マカーティ「身長は160cm足らずで肩幅も狭く華奢だが騙されちゃいけねえ、髪は艶のある紅茶色、仕立てのいい青いジュストコールを着て白いスカーフをつけていて、顔立ちは……一度見たら忘れられねえ野郎です」
「海軍大将のマークス閣下に今すぐ伝えたい事があるんだよ」「面倒なのかもしれないけれどよく聞いて欲しい」「貴方が水夫かどうか、海の男かどうか知らないけど」「土下座って口で言う程簡単な事じゃないんだから」「愛と勇気を持った本物の英雄なんだ」「そんな立派な艦長が処刑されるっておかしいと思わないか」「何で海軍大将のマークス閣下が黙っているのかなって」「海の男かどうか知らないけど」「黙っているのかなって」「海の男かどうか」「何で」「海軍大将の」「マークス閣下が」「海の男か」「知らないけど」「何で」
ひ゛ゃ゛あ゛ぁぁぁあ!? 全身に震えが走る!
「あ、あの……僕はその、フレデリクという人じゃないけれど、」
錯乱した私は言わなくていい事まで言ってしまう。しかし老人は何も聞こえなかったかのように雑巾を手桶に掛け、それを持って部屋を出て行く。
私はついて行くしかなかった。
◇◇◇
老人は階段を上がり六階へと向かう……このおじいさん、六階の掃除もしているのかしら。さっきの部屋も広かったが、あの広い吹き抜けの大広間を一人で掃除するのは大変なのではないだろうか?
手伝ってあげたいけど、私にもマカーティにもそんな時間があるかどうか。
「あの、ここはもう見せて貰ったんだけど……」
私は一応そう言ってみるが、老人は黙々と前を進む……ん?
『第二十五代海軍大将ヘンリー・W・マークス』
ああ。小さな肖像画と共に、略歴と思われる文章の書かれた羊皮紙が掲示されてますね。この人がマークス大将ですか。立派な金髪縦ロールのかつらを被ってらっしゃる……偉い人の肖像画は大抵こんな感じだな。文字の方は達筆過ぎてさっぱり読めないが、50年くらい海で過ごしたような事が書かれている。
「そんな物は見ないでいいんだ、さっさと来い小僧!」
おっと、ぼんやりしていたら怒られてしまった。いつの間にかおじいさんは相当先に進んでいた。私は上官に呼ばれた少年水夫のようにそちらに飛んで行く。
大広間にはいくつもの段差と通路、短い階段がある。掃除夫の老人はちょっとした迷路のような通路の小さな行き止まりに向かい、その辺りに無造作に積まれている木箱を慎重に押し退ける。
暗くて見辛いけど、足元近くに何かの紙が貼ってあるようだ……私はそれを覗き込む。
「マイルズ・マカーティ艦長、同盟国スヴァーヌの人々の為、フルベンゲンにて死力を尽くして戦い……」
暗がりの中、どうにかそこまで読み上げた私の、しょうもない堪忍袋の緒が切れる。
「な……何だよこれ!? 田舎のお針子でも買えるようなアイビス産の安い紙にサラサラッと書いて、こんな隅っこの低い所に貼って木箱で隠してあるのがマイルズの顕彰碑かよ!? どこまで人を馬鹿にしてるんだ、せめて羊皮紙に書けよ! これがレイヴン海軍のマイルズに対する顕彰の全てなのか!? だいたい……!」
いや顕彰碑なんか要らないよ、生きたマカーティを返せよ! いや私はマカーティは要らないので外に放り出せよ、マカーティを自由にしろよ!
私はその台詞を飲み込んだ。
「グランクヴィスト……ここに来たのは間違いだ」
憤る私に、老人は背中を向けたままそう呟いた。
「あっ、あー、僕はグランクヴィストじゃないけど」
「お前、先程この俺に何と言った?」
え? おじいさん、怒ってる? 私が怒ってるのはレイヴン海軍に対してであって、掃除夫のおじいさんには何も言ってないよ。
ていうか私、何て言ったっけ? だいたい私、レイヴン語では自分が何て言ってるのかもほとんど解らない。
おじいさんの背中が……震えだす。
「この俺が水夫かどうか、海の男かどうか知らないけれど……若造、お前確かにそう言ったな……!」
ひっ!? ひいいっ、背中を向けていてさえ解る、この老人は激怒している! 周りの空気が熱くなって行く、このおじいさんから出ている熱気のせいか!? 何? 何なのこの人!?
ところがその熱気が、今度は急激に冷めて行く……おじいさんは、幅広の背中を丸めた。
「一言も、言い返せぬわ……俺は何百何千の仲間達をこの目で見送って来た。その中には、俺より強い奴、俺より賢い奴がたくさん居た。海で死んだ奴も居れば陸に上がって死んだ奴も居る……俺はただ生き残り、気が付けばここに居ただけの男だ。だけど、あいつらのうちの何人かでも生き延びてくれていたら……俺のような、無様な負け犬になる事は無かったのだろうにな……! これが……これが負け犬の俺の精一杯だ……」
掃除夫のおじいさんはそう言って、その場にどっかりと腰を下ろしてしまった……泣いているのだろうか。困ったなあ。話を聞いてあげたい気もするけど、私は早くマークス大将を見つけたいのだ。
―― そっちは居たか!? 司令官室ももぬけの殻だ!
