03.ギタリスト
繁華街の客は、皆が皆、いい酔い方をする訳ではない。
大石が「仕事」で弾く時、酔客から飛んでくるのは大抵、ヤジだ。罵声を浴びせられ、時に絡まれ、殴られることさえあった。
音楽通ぶって、議論を吹っ掛ける酔客は、常に上から目線だ。自分の知識が上であることを誇示したいだけなので、大石は何も知らないフリでやり過ごした。
稀にカラオケで上機嫌になった客から、チップを渡されることはあるが、割合からしてみると、珍事に属する。
客が途切れた時、ママがポツリと言った。
「あんなの気にしちゃダメよ」
大石は弦を調律する手を止め、カウンターに顔を向けた。
ママは、淋しそうな笑みを返した。
「おっさんたちはね、あんたみたいな、楽器できる若いコが、羨ましくて言うのよ」
このスナックの客は、大部分が世界的に名の通る大企業の正社員だ。
倒産しそうもない超一流企業の巨大な工場で働き、安定した収入を得て、毎年夏と冬のボーナスが何カ月分出るか、地元の新聞にも載る。
煤煙で多くの公害病患者を生みだし、連日、新聞や雑誌、テレビのニュースを賑せたこともある。
その訴訟も、随分前に和解が成立し、今は静かだ。
身内を亡くした人も、社員を表立って「人殺し」と罵ることはなくなった。
残ったのは、病人と療養費と諦めだ。
会社の業績は右肩上がり、療養費を支払っても、経営には大した打撃にならなかったようだ。
彼らの仕事は順風満帆の筈だ。
それで何故、三十代半ばの流しに、酒の勢いを借りてまで、罵声を浴びせる必要があるのか。
大石は小さなバーやスナックを渡り歩き、流行歌の伴奏をするだけでは生活できず、コンビニでも、アルバイトして暮す。
ここのママは気前よく払ってくれるし、たまにチップをくれるのも、この店の客だけだ。罵声を浴びせる客は他所より少ない。
「お酒飲んだ時に本性が出るのよ」
大石の顔を見て、ママはカウンターに肘をつき、身を乗り出した。
この店は、外は煤煙と排気ガスで灰色、中はヤニで茶色。壁紙も照明も煙草のヤニで茶色く煤ける。この街に真っ白なものはない。
「あんなコト言うおっさんはね、おカネや地位がいくらあったって、何でもかんでも羨ましがって、箸の転んだことにでも、ケチ付けて回んのよ」
ママの酒焼けした声だけが、低く流れる。
「ケチ付けてボロカスに言って、それで、その人の上に立ったつもりでいるのよ」
大石は黙って頷き、調律を再開する。
大石の父がそうだった。
「ド下手の中坊が、ちょっと褒められたくらいで調子に乗んな!」
中学一年の秋、県内のギターコンクールに初めて出場した。
七位と言う結果が、よかったのか悪かったのかわからない。
「一番にもなれん分際で、えぇカッコすんな!」
指を折られそうになり、必死に庇った。
床に蹲り、亀のように丸まって手指を庇うだけで精一杯。校則を守って坊主頭だったので、髪を掴んで顔を引き上げられずに済んだ。
その代り、体重を乗せた蹴りが、何度も何度も頭と背中に浴びせられる。口の中に錆び臭い味が広がる。
散々蹴られ、死ねとまで罵られても、手指だけは守った。
一時間余り耐えて、嵐が通り過ぎるのを待った。
父は荒い息を吐き、何も言わず卓袱台に座って、手酌で酒を煽った。
母は何も言わず、祖母は泣いた。
翌朝、父が出勤した後、母がぽつりと言った。
「お父さんね、あんたの将来のこと、すごく心配してくれてるの」
だから、恨むなと言いたげだった。
食器を洗いながら、こちらに背を向けて吐かれた言葉に「割れ鍋に綴じ蓋」という諺の意味を知った。
現在の息子に殺す勢いで暴力を振るった結果、本当に死んだら、将来も何もなくなってしまう。指をへし折るだけで、命までは取らないにしても、治るまでは生活や勉強に支障が出る。後遺症が残れば、将来に影を落とす。
この夫婦には、それがわからないらしい。
血尿が出たことを祖母に告げると、黙って病院へ連れて行ってくれた。
背中は痣だらけ。口の中が切れ、冷たい水がしみた。顔は内出血で腫れ上がり、瞼も開けにくい。肋骨にはヒビが入っていた。
念の為、入院することになったが、両親は見舞いに来なかった。二日で退院したが、両親は一言もなく、何事もなかったかのように、いつも通りに暮した。
大石は大学進学の為、郷里の島を出た。
年末年始以外は、忙しいからと帰省しなかった。
就職した翌年に祖母が亡くなった。葬儀後は一度も実家に足を向けなかった。
故郷の言葉は、忘れることにした。大学と仕事で暮すこの街の言葉を覚えた。
あんなのが舅姑になれば、嫁がどんなにいびられるか、知れたものではない。
大石は将来を考えると、恋愛についても慎重にならざるを得なかった。
同窓生や同僚の結婚式に出席すれば、式場でギターを借り、餞に一曲弾いた。
新郎新婦の幸せに輝く顔や、感極まって涙ぐむ両家の親の姿を見る度、ギターをやってよかったとしみじみと思った。スピーチのBGMを奏でて祝いに花を添え、後日送られた礼状は、大石の宝物だ。
「あぁ言うのをね、負け犬の遠吠えって言うの。あんたみたいに大人しいコにしか言えないのよ。しかもヘタレだから、お酒飲まなきゃ言えないの。ヘタレのおっさんの言うことなんか、気にしちゃダメよ」
ママの嗄れ声で、ギターから顔を上げる。
酔客相手に罵られながら弦を爪弾き、幾許かの金をもらうより、無料でも、この公園で子供らの為に弾く方が幸せだった。
幸薄そうな子供らが、大石のギターに瞳を輝かせ、一緒に歌う。その一瞬の為に指を守ってよかったと思えた。
風向きが変わった。
大石は老人が濡れないよう、傘を傾けた。
老人は一本歯の下駄とは思えぬ程、しっかりした足取りで大石の傘に納まる。
この細長い公園の場所には元々、貨物列車の線路があった。廃線跡を市が買取り、公園として整備したのだ。
フェンスで囲まれた細長い区画は、周辺住民が花壇を手入れし、四季折々の花を咲かせるが、どこか物寂しく、殺風景な印象を拭い切れなかった。
公園の東端で、老人が足を止めた。
「ここでよい。ありがとう」
「え? こんなとこでいいの?」
「うむ。ありがとう」
老人は枝葉を茂らせる楠の下で、何度も礼を言った。
大石は少し迷ったが、見ず知らずの老人に部屋までついてこられても困るので、そこで別れた。