スペード卿「厄日だねえ今日は……こんな日は出来れば家に引き籠りたいよ」
(事情によりここにあった前書きを消させていただきまたした、申し訳ありません)
スペード侯爵も参戦して参りました。
ブレイビスのとても長い一日が、まだ続きます……
当人が協力的なので、マカーティの処刑の手続きは淡々と進む。
彼は海軍艦長の給料の他に海賊や他国の私掠船の拿捕賞金を何度か受け取っていて、それをきちんと貯蓄していた。
「大したもんだ。君はそんなに、貯蓄をするような人には見えないが」
「貯蓄の無い男には、女は振り向かないと聞いたもんで」
「はは、それはどうかなあ。指輪通りの遊び人共が、貯蓄をしているようには見えないね、僕は」
マカーティは普段は短気な男だった。少なくとも彼の艦の乗組員やフレデリクなどはそう思っていた。しかし彼はこの不躾な中年の事務官に何を言われても、眉根一つ動かさなかった。
「まあ、君が素直に応じてくれるから、手続きもだいたい済んだ。遺産は君の従姉に届くよう必ず手配しよう。さて、少し時間が余ったようだ。他に何か心残りは無いかね? 法で許される範囲の事なら協力しよう」
ここまで短気なマカーティが我慢を重ねていたのは、まさにこの時の為だった。
「御願いがある。ジョフリー・ダンバーという男に俺の遺産から金貨50枚を渡して欲しい。彼は元陸軍大尉で五年前のレイス島救援戦の英雄だが、最近手配書破りの容疑で逮捕された。それでクロスボーン城の牢獄で、偶然同房になったんだ」
事務官はそれを聞き、大層訝しむ。
「何故、そのような者に大金を? 従姉が受け取る分がかなり減るだろう」
「レイス島救援戦には俺もシャリオット号の海尉として加わったんだが、出航時の不手際のせいで到着が遅れ、あまり役に立たなかった……そういう借りがあるから、あいつが退役して困窮しているなら、少しでも罪滅ぼしをしたいんだ。従姉に届ける分が減るのは仕方ない」
マカーティは敢えて話を単純にして、そう依頼した。冤罪とか過剰な容疑とか、細かい事は抜きだ。金貨50枚もあれば、手配書破りの罰金くらい難なく払えるはずだと。
彼もグランクヴィストやロヴネルら、ストーク人達を信用していない訳ではないが、他人に頼り切るのは自分の流儀ではない。打てる手は全て打っておきたい。
◇◇◇
この日のブレイビスは昼頃までには霧も雲も消え、季節外れの好天に恵まれた。気温はどんどん上昇し、午後には春先のような陽気になっていた。
それで広場や商店街では多くの、比較的時間と金に余裕のある市民が単純労働を切り上げて、思い思いの場所で季節外れの日差しを楽しんでいた。
ダンバーに煽動された有志達は、そんな所へやって来た。
「諸君、聞いてくれ! ブレイビスの、いやレイヴンに生きる全ての名誉ある市民に関わる、大事な、そして急を要する話だ!」
有志等はそれぞれ自分の意志で行動し、自分の職場や自宅近くのコミュニティなどで、ダンバーが言った通りの演説をして行った。
この天気は完全にダンバーの味方だった。これが普段の一月のブレイビスならば、人々は一刻も早く暖かい家に帰る為、冷たい雨の中外套を被って小走りで駆け抜けて行く。しかし今日は多くの人々が、真冬の青空に良く映える、勇敢な海軍艦長のとその悲劇の物語に耳を傾けていた。
「……何故にこのような事が起きるのか!? 数に勝る凶暴な海賊共を相手に、異国の乙女達を守る為たった三隻で立ち向かった勇者が! そして見事勝利した英雄が! 何故これからも王国の海の平和を守る為、戦い続けるべき優秀な海軍艦長が、処刑人の斧の下に首を差し出さねばならぬのか!? ああ、このレイヴンに人士は居ないのか、彼の頬に口づけをしようという乙女は居ないのか!?」
ブレイビスは非常に演劇の盛んな町で、町じゅうに大小様々な劇場があり、芝居好きが高じて役者を目指した事のある人間も多数居た。
「わははー、いいぞー!」「名調子じゃねーか!」
「諸君、真面目に聞き給え! 本当の話なのだぞ!」
そうして複製されたダンバーの演説は、様々な形で午後三時のブレイビスに広がって行った。
市庁の責任者は決してスペード侯爵の警告を甘く見ていた訳ではないのだが、人を一人救えという程度の主張を旨とする弁士達を圧力で排除する決心がつかず、時間を無為にすり減らしてしまっていた。
◇◇◇
