カイヴァーン「姉ちゃんも居ない……ぶち猫も居ない……」シクシク
ブレイビスに着いて早々、早速予期せぬトラブルに巻き込まれたマリー……巻き込まれたというか、首を突っ込んだと言うか。
ちょっとマリー以外の話をさせて下さい。この話は三人称で御願いします。
かつては陸軍の大尉だったジョフリー・ダンバーは、戦闘で重傷を負った後に除隊扱いとなり、その後いくつかの仕事を経て、今は船で運ばれて来た石炭を陸揚げする作業場で働いていた。
「ただいま……遅くなってすまない」
集合住宅の地下部分、水路に面した薄暗い場所にある彼の家では亡くなった妹夫婦の娘、9歳と7歳の二人の姪が待っていた。
「お帰りなさい! ジョフリーおじさん!」
「ねえねえ! 今日はお給料の日だったのよね!?」
「あ、ああ、だけど給料日というのは、借金を返さなくてはならない日でもあるからな、それに金は大事にしないといけない……いや……」
二人の姪を抱えたジョフリーの生活は苦しく、給料を借金の返済に取られ、金が無くなってまた借金をする、そんな事の繰り返しだった。
それでも今日は姪達に何か美味い物でも買って帰ってやろうと、返済分から銀貨を一枚だけ減らしてポケットに入れ、帰りの路地裏の商店街で、焼き菓子でも買おうとしていたのだが……そこで災難に遭った。
たまたま見掛けてしまった泥棒を告発しようとした所、用意周到だった敵にいいように愚弄され、逆に無実の罪を着せられてしまったのだ。
そこを助けてくれたのは、おかしな仮面をつけた小柄な貴族の青年だった。青年の行為は一歩間違えば自分も無実の罪で民衆から袋叩きにされかねない危険を冒したもので、ジョフリーは彼に何も報いずにその場を立ち去る事が出来なかった。
青年は自分と違い身形も良く金になど困っていない様子だった。だが彼は、ジョフリーの差し出した銀貨を快く受け取ってくれた。恐らく彼は自分を傷つけないようにする為そうしたのだろうと、ジョフリーは思った。
「エイミー、デイジー……何か買って来ると約束したのは俺の方だったな。すまない。なあ、俺にもう一度チャンスをくれないか? 次の機会には絶対、そうだな、焼き砂糖の掛かった甘い焼き菓子を買って来るから!」
二人の姪は、つぶらな瞳で少しの間、苦笑いを浮かべる伯父の顔を見上げていた。先に口を開いたのは下の子、デイジーの方だった。
「いいのよ、おじさん、わたしたちお菓子がなくても平気なのよ」
上の子、エイミーも頷く。
「そうよ、私達おじさんの家で暮らせるだけでも幸せだもの。ここは暖かいし雨も風も気にならないわ」
それを聞いたジョフリーの心は締め付けられた。幼い子供達に気を遣われる事の、なんと情けない事か。約束一つ守れない自分を責めない、その純真で真っ直ぐな視線は、自分を指差し盗賊だと叫ぶ大衆の蔑む視線の何倍も深く、ジョフリーの胸を切り裂いた。
「ありがとう、二人とも……大丈夫だ、来週は必ずいい物を買って来る。店は今日見つけて来たから、大丈夫だ」
◇◇◇
同じ頃。パスファインダー商会の商船、フォルコン号はコンウェイの港の片隅に佇んだままで居た。
船長のマリーは二日前、書き置きを残してどこかに消えた。
朝から出掛けていた、覆面姿の不精ひげが戻って来る。
「すまん。手掛かり無しだ……チューダー艦長はマリーには会っていない」
マリーは先日不精ひげの後を追いトレリムを訪れた時に、チューダー艦長の姿を見て「何か聞きたくなったら戻ってくればいい」とカイヴァーンに言っていたという。
それで不精ひげは念の為、カイヴァーンと共に隣町トレリムに旧知のチューダー艦長を訪ねて行ったのだが。
「そうか……仕方が無い。とにかく船長はこの通り指示をしとるんじゃ。無断で船を動かす事は出来んの……あと五日、フォルコン号はここに居らんと」
今回のマリーはいつもと違い、きちんと後の指示を残して行った。
自分が一週間経っても戻らなければ、ロングストーンへ向かえと。自分が居ない間の船長はロイであると。
船の中で唯一、船長の保護者を自認するアイリは、最初はいつも通り怒っていたのだが。
