05.貧を諦める
父は忙しく、帰宅はいつも午前様。出張も多く、何か月も顔を合わせない。
母はパートと家事に追われる。その上、父方の祖母の世話もあった。すぐ近くの篠原病院に入院するが、着替えなどは家族がする決まりだ。
介添えさんを雇うカネはなかった。
新在家少年は、小学三年生の妹、摩耶と一緒に掃除などの家事を手伝った。それでも、母の負担は相当なものだ。
母方の祖父母は既になく、母は一人っ子だ。
父には兄弟がいるが、いずれも遠方に住む。
季節外れの雨が、もう何日も降り続く。
この地方では例年、晩秋から春先にかけて、雨も雪も少なくなる。
いつも通りなら連日、天気予報で異常乾燥注意報が発令され、火の取扱いには充分注意するよう、気象予報士が呼び掛けるところだ。
土砂降りの雨の中を運河に沿って歩く。
傘は重く、新在家少年は慎重に足を進めた。
運河の水がすぐ近くまで迫り、工場の照明にギラギラ輝く。
運河の周囲は工場だ。山側は、酒造会社の工場と社宅と倉庫。運河に沿って港湾幹線道路が東西に走り、運河と道路の浜側には、製鋼所の巨大なプラントが聳える。その向こうは、海だ。
北から南へと流れる川を渡り、自宅へ向かう。
橋の下で、濁流が轟々と音を立てた。
この天上川は、過去に何度も氾濫し、水害を起こした……と、社会の授業で習った。役所が河床掘削や護岸整備、築堤などの河川改修対策を重ね、近年は大きな水害がない。
急流が運んだ土砂が何万年も掛けて堆積し、川の標高が周囲より高い。
この辺りの道を東西方向に歩くと、川に近付くにつれ、上り坂になる。川を頂点とした坂を下ると、民家や町工場が建ち並ぶ区画へ入る。
かつては河床が家々の屋根より高かった。「天上川」と称される所以である。
数々の水害を教訓にその天上川の河床を掘削し、現在は民家の床と同じ標高まで掘り下げてある。
護岸はコンクリートで補強し、堤もちょっとやそっとでは流れなくなった。
煙突の赤色灯が、瞬きのように明滅を繰り返す。水溜まりに映る赤い光が雨に滲み、更にそのすぐ下を流れる川に映る。
乱れた川面に浮かぶ赤い目玉は、不気味だった。
橋の端に立つ街灯が、川面を照らす。色々な物が茶色の濁流に押し流されてゆく。その先の海は、ずっと昔に川が運んだ土砂が、世界有数と言われる天然の良港を形成する。
橋を渡り、少し歩くと、いつも妹の摩耶と遊ぶ公園の入口へ出る。
街灯に照らされ、誰かが街路樹の下で雨宿りするのが見えた。夜明け前、何日も続いた雨の中、傘を持たずにいること自体が不可解だ。
新在家少年は幽霊かと思い、傘を持つ掌にじっとり汗が滲んだ。
それでも、この道を通って帰るしかない。
相手の動きを見極めようと、歩調を落として観察する。ちゃんと足のある老人だ。しかもその足は、天狗御用達の「一本歯の高下駄」を履く。
思わず顔を見た。
赤くない。鼻も普通。
ただの老人は、新在家少年と目が合うと、声を発した。
「傘に入れてくれんか? 行き先が一緒のとこまででいいから」
老人は、中学生がこんな時間に出歩くことを咎めなかった。ヤニの染みついた服にも、何も言わない。
新在家少年は小さく頷き、老人を傘に入れた。
老人は高下駄を履いてやっと、新在家少年と同じ背丈だ。
「僕、あっちだけど、爺ちゃんは?」
山側……川上の方角を指差して聞く。老人は、にこにこ笑って頷いた。
新在家少年は老人の方へ傘を傾け、歩きだした。
老人が何も言わないので、新在家少年も無言で歩く。
いつも、なるべくゆっくり歩いて、煙草の臭いを飛ばして帰る。今日は風があって、いつもより早く消せそうだ。
共働きで、収入的には全く貧乏じゃない筈なのに生活は苦しい。
母の口癖は「忙しい」と「カネがない」だ。
北町は、医療費が嵩むとは言え、正社員の給料が丸々消えることを訝った。
「ホントに、父ちゃん正社員で、家にビタ一文、残らないのか?」
祖父の介護で、通いのお手伝いさんを雇うのが大きいのだろうと新在家少年は思った。
母一人で、祖父母両方の世話は難しい。
祖父は卒中の後遺症で左半身に軽い麻痺がある。風呂、トイレ、食事、着替え、買い物などは、時間は掛かるが一人でもできる。料理や掃除、洗濯などができない。
一緒に住めば一緒にできるから、祖父母も母も楽だと思うが、大人たちは何故かそうしない。
何か子供にはわからない深いワケがあるのだろう。
新在家少年は何も言わずにいた。
【注】
異常乾燥注意報……昭和の時代の名称です。現在は「乾燥注意報」です。