水夫「どうしたお嬢ちゃん? タマーキンは伝説の勇者の名前だぞ」
スペード卿は何か悪い事を企んでいたみたい。何も後ろめたい事が無ければ、騎兵達にあんな命令を出すはずがありません。
プレミスの海軍基地の正面ゲートには、夜間でも最低四人の歩哨が立っており、門内の詰所にはさらに数名の交代要員が詰めている。
門番の一人が、どこからか聞こえる足音と歌声に気付く。
「何だ、あの声は」
「……酔っ払いじゃないのか」
「しかし、最近じゃ夜は出歩く者も少なくなって」
「おい、何だこれは!?」
そこへ。ヤードへと続く道へ角を曲がって現れたのは赤い膝丈のドレスを着た少女だった。後ろに続くのは、土煙を上げて歩く男共の大群。
「貴様ら待て!! 待てェェ!!」
大群にはプレミス市の衛兵隊の者も混じっており、必死に叫んでいる……どうやら衛兵達はこの不気味な大群を何とか止めようとしているようなのだが、いかんせん数が多過ぎて、どうにも出来ないままここまで引き摺り込まれてしまったらしい。
「とと、止まれぇぇーッ! ここはプレミス海軍基地であるぞ!?」
正門を警備する海兵隊も慌てて警棒を構える。詰所からも交代要員が飛び出して来る。しかし。
「止める必要はありませんわ、勇敢で勤勉な正門の衛士の皆さま! ここに居るのは皆、ジェフリー国王陛下に忠誠を誓う、王国海軍兵士ですのよ!」
少女が、手にしていたレイヴン王国海軍旗を高く掲げ、振りかざすと……男共は一斉に喚声を挙げる。
「国王陛下万歳!!」「レイヴン海軍万歳!!」
そして少女が正門に向かって走り出すと、男共の群れも一斉に、地響きを立てて突進を開始した。
「やめろぉぉぉぉ!!」
海兵隊は、とにかくこの軍旗を掲げた少女を止める為、真正面から駆け寄る。しかし。
―― ダンッ……!
背の低い少女を捉えようと、海兵隊の男が身を屈めた瞬間、少女は跳躍しその肩を踏み越える。
「俺を踏み台にした!?」
見た目以上に素早い少女は、海兵隊員の壁を突破し、そのまま詰所から出て来た交代要員達の手も掻い潜り、海軍基地内に突入して行く。
「あの女を……!」
海兵隊員の叫び声は次の瞬間、一斉に突入して来た千人を越える水夫達の足音と土煙に掻き消されてしまった。
「国王陛下万歳!」「ジェフリー王万歳!」「レイヴン海軍万歳!」
怒涛の如く現れた水夫達は、口々に叫びながら深夜のヤード内を駆け巡る。ヤード内では門番以外の守備兵も、騒ぎを聞きつけ起き上がりつつはあったが。
「俺達の船はどこだーッ!!」「ゴールドベリー号!」「サイドキック号! 今戻るぜー!」「ミドルフォレスト号行きのボートだ! 急げー!!」
波止場には海軍艦は係留されていない。皆波止場から離れて投錨している。
水夫達は叫び声を挙げて走り回りながら、係留されていたボートに次々と飛び乗って行く。
「これは一体何の騒ぎだ!?」
当直士官用の宿舎からも慌てた士官が飛び出して来る。門番兵の一人がそこへ駆け寄り、報告する。
「お、恐らく反乱です! 逃げたはずの水夫が戻って来て、しゅ、首謀者はあの赤いドレスの小娘です!」
「赤いドレスの小娘? 何を血迷っているのだ、そんなものが」
赤いドレスの小娘はその瞬間に士官と門番兵の間を、レイヴン海軍旗のついた棒を担いだまま駆け抜けて行った。
「待てェェ小娘!」「あの女を止めろ!」「挟み撃ちにしろー!!」
さらにその後を正門の当直をしていた海兵隊員が追い掛けて行く。
「ゴールドベリー号行きボート出るぞォォ!」
その間に、水夫で一杯になったボートが一艘、満月が照らす海に漕ぎ出して行く。桟橋では、数人の守備兵がそれを呆然と見送っていた。
ヤードの当直士官の一人が駆け寄る。
「何をボサッとしている! 奴等を止めないか!」
「しかし海尉……あれは確かに脱走していたゴールドベリー号の水夫です、個人的に知ってる奴も居ます!」
「な……何だと?」
「サイドキック号はすぐそこだァァア!!」
―― ドボーン! ドボボーン!!
波止場の奥のさらに桟橋の端からは、満月だけが照らす真冬の海へと、水夫達が次々と飛び込んで行く。
「お前ら正気か! よせ、やめろォォ!」
ヤードの守備兵はそう叫ぶが、サイドキック号出身の水夫達は止まらなかった。彼等は比較的近く、とは言っても50mは沖合いに居るフリゲート艦サイドキック号に向かい、力強く泳いで行く。
サイドキック号の方でも、当直の乗組員達が騒いでいた。
「艦長! 艦長、起きて下さい、脱走した奴等が戻って来ました!」
「そんな訳が無いだろう……お前達は寝ぼけてるのか……」
艦長室から当直の士官に引き摺り出されるように連れて来られたサイドキック号の艦長は、肩をすぼめたまま舷側に歩み寄る。彼も、自分の船から水夫達が逃げたしたのは、自分の人望が不足していたからだと考えていた。
「見て下さい艦長! みんな泳いで帰って来ます!」
「なんだって……! あ……あああ……」
「艦長ー! 俺たち! 迷子になってました!」
「もう一度! あんたの船に乗せてくれーッ!」
波間から顔を出した水夫達はそう叫び、サイドキック号目指して泳ぎ続ける。
「げ……舷側にハンモックネットを降ろせ! 竈に火を入れろ、ランプも全部つけるんだ!」「アイ、キャプテン!」
赤いドレスの少女は軍旗を振りかざし、守備兵を撹乱しながら波止場を縦横に逃げ回っていた。何かを後悔しているのか、その目尻からは小さな涙の粒が飛んでいる。
波止場は広々としていて平らである。所々に作業用のクレーンがあり、樽や木箱がまとめてあり、荷物を運ぶ為の細い水路などもあるのだが、基本的に、障害物はとても少ない。
「おのれえええ!」
足の速い守備兵が、少女の真後ろまで迫る。
「わぎゃっ!」「ぬおっ!?」
間一髪、少女はそれに気付き担いでいた軍旗を放り出す。白地に黒い翼の軍旗は守備兵の顔面を覆い、視界を奪う。その間に、少女は幅3m程の水路を飛び越える。
視界を奪われていた守備兵は目前で水路に気付いたが。
―― ドボーン!
大事な軍旗を守る事を優先し、旗を掲げて水路に落ちる。
「道案内屋! もう陽動は十分だ、早く来い!」
離岸しようとしている水夫を満載したボートの一つから、背の高い水夫がそう叫ぶ。同乗していた水夫達も、舷側を叩いて叫ぶ。
「俺達は自分の船に帰って来た!」「脱走なんかしていない、俺らは王国海軍兵士だ!」「国王陛下万歳!」「早く乗れ道案内屋!」
少女が桟橋からボートへと飛び乗ると、二十人の漕ぎ手達はまた声を合わせ、勇壮で下品な歌を歌いながらオールを漕ぎ出す。
「俺たちの家に帰るぞ!」「続けー!!」
さらに二艘。やはり水夫を満載したボートが、少女を載せたボートに続いて、満月が照らす海面を本当は彼らの家ではない、シルバーベル号に向かって漕ぎ出して行く。