―― 早く上がって来い! 後は最上階だ!
その時……この大広間へと続く階段の方から、人の声と、おぞましい殺気が漂って来る……私は慌てて別の物陰に飛び込む。
「盗賊め、観念しろ!!」
階段から誰かが上がって来た。あの声は先程のデニングという人だったか。
その後ろからはデニングさんとは仲直りをされたのか、海兵さん達が続々と上がって来る……4人どころじゃない数で。ぎゃああ゛あ゛どうすんのこの階の階段はあそこしか無いよ!?
「黒い外套を着たぼさぼさ髪で髭面のじじいだ!」「待て、髪はかつらかもしれん!」「ここには他に人は居ないんだ、見つけた奴は全部必ず捕まえろ!」
ひいっ、ひいいい!? 私は慌てて辺りを見回す、この部屋六階には窓も無いよ!? 窓は全部吹き抜けの七階部分……高く手の届かない所にある……駄目だ、隠れ通せる訳が無い、私はとりあえずアイマスクをつけて……それから覚悟を決めて、物陰から飛び出す!
「居たぞ、何だあの小僧は!?」「あ、あいつはさっき廊下を堂々と歩いてた奴だ!」「何!? 何でその時に捕まえなかった!」「いいから追え、捕えろ!」
階段から上がって来ていたのはデニング氏の他に、海兵隊員、海軍の事務職員……制服を着た海軍士官の姿もある、皆飛び道具こそ持っていないが、不埒にも欺瞞を用いてレイヴン海軍省に不法侵入した人物に怒りを燃やす人々だった……ひ゛ゃあ゛あ゛ぁ助けてぇぇ!
私は通路の手摺りから展示台へと飛び回る!
「気をつけろ! 身軽な奴だぞ!」「海兵隊抜刀! 剣を抜け!」
ぎゃああああ殺さないでえええ! ひいっ!? 剣を抜いた海兵隊員が迫る! 私は……手近にあった、ダーリウシュのサーベルを掴んでしまう……
―― キン!
間一髪、駆け込んで来た海兵の剣の一撃をどうにかサーベルの鞘で受け流した私は、胸像となった知らない海軍の偉い人の頭を踏み越えて飛び退き、展示された赤く錆びた錨の上へ、次いで焼け焦げたボートの上へ飛ぶ。
「畜生、武器を取ったぞ!」「囲め、囲んで斬れ!」
ぎゃあああ死にたくない、軍旗に大砲、彫刻、鎧兜、様々な遺物やその展示台の上を、私は飛んで、逃げ回る! ひえっ、ひえっ、ひええええっ!?
「くそっ、このガラクタを蹴倒してしまえ!」
デニング氏はそう叫び、実際に私が足場として利用した胸像を土台ごと横倒しにしようとする……
―― バシャアアッ!
その瞬間、デニングはどこかから飛んで来た水と雑巾を浴びた……
「馬 鹿 者 が ァ ァ ア !!」
続いてこの天井の高い広い空間を埋め尽くす程の大音声が響く!? 私もこの半年たくさんの声のデカい人に会って来たが、この声は間違いなくナンバーワンだ! 凄まじい声量……この声なら巨大な戦列艦の上でも隅から隅まで、何なら隊列を組む僚船にまで聞こえるのではないか? 宝箱の上を踏み越えていた私は危うく気絶して倒れそうになった、こんな声一体誰が!?
「若造がここをどこだと思っている、我等のレイヴン島の人々を守り王国の威信の為に戦い抜いた英雄達の鎮魂の為、未来を担う若者達にその偉業を伝える為の、栄誉の殿堂であるのだ!」
デニング氏はたじろぐが、負けてはいなかった。
「な、何をこのじじい、さては通用口で俺を嵌めたって奴は貴様か!?」
20cmは背の高い働き盛りの保安官は、小柄な掃除夫のおじいさんに掴みかかる。
「よ、よせその方は!」
海兵の一人が叫んだ時には、デニング氏の体は竜巻に吹き飛ばされたかのように、錐揉みになって逆さに宙を舞っていた……
―― グワガラガッシャーン!
デニング氏の体はマネキンに着せられた鎧兜の上に落ちそれをバラバラにして床に広がって大きな音を立てた。
僅か数秒の間の出来事であるが、その間デニング氏以外の人々は、海兵隊員も海軍士官も事務員達も、触れる間もなくデニング氏をぶん投げてしまった小柄なおじいさんを見つめ、硬直していた。
うーん。あのおじいさん、元々は水夫だったのかしら? 私、貴方が水夫かどうか知らないけどなんて言っちゃったけど気を悪くしてないかしら。とにかくその間に私は壁の肖像画などに足を掛けてよじ登り、吹き抜けの上の窓に手を掛け、這い上がっていた。
良かった、この窓は開きそうだ……だけど私は結局、この海軍省で何も出来なかった。余計な騒動を起こしただけだ……もしかしたら今この瞬間にも、マカーティの処刑は行われているかもしれないのに。




