猫「しまった、あやつ一人で行く気かッ……拙者とした事が何たる不覚」
ヘッジホグ号の水夫達が次の行先を話しているのを聞き、密航してブレイビスにやって来たマリー。
くどいようですがマリー達が居る世界は17世紀初頭の地球に良く似た架空世界です。ブレイビスは現実世界のロンドンに相当します。
1616年のロンドンのパノラマ図というのがありまして、Wikipediaの「ロンドン橋」の項目に抜粋したものが載ってるんですけど、ワクワクしますよ、これ。
ヘッジホグ号は係留索で河岸に造られた大きな人造の入り江の方に曳かれて行く。私はその途中にあった浮き桟橋へ、舷側の外壁を蹴って飛び移る。
桟橋には勿論、港湾役人や作業員が居て、3mばかりの水路を飛び越えて来た私を驚いた表情で見ていたが。
「やあ失礼。司令部に急ぎの用があるんだ」
私は落ち着いてスカーフの乱れを直し、帽子を被り直してそう言いながら、優雅な足取りで彼等の間を歩いて行く。堂々と、さも当たり前のように。
誰も私を止めませんように……
ヘッジホグ号の方からも桟橋を歩く私に気づいた者は居たようだが、それが先程までヘッジホグ号に密航していた不審者だとは思わなかったようである。
ぶち君の事も心配だけど、まずはこの場を離れないと。せめてヘッジホグ号と一緒に居てくれると良いのだが。
ともかく、こうしてフレデリク・ヨアキム・グランクヴィストは夕闇迫るブレイビスに上陸した。
こんな時間だと言うのに係留場の周りでは多くの男達、女達が働いている。街路には大型のランプが景気良く灯されていて、船から降ろした荷物を積み込まれた荷馬車が、鐘を鳴らして出発して行く。
船の上からも見たが、建物は皆高く、密集している……サフィーラやディアマンテだって、広場から辺りを見渡せば、港はどちらにあって、城は屋敷町はどちらにありそうだという事が解ったのだが……この町では無理だ、城のように大きな建物なんて町中にあるし、尖塔も目印にならない。
どうしよう。無理です。これはヴィタリスのマリーには無理です……
コンウェイ周辺の海岸線を見た時には、何だ、レイヴンなんてこんなもんかと思った。海洋強国レイヴンとはいえ、歴史の長い内海の国々に比べたら田舎だったのかと……レイヴンの皆さま、思い上がった真の田舎者をお許し下さい。
私はまだ誰かが見ているといけないと思ったので、桟橋からここまで立ち止まらず、振り返らずに歩いて来た。
そしてどうにかやや広い四辻に出た私は、そこでようやく立ちすくむ。
表通りには至る所にランプが灯され、馬車が行き交い、身形の良い善男善女が散策している。
まだ営業している商店も多く、当たり前のように板ガラスを張られた窓の向こうから、燭台の灯りが漏れている。
立派な制服を着た衛兵が二人、きびきびとした足取りで通りの向こうからやって来る。私は何となく緊張して固まっていたが、衛兵達は私など見えなかったかのように目の前を通り過ぎて行く。
私は何となく自分の服装に目を落とす。
今着ているのは勿論、キャプテンマリーの服だ。半年前にオレンジで偶然大儲けした時に、申し分の無い高価な生地を買って自分で作った青いジュストコールと白のキュロット、膝丈ブーツの貴公子風の服だ。それに羽根飾り付きの帽子とアイマスクをつけている。そこまではいい。
だけど私は他の恰好をしたくなった時に備えて、いくつかの衣装や荷物を入れた背負い袋を背負っている。この袋はヴィタリスのマリーがヴィタリス時代から行商に使っている物だ。はっきり言って、今の恰好に合ってない。
普通、貴公子は荷物なんて従者に持たせるのよね。自分で背負ったら貴公子じゃないよ……そんな事を考えた途端、私は自分がこの街では異物なのだという事に、あらためて気づいてしまった。
「……」
どうしよう、何か恥ずかしくなって来たっ……! 駄目だ、こんな事じゃ駄目ですよ、これは私のような者にありがちな典型的な悪習、「気後れ」というやつである、だめだマリー、気後れに負けるな、私はマカーティに会いに来たんですよ!
