07.病に慣れる
天気が悪くなってくると、上野舞子の具合も悪くなる。
季節外れの冷たい雨は、もう何日も降り続いていた。
天気が「雨」で安定したので、降り出す前夜よりは、マシになった。それでも、息苦しくて眠れない。
こんな体調では、どうせ朝になっても学校には行けない。
無理に登校しても、寝てしまうか、発作を起こして皆に迷惑を掛けるだけだ。
父は夜勤、母は推理物の二時間ドラマが終わると、さっさと寝てしまった。部屋には煙草の煙がまだ残る。
軽い喘鳴はあるが、歩けない程ではない。
医療手帳をポケットにコンビニ袋にポケットティッシュをふたつ入れ、そっと家を抜けだした。
傘をさしてもう一本の傘を杖にして、川沿いの道を歩く。
国道か、その真上を走る高速道路か。救急車のサイレンが通り過ぎて行く。
上野舞子も、深夜や早朝に喘息の発作を起こすと救急搬送される。
入院する程の重症ではないから、処置を受ければすぐに回復する。それが間に合わなければ、命が危うい。中途半端な患者だ。
舞子は、中央市民病院の待合室で夜を明かしたことを思い出した。
親が財布を忘れて、帰りのタクシー代がなかった。
公害病の医療費は、「公害健康被害の補償等に関する法律」に基づき、全額公費負担になる。医療手帳さえ忘れなければ、窓口での自己負担はない。
上野舞子は、普通の小学三年生の女の子が知らないことを知っていた。
みんなが、社会科の教科書で習うことを身を以って経験しているのだ。
あの夜、母のコートのポケットには、医療手帳と家の鍵と煙草入れしかなかった。
処置を受けて回復し、当直医に「じゃ、帰って」と言われ、救急外来を出た。
病院のすぐ目の前には駅がある。
終電後の駅は、灯を落として夜に沈む。緑色の非常灯だけが、ぼんやり点り、真っ暗よりも暗く見えた。
始発まで、まだ三時間以上ある。
その日も、父は夜勤だった。
母は煙草を吸いに外へ出た。
非常口の緑ランプに照らされた待合室には、家族の処置や手術を待つ人々が、暗い顔で座る。
舞子は、パジャマに運動靴と言うちぐはぐな恰好で、固いソファに座っていた。ロビーの暖房が切ってあり、ゆっくり息を吐くと、白く曇って消えた。
遠くから、泣き叫ぶようなサイレンが近付いてくる。
救急車が次々と入って来る。
廊下の奥、救急外来にだけ灯が点り、忙しなく行き交う影が、白い壁に映る。
舞子は、劇薬の投与を受ければ、すぐに回復する。気道挿管も痰の吸引もなく、呼吸できるようになる。
交通事故、熱湯による全身火傷、心臓発作、脳卒中、刃物で刺された……事故、病気、事件。様々な事情の患者が搬送されて来る。
救急隊員と当直医、ナース、家族、警察、本人。様々な人の声が、待合のロビーにまで漏れ聞こえる。
歯科と耳鼻科を除く全ての診療科目に、対応「可」のランプが灯るが、救急外来の医師は一人しか居ない。
他は皆、手術室へ行ってしまった。
小学生の舞子は、入院しなくていい自分がここに居るのは、酷く場違いな気がした。
……この人、助かるのかな?
交通事故の患者が、警察官に付き添われて運ばれて行くのが見えた。
ロビーで待つ人々は、ソファに浅く腰かけて頭を抱え、壁にもたれて床を見詰め、或いは、ガラスに額を押し当て、天を見上げて待つ。
祈りも不安も、絶望に近い場所に在る。
遠い夜明け。
始発まで、まだ時間がある。
母の煙草入れには、千円札が一枚ある。母は煙草を三本吸って、寒い寒いと言いながら、ロビーに戻って来た。
舞子は、冷えてヤニ臭くなった母から離れる為、外へ出た。
母には、始発を寝て待つように言われたが、あんな所で寝られる筈もない。
リノリウムの床はしんしんと底冷えし、固くて冷たいソファで、毛布もなしに、パジャマ一枚で横になれと言う方が無茶だ。
パジャマの他には何もない。
靴も、救急隊員に「お母さん、靴! 靴がないと帰りに困りますよ」と言われ、やっと持ちだしたのだ。
代わりに財布を忘れた。
舞子は、中央市民病院の暗い玄関を出て、天を仰いだ。
あの夜、吐く息が昇る先に白々と輝く天狼星が見えた。
【注】
現在は「公害健康被害の補償等に関する法律」に基づく大気汚染関係の公害病患者の新規認定はありません。
この話の時代は昭和です。