猫「ええい、拙者が見えぬと言うのか、ここだ! ここに降りて来い!」
フルベンゲンからブレイビスまでは、直線距離で2300kmもあるんですって。
戦士の石碑はそこからさらに100km以上遠く……とっても遠いですね。
時速400kmくらいで飛んでも、6時間かかりますよ。
高度2000mを飛行していた彼は横転して背中を地面に向けてから首を上げ、ほとんど垂直の降下を開始する。
「フハハハハハ……ふははははははは!!」
人間の耳には巨獣の咆哮にしか聞こえない雷鳴にも似たその声は、気分を高揚させた彼の笑い声だった。地上までは、僅か二、三秒。
―― ドォォォオォォン!!
地表近くで凄まじい急減速を成功させた彼は、それでも凄まじい勢いでレイヴン王国首都ブレイビス郊外、タイルバン村の処刑場に降り立った。
地面は激しく揺れ、地上に居た兵士や馬達が転倒する。スペード侯爵も例外ではなかった。馬ごと転倒した侯爵は危うく馬体の下敷きになりかけ、悲鳴を上げる。
「ふはは、ふははは! 我が名はフェアシュタンデン、竜族の若き冒険者にして蒼き衣の勇者の眷属である!」
彼は大きく首を振り回し、侯爵家の私兵達を眺め回しながらそう叫んだ。鎧を着て剣や槍を持った騎士達がたくさん居る。ルードルフ・ルットマンとの決闘を思い出した竜は、ますます高揚を覚える。
「おお。興奮のあまり、竜としての正式な挨拶を忘れていた」
フェアシュタンデンはゆっくりと空を見上げる……
騎兵の一人は幼い頃、母に読んで貰った絵物語の一頁を思い出し、絶叫する。
「ドラゴンだァァァアア!!」
馬も人も、怪我をした者もそうでない者も本能的な恐怖に追われ、必死でその、実在するはずのない幻の巨獣から離れる。頭から尾の先までは50mもあろうか。
そして人の耳には咆哮にしか聞こえない、彼の声は、次の瞬間。
―― ゴギャアアアゴァァアアア!!
火炎放射となって処刑場の地面を広範囲に焼き尽くした。
炎の一部は消える事なく土で塗り固められた地面を焼き続け、辺りを酷く明るく照らす。
「うわあああ!」「神様!! 神様!!」
ここまでずっとこの騒ぎに巻き込まれ続けて来た二人の司法局の兵士にとって、この夜は人生最大の厄日だったかもしれない。斧もサーベルも放り出した二人は、迫る炎に怯えながら、処刑場の塀際で震えていた。
二人は見た。
突如現れたこの地獄のような光景に、全く臆する事なく立ち向かう男が一人居るのを。
「来るんならアナニエフの時に来いよ! 何で今なんだよ!」
フレデリクは片膝をついて這いつくばりながらも、どうにか顔を上げ、竜に向かってそう叫んだ。
―― ドォウ、ゴォンデス、エェスゲ、ラァイシィ……
「フハハ。あの時の汝には援軍など無用だったではないか」
竜族は育ちすぎたトカゲのような外見とは裏腹に大変聡明で深い知恵を持っている。彼等は自らを、一を見て百を識る種族と呼ぶ。その事で誤解が深まる事もまた、よくあるのだが……ともかく竜の方は、フレデリクの言葉をよく理解していた。
「それに此度は汝が余を呼んでくれたのだろう。嬉しいぞ我が友よ。冒険とは素晴らしいものだな……ああ、心が躍る」
竜はフレデリクの方へと首を差し出す。彼の口は小柄なフレデリクなど一呑みに出来る程大きく、実際周りで見ていた者達は、竜があの小柄な男を捕食しようとしているのだと思った。
フレデリクは這い蹲りながらもどうにか立ち上がり、地面に落ちていた短銃とサーベルを拾い上げ懐と鞘にそれぞれ収め、帽子を被る。その間、竜は目だけを動かして辺りを見回していた。
侯爵家の私兵の隊長は落馬していたが怪我はなく、混乱から立ち直り部下達をまとめようとする。
「おのれ、悪魔め……! 皆怯むな! 装填の済んだ者から奴を撃て!」
そして模範を示す為、自らも背負っていたマスケット銃を取って構え、ハンマーを起こして予め装填しておいた弾丸を竜に向けて撃つ。
―― ドォォン!!
