ハルコン「そんな不安そうな顔をする事は無い、仕事も少しずつ慣れてくれたらいい……まずは、このお仕着せに着替えるんだ」
ここでまたブレイビスの片隅、ダンバーさんの家の二人の姪の話。
三人称で御願い致します。
ブレイビスの霧は昼までには晴れた。それでも真冬のブレイビスの空はいつも通りどんよりとした雲に覆われていた。
私学舎から帰ったエイミーはライ麦の固パンの端を鋸刃でがりがりと切り落とし、それを水に浸してふやかし、味付けに小瓶に入ったマーマイトを塗りつける。
エイミーは出来上がったパン粥を見て小さな溜息をつく。これをデイジーに食べさせるのが大変なのだ。
「お昼が出来たわよ、デイジー」
ダンバー家は地下一階の一部屋の家で、奥の間を上下に仕切って使っている。上の段はさらに左右に仕切られていて、デイジーは自分の部屋の曇りガラスの窓の前で、木の板に木炭で文字を書いていた。
「勉強をしていたのデイジー?」
「うん」
「偉いね……お昼が出来たから、一緒に食べよう?」
「……マーマイトのおかゆ?」
「……そう」
デイジーはいつもそれを美味しくないと言って嫌がる。以前はそんな事はなかったのだが、半年前、改革派の教会がクリームを塗ったウエハースを配布しているのに出会ってしまったのだ。
甘いお菓子のようなウエハースを姉妹は夢中で食べた。それでも姉のエイミーはこんな物は滅多に食べられないのだという事を承知していたのだが、妹のデイジーはすっかり味をしめてしまい、苦くて塩辛いパン粥を嫌うようになってしまった。
「食べる」
しかしデイジーは今日は素直に立ち上がり、台所へ向かおうとする。
エイミーはホッとしつつも、その様子に違和感を覚える。デイジーが誰にも言われずに勉強をしていて、苦手なマーマイトのパン粥を素直に食べるという。
何かが怪しい。
梯子を降りて行く妹を見届けてから、エイミーは辺りを見回す。ここにあるのは低く小さな寝台と小さな机の他は、服などを入れる木箱だけだ。エイミーはその木箱を開ける。
「……あっ!?」
木箱の一番上に入れられていたのは今朝、井戸の広場の掲示板で見た、英雄のような少女の手配書だった。
「おねえちゃん……!」
異変に気づいたデイジーが再び梯子を登って来た時には、姉は木箱から手配書を取り上げていた。
デイジーの背丈では手が届かなかったのだろう、一番下を摘まんで引っ張られた手配書は途中で破れて、似顔絵は頭の左上の所が欠けていた。
「デイジー……あなたこれを盗ったの?」
振り向いた姉から、デイジーはすぐに視線を逸らす……しかしそこで何かを思い直したのか、真っ直ぐに姉の方に向き直る。
「ごめんなさい、だけどこの絵があればお金がもらえるってデニスが言ってた!」
「そんな……デニスはなんでも大袈裟に言うのよ、あんなの本当かどうか解らないし、それにこれは泥棒よ! 手配書は盗んだらいけないのよ!」
「うそ!? そんなのうそだよ!」
「うそな訳ないでしょう! 手配書破りは捕まえるって、掲示板にも書いてあるのよ!」
「そうじゃない! お金がもらえないなんてうそでしょ!?」
デイジーは目を見張り、姉に飛びつく。
エイミーは怒りに震えていた。まさかこんな事が起きるなんて。妹が、デイジーがお金欲しさに泥棒を働くなんて。こんな事がジョフリーおじさんに知れたらどうなるか。おじさんがどんなに失望するだろうか。
「あんたねえ! いつから泥棒してまでお金が欲しいと思うようになったの!? あなたのお父さんとお母さんは……!」
そこまで言い掛けてエイミーは口籠る。父が亡くなった時のデイジーは2歳で、デイジーは父の事は顔も覚えていない。母が亡くなったのは5歳の時。しかし亡くなる二年前から病気がちだった母の事を、やはりデイジーはあまり覚えていない。
