貴族の少女と平凡な少年
ウィルは至って普通の家庭に生まれた。
両親は農家。季節に合わせた作物を街へ売り出して生活している。
身長も普通で、10歳になるまで周りの子供達と同じくらい。体重は少し軽かった。
そんなこれといった特徴がない少年に、普通ではない出会いが訪れた。
『ビアンカ・オーレン』
誰もが知る貴族、オーレン家のご令嬢である。
彼女は幼い頃から体が弱かった。
両足で立てるようになったかと思えばすぐにベッドが定位置になり、病気と回復を繰り返すようになった。
オーレン家はビアンカの体を第一に考えた。
街中で平気な顔をして煙草を吸う人が数え切れないほどいる街だ。窓を開けて綺麗な空気を吸わせてやることも出来ない。
いくら歴史のあるオーレン家の屋敷といえど、愛娘を考えれば手放すのも惜しくなかった。
馬車に揺られ続け、何度母におしりが痛いと伝えただろう。
ビアンカは指折り数えられるほどの民家と見渡す限りの自然が溢れる村に越してきた。
「思いっきり息を吸ってごらんなさい」と言われ、恐る恐る空気を吸い込む。
大丈夫、咳が出ない。
胸が膨らむほど空気を肺に入れたのは初めてだった。
息を吐き切り、ビアンカはキラキラとした瞳で父と母を交互に見た。
「凄いよお母様、お父様! 全然苦しくないの! 優しい香りがするし、何だかわたし生まれ変わったみたい!」
そうかそうか、と父は目を細めてビアンカの頭を撫でる。
「きっと体もすぐに良くなって外を走り回れるようになるさ」
「うん! 元気になったらわたしお母様とお買い物に行きたい!」
「あらあら、それは楽しみね」
今まで住んでいた堅牢な屋敷ではなく、どこにでもあるような木造の民家の前で一つの家族が新たな生活を始める傍ら。
「おいおい、マジで貴族様だぞ……」
「あんな綺麗な服着てる人見たことねぇよ」
「お前はどう思う? ウィル」
ウィルを含めた子供達が貴族という架空の存在を確かめる為に物陰に隠れて盗み見ていた。
「どうって言われても……」
「お前、声掛けて来いよ」
「はぁ!? なんで俺が行かなきゃなんないんだよ、意味わかんねぇ!」
唐突な友人の提案にウィルは思わず大きな声を出してしまった。気づいて口を閉じた時には既に遅かった。
友人達はオーレン家の視線に一目散に逃げ出したが、ウィルは身動きが取れなかった。
目を合わせた猫がじっとその場に留まるのと同じだ。
「君はこの村の子かい?」
「は、はい」
ビアンカの父が目の前で膝を折った。
なんという迫力だろう。ウィルの父も筋骨隆々で威圧感があるが、静かな表情の中にものを言わさない圧倒的な雰囲気がある。
覗きを怒られるのだろう。
もしかしたら地下室に連れていかれて鞭で打たれるのかもしれない。
貴族に対して偏ったイメージを持っていたウィル。だからこそ、彼の提案はより恐怖を煽った。
「娘と友人になってくれないか?」
ウィルに選択肢はなかった。
二つ返事で了承した。もし断っていたらどうなっていたかは考えるまでもない。村から存在を消されていただろう。
後にこの時の心境をビアンカに話した。すると彼女の反応は酷いものだった。しばらくお腹を押さえて「ウィルはバカね」と笑っていた。
オーレン家は1ヵ月もしないうちに村に馴染んだ。
両親が積極的にコミュニケーションを図った結果だろう。街と違って村は人が少ない分、ひとりひとりの関係の密度が重要になってくる。
母は化粧を薄くし、絢爛なドレスを地味な色に変えた。父は農業の教えを乞い、慣れない力仕事を日が落ちるまで続けた。
決して自分を押し殺して我慢していた訳では無い。少しでもビアンカが過ごしやすい環境を作るために進んでやったことだ。
「ねえウィル、明日はどこに連れて行ってくれるの?」
「あぁ、悪い。明日はダメなんだ。親父の仕事を手伝わないと」
ビアンカは環境を変えてからというもの、年々見違えるほど元気になっていた。
それでも、またいつ体を壊すか分からない。
事情を知ったウィルは彼女のお目付け役を買って出た。
「ウィルのイジワル! ケチ!」
「ちょっ、抱きつくな!」
歩きにくいだろ、と付け足したウィルの顔はリンゴのように真っ赤だった。自分でも熱を帯びていると分かった。夕日の方へ顔を向けて真っ赤な顔を悟られないようにする。
夜、ウィルは布団の中に潜り込んで叫んだ。
この胸のモヤモヤ。正体は分かっている。
ビアンカが好き──。
もうお互い14歳だ。
何もかもが無邪気だった5年前とは違う。
成長したビアンカは母親譲りの美貌の持ち主。そんな彼女が躊躇いもなく腕に胸を押し付けてくるのだ。クールに振舞っているつもりのウィルもそろそろ限界が来ていた。
『告白』の二文字が頭に思い浮かぶ。
だが、無理だ。
今まで村の男はもちろん、遠くから来た身なりのいい青年までことごとくフラれている。
