Chapter.2-1 雪解けの時
譫言のように冴月が言った何かは、和華には聞こえなかった。
倒れる直前まで刹那の間、銀色になっていた髪が漆黒に戻る。彼の額には、赤と青の刻印のようなものが浮き上がっていた気がしたが、それもよく分からなかった。
「冴月君っ……!」
呼んでも、彼の瞼はピクリともしない。長い睫毛が白い頬に影を落としており、それが和華の不安を掻き立てた。
「……大丈夫だ、和華。どうやら眠っておるだけだ」
脈と呼吸を確認したらしい葛葉が、宥めるように声を掛ける。
「……しかし、また手掛かりが消えてしまいましたね」
冴月を抱き抱える形になっている太刀川の眉根に、珍しくしわが寄っている。
「それに、面倒なことになりました。よりによって、裁判に掛けることなく妖を葬るなど、対妖セクション寮内でこんな不祥事を……」
和華は思わずムッとした視線を、太刀川に向けてしまう。
しかし、文句を言おうと口を開き掛けた時、葛葉がそれを遮るように和華の肩先に手を置いた。
「……とにかく、冴月を救護室へ運ぼう。それに、食堂の片付けもせねば。あの一つ目鬼の件は、正当防衛で押し切るしかない」
「……そうですね」
太刀川が小さく頷くと、葛葉はまた大きめの狐の姿に変じた。
「和華。冴月を運ぶから付き添ってくれ。部長殿」
葛葉は二人にそう言うと、太刀川のほうへ冴月を乗せろと促すように背を向ける。
くの字に折れ曲がるようにして葛葉の背に乗せられた冴月がずり落ちないように支えながら、和華は太刀川をひと睨みして葛葉とその場をあとにした。
***
久し振りに、委細構わず深く眠った気がする。
意識が浮上すると、妙にスッキリとした気分で、冴月はそうするともなしに目を上げた。
(……えっと……)
身体の下にあるのは、ベッドだ。柔らか過ぎず堅過ぎないそれは、どう考えても個人宅のそれではない。
無意識に周囲へ視線を投げると、転落防止用の短い柵に、和華が寄り掛かって目を閉じていた。
その和華の身体が、眠っている所為で、柵から落ちそうになる。反射で彼女を支えようと身体を起こし掛けるのと、彼女自身がビクリと身を震わせ、次いでガバリと上体を起こすのとは、同時だった。
そうして、パチパチと幾度か瞬きを繰り返した彼女と、視線が重なる。
「……冴月君……起きたんだ」
「……あ、ああ……えっと……」
「――バカッッ!」
唐突にバカ呼ばわりされ、今度は冴月が目を瞬かせる。
遅れて、苛立ちが沸いた。
「……何でバカなんだよ」
「……し、心配したんだから」
「はあ?」
「だって……だって、急に倒れちゃうんだもん」
泣きそうになっているこの顔は、初めて見る。
紗彌乃だった頃も、その後世で彼女の記憶を持っていた頃も、彼女は冴月の前で泣いたことなどない。心底意地悪げで、理性を総動員していないと思わず顔面に拳をぶち込んでやりたくなるような微笑を浮かべているところしか見たことがなかった。
「ねぇ、何があったのよ。ちゃんと説明してよ」
それなのに、現世の彼女と来たら、笑ったり驚いたり、かと思えば泣き出しそうな顔で怒鳴ったりと忙しい。
クルクルと表情が変わるので、前世とは違う意味でなぜか目が離せなくなる。
「冴月君てば、聞いてるの!?」
その顔が、ズイと近付いて、冴月は気持ちベッドの上で後退る。
「えっと……いや、悪い。聞いてなかったかも」
「ちゃんと説明して。何で倒れたの?」
聞きたい内容をきちんと聞くと、今度は別の意味で冴月は黙り込んだ。
「冴月君」
「……言えない。でも、大丈夫だから」
彼女から視線を外し、臀部を擦るようにしてベッドの上へ起き上がる。
「言えないって」
「大丈夫だよ。もう」
余程のことがない限り、冴月は人鬼化しない。代価として、強制睡眠という名の『休養』を強いられてしまうからだ。
しかし、それさえ経れば、体力も妖力も霊力も大体回復する。今の冴月にとっては、それらすべてはもう済んだことだった。――が。
「……そう言えば、俺どんくらい眠ってた?」
「知らない! 自分で調べれば!?」
椅子を蹴る勢いで立ち上がった和華は、憤然と言ってきびすを返し、カーテンの外へ出て行ってしまった。
「……可哀相に。ずっと付いておってくれたのだぞ」
入れ替わりに入って来たのは、葛葉だ。
「……俺にどうしろってんだよ」
「もう少し、周りを頼ってもいいのではないか?」
