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第四話

 

「せっかくの美人が台無しですよ」


 花瓶の花を替える看護師は横目でビアンカを覗いて言った。


 最近、ビアンカには気がかりなことがあった。


 突如現れたティナという女性。

 あの日から既に三ヶ月が経ったが、未だに再会の機会はない。


 病院の職員に訊いてもティナという名前の関係者は存在しないと言う。


 もしかして幽霊?

 いや、あそこにいた子供たちは確かに会話をしていた。集団錯覚に陥ってた説もなくはないけれど、あまりにファンタジーだ。


 ウィルにも訊いた。


『すれ違ってた銀髪の人よ、覚えてるでしょ?』


 しかし、彼はキョトンとした顔で首を捻るばかりで、望んだ返事が来ることはなかった。


 難しい顔になる時間は増すばかりだ。


 そんなビアンカを気遣ってか、看護師は提案をした。


「……お出かけ?」


「しばらく症状も出てないみたいですし、先生も午前中だけなら、と仰ってましたよ」


 病院には長い時間いるけれど、外出許可を出されたのは今回が初めてだった。

 こんな機会滅多にない。たまにはいいかもしれない。


「じゃあ、行ってみようかな」


「では、申請を出しておきますね」


 看護師は「あっ!」と手を叩き、ブラシを持ってビアンカの背後に回った。

 長い髪をそっと持ち上げ、絡まないように優しく梳いていく。


「せっかくのお外ですから、綺麗にしましょうね」


 別にそこまでしなくても……。


 彼女の厚意を面倒に感じながらもビアンカは目を閉じて受け入れる。


 看護師は「良くお似合いですよ」と身支度を済ませたビアンカを褒めた。


「ありがとう。自分では分からないけど」


 無地のワンビースの上からカーディガンを羽織る。つば広の帽子にはリボンを巻いた。


 一見、病人には見えない。が、消毒と洗剤が入り交じった匂いはすっかり体に染み付いてしまって、服を着替えたくらいでは取れそうにない。


 街に出たビアンカを待ち受けていたのは、激しい人の往来と肌を照りつける太陽だった。


「天気がいいどころじゃない。燃えてしまうかも」


 靴を押し返す石畳の感触が楽しかったのも最初の数分程度。

 ものの10分も歩けば息も上がり、首筋に汗が伝うようになった。


 すっかり疲れてしまったビアンカは体よく見つけた噴水広場のベンチに腰掛けた。


 帽子を脱ぎ、ハンカチで汗を拭う。

 噴水のおかげか、吹き抜ける風が涼しく感じる。


「何か目的があるんじゃないんだから、ここから眺めているだけでもいいよね」


 母親と手を繋いではしゃぐ子ども、仲睦まじく談笑する老夫婦、水を飲みに来た鳥たち。


「んっ」


 ビアンカは動かない左腕を引き寄せて膝の上に置いた。


 重い。

 言うことを聞かなくなった自分の体は腕一本でさえこんなにも重いのか。


 グーとパーを繰り返そうとする。

 握って緩めて、握って緩めて……


 ……変わらない。歯を食いしばるほど力を入れているのに、私の左腕はちっとも動いてくれない。

 どうして私だけ……

 どうして私だけ目の前で広がる幸せな風景の中から置き去りにされているのだろう。


 もう帰ろう。


 ベンチから立ち上がった瞬間だった。


 突然の強い風。


 髪を押さえたビアンカの隣を風に攫われた帽子が飛んでいく。

 つばを利用してコロコロと器用に転がった帽子は誰かのブーツに当たって止まった。


「お久しぶりです、ビアンカさん」


 その声を聞くのは実に三ヶ月ぶりだった。


 ティナは帽子を拾い、ポンポンと砂埃を払う。


「どうぞ」


「あ……ありがとうございます」


 ビアンカは差し出された帽子を受け取ってティナの顔をじっと観察する。


「顔になにか付いていますか?」


「いえ、幽霊じゃなかったんだなって」


「はぁ」


 とんちんかんなビアンカの返答にティナは腑に落ちない顔をする。

