エステル卿「綺麗な月だ。ディアマンテの夜を思い出す……マリーは今頃、どうしているのだろう」
とうとう千人の水夫達と共に海軍ヤードに強行突入してしまったマリー。
まさか自分が脱走兵にされていたとは知らなかった水夫達。水夫達が戻って来た事に驚く艦長や士官、船の仲間達。
引き続き三人称で御願い致します。
レイヴン海軍のシルバーベル号は、フリュートという型の貿易や漁業に使われる事の多い中型船を軍用に改造した物だった。普段は商船に偽装して、海軍の哨戒や通信などの任務に当たっている。
この船の本来の乗組員達は大量脱走事件が発生した直後に、他の戦闘艦の定員割れを防ぐという名目で全て他の船に取られ、船本体はこの機会にドッグに入る予定となっていた。
そのシルバーベル号を持ち出し、アンソニー・アランデル船長の漁船を臨検し海賊として拘束したエバンズは、今日の園遊会とその後のスペード卿との会食の後、本来の自分の乗艦カークランド号ではなくシルバーベル号の方に戻っていた。
シルバーベル号の船長室へ、急を知らせる水夫が走る。
「エバンズ艦長、港で騒ぎが起きています、艦長!」
扉を開けて出て来たエバンズは正規の海軍艦長の服ではなく、仕立ての良い絹のジュストコールを着ていた。
「何だ? こんな時間に……あれは一体何だ! どうして早く報告しない!?」
満月に照らされた海軍基地の波止場を、千人は居ようかという男達が走り回っている。それを松明を持った当直の守備兵などがどうにかしようとしているが、今動いている兵はせいぜい4、50人、まるで役に立ってない。
「各艦に応戦を呼び掛けろ! 我々は退避だ、この船は人員が少ない、何でもいい、抜錨して展帆しろ!」
「しかし、湾内で形振り構わずそんな事をすれば衝突事故を起こす可能性も……」
「そうならないようにするのが貴様らの仕事だろう! さっさとやれ!」
エバンズ艦長の命令一下、シルバーベル号の水夫は寝ていた者まで全て起こされ、抜錨と展帆の準備にかかる。しかしその人数は20人にも満たない……エバンズはこの船には、スペード卿から預かった信頼出来る水夫だけを残していた。カークランド号から連れて来た士官も一人だけ。他の者はカークランド号の方に返してある。
「早くしろ! くそ、あれは一体何の騒ぎなんだ……」
そうこうするうちに。ヤードの護岸から、水夫を満載したボートが一艘、湾内へと漕ぎ出す。エバンズは焦燥に顔を歪める……しかし、そのボートはこちらではなく別の船、ゴールドベリー号の方に向かって漕ぎ出して行く。
「あの、艦長、本当に抜錨するのですか」
「いいからやれ!」
波止場の別の場所では、男達が次々と海に飛び込んで行く。エバンズはそれを見て確信する。あれはただの狼藉者や暴徒ではない、間違いなく王国海軍兵士だ。
「何故だ……」
エバンズは狼狽して呻く。
千人もの王国海軍兵士が、正規の命令も無しに、深夜のプレミス海軍基地に大挙して侵入して来る事など有り得るのか? しかしエバンズにはそんな事が起きる理由に心当たりがあった。だがそれは絶対に起きてはいけない事だった。
海に飛び込んだ王国海軍兵士達は、フリゲート艦サイドキック号目掛けて泳いで行くようだ。
エバンズは考える。シルバーベル号の乗員に脱走者は居ない。ならば、ひとまずこちらに水夫共が押し寄せて来る事は無いのではないか?
「……!」
しかしその瞬間、エバンズは見た。深夜の海軍基地の波止場に居るはずの無い人影。守備兵の松明に、一瞬照らされて見えた赤いドレスを着た小柄な影を。
その姿形は少女、もしくは単に背の低い女か。守備兵に追い回されながらもわざとその鼻先を掠めるように走り回り、時々積み上げられた樽や木箱を有り得ない身軽さで飛び越えながら、数少ない守備兵にも仕事をさせないよう、牽制している。
あの人物は、何かがおかしい。
「さっさと抜錨しろ、いつまで掛かっているんだ!」
恐怖を感じたエバンズは水夫達を急かす。幸い風は離岸方向に吹いている。とにかく抜錨して帆を開けばあの波止場からは離れられるのだ。
「ええい、何をしている、私にキャプスタンを巻けと言うのか!」
エバンズはもたつく水夫を押し退け、自ら抜錨の為キャプスタンを押す。この水夫達はスペード卿の私設船団の水夫で、海軍ではなくスペード卿に忠誠を誓っている代わりに、王国海軍兵士と比べるとやや練度が低い。
しかし、エバンズ自ら汗をかいた甲斐もあり、シルバーベル号の錨は水上に引き上げられた。
「帆を開け! あの暴徒共から念の為距離を取るのだ!」
エバンズの号令一下、マストに登り準備を整えていた水夫達が一斉に帆を開く。
その、瞬間。
―― ヒュウルルル…… バサバサッ! バササッ!