先刻まで、和華が座っていた椅子に腰を下ろすと、葛葉がこちらを見上げる。
ベッドのほうが高い位置にあるのだ。
「それで? 和華と同じ質問をわたくしもしたいのだが」
「ノーコメントだ」
「弱点を教えたくない気持ちは分かる。だが、内容が分からないとフォローもできん」
「この件が終わるまでは二度とやらねぇから、必要ないっつってんだ」
だが、和華のように激昂するでもなく、腕組みしてじっとこちらを見つめていた葛葉は、出し抜けに、「今ちょうど、夜中の二時くらいかの」と言った。
「……は?」
「そなたが眠っておった時間だ。半日くらい……寝る、と言っておったろう」
ぅぐ、と覚えず、喉の奥で呻く。
「まさに、ちょうど半日だったな。それと、『反動』か? 姿が変わったのと関係あるのか」
「……うっせぇ、古狸」
「だから、狐だと言っておろう。それで?」
「あんたくらい長く生きてりゃ、混血が使う特殊な術くらい知ってんだろ? いちいち訊くな、鬱陶しい」
「その点はすまん。混血と言っても知り合いはさして多くない。それに、混血が皆、特殊能力を持っているわけでもない。人間や妖と同じで、千差万別であろう。実際、我が子も、完全に人間寄りの能力しか持たぬ子でな」
怒るでなく、諭すでもなく淡々と返され、冴月は抜いた刀のやり所に困るような気分になった。
「……あんたの……子どもって」
「おや。興味が沸いたか?」
「ッ……別に」
何気なく言ってしまったのを後悔する。
だが、葛葉は構わなかった。
「まあ、独り言だから気にするな」
「気にするわ」
聞いたら恐らく先のように、無理矢理吐かされるだろう。いや、何だかもう、訳が分からない内に、彼女の手管に丸め込まれそうな気がしなくもない。
案の定、続けて口を開いた彼女だったが、内容は冴月の予想とは少し違った。
「我が子は、寿命も人間並みであった。だから……混血の子で、妖並みに長寿の者を見るとどうにも……親御殿が羨ましくての」
心底寂しげに目を伏せる葛葉の表情は、演技とはとても思えなかった。
子を早くに亡くした、一人の母親にしか見えない(もっとも、母親のほうが超長寿の妖なので、亡くなった子も、そこそこの年は行っていただろうが)。
「……俺は……母親を知らないんだ」
彼女に、自分の見も知らない母を重ねたつもりはなかったが、気付けばふとこぼしていた。
「ん?」
「俺が、……二歳の頃だったらしい。火鬼ノ里が……俺が生まれた里は殲滅された。親父の一族に襲われて……だから、正確に言えば……覚えてねぇんだ。母さんのことは、何も」
冴月の父親――紀颯は、かつて豪族に使えていた四鬼を討伐した紀家の末裔だった。
その後、散り散りになった四鬼の末裔たちは、それぞれに里を構え、静かに暮らしていたと言うが、紀家では四鬼の残党狩りが、目下の使命だったようだ。
その使命を負って、火鬼ノ里へ潜入した冴月の父は、見張りの火鬼たちと戦い負傷した。そこへ、火鬼の里長の娘である冴月の母・熾珠が通り掛かって、父を助けたらしい。
「……今思えば、ベタベタの恋愛話だけどさ」
クス、と小さく苦笑する。
手当を受ける内、型通りに母と恋に落ちた父は、一族から課せられた使命を気にしつつも火鬼ノ里へ留まり、やがて二人の間に冴月が生まれた。しかし、幸せは長く続かなかった。
父が戻らないのを心配したのか不審に思ったのか、紀一族から追加の刺客が送り込まれてきた。その中にいたのが、紀一族に認められた父の婚約者・紗彌乃だ。
「アイツは……赤ん坊だった俺を盾に母さんを殺して、親父に約束通りの結婚を迫ったらしい。自分を正室にしないなら、俺を殺すって……」
その後も、冴月を人質に“正常な夫婦としての生活”を強要し続ける一方、冴月を虐待し続けた。
自分が夫に真実愛されないのは、熾珠と冴月母子の所為だと――冴月にも、死んだ母の分まで償う義務があると。まるで見当違いの八つ当たりである。
これが、彼女が転生するごとに繰り返されたのだから、冴月としては堪ったものではない。
しかも、今になって分かったのが、彼女が冴月に掛けた呪いの存在だ。
どういたぶっても死なない憎き相手を延々といたぶろうなんて、どういう執念だろうか。
父のほうは生前、そんな生活が続く内に、徐々に正気を失って行った。晩年は、ほとんど紗彌乃の言うなりになり、冴月の存在を次第に気に掛けなくなっていったようだ。