周りの部下達も。
―― ドォン!! ドドドォン!! ドドォン!!
次々と竜に向けて発砲する。
―― ジャア、ゴンジュネルホガン……
竜はそう、呻き声のような咆哮を上げると、自らの首を、よろめくフレデリクに押し付ける。フレデリクの体は竜の鱗に引っ掛かったかと思うと、次の瞬間にはもう竜の首の上へと押し上げられていた。
「頼む、こいつも一緒に連れて行ってくれ、解るか!? この男だ!」
フレデリクは、先ほどまで近くで自分を庇うように倒れていて、今は事の成り行きにただ呆然としているマカーティを指差す。
「待て……何を言ってるんだグランクヴィスト! ふざけるな! やめろ!」
マカーティは顔色を変え、フレデリクと竜に背を向け、炎上する処刑場の中を死に物狂いで走り出す。
「問題ない。汝もしっかりと捕まっているのだぞ」
竜はそう呻くと、巨大な体で意外な程機敏に走り出し、たちまちのうちに逃げ惑うマカーティをその足の爪で捉え、握りこむ。
「ぎゃあああああああ!!」
マカーティは、断末魔のような悲鳴を上げる。
部下達を指揮していた侯爵家の私兵隊長も。別の部下達に助け起こされていたスペード侯爵も。司法局から連れて来られた気の毒な二人の兵士も、そして恐怖のあまり特使補佐官の元に自分から戻って来た馬も……多くの者が、今、マカーティが死んだと思った。
「これより余は離陸する。上空より眺めるブレイビスの街はどんな王侯貴族にも許された事のない絶景であり、汝らにとってそれは忘れられない思い出となるであろう! ふははははは……それでは、快適な空の旅を楽しむがいい!」
竜が大きく羽ばたくと。マカーティが見ていた地上は、たちまち今まで見たどんな甲板よりも遠くへと離れて行き、大口を開けて空を見上げる侯爵の姿も、豆粒よりも小さくなってしまった。
◇◇◇
人口30万とも40万とも言われる北大陸有数の巨大都市、ブレイビスの街も、今は眠りについていた。
「わははははははは! はーっはっはっはっはっは!!」
「頼むから! 静かにしてくれー!!」
竜の首にしがみついたフレデリクは、咆哮を上げるその巨獣に、何度もそう呼びかけるが。
「如何に汝の願いであろうと、それだけはとても出来ぬ! ふははははははは! 汝は知っていたのだな!? 余は全く知らなかった、これが竜に生まれた喜び、これが竜として生きる愉しみなのか!」
「やめろ!! 高度を下げるな、町に降りるなー!!」
会話は全て一方通行である。フレデリクの言葉を竜は理解しているが、竜の声はフレデリクには巨獣の咆哮にしか聞こえない。
速度を落とした竜は石造りの無人の広場を見つけ、そこを目掛けて火炎を吐く。
―― ガォアアアアアー!!
