猫「今日は鰯の切れ端だけか……」
この物語に出て来るブレイビスという町とは関係ないんですけど、一月のロンドンの日没は午後四時くらいだそうですね。北緯51度ですって。東京が36度、札幌でも43度ですから、だいぶ北にあるんです。1月11日の日照時間は8時間ちょっとしかありません。
救援が先か、処刑が先か。ブレイビスのとても長い日は日が落ちても続きます。
ブレイビスの街角の掲示板に、複数の手配書が貼られていた。その前を何事か議論しながら通り過ぎようとしていた男達の一人が、足を止める。
「ちょっと待て、この手配書は色々違うだろう」
男は手配書を指差す。別の男も頷く。
「彼が賞金付きで手配されるような、悪者な訳がない」
「そうだ。例のマカーティ艦長と共に海賊団を打ち破った英雄じゃないか」
男達はそう言って頷き合う。この噂はダンバーの演説と共に、ブレイビスの噂好きな男達の間で急速に広まりつつあった。
「それにグランクヴィスト君はこんな貧相な男ではなかったぞ、堂々たる美青年だった」
「何だと君、本物を見たのか?」
「うん。つい先程ダンバー大尉と話しているのを見た。彼、グランクヴィスト君は怪我をしていて大尉は治療を勧めたが、一刻も早くマカーティ艦長を救いたいと言って、そのまま去って行った」
男達の一人が溜息をつき、そのフレデリクの手配書を破り取る。
「諸君、やはり我々も今すぐ行くべきだと思う」
「そうだろう、レイヴン人艦長を救うのをストーク人に任せきりではいけない」
「早く大尉に加勢しようではないか」
食事をする為に一旦帰ろうとしていたその男達は、踵を返して元来た道を足早に歩き去って行く。
◇◇◇
数百人の男達が、司法局の馬車を追い掛けていた。
馬車は四頭立ての立派な物だったが、ブレイビスの道路は日が落ちてもたくさんの馬車や通行人が行き交っており、そこまでの速度は出せない。
「そこの馬車待てェェエ!!」
一方で追走する群衆の方にも足の速い者とそうでない者が居る。一番に走って行くのは元気で血の気の多い若者だ。そんな先頭集団が、馬車に迫ると。
「来たぞッ! 殿軍を務めろ!」「うおおお!」
馬車の周りを固める護衛の兵士が四人だけ残り、追いすがる人々に立ち向かう。
「邪魔だどけええ!」「失せやがれぇぇぇ!」
追手の先頭集団は果敢に兵士達に掴みかかり、間をすり抜けようとするが果たせず、地面に転がされ、引き倒される。しかし追手は次々と追いついて来て、兵士達に組み付いて行く。
「馬車が行っちまうぞ畜生!」「させるかあああ!」「離しやがれええ!」
最後には数の暴力が勝り、現場には組み伏せられた四人の兵士と組み伏せた十数人の男が残る。
とはいえ他の追手がその場を追い越して行く頃には、馬車はかなり離れた所まで逃げていた。
「待ちやがれーッ!!」「居たぞ、あの馬車だ!」「その馬車止まれぇぇえ!」
「畜生もう来やがった、次は俺達の番だ殿軍行くぞ!」「オゥ!」
そしてまた四人の兵士が残り、その辺に積んであった木箱や空き樽をぶん投げ、警棒を振り回して追っ手を食い止め、最後には殺到した群衆に数の力で組み伏せられる。
「まずいよ、このまま、逃げられたら……ブレイビスの城壁を、越えてしまう」
追手の男達の中には青いジュストコールを着た小柄な青年、フレデリクの姿もあったが、一日中市内を走り回っていた彼にはもう先頭に出るスタミナが無かった。
「君はフラフラじゃないか、少し休んだ方がいいんじゃないのか」
よろめきながら走るフレデリクに、別の若者が併走しながら声を掛ける。
「マーマイトを塗った、パンが食べたい……あれがあれば、元気が出るのに」
「あんな物が好きだとは、変わり者だな君は」
◇◇◇
ホワイトオーク宮殿はブレイブ川を大橋より3、4km程上流にある。今の国王はここには住んでおらず、この宮殿は専ら議会や裁判所として使用されている。ダンバーと彼の支持者達の最大の集団はこちらに集結していた。その数は今や五千人を越える。
「国王陛下万歳!」
「王国の威信を守った、勇敢な海軍艦長に正しい扱いを!」
