恐る訊ねた和華に、葛葉が真顔で目を向けた。
「かなりエグいぞ。聞くか?」
真剣な声で反問されて、和華は急いで頭を勢いよく横へ振る。自慢じゃないが、ガチホラーとグロい系は大苦手だ。
「まあ、とにかくそういうわけだ。事情は分かったな」
「……永遠の、孤独……」
まだ呆然とした様子で、冴月がポツリと呟いたので、葛葉も和華も首を傾げた。
「何?」
「アイツが……サヤノが、言ったんだ。一度眠る前に……『永遠の孤独をやる』って」
「それだ。決定的だな。どれ失礼」
言うなり、葛葉は冴月の背後へ回り、パーカーをめくった。
「えっ、ちょっ」
珍しく取り乱した声を上げる冴月に構わず、葛葉は彼の着ているシャツをめくった。釣られて覗き込んだ和華は、息を呑む。
露わになった冴月の背中には、写真をシールで張り付けたような黒百合が刻印されていた。
「黒百合の花言葉を知っているか」
「はあ?」
葛葉からパーカーとシャツの裾を取り戻しながら、彼女に向き直った冴月は思い切り眉根を寄せる。
「何だよ、また突然。花言葉?」
「『恨み』もしくは『復讐』だ。そなた、自分では見えない背中にある呪印には気付いていなかったようだな。黒百合の入れ墨のように見えるコイツは、『不死の呪い』を掛けられた者に刻まれる印さ。これが普通の人間相手に刻まれたら大変だぞ。肉体は老いていくのに絶対死ねない。早く殺してくれ、と叫びながらのたうち回って気が違っていくのが関の山だ。その点、そなたは妖との混血だったのが幸か不幸か、というところか」
「どういう意味ですか?」
訊ねたのは、和華だ。
「我々妖は、不死の呪いなんぞ掛けられなくとも、元々超が付く不老長寿の生き物だからな。人間の常識で計れるモノではない。そういう肉体に不死の呪いを掛けても、精々『死ななくなる』だけだ」
「つまり?」
「弱点がなくなるのさ。先にも言った通り、首や喉笛を掻き斬ろうが締めようが、手足を飛ばそうが出血多量であろうがな」
「……つまり、死ぬ手段がなくなるってだけのこったろ」
やっと一時のショックから立ち直ったのか、吐き捨てるような口調で冴月が確認する。
だが、葛葉は真剣な表情を崩さなかった。
「コトはそう単純ではない。簡単に考えぬほうがよいぞ」
「どういう意味だよ」
「そなたが純血の妖なら、放っておいてもお説の通りただ死ねないだけだ。呪術を掛けた主の言う通り、『永遠の孤独』の一言で済むだろう。だが、そなたは人間との混血だ。それが何を意味していると思う?」
「勿体付けんな。何が言いたい」
「いつ・どういう形で、肉体が老化し始めるか読めぬということだ。今は妖の遺伝子がそなたの肉体の若さを保ってくれているようだが、人間との混血である以上、いつ人間の遺伝子が呪術に負けて表面化するか分からぬのだぞ。差し引き七百年も何事もなかったのが不思議なくらいだ。早い内に解呪の方法を探すに越したことはない。さもなければ、下手をすれば人間の呪受者のように、早晩、『死』という終着点もないのに際限なく老い続けていく未来が待っていないとも限らないのだからな」
冴月の表情は、また少し固くなった。一言で表すなら不安と恐怖、だろうか。しかし、それだけではない感情が、その整いすぎた容貌に去来する。
「……あんた、まさかその解呪の方法とやらを探す代わりに、今回の件、協力しろって言ってんじゃねぇよな」
「おや、そういう取引の方法があったか」
さも、今気が付いた、と言いたげな顔で、葛葉がニヤリと唇の端を吊り上げる。
「なっ」と一瞬固まった冴月は、陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた末に、「こんっの古狸がぁ!」と捨て台詞としか思えない言葉を吐いた。
「狐だと言っておるのに」
「うっせぇ、どっちも似たよーなモンだろーがっっ!!」
「全然違うぞ、失礼な……まあ、いい。とにかく、商談成立だな」
「勝手に成立させんな!!」
「させなくばどうなる。どの道、時はあまりないと思ったほうがよいと思うが」
「人の足下見やがってっっ!!」
「足下など見ておらんぞ。これもどっち道、こっちの件を先に片付けさせてもらうからな」
「うわ、汚ね! 卑怯だぞ、自分の用件先に済まそうなんて魂胆でいたのかよ!」
「おや、ついに本音が出たな。そういうそなたこそ、自身の案件解決が先のつもりだったか」
「時間がねぇって言ったのはあんただろ!!」
「確かに保証はできん。だが、こっちは手掛かりが色々と目の前に転がっておる」
葛葉は、手にしていた薬箱をヒョイと持ち上げた。
「そなたが独自に平行調査する分には文句を言わぬし、協力してくれるならこちらも解呪の方法捜索に全力を尽くそうと言っておるのだ。それも今後、H.C.P.S.の解決すべき案件として部長殿に申請すると、それこそわたくしの命に懸けて約束しよう。此度の事件捜査も解呪も、互いに人手があるに越したことはないと思うのだが、どうする?」
「ッ、~~~~!!」
悔しげにギリギリと歯軋りした冴月が、白旗を揚げたのは程なくのことだった。
©️神蔵 眞吹2023.