 そんな彼女の目元には分厚いクマがあった。雪のように白い肌だ。おそらく化粧をしても誤魔化しきれないだろう。


「眠れてないんですか?」


「ここ最近は忙しくて……ああでも、寝ない訓練は一通り受けてきましたから問題ありません」


「普通に生きていたらまず使わそうな訓練ですけど……」


 ビアンカはベンチの隅に寄った。


「時間があるなら、少しお話しませんか」


 ティナは後ろを振り返った後、「私でよければ」と短く承諾した。


 背筋を伸ばして浅くベンチに腰掛けるティナの姿はまるで精巧に作られた人形のようで、前を通り過ぎる人々は必ずと言っていいほど足並みを緩める。


「すごく見られてますけど、平気なんですね」


「特に気になりません。ビアンカさんは気になりますか?」


「私はあまり見られたくない、かな……腕もこんなだから」


 あはは、と弱々しく笑いながらビアンカは左腕を抱き寄せる。


 視線の向かう先はティナだけではなかった。


 安易に外出をするべきではなかったのかもしれない。

 病院で過ごしている時間が長くなればなるほど感覚が麻痺する。


 私は病人だ。

 片腕が動かない人間の違和感に普通を生きる人達が気づかないはずがない。


 何か言いたそうにこちらを見ながら、コソコソと耳打ちをする。

 居心地が悪くて、逃げ出したい。


「むしろ、目を合わせてみてはどうでしょうか。意外とやめる人がほとんどですよ」


「ティナさんはいつもそうしているの?」


「視線の種類によりますね。殺気以外なら基本は無視です」


「さ……殺気?」


 真面目な顔で平然と言うティナが可笑しくてビアンカはふふっ、と吹き出した。


「もうティナさんったら寝不足で変なこと言ってますよ。とってもハードボイルドな小説に没頭しちゃったんですね。気持ちは分かるけれど、ちゃんと寝ないとダメですよ」


「認識が甘いですね。あれを見て下さい」


 ティナは屋根に止まった鳥を指さした。


「いかにも優雅な風景の一部になりすましていますが、あの鳥は虎視眈々とエサを狙っています。視線の先にパンを食べている人がいますよね。彼がターゲットです」


「お腹が空いてるのかしら」


「自然界の生き物は食べ物を得るのにも命懸けなんてす。ましてや相手は人間。これを殺気と呼ばずなんと言いますか」


 数秒後、ティナの予言通り男性はパンを奪われた。瞬きをする間の出来事に反応できるはずもなく、彼は肩を落として広場を去ってしまった。


「油断するとああなります」


 自分の目測通りになってティナはどこか満足顔だ。


「ビアンカさんも気をつけてください。敵は地上に在らず、空からもやってきます」


「私は大丈夫。きっとウィルが助けてくれるから」


「恋人ですか?」


 いざ恋人かと問われると恥ずかしいものだ。

 ビアンカは頬を赤らめながら幼子のようにはにかんだ。

 そうだ、と口が動かなかったので笑ってみたがティナは理解してくれたようで、


「とても信頼しているのですね」


 と却って関係をアピール出来たみたいだ。


 顔の熱も今日の気温なら誤魔化せる。うんざりしていた雑踏も今は心臓を叩く音を紛らわせてくれる。


 つい数分前に居心地が悪いなんて思っていたのに、感謝すら覚えている。

 私はなんて単純な性格なんだろう。笑えてきてしまう。


「その方とは上手くいっていますか?」


「えっ」


 ビアンカの心臓が大きく跳ねた。


「深い意味はないんです。私、お付き合いというものを経験したことがなくて。是非、どんな感じなのか訊いてみたかったんです。急に申し訳ありません」


「そ、そうだったんですね……。ティナさん可愛いし綺麗だからてっきり相手がいるものだと」


 ビアンカは俯き気味に視線を下げた。


「たぶん、あんまり上手くいってない……と思います。私の理想とは大きくかけ離れてるから。普通、忙しい合間を縫って何時間もかかる病院に馬車で来ますかね。『しばらく来なくていいよ』って言っても彼、当たり前のように毎週お見舞いに来るんです。そんなのがもう一年も続いてて……いっその事、私のことなんて忘れてくれたらって……」


