Chapter.1-3 消滅
「――冴月君はいいよねぇ。自分の意思で妖化したり解いたりできるんだから」
阿夜哲が意識を失ってたっぷり五分後。
食堂内の水槽化を解除した七瀬は、椅子に座ったままぼやいた。
室内は、まるで天井まで床上浸水したように、ぐっしょりと濡れている。それより前に、七瀬の水術でずぶ濡れになっていた冴月の身体(と衣服)は、この真夏の温度もあって、短時間で八割方は乾いていた。
阿夜哲の周囲だけは、あたかも彼が水槽に漬けられているように、立方体の状態で水槽化が保たれている。これから阿夜哲の顔だけを空気に晒し、必要に応じて水責めにするらしい。
(まるで、北風と太陽だな……まあ、実際はそれよりも過激なような気もするけど)
太刀川が持って来てくれたタオルで拭っている最中の冴月の頭部には、今は角はない。ひとまず、必要もないのに妖化していては、対妖セクション所属のほかの祓魔師に払われ兼ねなかったからだ。
その祓魔師たちが駆け付ける頃には、阿夜哲は気絶という形でギブアップしており、彼らは今は室内の片付けに勤しんでいる。
水浸しを差し引いても、室内はひどい状態だった。
その状況を作った当の七瀬は、魚のままの下半身に、そっとタオルを押し当て、水分を丁寧に拭き取っている。
「……あんたは任意に妖化できないのか」
「残念だけどね。あたしは下半身に液体が掛かったら、否応なくこうなっちゃうの。水術は完全人型でも使えるけど、下半身は乾かないと足に戻らないから大変よ。特に冬場のお風呂とか」
「……そら、ゴクローサンだな」
最初、庭に水を降らせた際に、彼女が庭へ出て来なかった理由が、ようやく分かった。
「でも、妖化してれば水中でも息ができるの。そこは圧倒的アドバンテージね」
「……あんたな……」
「何?」
「自分の強みとか弱点とか、あんまベラベラ喋らないほうがいいんじゃねぇのか。昨日も思ったけど」
「えっ、そお? どうして?」
「自分以外の人間に自分の情報を知られることは、即死に直結すると思ったほうがいい。俺だっていつ敵に回るか分からないぜ」
すると、七瀬は大きな目を丸くし、驚くほどあっさりと、
「回るわけないじゃん」
と断じた。冴月は、呆れたように七瀬に流し目をくれる。
「……何でそう即断できるわけ」
「だって、冴月君も混血でしょ」
「混血同士ならイコール味方か? 今までよっぽど甘い世界で生きてたんだな。羨ましいわ」
すると、七瀬の応答がふっとやんだ。彼女に視線を戻すと、彼女は冷えた表情で目を伏せている。
「……そうでもない。小さい時はこの体質でホント苦労した。今も小さい頃と体質に違いはないけど、嘘も色々覚えたから対処はできてる」
唇に浮かんでいるのは苦々しい笑みだ。さすがに言い過ぎたか、と謝罪しようとした瞬間、「これは派手にやったな」と言う声が飛び込んで来た。
「葛葉さん。どうですか、万里小路さんの様子は」
声の主である葛葉に応えたのは、太刀川だ。
「瀬凪を傍に置いてきた。科捜研出身ということは、医師資格も持っているからな。汰樺瑚は大分、動揺しておるようだったから」
「無理もありません。しばらくはそっとしておきましょう」
汰樺瑚の動揺の原因は分かり切っている。
どういう状況だったかは知りようもないが、とにかく阿夜哲が、昴の異空間から無理矢理外へ出た所為で、彼は死んだのだ。しかも、汰樺瑚の目の前で、恐らく木っ端微塵になって。
これが冴月の異空間だったら、冴月はどういう形であれ再生しただろう。まったくやり切れない。
昴が妖に対してどういう悪感情を持っていたにせよ、冴月も『死ね』とまでは思っていなかった。
無意識に吐息を漏らして、手近なテーブルに浅く腰を落とす。
「……そう言えば……」
ふと口に出してしまい、慌てて口を閉じる。しかし、その時には呟きは皆の耳に入ってしまったようだ。
「どうした、冴月」
問うたのは、葛葉だ。
「あ、いや……別に」
「言い掛けたんだから言いなよ。事件に関係ないことなら、黙っててもいいけど」
七瀬が促す。先刻の、少々気まずく終わった会話が、なかったと言わんばかりだ。
