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傘渡り  作者: 髙津 央


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10.職に疲れる

 長峰(ながみね)は、始発で出勤してきた早出の同僚と交代し、深夜勤を終えた。

 この篠原病院では、早出、日勤A、日勤B、準夜勤、深夜勤の五交代シフト制だ。準夜勤、深夜勤明けが休みで、週休二日。どの勤務帯も八時間。

 警備員の長峰は、余程のことがない限り、残業が発生することはない。


 深夜勤が明けても、雨はまだ降り続いていた。

 傘をさし、公園に沿って東に歩き、川へ向かう。

 東西に細長い公園はいつもなら、この時間、犬の散歩やラジオ体操の人がいるが、今日は冷たい雨が地面を濡らすだけだ。

 踏み固められた土の地面に、大きな水溜まりが幾つもある。

 公園の中を通らず、アスファルトの一方通行をゆっくり歩く。

 アスファルトの車道にも水溜まりができ、側溝は溢れる寸前だ。



 今日は休みで、明日は九時五時の日勤A。

 長峰が、シフト表を思い返しながら歩いていると、犬を散歩させる人に行き逢った。飼い主は傘をさしてレインコートまで着るが、犬はずぶ濡れだ。

 こんな日の散歩は犬でもイヤなのか、歩こうとせず、引き綱に引っ張られてイヤイヤ歩かされる。

 犬が足を止め、腰を落とす。

 飼い主は舌打ちして引き綱を引っ張り、強引に立ちあがらせた。

 首輪が食い込み、犬は立って歩くか、そのまま絞殺されるか、選択を迫られる。


 長峰は、常連患者の女の子を連想した。

 この辺りに多い喘息(ぜんそく)の患者で、母親が付き添う。いや、患者は母親に付き従わされていた。

 長峰(ながみね)が日勤で見かけるのは、女の子の泣き顔だけだ。

 最初は、病院を怖がるのだと思ったが、何度も目にして会話の断片を繋ぎ合せると、そうではないとわかった。


 女の子の家からは、川の西側の道を山側へ直進した方が近いらしい。だが、母親は川を渡り、川の東側へ迂回し、小学校の前の道を歩かせる。

 小学校の山側にある信用金庫や市場に用事なら、女の子を病院へ送って、順番待ちの間に母親だけ行けばいいようなものだ。


 病院で、待合の椅子にただ座るだけでも息切れする子にわざわざ遠回りさせる必要性がわからない。

「学校の前、通んのイヤ」

 子供の申告に対して、母親は(もっと)もらしい口調で何か言ったが、長峰は内容が理解できなかったので覚えられなかった。


 ……は? 何それ?


 その時、長峰(ながみね)も受付の事務員も、待合室の病人たちも一様に首を傾げ、母子をちらちら見た。

 母親の言い分は、理不尽を通り越して意味を成さなかった。

 母親の口調や雰囲気だけを見れば、我儘な子供に何か正しいことを言い聞かせる風にとってしまいそうになるが、言葉の内容は、常人の思考から乖離したものだ。


 何かおかしな思想にかぶれた者なのか。

 怪しい新興宗教の特殊な教えなのか。

 それとも、母親の頭がおかしいのか。


 母親は嫌がる女の子の手を掴み、小学校の前の道を無理矢理歩かせるらしい。母親が手を離すと、女の子の手首に手形がくっきり見えた。

「一人で来れるから、もうお母さん、ついてこなくていい」

 子供がそう言った時も、母親の反応は同様だった。


 子供があんなにも泣いて嫌がることを腕尽くで行ってやめないのには、一体どんな事情があるのか。

 少なくとも、子供一人では発作を起こすと心配だから付き添う……普通に心配する姿には見えない。


 気にはなるが、一介の警備員でしかない長峰には、それを知る権利も、知ってそれをやめさせる権限も、持ち合わせていなかった。


 警備員の職掌ではないが、ならば、どの職業のどんな職権なら、あの母親を止められるか、長峰にはわからなかった。

 一時の親切心で(たしな)めたり、好奇心から迂闊な問いを発して、後で患者がもっと酷い目に遭わされるようなことになれば、最悪、事件に発展してしまうかもしれない。


 受付の事務員もこの母子を気にして噂するが、誰も母親に真意を問うことはなかった。

【注】

この話の時代は昭和なので、まだ児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)がありません。

現在なら、警察や児童相談所に通報すると対処してもらえます。

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