スペード卿「小さくて可愛い子だけど、何だかレヴナンでマリオットの計略を破った人物と特徴が似てるね? もしかして同一人物?」
17世紀初頭のイギリスにバッキンガム公爵という人が居ます。地方の地主の三男に生まれながら廷臣として若くして出世し、ナイトになり伯爵になり侯爵になりついには公爵となり、大いに権勢を振るったという。名作「三銃士」にも脚色されて出て来ますね。海軍卿にもなっています。
あっ、勿論当作品に出て来るスペート侯爵とは関係ありません、はい。
「素晴らしい解決手段だよ、道慣らし屋君!」
スペード卿は、園遊会の中を歩いている時と同じように、優雅に軽やかに……しかし圧倒的な存在感を放ちながら、水夫や士官達の間を切り開いて現れた。
「……マリー・道案内屋ですわ」
彼はさらに、お付きの者を桟橋に待たせ一人でブリッジを渡り、私とプリチャード司令官の間に割り込む。
「これは失礼、淑女の名前を間違えるとは何たる不覚、申し訳ない。自己紹介がまだだったね。私はジョージ・ウッドヴィル、世間ではスペード侯爵で通っているよ」
私が口を開く前に、プリチャード司令官が侯爵に向き直る。
「素晴らしい解決手段とは……どういう事ですかな? 侯爵閣下」
侯爵は肩をすくめる。
「ああ、勿論話すとも。とは言うものの、どこから話し始めたものか。そうだね……海賊フレデリク・ヨアキム・グランクヴィストがプレミス周辺に潜んでいるという事は、皆聞き及んでいるだろう? 奴はレイヴン王国の大敵だ。それなのに、プレミスの司直は未だに奴を捕まえられずにいる……どうも奴は、スパイを使って司直の動きを読んでいる節がある。そこで私は一計を案じた。秘密裏に組織した大捜索隊を編成し、一気に追い詰めようとね」
侯爵は音楽的な高らかな声で、歌い上げるようにそう言った。
数人の水夫がいきり立つ。
「それが何故脱走事件になるんだよ!」
「俺達は裏切り者にされる所だったんだぞ!」
「待って、それはいいの! 脱走事件は無かったんです!」
私は水夫達の方を向いてそう叫ぶ。侯爵はそれを聞いて笑う……
「ははは、君とは気が合いそうだ」
私も、こんな事はおかしいと思わないでもない。
だけど私は臆病な俗物で、正義より日々の生活が大事なのだ。
「彼女の言う通りだよ。誰かが傷つく必要は無いんだ。つまりね。この艦隊には脱走した水夫も、脱走を見抜けなかった士官も、その後の処理で24時間以内に船を出港出来る状態にしなかった艦長も居なかった、そういう事さ! はははは……」
水夫達も、士官も沈黙する。プリチャード司令官も。黙って、愉快そうに手を広げる侯爵を見ているだけだった。
侯爵は笑うのを止め、嘆息する。
「いや、結局フレデリクは逮捕出来なかったのだ、笑っている場合じゃないな……解っているよ。水夫達を連れ出すよう命じたのは私です。だけど他の錨地から水夫を連れて来る手筈を整えていたのも私だよ? 私はね、海賊捜索のついでに、水夫の入れ替えをしてあげようと思っただけなんだ。1100人が去るけど、1300人が来るんだよ? 海峡第二艦隊は損なんかしてないだろう?」
プリチャード司令官は無表情で頷く。
「なるほど。しかし何故そのような事を?」
「クラッセとの停戦が成立して暫く立つ。平和なのは結構な事だが、海軍では同じ船に三年も五年も乗っている乗組員も増えているそうじゃないか」
侯爵は辺りを見回しながら、シルバーベル号の波除け板に腰掛ける。