一拍の間を置いて、冴月は再度溜息を吐いた。
「いや……あいつを捕まえた時、昴の異空間に閉じ込める前に、確か万里小路があいつを呪符でグルグル巻きにしてたんだよ。そのまま閉じ込めたんだと思い込んでたけど、その呪縛はどうやって破ったのかと思って」
「異空間と同じように、妖気を浴びせ続けたとかじゃないの?」
これまでこういう世界に足を踏み入れたことのない和華は、その名の通り、のほほんとした、素朴な意見を口にする。
「いいえ。それはありません」
対照的に、強張った口調で太刀川が答えた。
「対妖セクションで支給している捕縛用の呪符は、そんなに単純な造りではありません。それに捕らえられれば、対象者は強制的に妖力を封じられます。再び妖力を使えるようになるには、術者に解いてもらう以外に方法はないはずですから、妖が自力で無効にできるとしたら、何か余程、特別な理由か能力があると考えるべきです」
「そういう能力者が、実際にいるとしたら?」
冴月は無意識に、葛葉に視線を向ける。
「つまり、呪符を無効にする能力者、ということか?」
話題を振られたと思ったらしい葛葉は、戸惑ったように問い返した。
「そう」
「おらぬとは言い切れぬだろうが……何故、それをわたくしに訊く」
「だーって一番年嵩だから、心当たりあるかと思って」
「……覚えておれよ」
低く唸るように言った葛葉は、それでも記憶を探る素振りを見せる。
「呪符の拘束を破る術者……か。残念ながら出会ったことはないが、やはり可能性として、いないとは言い切れぬだろうな。だが、それがどうした」
「ソイツが幾つか知らないけど」
前置きをして、冴月は水槽に俯せている阿夜哲を顎でしゃくった。
「食った中にいたら、可能なんじゃないかと思ってよ」
「食った中に?」
鸚鵡返しに言った葛葉が、眉根を寄せる。
「どういう意味だ」
「多分ソイツ、食った相手の能力吸収型だ。ソイツが炎術を使えるのも、過去に火鬼を食ったかららしい」
「人間を食うのは和華の話から分かっておったが……同族まで食うのか。まったく節操がないな」
葛葉は、嫌悪感も露わに吐き捨てた。
「……多分、記憶も吸収するんじゃないかな」
ふと、和華が呟く。
「記憶?」
訊いた冴月が目を向けると、和華は頷いた。
「うん。だって、あいつ初めて会った時、あたしに言ったのよ。『お前のことはコイツの記憶にはない』って。コイツっていうのが誰を指してるかは分からないけど……」
「何でもアリだな。おい、太刀川」
「何でしょうか」
「コイツ、今の内に殺すぞ」
視線の先に、水槽の形をした水にプッカリと浮かぶ鬼がいるのに、太刀川も気付いている。
「冴月君」
と咎めるような声がまた冴月の名を呼ぶが、冴月も動じなかった。
「仕方ないだろ。今は酸素が入らねぇ状態だから気絶してるけど、いつまでも寝たままでいてくれる保証なんてないんだからな」
「でも、これから楽しい拷問タイムなのにぃ」
なぜか心底残念そうな顔で言う七瀬に覚えるのは、脱力と苛立ちだ。
「あのなぁ。あんたのあの水槽だって、恐らく一種の結界みたいなもんだろ。言うなりゃ異空間と一緒だ。その気になれば多分破れる」
「でも、窒息はしなくたって新しい酸素が入らなきゃ起きないでしょ」
「甘い! いつまでも寝たままでいてくれる保証なんてないって言ったばっかだろ! 鬼の基礎生命力、ナメてんのか!」
それに答えたのは七瀬ではなく、ゴボゴボッ、という気泡の音だった。
室内を片付けていた祓魔師を含む全員が、音源を注視する。
冴月の目に映ったのは、自身をちょうどスッポリと包み込むサイズの水槽の中で、器用にクルリと寝返りを打った阿夜哲の姿だ。大方、ほかの人間も同じものを見たに違いない。
ガボガボと口から気泡を吐きながら、阿夜哲がまるで、死んだと誤解され棺に入れられた者がするように、自分の前面(の水壁)を叩いている。
「七瀬! すぐに水槽化を解け!」
「で、でも」
「早く! でないと――」
あんたも破裂するぞ、と続けるより早く、阿夜哲の妖気が膨れ上がる。
(マズい!)