 最低ですよね。


 ビアンカはそう付け足して自嘲気味に笑う。



「おーい、ドレスローザさん!」


 聞き覚えのある声にビアンカは視線を上げた。


 彼はビアンカの隣に座るティナに手を振りながら近づいてくる。軽やかな足取りだ。きっといい出来事でもあったのだろう。


 近くにつれ、ぼやけたシルエットがはっきりとした顔の輪郭を浮かべる。


「ビアンカ……どうしてここに」


 足を止めたウィルは万遍の笑みから一転、持っていた箱を背中に隠し、引きつった表情で言った。


「ウィルこそ、今日こっちにいるなんて聞いてないけど……」


「あぁ……いや、それはだな……ちょっと用事があって……」


「用事ってなに? お仕事?」


 バツが悪そうに視線を逃がすウィル。

 彼の浮かれた声が誰に向かっていたかを考えれば、その答えにたどり着くのは難しくなかった。


「ふたりは知り合いなの?」


「……まぁ」


「もしかしてティナさんに会いに来たの?」


「……そうだ」


 ──ピクッ


 凍りついた雰囲気の中、相も変わらず無表情だったティナの眉間に薄い皺が浮かんだ。


「でも、それにはちゃんと訳が──」


「そっか。ううん、ウィルは悪くないよ、私が悪いの。沢山迷惑かけてたもの。

 ごめんね……でも終わりにしたかったのなら、せめて一言言って欲しかったな」


 声を震わせたビアンカは抑えていた感情の限界を迎えると走ってその場から逃れた。


 走りながら考える。

 ティナがしきりに後方を確認していたのはウィルを待っていたから。

 ウィルが答えてくれないのはティナと口ごもってしまうような関係ができてしまっているから。


 仕方ない、仕方ないんだ。

 ティナは美人なだけじゃなくて、天然で楽しい人。

 惚れてしまわない方がおかしいぐらい魅力的で、まともにとりあって適うはずがない。


 きっと正解は怒ること。

 ウィルを叱って、それでも私と一緒にいなさいと伝えること。だけど無理。今の私にその資格は最早ない。


 ビアンカは迷路並みに入り組んだ道を闇雲に走り、裏路地に入った。


 表通りとは違って人気もなく薄暗い。

 どこか病院に似て、安堵すら覚えた。


 ビアンカの足音をもうひとつの足音が追い抜く。


「──ビアンカ!」


 油断はなかった。ただ単に、ビアンカよりウィルの方が体力と追いつくに十分な足の速さがあっただけのこと。


 何度も繋いだゴツゴツとした手がビアンカの腕を掴む。痛みを感じるほど強く掴まれたのはこれが初めてだった。


「離してよ!」


「急にどうしたんだよ。逃げなくてもいいだろ!」


「あの場に平然と居られるほうがおかしいわよ! どんな気持ちで見ていればいいの!? 覚悟はできても受け入れるには時間がかかるんだから!」


「気づいてたのか……」


「当たり前でしょ……ずっとウィルを見てきたんだもの。顔を見れば多少は分かるわ」


 ふたりの荒い息遣いの隙間、


「──少しよろしいでしょうか」


 話すタイミングを背後から伺っていたティナが会話の途切れと共に口を開いた。


「うわっ!」とウィルは背後の女の影に驚き、ビアンカを抱き寄せる。その一連の流れはあまりも自然な動きだった。


「び、びっくりした……いつからそこに」


「ビアンカさんが『離して!』と手を振りほどこうとしていた所から」


「それって最初からだよな」


「まあ、そうなります。それより、さっきからお二人の話はどうも噛み合ってないように見えるのですが」


 ティナは理解が追いつかない様子の二人を交互に目配せした後、ビアンカに狙いを定めた。


「安心して下さい。彼は浮気なんてしてませんよ」


「浮気!?」


 素っ頓狂な声を挙げたのはウィル。

 まん丸と目を見開いた彼を気にする素振りもなく、ティナは続けた。


「ただ、どうしても内密に遂行しなければならない任務があったんです。どうか彼を信じてあげて下さい」


「信じたい。信じたいけど、どうして私に言っちゃダメなの? 思い込むだけで納得できるほど今の私は強くないよ」


 ビアンカはウィルの胸に顔をうずめた。


『彼を信じているのですね』


 笑って誤魔化したけれど、ずっと前から分かっていた。

 私がウィルに向ける気持ちは信頼ではない。

 依存だ。


 口でならなんとでも言えた。


 彼が可哀想だから。

 彼に悪いから。

 彼が不幸になってしまうから。


 全部嘘だ。彼を思いやった気になって、本当は自分が傷つかない為の盾を作ってた。


 本当は──


「私にはウィルしかいない。ウィルがいなくなったら何に縋って生きていけばいいのか分からない。毎日カレンダーを見ながら、ウィルが来る日を指折り数えて……それでも一緒にいられる時間はほんの少しで……。教えてよウィル。私これからどすればいい?」