……
サフィーラやディアマンテだって大都会だったけど、あの時はエステルが居てくれたんだよね。
エステルは勇敢で有望な剣士で、今はコルジアの女王と王子を救うという大手柄を立て世襲貴族に叙任された。エステルは武芸だけでなく、宮廷舞踏会でも通用するダンスが出来て、美味しい甘味のお店にも通じた、洗練された花も実もある都会の騎士だった。
ああ。エステルは身長は私と同じくらいだったけど、本当に綺麗な子だったな。去り際に見たきりりとした表情と、別れを惜しんで流してくれた小さな一粒の涙が記憶に蘇る。
だけど私がこの町であんな素敵な味方を得られるあては無い……
「スリだー!」
その時。路地裏で誰かが叫んだ。ええっ!? 何、スリですって!?
「ウソだ! 俺はスリなんかじゃない、だがそいつはひったくりだ!」
「何だとこの野郎! そいつはスリなんだ、みんな騙されるな!」
あああ、やっぱり私まだレイヴン語は良く解んないよ、スリだとかひったくりだとか言ってるのは解るんだけど……
そうこう言っているうちに路地裏から男が二人、掴み合いながら飛び出して来る! 片方はゆったりした上着にオードショースにタイツの紳士、片方は煤けたシャツを重ねて着た長ズボンの労働者……
「諸君! その野郎はスリだ、民衆の敵であるぞ! 私ははっきりと奴の犯行の瞬間を見た!」
紳士風の男が労働者を指差し、高らかに宣告する。
「ち、違う、デタラメだ、そいつは確かにさっき、あっちで、」
労働者風の男はしどろもどろに叫ぶ。その言い分は要領を得ていない……
「その男がスリだ!」
そこへ。通りに居た別の男が、労働者風の男の方を指差して叫ぶ。
すると周辺で様子を見ていた人々が、次第に労働者風の男の方に近づいて行く。
「違うんだ……待ってくれ、俺じゃない……!」
「お前がスリなんだな?」「何を盗んだ?」「スリは鞭打ち刑だぞ!」
人々の輪が、労働者風の男を取り囲むように迫る。
叫喚追跡。それは基本的に地域の治安維持はその地域の住民が責任を持つというレイヴン人の哲学から生まれた習慣だという。良く言えば彼等は領主や役人に任せきりにする事なく、自分達の町の治安は自分達で守るのだ。
しかしそれは時に、このような理不尽を生み出してしまう事もある。
「スリを捕まえろ!」
人々の波が労働者風の男に殺到する。私も慌ててその人波に駆け寄る。
「待て! 皆落ち着け!」
「衛兵に突き出せ!」「盗んだ物を出せ!」
私は叫ぶが、周りの人々も口々に叫んでいるので一向に埒が開かない。チビで非力な私には人波を押しのけて進む力も無い……短銃を取り出して威嚇発砲してみようか? 駄目だ、そんなお姫マリーみたいな真似今の私には出来ない。
「その男は無実だ、よせ!」
私は自棄になって人波によじ登り、その肩や頭の上を越えて輪の中に飛び込む。
実際にスリと呼ばれた男を抑えつけていたのは、二人の筋骨隆々の、やはり労働者風の男だった。
「何だお前!? この男の仲間か!?」
ぎゃあああ怖い!! いきなり乱入した私に、二人の男も輪を作る民衆も怒りの目を向けて来る!