「まあ、それで戦闘に関しちゃ鍛えられてったのが、皮肉っちゃ皮肉なんだけどさ」
「……そうか。辛い経験をしたな」
「別に。だから、ウチの両親に限って言やぁ、あんたが羨ましがるような、幸せな親じゃねぇってだけの話だよ」
冴月が自嘲するように肩を竦めた直後、立ち上がった葛葉が不意に冴月を抱き寄せる。
「……何、急に」
「……そなたは、優しい子だな。わたくしを慰めてくれたのか」
「……別に……」
それ以上どう言葉を続ければいいか分からなくなる。そんな冴月を抱き締める葛葉の腕に力が籠もり、小さな子にするように、彼女の掌が冴月の頭を、ポンポンと優しく叩いた。
「……よい子だ。こんなよい子を守る為とは言え、幼子を置いて……母御はさぞ無念であったろう」
ますます言葉が出なくなる。代わりに、出し抜けに――本当に何百年か振りに、目が熱くなった。
「あり得ない理不尽な目に遭わされたのに……よく真っ直ぐに育ったな」
「……どこ見て言ってんだよ。気は確かか?」
明後日の評価が落ちて、早々に涙は引っ込んでしまったが。
あはは、と乾いた笑いを返した葛葉は、冴月の黒髪を梳きながら改まった口調で言った。
「……なあ、冴月」
「あ?」
「やはり今日倒れた訳は、教えてはもらえぬか」
覚えず、冴月は息を呑んだ。
少し前なら、間髪入れずに言っていただろう。俺は、誰も信じないと。
だが、今は言えなかった。
こんな風に、年長者に抱き締められて、己の存在を肯定されるのは、きっと生まれて初めてだ。母にそうしてもらったことはあったかも知れないが、もうすでに記憶にない。
「今日と同じことがあった時、必ずわたくしが対処する。母御に代わって、そなたを守ろう。だから……」
伏せた目を泳がせ、ふっと息を吐く。
「……反動だよ。さっきも言ったけど」
「……何の?」
「何の、だろうな。俺は……人鬼化って勝手に呼んでるけど」
人鬼化すると、複合技を使えてパワーも桁違いに上がるのだが、代償も安くはない。
変わっていられるのは二十秒前後。制限秒数が過ぎると、意思とは無関係に人鬼化は強制終了し、姿は人間に戻る。パワーも、霊力を持たない普通の人間レベルに落ちる上、制限ギリギリまで変化していると、丸一日意識が吹っ飛んでしまう。
「……だから、やたらに使えねぇ。意識が落ちてる間は、完全に無防備だし」
ただ、今日は本当にやむを得なかった。想定以上に相手が強かったのと、呪縛系の能力が通用しそうになかった為、その場で決着を付ける必要があったからだ。
「……なるほど。混血の身には力が大き過ぎて、肉体が対応し切れぬのであろう。恐らくな」
すっと温もりが離れる。
葛葉は、互いの顔が見える距離まで身を離すと、本当に母親が我が子にするように、冴月の頬へ手を添えた。
「よく話してくれたな。委細、承知した。今後、使う事態にならぬよう祈るが……万が一そうなったら、フォローは必ずする。約束だ」
「……フォローは当てにしねぇけど、余計なことだけ触れ回らないでくれると助かるかな」
ああ、どうかしている。
さっき、七瀬にはあんなことを言ったくせに、自分は自分の情報をベラベラと、昨日今日出会ったばかりの相手に漏らしたりして。
だが、葛葉は至極真剣な顔で、「承知した」と頷いた。
「では、わたくしはそろそろ失礼する。まだ夜は深い。ゆっくりお休み、坊や」
「……俺はあんたのガキ代わりかよ」
「はは。そなたもわたくしを母代わりと思ってよいのだぞ」
名残惜しげに冴月を一つ抱き締めた葛葉は、やっと本当に離れてきびすを返し、カーテンから滑り出て行った。
それを見送って、枕に背を預ける。葛葉の気配が完全に遠ざかるのを見計らって、口を開いた。
「……で? あんたはいつまでそこに隠れてるつもりだ?」
息を詰めるような音が、耳に届く。
「無理矢理引きずり込まれたくなきゃ、自分から入って来いよ。十秒以内だ。いーち」
「きゃあぁあ、ごめんなさいっっ!」
カウントを始めると、あっさりと盛大にカーテンが引き開けられる。予想通り、そこにいたのは和華だ。
「……ぁう、えっと……その……た、立ち聞きするつもりはなかったんだけど、その……」
しどろもどろという表現がぴったりの仕草で、和華が意味もなく手をモソモソさせる。
冴月は苛立ったような溜息を吐いた。