 一度溢れたらもう止まらない。

 胸の中に閉じ込めていた思いが意思に反して次々吐き出されるされる。

 とてもコントロールできるものではなかった。


「それは俺も同じだよ。ビアンカに会えないのは俺も辛い。四六時中、お前のことばかり考えてる」


 甘い言葉。

 こうやってウィルは私に優しくしてくれる。

 見放さないでいてくれる。嫌いにならないでいてくれる。


「やめて……もうやめてよ。私に優しくしないで。ウィルが不幸になっちゃうよ……」


「不幸になんてならねえよ」


 見上げた先。ウィルは微笑んでいた。

 見方によっては悲しげに。

 見方によっては安堵したかのように。


「本当は最後まで内緒にしてようと思ってたんだけど、こうなったら仕方ないか」


 ウィルが取り出した小さな箱の中身をビアンカは知っていた。

 母が化粧台の引き出しに大事に保管していた結婚指輪のジュエリーケースそっくりなのだ。


「今日、街に来てたのはこれを受け取るためだったんだ。俺、男だからどんな指輪がいいのか分からなくてさ。色々アドバイスを貰ってて、完成品を一緒に見てもらおうと思ってたんだよ」


「じゃあ、私の勘違いだったってこと?」


 ビアンカの顔が赤く湯立つ。


「ビアンカさんのせいではありませんよ。彼が話をややこしくしたんです。私に会いに来た、なんて言うから」


「お、俺のせいかよ!?」


「どうしよう……また逃げ出したい」


「もう逃げないで下さい。私ではこの広くて入り組んだ街の中からたったひとりの女の子を見つける自信はありません」


 ティナはウィルを一瞥する。


「少しあなたを見直しました。ビアンカさんのことになると急に頼もしくなるんですね」


「どういうこと?」


「二手に別れようと提案のですが、あまりにも迷いなく道を進むので彼の後を追いかけたんです。そうしたら、ビアンカさんが」


 ウィルがゴホン、とひとつ咳をした。


「一応言っとくけど、俺は犬じゃないぞ。まあ、昔からビアンカはふらっといなくなることが多かったからな。探すのは慣れてるよ。それに、」


 ウィルは恥ずかしそうに頭を搔いた。


「ビアンカの気持ちが知れて嬉しかった。入院が長くなるにつれて、変に物分りが良くなっただろ? 俺、ビアンカにはずっとワガママでいて欲しいんだ。そういうところも好きだからさ」


 充分。もう充分甘えてるよ。

 私がどれだけウィルを独り占めしてると思ってるの?


『遅いよウィル!』

『もう帰っちゃうの?』

『また明日も来てね! ……なーんて冗談よ。また来週ね、待ってるわ』


『来るの早いね。朝起きるの大変でしょ?』

『ウィルは仕事もあるんだから早く帰らないと! ほら帰った帰った』

『わざわざ私のために時間作ってくれなくていいんだよ? ……そっか、無理しないでね』


 いつからかは覚えてないけれど、私は意識的にウィルを遠ざけるように振舞った(結局、効果はほとんどなかったけれど)。


 また昔みたいに甘えていいの?

 ウィルを困らせていいの?