「スリの仲間がどんなバカだったらこの輪の中に飛び込んで来るんだよ! この男がひったくりだと叫んでいた方の男はどうした!?」
「や、野郎、何言ってるんだ!?」
「逃げたんだよ!! あの貴族風の男は向こうへ逃げた! 二番目にこの労働者をスリだと呼んだ男も逃げた! あの二人は何で逃げたんだと思う!?」
輪を作っていた民衆が少し後ずさる。
「そ、そんなの、衛兵を呼びに行ったに決まってるだろう……」
二人の筋骨隆々の男はまだそう言いながらも、スリと呼ばれた男から手を離す。私は尚も辺りを見回して言う。
「誰か! この男に何かすられたという人は居ないか!」
「あ……あたしだよ……」
人々の輪の中から、買い物用の篭を持った、小柄な初老の婦人が名乗り出る。
「貴女は彼に何を盗まれたのですか」
「篭に入れていた財布だ、赤く染めた木綿で、黄色い緒がついているよ……だけどあの……あたしは盗まれた瞬間を見ていなくて……」
「だったら、調べてみてくれ」
スリと呼ばれた男はそう言って立ち上がり、いきなり服を脱ぎ出す。
男を取り囲む民衆がどよめき、さらに後ずさりする。特に女性は殆どがこの場を離れて行った。
男は二枚のシャツを、その下の肌着を脱ぐ……中年のその男の脇腹には痛々しい大きな古い傷跡があった。ソーンダイク号を救援をした時に見た事がある……これは砲撃で飛び散った木片などに切り裂かれて出来た傷ではないだろうか。
男はさらにズボンも脱ぎ出す。
「黙って見てないで調べてくれよ、ポケットやなんかに、その赤い財布が隠れてないか」
一月のブレイビスの夜の空気は、肌に刺さる程には寒い……そんな中で裸になった男から、私は必死で目を逸らす。
「無いよ。財布は無い。別の罪で逮捕される前に、服を着直してくれないか」
服の中には男の財布も無かった。この男の所持金はポケットの中に入っていた銀貨一枚だけだった。
「あの……あたしもいつ盗まれたか解らなかったんだよ……」
「間違った疑いを掛けて、すまねえ……」「俺達が悪かったよ」
財布を盗まれたという婦人と、二人の筋骨隆々の男は、疑いが解け服を着直している男にそう言って詫びた。
私は納得が行かない。
憎いのは善意の発見者を逆にスリだと告発し、ひったくり犯には見えないような身形、巧みな弁舌、近くに用意していた共犯者を利用して逃げた、手慣れた盗賊共である。
そしてもう一つ。さっきまであんなに大勢でスリと呼ばれた男を囲んでいたのに、いつの間にか一人残らず居なくなっている、都会の人々だ。
都会の人というのはとにかく忙しいらしい。仕事、遊び、付き合いに買い物、高い家賃と重い税、学問や副業……恐らく、見知らぬ他人の不幸になどあまり関わっていられないのだろう。
犯罪者を告発しようとして逆にスリ扱いされ追い詰められて裸にまでなった男。結局の所財布を盗まれてしまっただけの御婦人。正直に男を取り押さえた為に、残って謝罪する羽目になった二人の男……
一方、まんまと財布を盗んで逃げおおせた男とその仲間は、今頃どこかで笑っているのか。
スリ扱いされた男は元通り服を着終えると、御婦人に向かって言う。
「どうする? 一応衛兵の所に行くか? 犯人の事を一緒に話してやるよ」
「ええ、いいのかい……? あたしゃ、あんたが疑われてる時も黙って見てたんだよ……この人が来てくれなかったら、どうなってたか解らなかったじゃないか」
御婦人は横目で私を見ながら、俯き気味にボソボソと話す。
「それが自分達の住む町の治安は自分達で守る、レイヴン人のやり方だ……ああ、あんたは良く飛び込んで来てくれたな……見ず知らずの俺の名誉を守ってくてありがとう。頼む。どうかこれを受け取ってくれ」
男は私の方に向き直り、ポケットに入っていた唯一の財産である銀貨一枚を、私に向けて差し出した。
私は勿論、そんな物を受け取りたくはなかったが。これを断る事は、折角取り戻した彼の誇りをいくらか傷つけてしまう物になるのではないかと思った。
「報酬が欲しくてした事じゃないけれど、有難く受け取らせて貰うよ」
「ああ。それじゃ行こうぜ姉さん……お前らも、あんまり気にするなよ」
冤罪を掛けられた男は最後に二人の筋骨隆々の労働者にもそう声を掛け、財布を盗られた初老の婦人と一緒に立ち去って行った。
それを見て、二人の男も顔を見合わせると、私に向かい気まずそうに会釈して、黙って立ち去って行く。
怖い。
都会は、大都会は怖い……田舎じゃこんな事は起こらん。少なくともヴィタリスでは絶対無いよ。
一人取り残された私は少しの間、その場で呆然としていた。




