11.介護者明暗
民家の樋から、雨水がじょぼじょぼ音を立てて流れ落ちる。
公園の西端に老人が一人、立っていた。
……徘徊か?
木の下で雨を避ける様子は、場所の見当識障害を起こしたようには見えなかった。幽霊かとも思う。
どこか存在感が希薄で、普通の人間とは違うような気がした。
長峰には、その感じを上手く言い表せなかった。
強いて言うなら「現実感がない」だ。
何日も降り続く雨の中、傘も持たず木の下で雨宿りする。
川沿いを南北に走る道には様々な店が建ち並ぶ。もっとしっかりした庇を借りた方が、濡れないだろう。
老人は、葉の隙間から滴る雨に濡れている。
服装は地味で、病院に来る老人たちが着ている物と大差ない。だが、足元は一本歯の高下駄だ。そこだけが、現実離れしていた。
長峰は、現実にこんな下駄を作る職人がいることに少し驚いた。子供の頃、絵本の天狗で見たきりだ。
「どうされました?」
「傘に入れてくれんか? 行き先が一緒のとこまででいいから」
……何日も前からずっと雨なのに、傘なしでどこから来たんだ?
ともかく行き先を聞き出し、場合によっては、然るべき所へ届けねばなるまい。
「駅まで行きますけど、お爺さん、どちらまで?」
「そこまででよい」
……駅で待ち合わせしてるのか? 電車でどこかへ行くのか? こんな下駄で……?
老人を傘へ入れ、川沿いの道を山側へ向かって歩く。
区内には、鉄道の路線が三本、いずれも東西方向へ走っている。
この区は、国道と鉄道の路線でくっきりと階層が分かれていた。
山側から浜側へ、目に見えてわかる所得の階層。
私鉄はどちらも老舗だ。
山手の私鉄は、乗客が仕立てのいい上品な服を着こなす。
浜手の私鉄は、野球の時期には勝敗に関係なく虎が吼え、よれよれのステテコにつっかけ履きで乗っても、誰も何も言わない客層だ。
国鉄は、位置も客層もその中間だった。
山手の私鉄沿線及び、それ以北は高級住宅街。
山に近くなるに従って家屋の規模が大きくなり、「邸宅」が増える。
その私鉄から浜側へ下れば、国鉄に行き当たる。
国鉄沿線は商業、行政区域と一般の住宅街が続く。国鉄と、浜側のバスが走る国道に挟まれた区域も同様だが、家や商店は国鉄以北より小さい。
その国道の更に南は、住民が自嘲して「ガラが悪い」と称す。
最も浜側を走る私鉄沿線及び、その浜側にある国道と高速の二階建て道路に挟まれた地区は、住宅街と工場、市場、スーパーなどがある。
二階建て道路より浜側は、工業地帯に民家や社宅が混在する。公害病の認定区域に指定され、「人間の住む所ではない」と囁かれた。
長峰が勤務する篠原病院は「ガラが悪い」地域に立地する。
新聞配達のバイクとすれ違った。雨合羽を着た配達員は、水飛沫を上げて細い道へ姿を消した。
長峰は老人に話しかけてみたが、にこにこ笑うだけで答えない。
……やっぱり、どこかの老人ホームを抜け出してしまったのか? それとも、家で家族が看てて、目を離した隙に……?
篠原病院には、病気で入院してからボケてしまい、徘徊する老人も何人かいた。
長峰もつい先程、深夜に老婆の一人を病室へ戻したばかりだ。
ナースステーションに連絡し、念の為、病室まで付き添った。
師長に「シンザイケさん」と呼ばれた老婆は、しきりに息子を呼んだ。
この老婆に限らず、見舞いや患者の世話に訪れるのは、圧倒的に女性が多い。実の娘か、息子の嫁の立場の人だ。
男性は、息子も娘の夫も仕事が忙しく、病院の面会時間に間に合わないのだろう。
篠原病院では、日曜も面会可能だが、それでも、男性の訪問は少なかった。
実母の世話を妻に丸投げして、仕事に逃げる男も居る。
入院費用を工面する為、新たな仕事を掛け持ちする男も居る。
この老婆の息子が、どちらか不明だ。
篠原病院は救急指定ではないが、入院患者の様態が悪くなれば、深夜でも家族に連絡し、局所的に騒然となることもあった。
長峰は、高齢の患者が息を引き取ると、何とも言い表し難い空気が流れるとナースから聞いた。
それまで世話を続けた女性は、悲しみと同時に安堵の表情を浮かべる。
やっと苦行から解放された介護者は、入院費用の支払いの頃には、別人のように表情が明るくなる。
それまで見舞いも世話もせず、初めて篠原病院を訪れた親族などは、殊更に悲痛な表情で泣き崩れてみせる。
時には、患者の世話を一身に担った者へ「お前のせいで早死にした」と詰ることさえあった。
そんなに悲しむならば、何故、生きている間にもっと見舞いに来なかったのか。
第三者の立場から、見慣れた臨終の光景に立ち会う度に、そう思った、と言う。
何もしない者程、他人を批難する。
身内に誰も介護者が居なければ、職員を罵る。
介護者たちが、病院関係者の前で「やっと肩の荷が下りた」と口に出すことは稀だが、晴れやかな顔で厚く礼を述べることは多かった。
その話を聞いて、長峰は、人の幸不幸は全くわからないものだと思った。
……この爺ちゃん、家の人にどう思われてるんだろう? こんな時間に、傘も杖もなしで、こんな下駄で。
篠原病院から、虎が吼える私鉄の駅までは、目と鼻の先だ。
一本歯の高下駄では、足元が不安定な筈だが、老人は長峰と同じ歩調で、危なげなく付いて来る。
幾分かゆっくり歩いたが、すぐに高架下へ着いた。
「ここでよい。ありがとう」
老人は足を止め、礼を言った。
声もしっかりしたものだ。
長峰は傘を畳む手を止めて応えた。
「……えぇっと……それでは、お気を付けて」
「うむ。ありがとう」
少し迷ったが、業務でもない。
……本人さんは、別に何も頼んでないんだ。駅まで送るだけでも充分だ。ここで何かあっても、駅員が何とかするだろう。
長峰は、駅員に定期を示しながら、老人に声を掛けた。
「じゃ、ご安全に」
振り返ってみると、老人の姿はなかった。




