エイミー「神様、どうか伯父さんをお助け下さい」
スペード卿のモデルは17世紀イギリスの政治家、初代バッキンガム公ことジョージ・ヴィリアーズ公爵です。
公爵というのは普通は王様の兄弟くらいの血筋の方がなるものとは言われておりますが、何事にも例外は付き物。
中産階級の家の三男だったジョージ君。お母さんは彼を国王陛下の廷臣にする事を思いつき(!?)、フランスに留学させて様々な教養を学ばせたそうです。
そして帰国したジョージは二年後には国王の引見を受け見事廷臣に。ジョージ君、かなりの美青年だったようで(意味深)。
その後も彼は国王の寵愛を受け23歳で騎士に、24歳で子爵に、25歳で伯爵と枢密院顧問に、26歳で侯爵になります。翌年には第一海軍卿に、そして31歳で公爵になるのです。ごめんなさい、細かい年齢はちょっとズレてるかも。
イギリスでの彼の評価はあまり高くありません。私はバッキンガム公も優れた政治家だったと思うんですけど、同時期のフランスにはアルマン・ジャン・デュ・プレシー、通称、リシュリュー枢機卿が居たのです……ちなみにこちらも下級貴族の三男でありながら、公爵にまでなりました。
また三人称パートになります。
ホワイトオーク宮殿ではジョフリー・ダンバーを中心とする抗議者達と、枢密院側の代表団との折衝の準備が進められていた。
「スペード卿……本当に良いのかこれで? あのような者達の言いなりになって、我々が話を聞くような事をしては、今後同じような直訴騒ぎが頻発する事にはならないか?」
この折衝を提案したのはスペード卿ことジョージ・ウッドヴィル侯爵だった。
伝統的な名門貴族の子弟で占められる枢密院議員達は、地方地主の三男という出自のスペード侯爵を普段は陰で、国王に取り入った成り上がりの曲者だと叩いていた。
しかしこのような緊急事態に行動力を発揮出来る政治家は他に居らず、議員達は普段の諍いも忘れ、スペード卿にすがるような視線を向けていた。
「彼等は一人の海軍艦長の処刑判決への反対を標榜して集まった烏合の衆、こちらが意見を聞いてやるから代表を出せと言えば、提出すべき意見を巡って争いになります……まあ、多分ね」
スペード侯爵はそう、余裕たっぷりに答え、薄笑いを浮かべて窓の外の群衆を見つめる。議員達は顔を見合わせ、頷き合う。
しかしこの所失策続きのスペード侯爵の胸中には、本当は余裕など無かった。
「ただ……連中の指導者は少々手強いかもしれませんねえ。その烏合の衆がこんな時間になってもほとんど減ってないんだから。誰もお腹が空かないのかな? そんなに魅力があるのかね、ジョフリー・ダンバーという男には」
「スペード卿、敵を称賛している余裕などあるのですか」
「敵と決めつけてはいけませんよ、彼も国王陛下の為、この国がどうすれば一番良くなるのか、考えている人なのだから……ははは。国を思う人々の力が、良い方向に使われればいいですねえ」
スペード卿は窓から離れ、枢密院議員達の方に振り返り、笑みを浮かべてそう言った。
◇◇◇
「関税の撤廃を訴えるべきだ! 貿易は海洋立国レイヴンの礎である!」
「傷病軍人に手当てを! ダンバー、君だって傷病軍人だろう!?」
「改革派に対する締め付けをやめさせてくれ! 守旧派はうんざりだ!」
「今回の事と改革派闘争は関係無い、そうだろうダンバー君!?」
ダンバーは苦悩していた。
枢密院が抗議を受け入れる姿勢を示して来たのだ。代表団と会い、その事について議会で審議すると。
「これは奴等の時間稼ぎだ、こちらの意見対立を刺激しようとする枢密院の罠だ、乗ってはいかん」
つい先刻味方になったばかりの枢密院顧問のモートンも、そうダンバーに警告する。ダンバー自身もその事を理解していた。
「諸君、我々が第一に訴えなくてはいけないのは、法の運用だ。権力者が自分達の都合の為に法律を守らず、好き勝手な事をする、これを一番に止めなくてはならない。マイルズ・マカーティ艦長の処刑は、十分な根拠も示されず、正当な裁判も行われないまま、執行されようとしている! みんなそれぞれ、国政に対して言いたい事はあるとは思う、しかし今はまず、市民も国も、同じ法律を守るのだという事を、もう一度約束させる事が第一だ! これは皆の希望を叶え生活を改善する為の大前提の約束なのだ!」
ダンバーがそう勇壮に述べると、ダンバーの周りに集まった様々な支持者グループの代表者達は、それぞれに賛意や反意を示す。
しかし支持者達はそれぞれ違う立場からここに集っていて、違う目的を持っていたが、皆、ダンバーの求心力には納得し、大いに期待していた。
「ダンバー君に一任しよう!」「法の運用の徹底を訴えてくれ!」
「国王も法を守れ!」「待て、国王批判は駄目だ!」
「正直者の艦長を救え!」「違う、法の名の元に艦長を救うんだ!」
それぞれに違う立場を持つ支持者グループから集められた、その代表者達数十人は、喧々囂々と議論し合いながらも、ダンバー支持の方向で一つにまとまって行く。
「では枢密院への訴えは正しい法の運用、その一点に集約させて貰う。レイヴン王国では何人たりとも、非公開の裁判で死刑判決を出す事は出来ないと、気まぐれで理由も示さずに人を処刑する事は出来ないと!」
ダンバーがそう宣言すると、代表者達から十分な大きさと熱量の拍手が起こる。
「有難う、皆」
