不精ひげ「ヒ……ヒ……ヒゃぁっくしょん!」
カカオは16世紀にはヨーロッパに伝来していたけど、その後300年の間は苦いけど元気が出る大人の飲み物に過ぎなかったよ。本当は飲み易いココアも美味しいチョコレートも、発明されるのはもっとずーっと先なんだ。まあ、いつもの事だけどバニーガールが居るような世界で(以下略
「見て……スペード侯爵様よ。国王陛下の御気に入りで、今度は若くして海軍卿になられるんですって」
「あの方が? まあ、御噂通りの美男子ですのね。国王陛下が美男子好きというのは本当なのかしら」
近くの御婦人方が噂している。
スペード侯爵……私は午前中に初めて聞いたその名前をぎりぎり覚えていた。思っていたより随分若いですね、二十代半ばくらいかしら。
侯爵の後ろには、先程向こうで御姉様方に囲まれていたはずのエバンズ艦長が付き従っている……エバンズ艦長は海峡第二艦隊配下の艦長で、ヴィクター提督の部下のはずなのだが。
「スペード卿……貴方の御配慮に感謝する。この度の、組織的な兵員の脱走事件についてであるが」
「提督。侯爵閣下はそういう話をしないで済むよう、海軍司令部ではなくここで会われているのです」
そして提督が侯爵に何か言おうとした瞬間。エバンズは侯爵の後ろから進み出て、提督の言葉を遮った。
男達はレイヴン語で話しているし、だいぶ声を落としているので、私には何の話をしているのかは解らない。解らないが、この様子は私でもおかしいと思った。
「ああ、エバンズ君、忠告どうも……だが脱走事件について話をさせて貰えないなら、私は何の為にここに居るのだね!」
提督は侯爵、いやエバンズに背を向ける……それでちょうど、少し離れたテーブルで焼き菓子をトングで皿に集めていた私の方を真っ直ぐに向くような恰好になったのだが。うわあ……顔が怖い。
「それは未来志向で話をする為ですとも。過去を振り返っても仕方がないのでね、今は一刻も早く事態を正常化する事か先決です。艦隊の欠員についてはね、私の力で何とかします」
スペード侯爵も背中を向けた提督の方を向いているので、私の方を真っ直ぐ向く形になる。そうなるとエバンズ艦長もこちらを向いてしまう……まずいな、気づかれないかしら……しかしエバンズは私の方と言うより、機嫌の良さそうな侯爵の横顔を見ているようだ。そのエバンズが口を開く。
「侯爵閣下、そのような事が出来るのでしょうか」
「一次措置として補充の海兵を400人用意した。新兵ではなく、各所で経験を積んだベテランのね。さらに二次措置として900人を招集する目途がついているよ、はは、は」
「何と……それだけの数が居ればすぐにでも哨戒任務に戻れます」
何故だろう。私はレイヴン語も軍人さんの難しい話もよく解らないはずなのだが、話してる事の雰囲気は不思議なくらい伝わって来た。
提督は次の海軍卿となるらしい侯爵に、大量脱走事件の弁明をしようとしたが、侯爵は弁明を拒み、事件の始末は自分がすると言っている。そしてエバンズは提督の部下というより、侯爵の部下として振る舞っている。
ヴィクター提督は露骨に侯爵達から顔を背け、渋面を隠さず怒りに震えている。メイナード海尉は真っ直ぐにエバンズの方を向いたまま、真っ青な表情で怒りを堪えている。コーエン候補生は……何も考えて無さそうだ。
「……400人居れば、当座の航海に支障は無くなりますな……後からでも900人増えれば、戦闘能力も万全な状態になる」
「休暇までは差し上げられないけどね、は、はは。どうですか提督。これなら問題は無いでしょう? 脱走事件については、もう話すのはやめましょう。不毛だから。ははは」
侯爵の笑い声を、提督は腹痛に苛まれたような顔で聞いていたが。やがてどうにか顔の運動をして、無表情な顔を作り直してから……侯爵の方へと向き直る。
「侯爵閣下の御配慮、誠に痛み入る。この度の事態は私の指導力不足に起因する事に他ならない。申し訳ない」
「ヴィクター提督、そのような事を言ってはいけないよ。将たる者はね、いつも自分がナンバーワンだという顔をしていないと。そうでないと兵士達は安心してついて行けないからね、うん? いやいや、貴方のような古強者に生意気な口を効いてしまった、こちらこそ申し訳ない。長い間心労が続いているのではないかな? たまにはね、息抜きをしないと。園遊会、楽しんで行くといいよ……ところで」
侯爵は機嫌が良さそうに辺りを見回した後、コーエン候補生の方を向いた。
「君は士官候補生? 歳はいくつ?」
「は……はいっ! 士官候補生のコーエン、年は15です!」
「はは、は。元気がいいね、それになかなかの美少年だ、機会があればお茶でも」
スペード侯爵はエバンズを連れて去って行く。その後ろ姿を見て、菓子テーブルに集う御婦人方は何事か噂話をしていたが。
―― ダンッ……!