「ビアンカさん」ティナが呼ぶ。


「彼は見ての通りです。あとはあなた次第かと」


「私は……」


 ビアンカは一度言いかけた言葉を止めた。

 ウィルに体を預けたままでは彼の顔がよく見えない。一歩下がって目を合わせる。


「ごめんねウィル。私、色んな気持ちを隠してた。でも、もう隠さない」


 足がまだ背伸びするだけの元気があってよかった。

 指先がまだウィルの胸から伝わる鼓動を感じられてよかった。

 唇がまだ柔らかな感触を感じられてよかった。

 心がまだ幸せを求めてくれてよかった。


 暗くて陰鬱な裏路地はお世辞にもキスに適した場所ではなかったが、誰にも邪魔されない唯一の場所だった。


 時間にして数秒。

 ビアンカの背伸びは限界になる。


 唇を放したビアンカは晴れ晴れとした表情をたたえた。


「ウィル大好きよ。たとえ身体が動かなくなってしまっても。耳が聞こえなくなってしまっても。声を出せなくなってしまっても。おばあちゃんになっても。

 ずっとずっと、ずーっとウィルが大好き」







「ねぇ、ウィル。私たちどこに向かってるの?」


「……。」


 もう何度も繰り返されるビアンカの問いかけにウィルは全て沈黙で返した。

 腕を組んで目を閉じているが、寝ている訳ではない。その証拠に細かい貧乏ゆすりが絶え間なく行われている。


 二人は馬車の中にいた。

 早朝、突然病室にやってきたウィルに手を引かれ、言われるがまま馬車に乗り込んだ。


 乗っている時間の割に疲労はあまり感じられなかった。

 椅子は柔らかく、装飾も豪華。黒いハットを被った御者なんて二人体制。

 まるでお姫様にでもなったみたい──そんな浮かれた気分も最初の数分だけ。


 行先を教えてくれないせいで、いよいよ不安になってきた。


「到着致しました」


 一人の御者が告げると、ウィルは扉を開けた。


「行こうビアンカ」


「えっ、うん」


 腰をかがめて外に出る。

 今日は日差しが強い。

 眩しさに目を細め、手で太陽を遮る。

 遅れて、風に運ばれた甘い香りが鼻腔をくすぐる。


 数秒して、ぼやけた景色に焦点が合うとビアンカは、「綺麗」と本音を漏らせた。


 なだらかな山の斜面にどこまでも続く色鮮やかな花景色。

 坂道を登った先にこんな場所があるなんて。


 ウィルはビアンカの手を引いて一本道を歩いていく。

 古びた家の前でティナがぺこりとお辞儀をしたのが見えた。


「ティナさん? どうしてここに」


「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」


 家の中に案内される。

 薄暗い廊下を渡った先。部屋の真ん中に太陽の光を浴びた純白のウェディングドレスを着たマネキンがビアンカを出迎える。


 ウィルを振り返ると彼は柔らかく微笑んだ。


「じゃあ俺は外に出てるから、終わったら声掛けてくれ」


「えっ、ちょっとウィル!? 私まだ状況が──」


 パタンと扉が閉まる。

 ビアンカの頭の中はウェディングドレス同様に真っ白になってしまった。


 ティナに服を脱がされ、髪をブラシで撫でられる。

 姿勢は普段からいい方なのだが、コルセットの紐が締められると背筋が一層伸びた。


「少し失礼します」


 ティナは断りを入れ、ビアンカの顎を持ち上げた。筆を使って器用に口紅を塗る彼女のいつも通りの横顔が印象的だった。


 左右に揺れると鏡に映る自分が全く同じ動きをする。


 これは夢……? ううん、違う。

 本当に私、ウェディングドレスを着てるんだ。


 胸に手を当てると心臓が痛いほど早鐘を打っていた。


 ん? これなにかしら?


 ふと、胸元に凹凸があることに気づいた。

 一目ではドレスと全く同じ色で分からない。指でなぞりながら鏡で確認する。


 文字だ。文字が刺繍であしらわれている。


「ど、れ、す、ろーざ……?」


 ビアンカは「はっ!?」と口を押さえた。


 ウィルが広場て彼女をなんと呼んだのかを思い出す。


 どうして忘れていたんだろう。

 お母様の写真を見てからずっと憧れで、ウィルが約束してくれた大切な名前だったのに。


「口紅、さっき塗ったばかりなのであまり触らないほうが」


「あっ、そうですね……ふふっ」


 突然現れた謎の美少女が体中にメジャーを巻き付けて帰った理由にようやく合点がいった。

 あの日から、既にウィルの計画は始まっていたのだ。


「どうかしましたか?」


「いえ。ただ、隠し事が苦手なウィルになんで気づけなかったんだろうって。自分のことばっかりで、全然周りが見えてなかったんですね、私」


「彼は意地でも今日まで隠し通す気でいました。あんな形で準備がバレてしまいましたが、結果的にわだかまりも解けて良かったんじゃないでしょうか。さあ、仕上げをしましょう」