彼女が立ち去らずにいるのは分かっていたのに、本当にどうして重要な機密を漏らしてしまったのか。
「あの……あ、あたし……」
「そこ閉めて、座れよ。あんたも聞いてたんだろ」
目線だけを泳がせていた彼女は、思いっ切り顔ごと明後日を向く。
(……やっぱり別人みたいだな……)
ここに至って、冴月は何度目かでそう断じた。紗彌乃では絶対にあり得ない反応なのだ。
魂は、間違いなく同一なのに――だからこそ、どこまで心を許していいかは、まだ測り兼ねているが。
「あっ、あたしも眠たくなって来ちゃった! 部屋に帰る!」
口早に言ってきびすを返し掛ける彼女を、
「ここで誤魔化しても、次に会う度決着付くまで問い詰めるぞ。いーから座れ」
と素早く言葉だけで呼び止める。
次に無視されたら実力行使に出るつもりだったが、和華はビクリと硬直し、しばしの沈黙ののちにそろそろとこちらを向いた。
そしてトボトボと二、三歩の距離を椅子に歩む。
「カーテン」
閉めるのを忘れていそうな彼女に釘を差すと、彼女はピタリと足を止め、カーテンを閉め直してから椅子に腰を落とした。
「――で、何か言うことは?」
「……ごめん、あの……」
和華は視線を落としたまま、しばらくスカートをいじっていたが、やがて深呼吸するような音と共に顔を上げた。
その顔は、ばつの悪そうな色と、真剣なそれが複雑に混ざり合っている。
「……あたしも……何も言わないから」
「何を」
「冴月君の……周りに言われたくないことは、何も」
冴月は、彼女の真摯な目線をじっと見つめ返す。
「……俺は、あんたが一番怖い」
「え」
「あんたが……いつ紗彌乃にまた取って代わるかと思うと……さっきのこと、聞かれたからには殺すのが一番安全だって分かってる」
和華は、言葉を失ったように項垂れた。
そうして、またしばらくの沈黙を挟んだあと、「いいよ」と小さく呟く。
「は?」
冴月は思わず、間の抜けた声を出した。
「何だって?」
「もし……それで冴月君が安心するなら、殺してよ」
「……気は確かか?」
まさか、短時間に二度も同じ台詞を発することになるとは思わなかった。
だが、和華が聞いたのは、人鬼化に纏わる話だけではなかった。
「そうされても、仕方ないことしたわ。あたしは……覚えてないけど、これって、現代で言えば二重人格の違う人格が罪を犯したようなものでしょ」
「はあ?」
「あたしは、赤ちゃんだった冴月君からお母さんを奪った。冴月君のお父さんを廃人にして、冴月君を生涯虐待して呪いを掛けて、生まれ変わる度に追い詰めた」
冴月は、今日何度目かで息を呑んだ。
何でそれを、と間抜けな質問をし掛けて、危ういところで口を噤む。
和華がずっと近くにいたなら、人鬼化の件だけでなく、冴月の生い立ちについても聞いていて当たり前だ。
紗彌乃としての記憶が戻ったかとも考えたが、すぐに打ち消した。
紗彌乃なら、冴月を『君』付けでは絶対に呼ばない。そもそも名前で呼ぶこともないし、自分を殺せとか、そうされて当然だとか、そんな殊勝なことを言う性格でもない。
彼女は、あくまでも自分が世界の中心だ。自分が苦しければ、同じように他人も苦しむべきだと、真顔で言い放つ人間だった。
「……どうしたら償えるの」
「和華」
「ねぇ、どうしたら……どうやって冴月君に付けた傷を癒してあげればいいの。そんなこと、訊くのも烏滸がましいって分かってるけど」
「もういい」
「よくない!」
俯けていた顔を上げた和華の頬には、もう幾筋もの涙が伝っている。
「冴月君だって言ったじゃない! 最初に会った時に、すごくひどいことされたって! 意地悪で異空間に閉じ込めるくらい序の口だわ! 意地悪されるくらいじゃ償えないことしてる!!」
「それは和華のしたことじゃないだろ」
「知らなかっただけよ!! あんたの言う通りだわ。この魂が罪を犯したの、記憶の消去で済む話じゃないでしょ!?」
「落ち着けよ」
宥めるように言いながら、冴月はベッドを下りる。だが、和華は自分を抱き締めるようにして、また目を伏せた。
「ひどい……何てそんなひどいことが平気でできたの。赤ちゃんからお母さんを奪うなんて正気の沙汰じゃないわ、信じられない」
「あんたはもう償ってるだろ」
「どこが!?」
「あんたの今生でだ」
また忙しく顔を上げる彼女に静かに答えると、彼女は息を詰めるようにして一瞬沈黙した。
©️神蔵 眞吹2023.