癇癪をどうにか堪えていたヴィクター提督がテーブルの端を音高く叩くと、一瞬にして静まる。
「ああ、すまない御婦人方、少し眩暈がして倒れそうになったので」
提督は一応、そう言い訳をして……その場を離れて行く……メイナード海尉は勿論それについて行き、コーエン君もそれに続こうとするが。
「悪いが、少しだけ一人にして貰えるか」
提督は若い二人の部下に何か言って、一人で屋敷の裏庭の小さな池の方へ歩いて行く。二人の部下は、顔を見合わせていたが。
「おいコーディ、お前あんまり侯爵に近づかない方がいいかもしれないぞ。彼の寵愛を受けて出世したいってんなら別だけどな」
「えっ……ええっ、ど、どういう事?」
メイナード海尉は提督と一緒に居た時とは全く違う、普通のお兄さんのような口調でコーエン君に何か言った。コーエン君も普通にお兄さんと話すようにそう答える……ああ。上司が見てない時はそういう感じなんだ。
いや、そんな事を考えてる場合じゃない。コーエン君は海尉の顔を伺いつつ、また私に声を掛けようか迷っているようだが……私も迷っていた。コーエン君とあの海尉に話を聞いてみようか? それとも……
いや、今は多分あまり時間も無いし、どんな機会も逃すべきではない。今回の事件に於いて、こんなチャンスは二度と無いかもしれない。
私は自分の為に集めた焼き菓子の皿と、お茶のポット、それにカップを取りトレイに乗せ、裏庭の小さな池の方へと足早に歩き出す。
最後に少しだけ振り返ると、コーエン君はこちらをハラハラ顔で見ていた。私を追い掛けようかとも思ったのだろうが、たった今、一人にしておいてくれと言った提督が居る方へ走って行く訳にも行かないと。
◇◇◇
私は頭の中で繰り返し繰り返し、不精ひげに詫びる。
ごめん不精ひげ、ごめん不精ひげ、ニック先生、ごめんなさいニック先生。
ヴィクター提督は屋敷の裏庭の池の前に佇んでいた。私の父よりだいぶ年上の、あまり背の高くないその背中には、酷い哀愁の色が浮かんでいる……これが責任ある大人の男の背中というものだろうか。
しかし裏庭の小さな池は大人の男が物思いにふけるには少々騒がしい様子だった。園遊会に連れて来られた七、八人の小さな子供達が船の模型を浮かべ、棒で押して遊んでいるのだ。
「アイビスの軍艦だ! やっつけろー!」
「どーん! どどーん!」
「アハハハ」
ヴィクター提督は背中を丸め、そんな子供達の様子を見つめていた。確かにこれは部下には見せられない姿だわね……
アイビス人から見たら、レイヴン海軍は世界最恐の海軍で、本当に恐ろしい相手で……その軍団の提督などと言ったらそれはもう、泣く子も黙る恐怖の大王のようなものなのだが。
さて。私は意を決して提督に歩み寄る……レイヴン語で話すべきか? いや、どうせそんなのはバレるだろう、アイビス語でいいや。
「ヴィクターさま」
「……何だ君は。悪いが向こうに行ってくれ」
「先程はお茶を取りに来られたのではないのですか? 宜しければ私、お持ちしましたので」
私は給仕さんのようにトレイを差し出す。
「要らない……いや……要る。本当は喉がカラカラだった」
提督は一度かぶりを振ったが、溜息をついてから頷き、トレイの上のカップを取ってくれた。私はポットを取り、お茶を注ぐ。
カップを手にした提督は、一度その香りを嗅いでから……一口、また一口と。少しずつ、お茶を味わう。
私はカップが空になるまで待って、もう一度ポットを差し出す。
「ありがとう……今お茶を差し出して貰える事の何と有難い事か……ああ、そのクッキーもいただいていいのか」
「勿論ですわ、どうぞ」
本当は私が自分の為に厳選した焼き菓子を提督は……鷲掴みにして全部取った! そしてバリバリ食う! なんて勢いで、お茶はそんなに上品に飲んでるのに、ああっ、チョコレートクッキーも一口で! もっと味わって!? 美味しいのよ!?
「お茶をもう一杯くれ」
私は三杯目のお茶を注ぎながら、恐る恐る聞く。
「あの……ヴィクターさま」
「……お茶は有難いが、私は今質問を受け付ける気分ではない。一人にしておいてくれ」
そうだよなあ。私のような小娘が見ず知らずの大の大人に出来る事など、給仕の真似事くらいですよ……
だけど私はアンソニー船長を救うとコンウェイの人々に約束したのだ。海軍に取り上げられた海老やロブスターの代金も回収したいし、アンソニー船長が持ち出して没収された未払いの資材も取り返したい。
私が不注意で巻き込んでしまった、不器用で直向きなバットマー艦長の為にも。この事件の真相を究明し……いや真相とかどうでもいいや、とにかくアンソニー船長達を救いたい。
その為に。この人からどうにかして何かを引き出したい。出来れば協力を、出来なければせめて情報を。アンソニー船長を捕まえたのは海峡第二艦隊所属のエバンズ艦長で、この人はその艦隊の提督なのだ。
だけど私はレイヴン語も出来ずまともに自己紹介も出来ない地味だけど怪しい小娘である。私にはこの提督に自分の方を向いて貰う材料が無い……
一つを除いては。ごめんなさい……! ごめんなさい……!
「ヴィクターさま。ジャック・リグレーという男を御存知ですか? 私の……知り合いなのですが」