冴月はとっさに、自分の唇を噛み切り、血が出たのを確認する。大半、思い付きだ。
七瀬が水槽化を解くのは、恐らく間に合わない。阿夜哲が水槽を破れば、彼女は粉々になって死ぬしかなくなる。
(だったら――)
水槽に目を張り付かせ、硬直したままの彼女の後頭部を、強引に引き寄せる。
「何、」
「悪い」
口早に詫びて、彼女の唇を塞いだ。
「ん」
何が起きているのか分からない彼女は、当然抵抗した。彼女の身体が、ビクリと震える。キスによる反応とは違う震えだ。
「ふっ……ンン」
彼女の唇を舌先で半ば無理矢理割って、唇から流しておいた自身の血を、何とか飲み込ませる。コクリと彼女の喉が動くのを確認してから、唇を離した。
次いで、バシャンと水が派手にぶち撒けられる音が背後で響く。七瀬が無事なのを確認してから、冴月はそちらへ視線を向けた。
「……ちょっ……冴月君今の」
「人工呼吸と一緒だ。勘違いしなくていいし、キスのカウントに入らないから安心しろ」
「できるかボケぇ!」
横目で見ると、七瀬はすでに半泣きだ。
「だーから最初に悪いって謝ったろ」
側頭部に手を当てながら、視線は阿夜哲に戻す。
彼女の出自上、高確率でファーストキスだったら本当に申し訳ないことをしたと思うが、命には代えられないだろう。もっとも、そういった合理的思考は、男側の捏ねる都合のいい理屈だと、頭では分かっている。
命が懸かった局面であっても、女性の心理というのは色々と複雑なので、八百年生きていても理解しているとは言い難いが。
「謝って済むかっつーの! 乙女のファーストキス奪ったんだから、ちゃんっと説明してよね!」
やっぱりか、と内心目眩を覚えつつ、冴月は「不死の呪いのお裾分けだよ」と簡潔に答える。
「はぁ!? どーゆー意味よ!!」
「俺の身体には、不本意ながら不死の呪いってやつが掛かってるらしい。その俺の肉体の一部……今みたいに血でも飲み込んで、上手くすりゃ、あんたが破裂するのを防げると思っただけだ」
「って、ほとんど博打じゃん! 上手くいかなかったらどーしてくれたのよ!」
「そん時ゃあんたが死ぬだけだから、問題ねぇだろ」
「アリアリでしょ!!」
「じゃ、どーすりゃよかったんだよ。元々あんたがとっとと水槽化解除すりゃ済む話だっただろ」
「……そろそろ痴話喧嘩は済んだか」
耳障りの悪い特徴的な声音がその場に落とされ、重く緊張に満ちた沈黙が室内を支配する。
ずぶ濡れの阿夜哲は、水を滴らせてはいたが、お世辞にもいい男とは言い兼ねた。
「……あんたも大概面倒臭ぇな。どーしたらくたばってくれんだよ」
吐息混じりの返しに、阿夜哲は鼻を鳴らすだけで答えない。大方、まだこちらが手加減してくれると信じているのだろう。
(……もっとも、さっきだって俺は加減なんかしちゃいなかったけど)
それで互角だったところを見ると、目の前の鬼は恐らく冴月よりも長く生きているのだ。それも、一年や二年では利かない単位で。
千年近く生きていると、百年二百年くらいの年齢差はどうでもいいような感もあるが、戦闘経験の差が云百年分もあるなると、話は違ってくる。
(……仕方ねぇな)
ふっと吐息を漏らして、足を踏み出す。と同時に、阿夜哲が先に床を蹴った。
