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傘渡り  作者: 髙津 央
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09.川沿いの道

 篠原病院の小児科では「大気汚染が原因だから」と、転地療養を勧められた。

 役所から公害医療手帳が交付され、公害病の喘息(ぜんそく)に関してだけは、医療費が全額、公費負担になった。

 医者と役所、両方から「この場所に住んではいけない」と言われたようなものだ。それでも両親は引越してくれない。


 二人は治療の方針で対立し、病人そっちのけでしょっちゅう言い争う。

 父は「悪い空気が入って来るから」と窓を閉め切り、空気清浄機をフル稼働させる。

 母は「夜の内にマシになってるから、朝一番は、窓を全開にして換気するものなの」と父が閉めた窓を全て開けて回る。


 病人自身は、二人の間に挟まれ、どちらか一方の主張に頷いただけで、もう一方に殴られ、「だったら、もうさっさと死ね!」と罵られた。


 二人の主たる目的は、病気の我が子を少しでも楽にすることではなく、自分の主張を通すことだった。

 両親から、禁煙も引越しもイヤだから早く死ねと罵られ、家の中が下らないことで真っ二つに割れる。


 舞子には、身の置き場がなかった。



 地上に上がり、川沿いの道に戻る。

 川の対岸には、小学校が見えた。

 東から順に小学校、一車線道路、川、公園、二車線道路、歩道、民家や個人商店が並ぶ。

 北から南へ流れる川に沿って、道と公園が作られた。


 川が轟々と音を立てる。

 見るまでもなく、茶色く激しい濁流だろう。

 教室の窓からは、川がよく見える。この辺りで降らなくても、山で降ればすぐに増水し、様々な物を押し流して茶色く濁る。

 ずっと昔に大きな洪水があって、役所が対策したから余程のことがない限り溢れないと社会科の「私たちのまち」の授業で習った。


 それでも、休み時間のほんの十五分ばかりで、自分の背丈を越す深さになる川を見ると不安になった。

 護岸には、ペンキで大きな定規が描かれ、水位の危険度を示す。

 毎年、冬は渇水し、水は申し訳程度にしか流れない。

 少し雨が降れば、すぐに五十センチ、一メートル。やや強い雨なら、二メートルまであっという間だ。

 護岸の定規は四メートルまである。護岸本体はその上にまだ少し続く。

 歩道からでは、川の流れは見えなかった。



 舞子は、ゆるやかな坂道を登りながら、学校のことを考える。

 昼間行きたくても、こんな体調では行けない。

 発作が落ち着いても、睡眠不足で寝てしまう。


 親は昼過ぎ、篠原病院へ行く時には、いつも、わざわざ橋を渡って小学校沿いの歩道を歩かせた。

 それが休み時間にあたると、校庭で遊んでいる子に見咎められ、「あ! サボりだ!」「あいつ、学校サボってあんなとこ歩いてる!」と囃し立てられる。

 登校すると「元気なクセにサボってる」といじめられた。


 学校でいじめられるから、篠原病院に行く道を変えて欲しいと頼んでも、母は承知しなった。

「お前がビクビクおどおどして、コソコソするから、いじめられるの!もっと堂々としなさい!」


 家では殴られ、通院の際には手首を掴み、同じ道を引き廻しのように歩かされた。

 我が子を他所の子にいじめさせる為にわざと晒し者にするのだとしか思えないが、母は常人では到底、思いつかない謎の理論を振りかざし、我が子を責めた。


 そもそも、自宅から篠原病院までは、地下道を出て川の西岸沿いの道をまっすぐ行って、東西に細長い公園の角を西へ曲がる。

 小学校は、川の東岸にある。

 母は我が子が苦痛を訴え、泣いて頼んでも、煙草を吸うことも学校の傍を歩かせ、晒し者にすることも止めなかった。

 幼い娘が泣けば泣く程、何故いじめられるのか理路整然と説明する程「子供の癖に可愛げがない」と罵り、頑なになった。



 舞子は、母の身体に大きな火傷の痕があり、それを気に病むことを知っている。

 火傷の理由は知らない。

 きっと母は子供の頃、それをネタにいじめられたのだろう。

 いじめの手段は、服をめくって火傷の痕を晒し、殊更に気味悪がったり、嗤ったりだろうと舞子は想像した。

 その鬱憤を、自分の子供で晴らすのだろう。


