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傘渡り  作者: 髙津 央


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31.己で命購う

 梅の爽やかな香気で母の顔を思い出した。

 寒い夜、母が好んで飲んだ梅昆布茶。


 火事の後、岩屋が淹れることはなかった。

 二十数年ぶりの香りに胸がいっぱいになる。


 夕飯の後、何をするでもなく梅昆布茶で温まり、他愛ない話をした。



 岩屋には兄と姉がいたが、空襲で亡くなった。岩屋は出征したが、戦闘機が足りず、基地で待機する内に終戦を迎えた。



 父方の身内は、岩屋が産まれる前に父と仲違いしたらしく、全く音信不通で、安否は不明だ。

 母方の身内は、岩屋が知る限り田舎で存命だが、母が亡くなってから縁遠くなってしまった。


 戦後三十年以上経った今も、土地の権利関係で揉めていて、市の区画整理事業が終わらない。

 それでも、街は平和だった。

 闇市を吸収した商店街は大いに栄えた。


 この平和な世の中で、兄姉と同じに焼け死ぬなどと誰が思ったろう。



 目を閉じると、熱い滴が頬を伝った。



 僧は何も言わない。

 岩屋は声もなく涙を流した。


 ……葬式でも、涙なんか出なかったのに……何で今頃……


 (しずく)()()なく頬を伝い、顎を離れ、正座した膝の上へ落ちた。

 梅昆布茶が冷める頃、ようやく止まった。熱が移った(てのひら)が少し汗ばんだ。


 湯呑に唇を付け、口を湿す。

 目を開けると、僧は小さく頷き、饅頭を勧めた。

 岩屋は(かす)かに頷き返し、湯呑を置いた。合掌一礼し、饅頭を手に取る。餡の甘みをゆっくり飲み下し、梅昆布茶の残りを飲み干した。


 体の奥でポッと小さな灯が(とも)ったように強張った体が内からほぐれてゆく。知らず、大きな息が漏れ、肩の力も抜けた。


 続いて、風呂へ案内される。

 あまりしつこく断るのも却って失礼かと思い直し、厚意に甘えることにした。


 ……俺、そんな可哀想な奴に見えるのか?


 身を清め、湯船で体をじっくり温める。二十数年ぶりに寮の共同風呂でも、銭湯でもない「一人の湯」に浸かった。

 空腹が紛れ、体がぬくもると、疲れが押し寄せてきた。

 こんなところで寝て溺れたら、寺に迷惑が掛かる。その一心で眠気を(こら)えた。



「お着替え、置いておきます」

 その声に礼を言い、岩屋は風呂を上がった。

 作務衣(さむえ)がきちんと畳んで籠に入れてある。


 その下の下着類は、岩屋の物だ。火鉢で乾かしたのか、微()かすかに煙の匂いがする。

 冬物の衣類は、すぐに乾かないからだろう。有難く作務衣を拝借する。



 廊下で待つ僧に促され、ついて行く。


 真新しい板張りの廊下を渡り、燈明に照らされた本堂へ案内された。

 本尊の前で老僧と数人の僧が勤行(ごんぎょう)する。案内の僧は、手真似で岩屋を座布団に座らせると、自分は僧たちの端に座り、勤行に加わった。


 岩屋に経は読めないが、瞑目(めいもく)して合掌した。


 経を読む声が本堂に響くが、静かだ。

 寝静まった夜よりも平らかな心が、そこに在った。



 岩屋は、あの不思議な老人を思い出した。


 もうずっと以前に別れた気がするが、まだ、ほんの数時間しか経たない。

 顔は思い出せないが、あの高下駄とずっと追いかけて登った背中が瞼の奥に焼き付いた。


 天狗かと思ったが、龍だった。

 いずれにせよ、人外のモノだ。


 だが、悪いモノではない。

 岩屋は畏れもなく、ただ、そう言うモノとして受け容れていた。


 あの恐ろしい雨を止ませたのは、龍だろう。


 雨乞いで雨を降らせるものだと思っていたが、止ませることもできるとは、知らなかった。


 乞われて降らせるなら、その逆ができてもおかしくない。

 当たり前のことを今まで気付かなかった自分に少し呆れた。

 人は見かけによらぬと言うが、人外もそうとは思わなかった。



 勤行(ごんぎょう)が終わると、僧たちは岩屋を一角に含め、車座になった。


 御本尊を背にした住職が、対面に座す岩屋に問うた。

「あの龍に傘を差し掛け、ここへ参られたとお聞きしました。あなたは大変、徳の高いお方とお見受けしましたが、これから、如何なさるおつもりですか?」

「徳なんか高くない。博打(ばくち)でスって借金で首が回らなくなって、死のうと思ってたんだ。それで」


 妙な老人と出会い、ここへ来るまでのことを語った。


「あなたが居なくなれば、悲しむお方も居られましょう」

「いや、居らん。身内は戦争と戦後の火事で焼け死んだ。俺だけ夜勤で、生き残ってしまったんだ」


 梅昆布茶を前にした時の動揺はなかった。

 住職に促され、訥々(とつとつ)と詳しい事情を語る。


 誰も余計な口を挟まず、岩屋の言葉に聞き入った。


「捨ててこそ浮かぶ瀬もあると申します。宜しければ、ここに留まり、お身内の菩提(ぼだい)を弔われては如何でしょう?」

 岩屋は断る口実を思いつかず、さりとてもう一度、死ぬ用意をする気にもなれなかった。


 ……一遍(いっぺん)死んだも同然だ。ここでしばらく坊主の真似事をしてもいいだろう。


 風呂と洗濯と茶の礼もしたい。

 岩屋はひとまず、その費用の返済として、ここで寺男として勤めると決めた。

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