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傘渡り  作者: 髙津 央


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12/54

12.時を費やす

 改札を抜けると、妙な老人がいた。服装は普通に地味だが、天狗が履くような一本歯の下駄を履き、その鼻緒は注連縄(しめなわ)に似る。板の中央から伸びる一本歯は、十センチ以上はあるようだ。

 畑原(はたはら)は目が釘付けになった。

 老人は杖も傘も持たず、真っ直ぐに立つ。


 ……バランス、すげー……


 夢でも見ているのかと思った。あるいは、まだ酔いが醒めないのか。

 それ程、現実感のない人物だった。

 現実感がないと言えば、大石先輩。

 前の会社が潰れてから、もう二度と会うことはないだろうと思った。付合いの薄い人だ。


 ……俺もだけど、なんとなく覚えてただけだ。


 忘年会の隠し芸で、大石先輩はギターを弾いた。

 弾き終えた時に部長から問われ、昔、コンクールに出たことがあると遠慮がちに答え、成績は言葉を濁した。


 ……まさか、まさか、テレビで見ると思わなかった。


 会社ではパッとしない人物で、潰れた時、畑原(はたはら)の目には再就職が絶望的に映り、気の毒に思った。

 なのに、テレビの「のど自慢」で鐘を連打され、審査員に絶賛された。職業を聞かれ、「コンビニ店員です」と俯きがちに答えた。


 ……あ、やっぱ再就職、会社はムリで、フリーターなんだなって思った。でも、すげー。ギターすげー。


 弾き語りを始めた時、会場の空気が変わった。

 だらだらテレビを見る畑原(はたはら)も、思わず正座した。


 ……そのくらい、ギターすごかった。何であの人、プロになれないんだろう?


 ほんの数秒でそれだけ思い、改めて自販機の傍に立つ老人を見た。


 今日は雨で電車が遅れると思い、少し早く家を出た。

 電車の遅延証明は、今の会社では紙屑だ。理由の如何を問わず、遅刻すると給料を減らされる。

 早出、残業に賃金は出ない。


 残業はそれなりにあるが、仕事の中身はない。畑原自身の作業が終わっても、上司や先輩がまだなら、帰らせてもらえない。

 所謂、付合い残業と言う奴だ。

 仕事をしていないから、賃金を払う必要はないと言うのが社長の言い分だった。ならば、帰宅させてもいいようなものだが、それは許されなかった。

 畑原は伝票を何度も点検し、書類棚の整理、机の掃除など、無駄な作業で時間を潰した。

 今朝、電車は定刻通りに来た。

 喫茶店で時間潰しできる程ではない。


 ……どうしようかなぁ? ここで缶コーヒーでも飲んで、それから行こうかな?


「傘に入れてくれんか? 行き先が一緒のとこまででいいから」

 他の乗客が去り、人の減った高架下で老人に声を掛けられた。


 ……あれっ? ずーっと雨なのに何で傘持ってないんだ?


 畑原はゆっくり老人に近付き、応えた。

「俺はいいけど、爺ちゃん、どこまで?」

 老人はにこにこして山側を指差した。

 畑原の会社もその方角だ。

「途中まででいいの? その先どうすんの?」

「傘に入れてくれんか? 行き先が一緒のとこまででいいから」

「あぁ、いいよいいよ。俺はいいけど、爺ちゃん、どこまで行くの?」

 畑原は、近くなら、目的地まで送って行こうと思った。


 こんな冷たい雨の中、途中で放り出すのは何となく寝覚めが悪い。それに丁度いい時間潰しになりそうだ。

 だが、老人は相変わらずにこにこ笑い、山側を指差すだけだ。

 あまり話を堂々巡りさせて、時間を空費する訳にもゆかない。


 畑原(はたはら)は傘を広げ、老人と並んで歩き始めた。

 私鉄の高架下を出ると、ひやりとした風が頬を撫でた。吐く息が氷雨に白く曇り、風に消える。

 老人はコートも着ていなかった。地味な洋服だけでも寒がる様子はない。いや、それどころか足元は素足に下駄だ。

「爺ちゃん、それ、いい下駄だな。どこで買ったの?」

「うむ。ありがとう」

 会話が咬み合っているようでいて、どこかズレている。


 ……ちょっとボケてんのか?


「爺ちゃん、足、寒くない?」

「うむ。別条ない」

「そりゃよかった。ずーっと雨で、寒いし、爺ちゃんも風邪引かないように、気を付けてな」

「うむ。大事ない」

 老人との当たり障りのない会話に、少し気持ちがほぐれた。

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