スペード侯爵が、元海軍大将マークスへの使者を用立てた後、ブレイビス郊外の王宮でジェフリー王に拝謁しプレミスとノーラでの海軍の懐柔工作に成功した事を報告し、その後で新たな王女が誕生した事に対する祝辞をたっぷりと述べて、それから幾つかの準備をしてブレイビス市街中心部に戻った頃には。
「国王陛下の為に死力を尽くした、海軍の英雄の処刑を止めろ!」
「司法局は処刑の理由を明らかにせよ! 我々には知る権利がある!」
「圧政はごめんだ! 理不尽な政治は許せない!」
気勢を上げる市民の数は数千を越えていた。彼等は一定の閾値を越えた後は雪だるま式に増えた。
「私が言った事をまるで聞いていなかったのか。諸君はこの数時間何をしていた」
スペード侯爵は失望を隠さない顔で、穏やかにそう言った。
「申し訳ありません閣下、ですが首謀者については調べがつきました」
街の物陰から群衆を見つめる侯爵に、市の警備責任者はそう恐る恐る告げたが。
「俺達の旗印はレイス島防衛戦の英雄、ジョフリー・ダンバーだ! 彼は世襲で大きな顔をしている奴とは違う、平民上がりの叩き上げの軍人だ!」
「国王陛下の為に海賊と戦い島民を救ったダンバーが、今度は国王陛下の為に異国の市民を守った海軍艦長を不当な処刑から救う為、立ち上がったのだ!」
「国王陛下万歳!」
気勢を挙げる煽動者達の声に、スペード侯爵はただ溜息をつき、首を振る。
「もういいよ……私にも解ったから。とにかく君達は君達のやり方で、この後も市の治安維持に励み給え。良い成果を期待しているよ」
侯爵はそう柔らかく言って、憔悴する警備担当者達に微笑んでみせる。手慣れた政治家である彼は、ここで叱責を重ねても意味が無いという事を知っていた。
市の役人達が退散した後で、腹心の一人が侯爵の背後に近づいて、横を向いたまま、独り言のように呟く。
「この人数になってしまっては、衛兵だけで群衆を鎮圧するのは不可能です。軍隊を動員するか、はたまた……」
侯爵は、背中を向けたまま、やはり独り言のように呟く。
「軍隊で抑えつけるのは美しくないよね。禍根も残るし、そもそも招集が間に合うかどうか……今からコルベントリーの師団を呼んでも半日かかるだろう」
「しかし、何故こんなに急に群衆が集まったのでしょう?」
「恐らくそのダンバーという男に、大衆を惹きつける資質があるんだろうね。生活に不満のある奴や騒ぐのが好きなだけの奴、そんな連中も大勢参加しているようだ。彼等はただ、ダンバーという男に期待して集まっただけなのだろう」
身なりは良いが人相の悪いその侯爵の腹心の一人は、侯爵に背中を向けて呟く。
「そのダンバーという男、事故で死ぬといいですねぇ」
黒い外套を着て、黒い帽子を被ったその男はそのまま数秒そこに佇んでいたが、侯爵が返事をしないのを確認すると、静かにその場を離れて行く。
◇◇◇
日没頃の、司法局の拘置所の一室で、マカーティは同行の牧師から、改革派における聖典の解釈と信仰の意義について解説を受けていた。
そこへ、廊下の方から慌ただしい物音が近づいて来る。
「ありがとうございます牧師様、俺の為に神様の話をしてくれて」
いよいよ、処刑の時が来た。それを知ったマカーティは手を組み合わせて神に祈りを捧げてから、立ち上がる。
牧師を中に入れたまま施錠された扉を、看守が開ける……そして扉を開けて現れたのは先途の中年の事務官だった。しかしその表情は先途のような、殊勝な死刑囚を穏やかに見守る紳士のものではなかった。
「マカーティ死刑囚……! 貴様、我々を謀ったな!」
勿論、何も心当たりの無いマカーティは唖然として、自分を睨み付ける事務官の顔を見る……そうするうちに、事務官の両脇から房内に殺到した四人の武装衛兵がマカーティの両腕両肩を掴み、床に押し付けるように拘束する。
「ま、待ってくれっ、何の話だ!?」
床に顔を押し付けられたマカーティは顔を横に向け、何とかそう絞り出すように言った。マカーティの脳裏にグランクヴィストの顔がちらつく。まさかまたあの男が、何か余計な事をしたのか?
事務官は叫ぶ。
「貴様が金貨50枚を贈ると言った相手、ダンバーは金融街で市民を大いに煽動し貴様の解放を訴えている! そして数千人を超える群衆はとうとう、こちらの官庁街へ向けて動き出したと……! 司法局は貴様の移送を決定した、死刑囚マイルズ・マカーティ、観念して大人しくついて来い!」