母の看病をしていた自分は、繰り返し母から、盗みはいけない事だとか、卑しい仕事はしてはならないと教わって来た。しかしデイジーは病がうつる事を恐れて遠ざけられていた。
自分と違い、デイジーは両親の愛情を受ける時間が少なかったのだ。
「……天国のお父さんとお母さんは、あなたが泥棒をしたと知ったら悲しむわ。勿論、ジョフリーおじさんも。おじさんは立派な陸軍大尉なんだから。国王陛下の家臣なんだから……デイジー。おじさんに正直に話しましょう」
エイミーは自分の心を落ち着けながら、妹にそう諭した。しかし。
「イヤ!!」
デイジーは激しく首を振る。
「どうして!? あなたそこまでしてお金が欲しいの!? お父さんやお母さん、おじさんを悲しませてまで、クリームのかかったお菓子が食べたいの!?」
堪忍袋の緒が切れた。エイミーはデイジーを捕まえて叩こうと前に出る。
しかし。エイミーが手を振り上げるより先に、デイジーは姉に抱き着いて来た。
「お金なんかいらない!! だけどお金がないとお姉ちゃんがハルコンさんに取られちゃうんでしょう!? そんなの絶対イヤ!! 私お父さんもお母さんも居ないのに、お姉ちゃんも居なくなっちゃうのは絶対に絶対にイヤ!!」
ハルコンは近くにある廻船問屋の主人で、慈善事業と称して幼い少女を何人も女給として雇い、屋敷に住まわせている。
世間では篤志家として知られている彼だが、一方で彼の家に買われて行った少女達は、やがて感情を失くした人形のようになるとも、陰で噂されている。
そんなハルコンは近所の貧しい傷病軍人の家で養育されている、見た目は良いが幸薄い少女エイミーにも目をつけていた。
デイジーは込み入った事情は何も知らない。ただ、時々ハルコンの代理人がやって来てジョフリーおじさんに、エイミーをハルコン家の住み込み女給として働かせるよう説得しているのを聞き、危機感を募らせていたのだ。
父も母も知らぬデイジーにとって、優しく世話好きな姉エイミーはその二つを掛け合わせたのと同じ大事な存在だった。
「デイジー……あの話はおじさんが断ったわ」
「だけどお姉ちゃんは行ってもいいって、おじさんに言ってた! 何で!? どうしてあんな事言うの!?」
エイミーは確かに伯父のジョフリーにそう言った。私、おじさんが許してくれたらハルコンさんの家に行くと。
実際ハルコン家の代理人の言う条件は全く悪くないのだ。エイミーはハルコン家で養って貰えて私学舎にもそのまま通わせて貰えて学費も払って貰える。その上でエイミー自身に払われる給与の他に、親権者であるジョフリーにも手当てが払われる。
ジョフリーは一人食い扶持を減らした上に毎月いくらかのお金を受け取れて、余裕を持ってデイジーを養育出来る。
しかしジョフリーは話を断り、エイミーにもそれを忘れるようにと言った。
エイミーは溜息をつき、手配書を一旦箱の上に戻す。それから、自分の胸にすがりつき泣きじゃくる妹の頭を撫でてやる。
「ごめんね。とにかく私、ハルコンさんの家には行かないわ」
「うえっ、グスン……ほんとうに? 神様に約束出来る!?」
「私だってデイジーと、ジョフリーおじさんと一緒に、ずっとこの家で暮らしたいもん。一人でハルコンさんの家に行くのはイヤよ」
「ふえっ、じゃあどうしてあんなこと、どうしてあんなこと……わああああん!」
ますます声を上げて泣く妹を抱きしめながら、エイミーは箱の上に置いた手配書を見つめる。
頭の左上の所が少し欠けてしまった英雄の少女はきりりと唇を引き締め、どこか遠くの一点を見上げていた。
デイジーは神様に約束出来るかと言うが、自分は今、デイジーがしてしまった泥棒を何とかごまかす方法を考えなくてはならない。こんな気持ちの時に神様には祈ってはいけないような気がする。
自分は一体どうすればいいのか。この英雄の少女がここに居たら、それを教えてくれるのだろうか。




