12.時を費やす
改札を抜けると、妙な老人がいた。服装は普通に地味だが、天狗が履くような一本歯の下駄を履き、その鼻緒は注連縄に似る。板の中央から伸びる一本歯は、十センチ以上はあるようだ。
畑原は目が釘付けになった。
老人は杖も傘も持たず、真っ直ぐに立つ。
……バランス、すげー……
夢でも見ているのかと思った。あるいは、まだ酔いが醒めないのか。
それ程、現実感のない人物だった。
現実感がないと言えば、大石先輩。
前の会社が潰れてから、もう二度と会うことはないだろうと思った。付合いの薄い人だ。
……俺もだけど、なんとなく覚えてただけだ。
忘年会の隠し芸で、大石先輩はギターを弾いた。
弾き終えた時に部長から問われ、昔、コンクールに出たことがあると遠慮がちに答え、成績は言葉を濁した。
……まさか、まさか、テレビで見ると思わなかった。
会社ではパッとしない人物で、潰れた時、畑原の目には再就職が絶望的に映り、気の毒に思った。
なのに、テレビの「のど自慢」で鐘を連打され、審査員に絶賛された。職業を聞かれ、「コンビニ店員です」と俯きがちに答えた。
……あ、やっぱ再就職、会社はムリで、フリーターなんだなって思った。でも、すげー。ギターすげー。
弾き語りを始めた時、会場の空気が変わった。
だらだらテレビを見る畑原も、思わず正座した。
……そのくらい、ギターすごかった。何であの人、プロになれないんだろう?
ほんの数秒でそれだけ思い、改めて自販機の傍に立つ老人を見た。
今日は雨で電車が遅れると思い、少し早く家を出た。
電車の遅延証明は、今の会社では紙屑だ。理由の如何を問わず、遅刻すると給料を減らされる。
早出、残業に賃金は出ない。
残業はそれなりにあるが、仕事の中身はない。畑原自身の作業が終わっても、上司や先輩がまだなら、帰らせてもらえない。
所謂、付合い残業と言う奴だ。
仕事をしていないから、賃金を払う必要はないと言うのが社長の言い分だった。ならば、帰宅させてもいいようなものだが、それは許されなかった。
畑原は伝票を何度も点検し、書類棚の整理、机の掃除など、無駄な作業で時間を潰した。
今朝、電車は定刻通りに来た。
喫茶店で時間潰しできる程ではない。
……どうしようかなぁ? ここで缶コーヒーでも飲んで、それから行こうかな?
「傘に入れてくれんか? 行き先が一緒のとこまででいいから」
他の乗客が去り、人の減った高架下で老人に声を掛けられた。
……あれっ? ずーっと雨なのに何で傘持ってないんだ?
畑原はゆっくり老人に近付き、応えた。
「俺はいいけど、爺ちゃん、どこまで?」
老人はにこにこして山側を指差した。
畑原の会社もその方角だ。
「途中まででいいの? その先どうすんの?」
「傘に入れてくれんか? 行き先が一緒のとこまででいいから」
「あぁ、いいよいいよ。俺はいいけど、爺ちゃん、どこまで行くの?」
畑原は、近くなら、目的地まで送って行こうと思った。
こんな冷たい雨の中、途中で放り出すのは何となく寝覚めが悪い。それに丁度いい時間潰しになりそうだ。
だが、老人は相変わらずにこにこ笑い、山側を指差すだけだ。
あまり話を堂々巡りさせて、時間を空費する訳にもゆかない。
畑原は傘を広げ、老人と並んで歩き始めた。
私鉄の高架下を出ると、ひやりとした風が頬を撫でた。吐く息が氷雨に白く曇り、風に消える。
老人はコートも着ていなかった。地味な洋服だけでも寒がる様子はない。いや、それどころか足元は素足に下駄だ。
「爺ちゃん、それ、いい下駄だな。どこで買ったの?」
「うむ。ありがとう」
会話が咬み合っているようでいて、どこかズレている。
……ちょっとボケてんのか?
「爺ちゃん、足、寒くない?」
「うむ。別条ない」
「そりゃよかった。ずーっと雨で、寒いし、爺ちゃんも風邪引かないように、気を付けてな」
「うむ。大事ない」
老人との当たり障りのない会話に、少し気持ちがほぐれた。