 改めて鏡の前に立つと別人のようだった。

 栗色の髪は後ろでまとめ、蝶と花の髪飾りで飾り、腕には手の甲から二の腕辺りまでを覆うレースのグローブ。

 ドレスは思ったよりも重くて、けれど柔らかくて。味わったことのない不思議な肌触りだった。


 ヒール靴だけはウィルがチョイスしたとすぐに分かった。

 飾り気のない真っ直ぐなデザインがいかにも彼らしいから。


「よくお似合いです」


「……ティナさん、ありがとう」


 涙を溜めたビアンカはティナを抱きしめた。

 突然の行為にティナは困惑した。


「わ、私はただ依頼をこなしただけで……泣かないで下さい、せっかくのお化粧が台無しになってしまいます」


「分かってます。分かってるからもう少しこのままでいさせて」


 ティナはビアンカの背中に手を回し、ぎこちない手つきで彼女か落ち着くまで優しくさすった。




「ウィル」


「おっ、準備でき……」


 ウィルはビアンカのドレス姿に言葉を失った。

 似合ってる、の一言すらなかなか発せられない。


「どう……かな?」


「に、ににににに似合ってる! もうめちゃくちゃ! めちゃくちゃ似合ってる!」


「そっか。ありがと」


 緊張しているせいか言葉数は少なく、目も合わせられない。

 覚悟はしていたが、ここまでの破壊力とは。


「ねえ、ウィル」ビアンカが上目遣いで呼ぶ。


「手、繋いでほしい」


 ウィルはお安い御用だと言わんばかりに手を握ろうとするが、ビアンカは首を横に振った。


「そっちじゃない、左」


「でも」


「いいから」


 ビアンカは左腕が動かなくなってから、頑なに自分の左側を譲ることを嫌っていた。


 手を握るとビアンカの手は火傷しそうなほど熱帯びていて、心臓の音がすぐそこで聞こえた。

 やはりと言うべきか、顔はほんのりと火照っている。


「私だって恥ずかしいんだから、ウィルの方が頑張ってよ。男の子でしょ」


「そうだな、このままじゃ埒が明かねぇ」


 ウィルはビアンカに向き直った。

 愛する人の前で膝を折り、指輪を取り出す。


 本当ならすまんと一言謝りたかった。

 指輪の値段は店で下から数えた方が早いくらいの安物。式場は年齢を理由に借りられなかった。

 服もいつもの作業着で、スーツ一式を揃える余裕もない。


 でも、ビアンカのドレス姿を見てそんな惨めな思いは消え去った。


 ゴクリと息を呑み、指輪をはめる。

 彼女の薬指に指輪はぴったりと収まった。


「嬉しい。もっと近くで見せて」


 ウィルはビアンカの背後に回り、彼女の左手を支えた。


 宝石も付いていない、ただただ安い銀色に輝く指輪をビアンカはうっとりした表情で眺めていた。


「素敵。こんな日が来るなんて夢じゃないよね?」


「夢じゃないさ、だって、」


 ウィルはビアンカと唇を重ねる。


「こんなに幸せなのに夢であってたまるかよ」


「それもそうね」


 にやりと笑ったビアンカは「えい!」とウィルを押し倒した。

 数え切れない数の花びらが宙に舞う。


「おい、いきなり何すんだよ、危ないだろ」


 心配するウィルをよそに上に乗ったビアンカはクスクスと笑う。


「だってこうしないと背が届かなくてお返しができないんだもの」


「お返し?」


 お返しってなんだ?


 考えている最中にウィルの頬にビアンカは手を伸ばした。

 逃がしません。そんな意思を感じた。


 ビアンカの顔がみるみる距離を詰めてきて──


 お返しが終わると、ビアンカは口元を押さえてきょろきょろ落ち着かない。


「……お返し、だから。普段は私からはしないからね!」


「わかったわかった」ウィルは必死に笑いを堪える。


「なんで笑ってるの!?」


「いやぁ、ビアンカも甘えん坊になったなぁって思ってさ」


「そ、それはウィルが甘えろって言ったから!」


 ふざけあって、はしゃいで。まるで昔に戻ったみたいだった。

 ドレスは土と花の密て汚れてしまったけれど、ティナさんが怒ることはなかった。

「それはもうビアンカさんのものですから」と初めて見た時と変わらない、抑揚の小さい声と読めない表情で。




 しばらくして、私は村に戻ることになった。

 治療のしようがないのなら、病院に留まる理由はない。精神的な不安定さを心配されていたが、自分でも驚くほど早く退院の許可が出た。


 いま、私のお腹の中には新しい命がある。

 たまにお腹を蹴ってくる。きっと早く外に出たいのね。私達も早くあなたに会いたいわ。


 既に車椅子の生活が当たり前になった私が、産まれてくるこの子と外でかけっこをして遊んであげることはできない。


 だからお外遊びはパパに任せて、私は伝えよう。


 私とウィル(パパ)の長くて、遠回りで、辛くて、嬉しくて、それでいて幸せなお話を。


 そして、ティナ・ドレスローザという一人の少女がいたことを。


「……っ!」


 下腹部から鈍くて重い痛みを感じた。


 もしかしてこれって……


「……えっ、嘘!? ウィル来て! 産まれる!」


「マジか! えっと、助産師さんに連絡は……」


「早く早く、これ痛いからぁ! ウィル早くー!」



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