「そういうのは、あまり良くないんだよ。艦長や士官と水夫、お互い情が移り過ぎるのはね。15年前にはそんな事件も起きたらしいよ? とある艦長が格上の軍艦に挑み見事勝利した。しかし味方の乗組員も半数以上が死んだ。その艦長は嘆きのあまり、国王陛下の御召しをすっぽかし、海軍を辞めて逃げてしまったんですって! 困るだろう、そんな事じゃ。だからね、軍艦の乗組員は時々入れ替えなきゃ駄目なんだ……ああ私は勿論、移動が済んだら種明かしをするつもりだったとも」
侯爵の弁明を聞き、完全に納得したという者は居ないだろう。
水夫達は自分の知らない所で脱走兵扱いされていたのだ。後で種明かしをするからいいというものではない。
司令官や提督、艦長、士官達はこの件で大いに胸を痛めた。責任を感じて悩み、善後策に追われた。水夫狩りをしなくてはならなくなったエイヴォリー艦長だって被害者だ。
勿論、私だって納得など行かない。
だけど恐らく、この男はこのくらいの事では倒せないのだ。彼はレイヴン国王の特別な信任を受け、この若さで侯爵となり、海洋王国レイヴンの海軍卿にもなろうとしている人物である。
だから今はこの男を追い詰める事より、なるべく多くの人が少しでも幸せになる幕引きを考えなくてはいけない。
「どうしました? お嬢さん。私の顔に何かついてますか?」
「あ……いえ……」
「ああ! そうでした、彼の話もしないとね、そうそう」
スペード卿は立ち上がり、甲板の片隅を指差す。そこには……既に港湾司令部の憲兵に囲まれ、項垂れているエバンズ艦長の姿があった。
「エバンズ君。私は君を賢い人間だと思ったから引き立てたのに……とんだ眼鏡違いだったよ。いやあ、実に残念だ」
侯爵は左手を小さく振り、溜息をつく。
「プリチャード閣下。私は確かにフレデリク捜索と水夫の転勤の為の段取りを彼、エバンズに依頼しました。だけど私は漁師を襲って監禁しろなどと言った覚えはありません。それで……そんな事をした理由が何だって?」
侯爵は、周りの水夫達に問い掛けるようにそう言った……恐らく、彼はもうその答えを取り巻きの人間にでも聞いてあるのだろう。
「女装癖があるのを、隠したかったんだとよ!」
「昔の友達にバラされるのが、怖かったんだ!」
水夫達が笑い、嘲る……エバンズはたちまち甲板に顔を伏せる。
「そ、そんなに笑う事じゃないよ! 女装が好きなのは別にいいじゃない、好きならすればいいんだよ! 人に迷惑を掛けるのは悪い事だけど、女装そのものは! 別に悪い事じゃないよ!」
そこだけは一抹の罪悪感を感じずにはいられない立場の者として、私は思わずそう叫んでいた。ハリーさんはエバンズは女装では誰にも迷惑を掛けなかったと言ったが、私は男装でどれだけの人に迷惑を掛けたか解らない。
だけど水夫達は、ますます笑う……しかし、そこへ。
「そうだよエバンズ君! 君ね、女装は紳士の嗜みだよ? はっきり言って私にも心得がある。自分で言うのも何だが……それはもう美しいぞ?」
侯爵が自信満々そう言い切ると。水夫達はぴたりと、笑うの止めた。侯爵は肩をすくめて続ける。
「それを恥じ入り脅迫を恐れ、竹馬の友を不当逮捕し、持て余した挙句最後は殺害しようとしたんだって? 有り得ない愚か者、薄情者だよ。ねえ君?」
侯爵は苦笑交じりにエバンズにそう言い、最後に私の横顔を覗き込んで問い掛ける。私はただ、赤面するしかなかった。
「全く。こちらの淑女の方が余程女装に理解があるじゃないか……やっぱり私と君とは気が合うみたいだねえ? そうだね? うん」
侯爵はそう続け、一人で頷いてから……プリチャード司令官の方に向き直る。