そう、ダンバーが小さく頷くと。外套を頭から被り寒そうに震える顔色の悪い男が、代表者達の列に割り込んで前に進み出て来る。
「ダ、ダンバーさん、貧しい者は今夜にも凍えて死ぬかもしれない生活を送ってるんだ……ここ、ここにいる身なりのいい旦那方とは違うんだ」
代表者達の何人かはその男を見て顔をしかめる。ダンバーは穏やかに諭す。
「法律が正しく運用されれば、我々の生活は必ず良くなる。生活物資の高騰や失業問題もきっと改善される、我々はそれを」
「そっ、そっ、それじゃ遅いんだ! 今なんだよ、今すぐ助けて貰えなきゃ、生きていられない人間も居るんだ! な、な、なのにどうして枢密院にそれを訴えない!? あんたは貧しい者が死んでもいいのか!」
他の代表者達の何人かが不服を露わにする。
「我々はそういう話をしているんじゃないんだ!」
「貧困は気の毒だがここではお呼びではない、教会に行って相談しろ」
「ダンバー氏は貧困の原因の一つを取り除くという話をしているんだ、それがわからんのなら後ろに居ろ」
人々に責め立てられ、顔色の悪い男はますます憔悴しながら周りを見回す。ダンバーはその様子を見て気の毒と思い、前に進み出た。
「君の言う事は良く解る。私だって軍の士官だったのは昔の話で、今は河岸で石炭運びをして日銭を稼ぐ身の上だ……だが信じてくれ、法の運用が厳格になれば少なくとも今のような小麦価格の高騰は無くなる、そうすれはきっと、子供達にパンを食べさせる事が出来るようになる」
「ダンバー君、そんな奴にまで構う事は無い」
前に出て男を丁寧に諭すダンバーに、支持者の一人が不服そうに言う。
顔色の悪い男は、ますます唇を噛み締め、ダンバーを見つめていたが。
「わっ、わ、私の意見をっ……聞いてくれっ……!」
男はそう言って、ゆっくりとダンバーに近づいて行く。その距離は5mから、4mへ、3mへ……その時。
「うおおお!!」
支持者の列の後ろから、今度は杖をついた男が……痛む足を引き摺り、どうにかバランスを取りながら、彼なりの全速力で飛び出して来て、たちまちにその外套を深く被った顔色の悪い男に組み付いた。次の瞬間。
―― ドォン!!
銃声が、響いた。
「な……何だ!?」「何が起きた!?」
支持者達は誰も動けなかった。一番に動き出したのは元軍人のダンバーだった。彼は爆音より、黒色火薬が炸裂する光に反応していた。
勇躍したダンバーは、自分を庇うように身を投げ出していた杖をついた男を追い越し、外套を深く被った顔色の悪い男の肩に手を掛ける……男の手には、外套の中から取り出した短銃が握られていて、その銃口からは硝煙が漏れていた……
―― ドンッ……!
ダンバーはたちまち男を地面にうつ伏せに引き倒す。男は両腕を広げ、力なく倒れた。
その様子を見て、周りの支持者達も慌てて駆け寄って来る。
「た……短銃だと!?」「誰が撃たれた!?」「大丈夫かダンバー君!!」
支持者達が駆け寄って来ると、当のダンバーは男から手を離し、身を翻してもう一人の……杖をついた男、地面に崩れ落ちる寸前だった、ラディックの体を支える。
「大丈夫か!? どこを撃たれた!?」
ダンバーがそう叫ぶと、ラディックはダンバーに抱えられたまま、ギロリと彼を睨んだ。
「この……お人好しの大馬鹿者がッ……自分の立場が解っているのかッ……全く、見て……いられん……」
過酷な戦場を潜り抜けて来たダンバーには、それがすぐに解ってしまった。ラディックは致命傷を受けた。もう助かりそうにない。
ダンバーは、とにかく今、今しか聞けない事を、聞いた。
「何故だ!? 何故お前が俺を助けるんだ!?」
ラディックは先日、商店街で盗みを働いたのをダンバーに見咎められた。しかしあらかじめそういう事を用心していたラディックはダンバーを罠に掛け、彼を囮にして逃げ果せた。
その後別の場所で逮捕されたラディックは収監先の刑務所で理不尽な私刑を受け、死に瀕していた。それを救ったのはダンバーである。
ラディックはその時はダンバーに感謝せず侮辱して立ち去ったのだが、後にダンバーがマカーティ救済の為の演説を打った時に現れ、聴衆の誘導に重要な役を果たした。
ダンバーも彼に話し掛けようとしたのだが、その時は出来なかった。
外套を深く被った顔色の悪い男は、ダンバーの命を狙う刺客だった。心ならずも裏社会を歩き、狡猾で人を信用しないラディックはそれを見抜いていたのだ。
「何故……何故か解るか?」
ラディックは自分の体を支えるダンバーにそう問い返す。
ダンバーは。自分がどう答えるべきか、その事に気づき、そう答えた。
「解らない、俺のような者には、貴方が何故そうしたのか……」
ラディックはそれを聞き、満面の笑みを浮かべた。
「フ……フハハ……そ、そうだろう……下賤の者には……我が、貴族の……誇りなど……解るッ……まいッ……」
それきり。ラディックは事切れた。
◇◇◇
その騒ぎは、ホワイトオーク宮殿の議事堂に閉じ込められた枢密院議員達も遠目に見ていた。
「先程の発砲は何だったんだ?」
「彼等は仲間割れをしているのではないか」
「全く野蛮な奴等だ。さっさと帰って欲しいものだ」
スペード侯爵は他の議員達から離れ、別の窓からその様子を見ていた。
「やれやれ……運も強いんだねダンバー君。厄介な政敵になりそうね……」
スペード侯爵の腹心によるジョフリー・ダンバー暗殺計画は失敗に終わった。