「なッ……!?」
何の前触れもなく、風が回った。
離岸方向に吹いていた風は一転、波止場の方に向けて吹き始めた。
たった今開いたシルバーベル号の帆は一斉に裏帆を打ち、船を波止場の方へと押し流そうとする。
「ば……馬鹿な!? あ、悪魔の仕業だとでも言うのか!? 何故今風が回る、有り得ん! ふざけるな!!」
エバンズは満月を見上げ絶叫する。
そこへ追い討ちを掛けるように。檣楼の水夫が甲板に向かって叫ぶ。
「甲板! 水夫を満載したボートが三艘、こちらに向かって来ます!」
◇◇◇
「な、何だァ!? 急に風向きが変わったぞ!」
「道案内屋……もしかしてあんたが何かやったのか?」
「そんな訳無いでしょう、だけど今がチャンスですよ! 御願いします、あの船にはアンソニー船長が囚われてるかもしれないんです!」
マリーはレイヴン海軍兵達が漕ぐボートの舳先近くに立ち、シルバーベル号を指差してそう叫ぶ。男達は一層力を籠めて、オールを漕ぐ。
マリーは騎兵達を退けた後で、コンウェイの元私掠船船長、アンソニー・アランデルに起きた出来事について水夫達に話した。水夫達の中にはアランデルをよく知っている者も居て、皆マリーの話を聞いて憤り、ここまで道案内屋として導いてくれた礼として、協力を申し出てくれた。
「アンソニーがそんな目に遭う謂れは無ぇぜ、あいつァいい奴だ」
「エバンズの野郎はスペード卿の腰巾着だ、あいつも俺達が騙されてるのを知ってたに違いない!」
「野郎いきなり帆を掛けやがった、余程後ろめたい事があると見える」
どうにか逃げようともがくシルバーベル号。しかしこうも完全に裏帆を打ってしまっては、方向転換すらままならない。対する三艘のボートは20人の熟練の漕ぎ手の手で、満月が照らす海面を飛ぶように進んで行く。
「ボートでの接舷戦は城攻めみたいなもんだ、人数は向こうの方がだいぶ少ないが、最初の手掛かりを得るのには少し苦労するだろう……姐さんは俺達が甲板を抑えるまで、ここで待っててくれ」
一人のスカーフェイスの水夫がオールを漕ぎながらそう言う。
しかし水夫達は色々な雑用に使うような短いナイフしか持っておらず、銃はもちろんカトラスも持っていない。
それを見たマリーはまた、スカートの裾を跳ね上げて太腿のストラップから短銃を取り出す。
「大丈夫ですわ。先陣は任せて」
「いや姐さん、そんな事まであんたに御願い出来ねえよ、元はと言えばレイヴン海軍の不祥事だぜ、これは」
「アンソニーおじさんは私が助けるって、コンウェイの海賊……船乗り達と約束しましたのよ」
マリーはボートの舳先の先端へと移動する。
「行きますわ……マリー・パスファインダーですわよ!」
シルバーベル号の方ではエバンズがかなりヒステリックに、水夫達に応戦を命じていた。
「何をしている! ええい、マスケット銃はまだか! 他の者は熊手や砲丸を持って来い、あのボートをひっくり返すのだ!」
しかしシルバーベル号の20人足らずしか居ない水夫のほとんどは、裏帆を打った船を動かす為の操帆の方に向かっていた。彼等は慌ててマストを降り、砲丸や熊手を取りに行く。
そして二人の水夫が、ようやく装填を終えたマスケット銃を持って舷側に駆け寄って来たが。
―― ドン!
赤い膝丈ドレス姿の少女は、ほぼ垂直のフリュート船の外壁をサルのように駆け上がって来ると、驚愕している水夫のマスケット銃の引き金に手を添え、上に向けて発砲させてしまい、
―― トン
もう一方のマスケット銃の銃身に飛び乗る。飛び乗られた方の水夫は少女の体があまりに軽い事にも驚いたが、少女が手にした短銃が自分の方を向いている事にはもっと驚き、
「うわああっ!?」
―― ドボン
マスケット銃を手放して飛び退いてしまい、それは波除け板に引っ掛かった後、海面へと落ちる。
一方、少女の方は海面へは落ちず、甲板へ飛び乗って走って行く。
「そっ、その女を捕らえろ!」
カークランド号から連れて来られていた士官が、そう叫ぶ。