「やめろー! 町を焼くなああ!」
「理解している、あの広場には大きな池があるし木材は無い、火災が広がる心配はあるまい」
竜は再び高度を上げ、咆哮を繰り返す。
「もういいから下に降ろせよ! そして北極に帰れー!!」
「つれない事を言わないで欲しい、我が友よ。解っておる……明日からは余は追われる身となる。人間の狩人達はやがて地の果てまで余を追い詰め、殺すだろう。汝と共に空を飛ぶのも、夢を語り合うのも、恐らく今宵が最後……」
竜は少し静かになった。そしてゆっくりと円を描くように、ブレイビス上空を周り出す。
「美しいものだ……先程はああ言ったが、余も人間の街をこんなに近くで見るのは初めてだ。そしてこれが見納めなのだと思う……今宵はどうしても、この光景を我が目に焼きつけたい。そして一人でも多くの人々に、我が姿を見せ、我が咆哮を聞かせたい……このような事は汝のような勇者が共に居てくれる時でなければ出来ぬ。余には、このような事をする度胸はなかった……おお、見よ!」
竜は再び咆哮を上げる。
「宮殿に、屋敷に灯火が! 街路に松明が灯って行く! 我が咆哮に応え、人々が目を覚ましてくれたのだ! 見よ我が友よ、家々の窓が開く、扉を開けて人々が出て来る、ああ! 沢山の人々が余の姿を見上げ指を差している! 何という……! 何という喜びであろうか!!」
喜びに震える竜の眼から、重く粘度の高い液体が飛び散り、ぼたぼたとブレイビスの街に降り注ぐ。
「人間達が! 人間達が我を呼んでいる! あれを見よ、竜であると! 無かった……今日ほど竜に生まれて良かったと思う日は無かった!」
「やめろー! 降りるなそこは王宮だー!!」
竜は立派で巨大な建物の屋根に降り立ち、その中庭に噴水や池が十分あり、あまり可燃物が無いという事を確認してから、火炎を吹く。
―― ギャオオオオオオオース!!
建物の中庭はたちまち、飛び出して来た兵士や逃げ惑う使用人達で大混乱に陥る。竜は再び羽ばたいて高度を上げる。
「我は今、輝いている! これが竜に生まれた喜び、竜として生きる愉しみか! 有難う友よ、余はこのような喜びを知らなかった! 人々よ! 我が姿を見よ! 我が咆哮を聞け! 我は今、最高に輝いている!!」
◇◇◇
「姫、危のうございます、どうか部屋の奥にお戻り下さい!」
ストーク大使館の宿舎のバルコニーでは、寝巻きの上に天鵞絨のガウンを羽織ったシーグリッド姫が、震える少女デイジーをしっかりと抱えながら空を見上げていた。傍らにはエイミーの姿もある。
「提督! 早くこちらに来て姫を説得して下さい!」
「しかし、私が姫の寝所に入る訳には」
「そのような事をおっしゃっている場合ではありません!」
ロヴネル提督はそこへ、女官達に急かされつつ連れて来られた。
「ロヴネルさま……あれが……フレデリク様ですの?」
シーグリッドは空を見上げたまま、傍らにやって来たロヴネルにそう尋ねる。
若くして百戦錬磨の経験を持つロヴネルであったが、勿論こんな物は見た事もない。しかし彼は確信を持って答えた。
「このような天変地異に、彼が関わっていないとは思えません」
シーグリッドがロヴネルの方を向いた、その瞬間。
―― ビュオオオオオ!!
ドラゴンは、バルコニーからほんの50m先の空間を風切り音を上げて通過した。
「フレデリクさん!?」
その瞬間エイミーははっきりと、ドラゴンの首に跨ったフレデリクの姿を見た。
「提督! 何をなさっているのです、早く姫様達を避難させて下さい!」
女官の一人が部屋の奥から怯えた声で叫ぶ。
「私、あの方こそ私の夫になる方かもしれないと思いましたのに」
シーグリッドは再び夜空に視線を戻す。ドラゴンは余所見をしていた瞬間に通過してしまったので、彼女は今回もフレデリクの姿を見る事が出来なかった。
「そんな事、本当に出来るのかしら……だって私なんて、どこにでも居る平凡な王女ですもの」
ロヴネルは今度は何と答えていいか解らず、口を閉ざしていた。だが彼の目ははっきりと見ていた。遠ざかるドラゴンの足の爪の間に、ぐったりとしたマカーティ艦長が捕まえられていたのを。