「私が悪いのよ……マリーちゃん、きっと嫌気が差してたんだわ。相談したら私は何でも駄目だ駄目だって言うから。だからいつも、誰にも相談しないで出掛けるのよ……」
今は酷く萎れた表情で、会食室の片隅で背中を丸めていた。
「よせ、アイリ。船長はそういう物の考え方をする人では無い」
元気の無いアイリに代わり珍しく料理係を買って出ていたウラドは、赤ビーツをベースにした野菜のシチューの皿を持って厨房から現れる。
「おっ、ウラドが作るボルシチか、久しぶりだな。皆はもう食べたのか?」
腹を空かせていた不精ひげは早速会食室の席に着き、皿に匙を伸ばす。
「もちろん食べたよ。そういえばさ、マリーは食べた事無いんじゃない? ウラドの料理」
近くの船員室でそれを聞いていたアレクが答える。
船の仲間達は勿論ウラドが船で一番の紳士である事も、筋骨隆々の堂々とした偉丈夫ながら意外と器用である事も知っている。
しかしウラドの方にはいつまでも遠慮深い所があった。世間では、謂れなき差別を受けている彼等の種族が料理人として採用される事は殆ど無いのだ。
「マリーにも食べさせてあげたらいいのに。船長、ウラドが料理も上手だなんて知らないと思うよ」
「ああ、アレク、それは、その……」
「アレクの言う通りよ……料理だって本当はウラドの方が上手なのよ!」
「アイリ、それは違う」「あああ、アイリさんそういう意味じゃなくて!」
アレクの言葉を捉えてなおもいじけるアイリに、ウラドが、アレクが言い訳をしようとする。代理船長のロイは会食室の天井を仰ぐ。
「やれやれ……船長も罪作りな事をするのう……わしらがいつもアイリさんにどれだけ元気を貰っているか、そんな事は揺るぎの無い事実じゃ。だけど今、アイリさんは船長のせいで元気を無くしている。そしてわしらは、そんなアイリさんを見ているのが辛い。わしらはアイリさんに元気を出して欲しい……全く。悪いのはマリーじゃ。いくら何でも最近のマリーはフォルコンに似過ぎじゃろう。今度戻って来た時こそ、わしも一言言わねばならん」
ウラドは黙って洗い物をする為に厨房に戻る。アレクも話すのをやめ、船員室で行っていた模型作りに気持ちを戻す。
アイリは顔を上げ、ロイの方を見る。
「ねえ。マリーちゃんのお父さん……フォルコン船長って、どんな人だったの?」
この話をアイリが振って来る事は今まであまり無かった。マリーがあまり父親の事を話したがらないので、アイリが遠慮していたのだ。アイリ自身、父親と喧嘩して家を飛び出した身の上でもある。
しかしアイリは最近ウインダムでマリーとその母ニーナの邂逅を目撃していた。その時に解ったのは、フォルコンという人は元妻からも娘からも、見た目ばかりで頭は空っぽの男と呼ばれていたという事である。
だけどリトルマリー号からの水夫、ロイもニックもウラドもアレクも、フォルコンの事は尊敬しているらしいのだ。その気持ちは折々につけて、言葉の端々から伝わって来る。
そして何より、マリー自身が父フォルコンの事が大好きらしい。マリーはよく船に残っていた父の服を寝間着代わりに着ていて、時々父が書いた航海日誌を眺めてはニヤニヤしている。
一体、フォルコン船長というのはどんな人物だったのか? アイリはようやくその事を深く考えるに至ったのだ。
一方、ロイは急に最近の出来事の一つを思い出していた。
◇◇◇
「ホッホッ。船長の一声で大慌てで港を出るなんて、フォルコンの頃から慣れっこじゃ、そういえば昔」
ロイがそう語り出した瞬間、マリーは顔色を変えて飛びついて来てロイの口を手で塞ぎ、辺りを見回し、真顔で言った。
「今の話がラビアンの事なら以後絶対口外無用でお願い」
「モゴ、モゴ、わ、わかった」
◇◇◇
「ああ……散歩が好きで良く迷子になる男じゃった。たいそうな食いしん坊での。各地の美味い物を食べるのが大好きで……」
ロイは、自身の内側から何となく湧き出る罪悪感を制しつつ、伝えても差し支えの無さそうな情報だけを選び、口に出す。
アイリは苦笑いを浮かべ、肩をすくめる。
「そうなんだ……それは確かに、マリーちゃんと似てるかもしれないわね」
不精ひげはそんな二人のやり取りに気づかないかのように、無心でウラドが作ったボルシチを啜っていた。