「プリチャード閣下。エバンズにシルバーベル号の使用を許可したのは私です……誠に監督不行き届きでした。申し訳ない」
侯爵はそう言って、軽く会釈した。プリチャード司令官は真顔で会釈を返す。
「こんな夜更けに御苦労様でした、侯爵閣下。エバンズについては正規の手続きで取り調べを行い、軍法に照らし正しい処罰を下します」
◇◇◇
侯爵は船を降り、供を連れて悠々と帰って行った。
「君は何故、我々にこのような事をしてくれたのだ?」
いつの間にか私のすぐ横に立っていたプリチャード司令官が、小声でそう言った。
彼の部下達は波止場でこの騒ぎの収拾を始めていた。
「各船の士官は騒いでいる水夫共を集め、さっさと収容するように!」
「お前達! 自分の家に帰れ! 今、何時だと思ってるんだ!」
ここにはもう私と司令官しか居ない。私は斜めを向いたまま、司令官の問いにアイビス語で答える。
「ですから、アンソニー船長とハリーを救う為……」
「目的がそれだけならこのような方法を選ぶ必要は無いだろう。君は我がレイヴン海軍に恩を売りつけた。その事を主張しないのは何故だね? 海賊としての矜持というやつかな?」
プリチャード司令官はそう言って悪戯っぽく笑う。それは閣下なりの冗談なのだと思うが、この事ははっきりと主張しなくてはならない。
「閣下。私共は海賊ではありません、ロングストーン船籍の商船です、私が海に出たのは父が……海に飛び込んでから半年後の事です……一人の家族として父が貴国に迷惑を掛けた事は申し訳なく思いますが、私は父が海で何をしていたのかを存じません。本当です」
「む……うむ」
「私は貴国に恩など売りつけていません、うちの積荷にそんな物は無いし、あの水夫達は自分で気づいてここに戻ったのです」
プリチャード司令官は波除け板の手摺りを掴み、湾内を見渡す。
大湿原に居た水夫の半分くらいは、湾内に居た自分達の船に戻って行ったようだ。
残りの水夫の船は遠くに停泊していてすぐには戻れなかった為、こちらの騒ぎに加わってくれていた。今は彼等も海軍士官の指揮により、自分達の船へと帰還して行っている。
「君は、そう言うが……彼らが君に感謝する事は止められんよ」
脱走したと思われていた水夫達が戻って来た各艦では、ランプを盛大に灯して帰還者を迎えている……
「船は家、船員は家族……家族が家出をしたと思えば残された者は悩み苦しむ……そんな風に馴れ合いが深まってしまうのは良くないという、スペード卿の言葉も間違いでは無いのだが。海の上の戦いは孤独で執拗で恐ろしいのだ……仲間達との絆、それを全く無しにして乗り越えられる物でもない。君も船乗りなら、解るだろう……いやお嬢さん、そんなに畏まらないでくれ、ただの年寄りの長話だから」
私はいつの間にか、プリチャード司令官に真っ直ぐに向き直り、直立不動でそれを聞いていた。
「しかし困ったな……恩を売ってくれないと言われると。司法局は君を賞金手配しているのだ、この脱走騒動を収めたのが君だという事にしてくれれば、我々が君を黙って見送る事にも恰好がつくんだが」
私は肩を落とし、溜息をつく。
「脱走事件は無かったのです。そして私はレイヴン司法局に追われるような事は何一つしていないという矜持を持っております。ですが……もし閣下が密かに、密かに恩に着ていただけると仰るのであれば」
「うむ……何だね?」
「ヴィクター提督にお伝えいただけませんか、ジャック・リグレーは元気で、船乗りの傍ら釣りや博打を楽しみ、夜にはエールを飲むだらだらとしたその日暮らしを楽しんでいると。そして彼も、提督の健康と幸運をきっと願っていると」