支持者達には、ダンバー同様、穏当にマカーティの解放を訴える者も居たが、
「訳の分からない不当判決を撤回しろ! 正しい法律を守れー!」
「裁判の責任者を出せー! この処刑の理由を説明しろー!」
そんな風に、憤りを前面に出す者も少なくはなく、
「王侯貴族の気まぐれに、生活を侵害されるのはうんざりだー!」
「圧政を許すなー! 俺達国民は奴隷ではない!」
さらにはそのような、より踏み込んだ主張をする者も多く居た。
ダンバー自身も、この状況に複雑な想いを抱えていた。
自分はただマカーティを、命の危機から救いだしてやりたかっただけなのだ。初対面の自分の為に、母の形見の銀のスプーンを看守への賄賂にして姪達に自分の逮捕を伝えようとしてくれた、あの純朴で思いやりに満ちた男を。
自分が外に出られたのはロヴネルのおかげだが、彼を呼んだのはフレデリクで、そのフレデリクに頼んでくれたのはマカーティだ。そういう個人的な恩もあるマカーティを助けたくて、演説をして仲間を集めた、それだけだったのに。
今やダンバーを支持し行動している者は一万人を越えていた。
レイス島救援戦争の英雄で貧しい退役軍人だったジョフリー・ダンバー大尉は、今やブレイビスで一番人気のある煽動者となっていた。
しかしこうなってしまうと、支持者の中にはダンバーの主張とは何の関係も無い者も多くなる。
「貧しい者の生活を守れー! 地主共は蓄えを貧民に配れー!」
「金は貴族共だけのものじゃない! 働く者にもっと金をよこせー!」
しかし今は立ち止まる事は出来ない。始めた事をやり遂げなくてはならない。
宮殿を包囲した群衆は日没が過ぎてもその場に留まり続けていた。枢密院の議員達は宮殿から帰れず、議場に閉じ込められていた。
「どうしたら良いのだ、一体この騒ぎは誰の責任だ!」
「軍隊は何をしている! さっさとあの暴徒を鎮圧しろ!」
上級貴族や高位の学者達で構成される議員達の殆どは、この状況に単純に憤っていたが。
「君達のそのような物の考え方が、彼等の怒りを生み出したのではないのかね?」
「軍隊で抑えるのは危険だ、何が起こるか解らんぞ」
中には外の群衆の主張に理解を示す者、冷静に状況を分析している者も居た。
さらには。
「こんな所で手をこまねいていられるか! 我輩は一人でもここを出るぞ!」
「何をする、よすんだモートン君!」
「冷静になれ、あんな連中の前に一人で出てはただでは済まぬぞ」
「我輩は男子である! あのような者達を恐れ議場に閉じ籠る諸君らとは違う!」
議員の一人がそう言って、議場を出て行く。他の議員達はただ溜息をついて、窓の外の群衆と、モートン議員が出て行った扉を見比べていた。
モートンは暫くして、宮殿の正門から供も連れずたった一人で堂々と出て来た。周囲には数百人の兵士が展開しており、正門を固める小隊の隊長は慌ててモートンに駆け寄ったが。
「危険です議員殿、彼等はとても興奮しております!」
「何を恐れる事があろうか! 我輩はレイヴンの男子である!」
モートンはそう言って、数十人の武装兵士が守る警戒線を越え、堂々と群衆に向かって歩き出す。
支持者達はダンバーの指示により、正門の警戒線からは距離を取っていて、その間は無人の空間となっていたが。
「誰か出て来たぞ! あれは枢密院議員のモートンだ!」
「あいつは伯爵家の次男で威張りくさった野郎だ、何をしにきやがった!?」
モートンはどんどん群衆に近づいて行く。
支持者達は真冬のブレイビスで、腕まくりをしてモートンを睨み付ける。
群衆まであと数歩と迫った所で、モートン議員は華麗に踵を返し宮殿に向き直ると、右腕を高々と振り上げた。
「枢密院は、マカーティ艦長に対する不当判決を、撤回せよー!」
群衆の中で歯噛みしてモートンを待ちうけていた男達の何人かがその場で転倒する。唖然とする者も多く居た。少数だが、モートンを称える者も居た。
「司法局は、レイヴン海軍の英雄を、ただちに解放せよー!」
モートンは真顔で、たった今まで自分が居た宮殿を見据え、抗議の声を挙げる。