顔も大して良くない、瞬時に計算の答えを弾き出せるほど頭がいい訳でもない。
出来たことと言えば、野良猫に付いて行って行方不明になったビアンカを探し当てたことぐらいだ。
俺とビアンカが釣り合うはずがない。
ウィルは諦めのため息を吐いて眠りについた。
「これ、とても素敵だと思わない?」
ある日、ビアンカの部屋でウィルは一枚の写真を目にした。
ウエディングドレスに身を包む花嫁の姿が写し出されていた。
「ビアンカのお母さんか?」
「うん。お父様と結婚する時、絶対ドレスローザが着たいっておねだりしたんだって」
『ドレスローザ』
聞き慣れない単語をウィルは聞き返すと、ビアンカは遠くを見ながら、心ここに在らずといった様子で語った。
「ドレスローザって人が作った世界中ですっごく有名なブランドなの。でも、全然世に出回らないんだって。幻のドレスって言われちゃったりして、素敵よね」
「なるほど。ウチの大豆も店に卸す数を絞れば幻の大豆と呼ばれるようになるのか」
「それはどうだろう……」
ビアンカはあははと笑い、写真を本の間に挟んで閉じた。アルバムではなく、いつも手元に置いておける本に挟むなんてよほど気に入っているのだろう。
「着たいのか?」
「えっ?」
ビアンカは顔を赤らめた。そして恥ずかしさを隠すように机の下でモジモジと指を絡める。
「そ、そんなことない。相手もいないし、まだ子供だし」
「でももう14だろ。あと数年もすれば……それにビアンカなら相手にも困らないだろ。しょっちゅう男に迫られてるしな」
「なにそれ」
突然、ビアンカの声色が変わる。
低くてドスの効いた、今までとは別人のような声だ。
「ウィルは私が他の人に取られてもいいの?」
「取られるって言われてもビアンカは俺のものじゃないし……そもそも俺はどこにでもいる農家の息子で、お前は誰もが知る貴族令嬢。釣り合うはずないだろ」
ウィルは視線を落とし、なるべく平然を装いながら話した。
自分に言い聞かせなければ。そうでなければ、ビアンカと恋仲になりたいなどと、叶わない願いにいつまでも手を伸ばしてしまいそうだった。
ぽたぽたと床に滴が落ちた。
ビアンカの靴のそば。
今日は雨は降ってないから、当然雨漏りもありえない。
「ビアンカ、なんか天井から水が……」
視線を上げたウィルの目に飛び込んで来たのは、苦しそうに胸を押さえて涙を流すビアンカだった。
泣き顔すら絵になる彼女に見惚れていた。
同時に、なぜ彼女が泣いているのか分からなかった。泣きたいのは君を諦めなければいけないこっちの方だとすら思った。
「ど、どうした……どこか痛いのか? すぐ、医者を呼んでくるから」
「ウィルがそんな風に私のことを見てたなんて思わなかった。ウィルは身分なんてこれっぽっちも気にしないで、ただただ楽しいから遊んでくれているんだと思ってた」
ビアンカは笑った。拭いても拭いても涙は止まらない。
それでも彼女は精一杯笑って、部屋を走り去った。
放心状態の中、とぼとぼ道を歩くウィルの背中に強い衝撃が走る。
「おーいウィル! って、なんて顔してんだお前……1週間うんこの出ない母ちゃんみたいな顔してんぞ」
「えっと……どちら様?」
「俺だよ俺! ケルト! 友達だろ!?」
「ああ、そういやそんな奴もいたな……」
「どうしたんだお前。さては、隠してたスケベな本がバレたんだろ!」
「ケルトには関係ねぇよ」
「違うのか。なら当ててやろう……ビアンカちゃんだろ」
「なっ!? なんで分かったんだ!?」
「お前分かりやすいんだよ。大体ボケっとしてる時は作物か天気かビアンカちゃんのことなんだから」
「マジかよ……」
話してみろ、とケルトにそそのかされたウィルは束の間悩んだ末、一通りビアンカとの間にあった出来事を伝えた。
すると、
「お前には乙女心ってもんが分からんのかね。鈍すぎてイラつくわ」
ケルトはやれやれと肩を竦めて続ける。
「なんでビアンカちゃんがごくごく一般的でなんの取り柄もない農家ボーイと仲良くしてるのか考えてみろよ。普通は俺を選ぶだろ、顔的に」
「顔的に……」
「でもそうじゃないんだ。彼女は俺からのお誘いを断固として受けない。なのにお前とは毎日のようにつるんでる。つまり答えは一つ。ビアンカちゃんはお前の事が好きなんだよ」
ケルトはぐっと拳を握った。
「つまり俺は振られた訳ではなく、先に相手方に想い人がいただけだ。これは、ただ純粋な友人として断られたというだけなので全く精神的ダメージはない。それどころか、これからによっては友人、親友、それ以上の関係にだってなれる無限の可能性がだな……」
素直にケルトを凄いと思った。
なぜ眩しいほど前向きでいられるのだろうと疑問を持たずにはいられない。
彼がビアンカを前に何度も撃沈する様子を見てきた。
滑稽で無様でああはなりたくないと心のどこかで思っていた。
なぜ?