ただ、先ほどと違って、周囲には祓魔師が全部で五人いる。
部屋の片付けを瞬時に放り出した彼らは、冴月よりも先に阿夜哲に襲い掛かった。
阿夜哲の周囲を素早く囲み、各自が印を結ぶ。最後に五人は同時にしゃがみ込むと、床へ片手を突いた。
彼らの掌から光が放たれ、床に五芒星が描かれる。
「――縛!」
祓魔師たちの呪言を受け、五芒星から柱のように光の壁が立ち上がる。これが、並の妖相手なら、阿夜哲は金縛りだっただろう。元より、そんな並の妖なら、最初から汰樺瑚と昴の呪縛も解けてはいない。
だが、数秒後、弾き飛ばされたのは祓魔師たちのほうだった。
「うわっ!!」
銘々が床へ放り出され、あるいは壁へ叩き付けられる。直後、五人は一斉に炎に包まれた。
五人は悲鳴も上げられずに倒れ伏す。
「……邪魔をする奴はこうなる」
周囲が皆凍り付く中、特徴的な声音で言うと、阿夜哲は冴月を見据えた。
「……狙いは俺一人ってわけか」
「そうだ。おとなしく薬を寄越せば、誰も死なずに済んでいたのにな」
「仮に誰も死ななくても、俺は殺す気だろ」
「さてな」
床を蹴り、突進してくる阿夜哲の動きが、妙にゆっくりに見えた。
(……もし、このまま食われれば)
この男に食われるなら、もしかしたら本当に死ねるかも知れない。ふと、そんな誘惑に駆られた。
だが、かつて何をしても死ななかった身体だ。当時は何が原因か冴月にも分からず、妖鬼の血によるものと思い込んでいた。
けれども、今になってやっと、あの紗彌乃が呪いを掛けた所為らしいと分かった。
ならば、執念深い主に似て、呪いも執念深いかも知れない。
下手をすれば、あの阿夜哲の体内で精神だけ生き続ける羽目になる、なんてことも想像したら心底ゾッとした。
(うん、それだけは無理!)
阿夜哲の中であの肉体を共有するくらいなら、際限なく老い続けるほうが億倍マシだ。
喉元へ伸びた手を風で断ち切り、踏み出した足を軸に半回転して相手を庭へと蹴り飛ばす。
吹っ飛ばされた身体を追いながら、冴月は人鬼化した。
角は出ない。代わりに、額に炎と風が絡まり合ったような刻印が浮き出す。髪は銀色に、瞳は両目とも緋色に変わり、風と炎、両方の能力が使えるようになる。
まだ中空にいる阿夜哲目掛けて、風と炎の複合攻撃を仕掛ける。一瞬で相手は細切れになり、炎で灰と化した。
「――冴月君、何てことを!」
一拍の間ののち、冴月に駆け寄った太刀川が、後ろから肩先を引っ張る。普段なら、微動だにしなかっただろう。
だが、すでに足に力が入らなくなっていた冴月は、引っ張られるまま、太刀川に身体を預けるように崩れた。
「冴月君!?」
「冴月君!」
太刀川に抱えられ、口々に名を呼ばれるが返事もできない。
(……くっそ……変わってたの、十秒くらいだったのに……)
息を詰め、意識して人間の姿に戻るが、人鬼化の反動は避けられないようだ。
「冴月、どうした。何が」
葛葉が横に座ったのが分かる。しかし、もう視界は薄暗い。夕方だと錯覚するほどだ。
「……反、動……」
「何?」
「……悪い、半日……くらい……」
寝る、と口にできたかどうか。
プツン、とスイッチが落ちるように、冴月の意識は闇へ転がり落ちた。
©️神蔵 眞吹2023.