 いじめっこに仕返しする度胸がないから、大人になってから、自分より弱い子供をいじめるのだ。

 諺に「江戸の敵を長崎で討つ」と言うモノがあると知ってから、舞子はそう考えて自分を納得させた。

 理不尽であっても、一応の筋道が立つ。感情的な理由でもなければ、母の頭が本格的におかしいと言うことになってしまう。



 今、住んでいるマンションは、父が勤務する運送会社の社宅だ。

 一階は半分がトラックの車庫で、もう半分は会社の事務所で通勤時間がない。


 遠方への引越しや、物資の輸送で夜勤も多い。

 行き先によって帰社がまちまちで、常に大型トラックの出入りがある。夜間は高速代が安くなるので、出払うことが多かった。


 父が引越さないのは、仕事の為だ。

 引越しの話をすると「誰に養われてると思てんだ!」と怒鳴られ、それで終わった。


 病気になったのは、誰のせいでもない。

 公害。

 工場もトラックも、世の中には必要だ。

 現に舞子自身も工場で作られた物を使い、トラックで運ばれた物を使い、トラックで運ばれた食品を口へ入れる。


 ……子供の命ひとつ、世間にとっては、割とどうでもいいんだろうなぁ。


 公共の利益と個人の不利益を天秤にかけ、個人の損失にある程度の補償をすることで、社会のバランスを保つ。

 健康を損なわれ、命を脅かされた個人が幾許かの補償を得て、ものわかりのいい態度を示したところで、空気そのものがキレイになる訳ではない。


 交通規制やガソリンの高度精製、ドラム缶での野焼きの禁止、工場の煙突にフィルタを付けるなど、排出側で対策をしなければならないが、費用の問題で、そこはなかなか進まない。

 死ぬ前に空気がキレイになるのか、この先もっと汚れるのか。


 それでも、世の中が色々便利になったから、もう、大昔みたいな生活はできない。

 酒蔵の資料館で見た酒造りの仕事ひとつとっても、大昔よりずっと便利になった。


 歩きながら、そんなことを考える。

 それどころか、親からしても、割とどうでもいい……いや、寧ろ、早く居なくなれと思われている節があった。

 舞子自身も、この身体で「長生きしたいか」と聞かれても、よくわからないと答えるだろう。

 割とどうでもいいのかもしれない。


 ……だから、こんな夜中……もう明け方? 全然知らない爺ちゃんと一緒に歩けるんだろうなぁ。


 道はゆるやかな登り坂だが、喘鳴(ぜんめい)は胸の奥で(かす)かに響くだけで、何故か今夜は息切れがしなかった。


 いつもなら、坂道を登ることはしない。

 国道も越えない。

 廃線跡の公園か、紙芝居が来る南町公園へ行って、喘鳴が鎮まるのを待つだけだ。


 廃線跡に遊具はないが、天気のいい午後には、ギターのおじさんが居る時がある。

 舞子は、ギターのおじさんに会えるのが楽しみだった。歌もギターも上手いのにプロの歌手ではないのが不思議だ。



 川の東は世界的な大企業、西側は小さな町工場。

 深夜徘徊では、町工場側の区画……夏に盆踊りをする広場へ行くこともある。


 広場は、スクラップ置き場だ。つぶれた乗用車なんかが積み上がる。

 お盆になると、それを端に寄せて、真ん中で櫓を組んで、町内会の人が太鼓を叩く。出店は近所の店のアイスクリンのみ。

 夕方に盆踊りが始まると、機械油でドロドロのツナギで、工員さんも踊りの輪に加わる。取引先の都合で、盆休みをずらして取る工場が多かった。


 浴衣の子とツナギの大人。

 普通の洋服の大人と子供。

 浴衣や作務衣のお年寄り。


 今、隣を歩くこの老人が混ざっても、何の違和感もない。

 最初から混沌とした踊りの輪だった。



 今はもう、秋も終わると言うのに何の脈絡もなく、そんなことを思い出す。

 走馬灯と言うものは、こう言うモノなのかも知れない。


 老人の歩調に合わせるのか、老人が舞子に合わせるのか。

 信号が赤に変わったので、二人は同時に足を止めた。

「ここでよい。ありがとう」

「え? こんなとこでいいの?」

 老人は、東西に細長い公園の楠の下へ入った。この公園に沿って西へ行けば、篠原病院だ。


「うむ。ありがとう」

 老人は楠の下で礼を言う。

 寒くなって来たので、舞子はそれ以上言わず、引き返した。

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