怖いからだ。
拒絶が怖い。もし、告白して断られたら?
そんなの耐えられるはずがない。
でも、俺はさっきビアンカを拒絶してしまったのではないか? 身分を言い訳にして、無理だと諦めていたのではないか?
「ケルト、俺行くよ」
「心は決まったのか?」
「決まってる、というか決まってた」
「もし拒まれたら?」
「分からない。子供みたいに大泣きするかもしれないし、腹いせに村中の水路をせき止めるかもしれない」
「それはマジでやめとけ。別の意味で帰ってこられなくなる」
「でも、ビアンカは誰にも渡したくないし渡さない」
ウィルは走った。
後ろから声がする。
「お前の家の方に行ってたぞ!」
ケルトの証言を元にビアンカを探し回った。
日が沈みかけた頃、彼女は意外な場所で見つかった。
「ビアンカ起きろ。もう夕方だぞ」
「う、ん……ウィル? なんで?」
眠り眼を擦りながら、ビアンカは毛布と一緒に体を起こした。
「まさか俺のベッドで寝てるなんて思わなかったよ」
ビアンカはまだ覚醒していないようで、ぽかんと口を開けて首を傾げている。
「変なウィル。私が他人のベッドで寝られないの知ってるでしょ? そんなのありえない……よ!?」
キョロキョロ辺りを見渡して自分の部屋ではないと気づいたビアンカ。丸まった背筋が伸び、ただでさえ大きな瞳が更に大きくなった。
「な、なんで私がウィルのベッドに!? 夢!? 夢かしら!? そういえば、ウィルの顔も心なしか少しシュッとしたような気が……」
「ビアンカ、これは現実だ」
「……はい」
仰々しく言ってしまえば侵入になるのだが、犯罪とは縁のない小さな農村では家に人が居ろうが居らまいが扉に鍵なんてかけない。
両親が不在の隙に部屋に入ってしまったらしい。
「勝手に入ってごめんね。でも、悪さしようとしたとかじゃないの! これだけは信じて」
「なら、どうして入ったんだ?」
「……だってウィルがあんなこと言うから、寂しくなって」
子供が親に怒られたみたいに口を尖らせるビアンカ。それが可愛くてウィルは頬を弛めた。
「ビアンカ」と優しく名前を呼び、手に持っていた本を顔を横に掲げる。
「俺も勝手に入ったからおあいこな」
「それ、私の本」
「ビアンカの両親もすっかり村の杜撰さに呑まれたよな。留守なのに鍵開いてたから簡単に持ってこれたよ」
本の間に挟まった写真を取り、ビアンカの前で膝を折った。
「これから言うことは全部俺の本心だから、嫌だったら嫌って言って欲しい」
そう前置きをして、ベッドの上で姿勢正しく座る彼女の手を握る。
「俺はお前の事が好きだ」
ビアンカの手がピクリと動いたが、ウィルの心臓はそれどころではない。ばくんばくんと破裂間近な音を立てている。
「ずっと前からビアンカが好きだった。それを拒絶されることが怖くて、身分を言い訳にして逃げてた。俺となんて釣り合わないって自分に言い聞かせてたんだ。
昼間にさ、ビアンカ言っただろ『私が他の人に取られてもいいの?』って。いいわけない。俺はお前が好きだ。誰にも渡さない」
ウィルは手元の写真を眺め、ビアンカに手渡す。
彼女へ対する焦りはすっかり消え失せていた。
「君に俺の花嫁になって欲しい。この写真みたいに可愛いドレスを着て、同じ道を一緒に歩いて欲しい」
ダメか? とウィル。
すると、壊れた時計のように動かなくなっていたビアンカの顔がカァーっと一気に赤みを帯びた。
「髪の毛ボサボサだし、目腫れてるし、なんで今言うのよバカ! もっといい感じのシチュエーションで告白してよ!」
う〜、と悶えながら跳ねた髪を押さえるビアンカ。
「いま、返事してもいい?」
頷くウィルにビアンカは迷うことなく答えを出した。
「私をウィルのお嫁さんにして下さい」