08.不審な老人
今夜は、厚い雨雲に遮られ、天が低い。
低い天を高速道路が更に低くしている。
喫茶店の庇の下に、老人が立っていた。
酒蔵の人形に見えたが、足に天狗のような下駄を履いているので、違う。ずっと雨なのに、何故、傘も持たずにこんな所に居るのか訳がわからなかった。
喫茶店の店長は今、外国まで豆の買付けに行って月末まで戻らない。
国道の信号が赤になって、トラックが水溜まりを轢く音が途切れた。
「傘に入れてくれんか? 行き先が一緒のとこまででいいから」
舞子は立ち止まり、呼吸を整えてから声を発した。急いで喋ると、発声に必要な呼吸が確保できず、咳込んで発作に繋がる。
「……行き先は、別にないんで……これ、持って行って下さい」
「それは、杖だろう」
もう一本の傘を差し出すと、老人は首を横に振った。
「どこ行くんですか?」
「あっち」
老人は、山側を指差した。
舞子は軒下へ近付き、老人を傘へ入れた。
そのままゆっくり、老人が示す方へ向かう。
雨なので横断歩道は渡らず、地下道を通って国道を越える。白く塗られた地下道は乾いていたが、溝には溢れそうな量の水が、どこかへ向かって流れた。
他に人は居ない。
どう見ても不審者だが、それはお互い様だった。
舞子の親は、小学三年生の娘が深夜徘徊しても何も言わない。
それどころか、咳の音がうるさいだの、息の音がうるさいだの言って、しばらく公園にでも行け、と追い出される。
確かに、深夜の公園に行くと、咳は治まり、呼吸も少し楽になった。
公園には煙草の煙がこもっていないからだ。
深夜なら、町工場は閉まる。
二十四時間稼働するのは、世界的な大企業の工場と、高速道路と国道だけだ。
地下道には、真上を走る国道と高速道路の音が響く。遠吠えのように長く高く、空気を引きずる音だ。
舞子には、これが何の音かわからない。
タイヤがアスファルトをこする音か、車体が空を切る音か、高速で通り過ぎるエンジンの音が引っ張られるのか……
ただ、国道や高速道路が音源だとしかわからない。
眠れない夜、布団の中で聞いていると、だんだん不安になる。
車の遠吠え。
昼の騒音が休止しても、この音だけは、ずっと低く高く遠くまで、街を縫うように広がった。
それにしても、見たことのない老人だ。
近所の住人を全員把握できる程、この街の人口は少なくない。
いや、過去に会っても、すっかり忘れてしまったのかもしれない。そんな、特徴のない平凡な老人だ。
天狗の下駄の圧倒的な存在感に足を通した老人の存在が負けている気がした。
……悪い人じゃなさそうだけど……何だろ? 何か、どっか、違う?
舞子には、老人が、異常者や不審者の範疇には入らない気がした。
犯罪の匂いはしない。
だが、言葉では言い表せないが、何か、人とは違う。「ヒト」とは違う何か。
……ちゃんと下駄履いてるし、足はあるから、幽霊じゃない……よね?
地下道を抜ける頃には、呼吸が大分、楽になってきた。
肺の空気が入れ換わったのだろう。
舞子の両親は、我が子が発作を起こした時には、慌てふためき、救急車を呼ぶが、煙草はやめてくれない。
どんなに頼んでも、やめないばかりか、母には「これしか楽しみがないのに、お前の都合で、親の楽しみ取り上げる気ッ?」と殴られた。
それ以来、二人には何も言わなくなった。
二人はその代り、高価な空気清浄機や、体にいいと言う健康食品や、栄養ドリンクのような物を買って来る。その度に「お前のせいで余分なカネが掛かる」と、病気の我が子を責めた。
本人は一度も、空気清浄機や健康食品の類をねだったことがない。
頼んでもいない物を買ってきては「喜ばない」「不足ばかり言う」「可愛げのないガキ」と罵られた。