バージル「君、あの小さな女の子の顔、どこかで見なかったか?」クレイグ「君もそう思っていたのか。どこだったかなぁ……」
マリーの神経を大いに揺さぶって、父フォルコンは姿を消しました。あの人、ここで何をしていたんでしょう。
そして結局のところお父さんが大好きなマリー。表層意識では折々に、天国に居るお婆ちゃん、地獄に居るお父さん、なんてお祈りしてたんですけどね。
プレミスはレイヴンのこの地方の中心都市でもあり、町には司法局の支部がある。街中にあるにも関わらず、それは小さな城壁都市のような威容を放っていた。
とうとうここに来てしまった。こんな恐ろしげな建物だと知っていたら、来なかったんだけどなあ。今からでも逃げ出したい。いやしかし、コンウェイの人々の期待が……
私には後ろめたい事は無い。あるとすれば遠く離れた父の事くらいだ。私はつい昨日の夜まではそう思っていた。ところがその遠く離れた所に居るはずの父がずいぶんと近くに居たのである。
「それで? やっぱりやめておくの?」
アイリさんは私の横で腕組みをしてそう言った。
既に日は登っていて、周りの通りには普通にレイヴン市民の皆さんが歩き回っている。さすがに司法局の周りでは、暴力的な水夫狩りが堂々と行われる事も無いのだろう、少壮の男性も臆する事なく堂々と歩いている。司法局の周りを一周したカイヴァーンは、その人混みの中から戻って来た。
「掲示板はあるけど、姉ちゃんの手配書は無いよ。フレデリクはやっぱり8,000枚だって」
昨日もそうだが、私は今日も貴族マリー姿で二角帽と片眼鏡をつけている。これならほとんど変装しているようなものだ。
色々あったけど、もう考えるのが面倒くさい。当初の予定通り行ってしまおう。
「行きましょう。先鋒はアイリさんにお任せします。不精ひげも覆面のままでいいから来てよ」
◇◇◇
司法局の市民窓口は外壁側の一角にあった。そう広い部屋ではないが、我々より先にも数人の市民の訪問者が居た。
皆一様に面白くなさそうな顔をしていますね。彼等は罰金の支払いを命じられた者や、囚人に面会を申し込みに来た者なのだとか。
「ここに来るのは、困った人達なんでしょうね……」
アイリが私にささやく。だけど私も手配中のアイリさんの事を調べる為ブルマリンの司法局に行った事がある。
「次の方」
鉄格子つきのカウンターの向こうに居る役人さんが、こちらを呼ぶ。当たり前だけどレイヴン語ですね。ここはアイリさんにお任せするしかない。
「白金魔法商会の頭取でアイリ・フェヌグリークと申します。私の取引先、コンウェイのアンソニー船長が先日逮捕されたと聞きました。面会を申し込みますわ」
壮年の役人さんは眼鏡を押し下げ、アイリを上目遣いに見上げると、感心したように溜息をつく。これはあれですね、美人が得をしたパターンですよ。私の代わりに行ってもらって本当に良かった。
「これはこれは……貴女のような方が海賊と取引をされているとは」
「アンソニー船長は海賊ではありませんわ。コンウェイの投資家です、王国に毎年多額の税金も納めております。逮捕は何かの間違いですのよ」
二人はレイヴン語で話しているので何を言っているのかは良く解らないが、多分アイリさんは今大きなはったりを言ったと思う。
「は、はあ……信じられませんな……いえ、あのような男に貴女のような味方が居るだなど……驚きました。少々お待ちを」
役人さんは窓口を離れ、後ろの執務机とその周りの作業机に散らばった書類の中から一つを取り出し、戻って来た。
「その男は確かに当司法局の留置所におります。裁判は既に終わっており、既定の期間が過ぎれば移送される予定ですので、面会は出来ませんな」
「何故ですの!? 船長は先日逮捕されたばかりのはず、そんなに早く裁判が終わる訳がありませんわ!」
「いえ……この男の裁判は一年前に終わったのです。被告が出廷命令を無視して不在のまま、罰金もしくは懲役刑が確定してますな」
「あ……え……ええ……」
アイリさんはそこで振り向いた。
「無理よマ……マーガレットちゃん、あの船長、一年前に敗訴してるんですって! それも出廷命令を無視して。逮捕は自業自得なのよ……」
「ええええ!?」
マーガレットちゃんというのはアイリさんが咄嗟に考えた私の偽名だろうか……それより! アンソニー船長、そんな事してたのかよ……じゃあ逮捕されて金目の物没収されても仕方無いじゃん……
「あの……罰金がいくらか聞いて下さい」
「ええ……払うのそんなお金? いくらコンウェイの人達の頼みでもねぇ……ていうか誰も教えてくれなかったの? 裁判の事」
私が黙って頷くと、アイリは溜息をつき、役人の方に向き直る。
「船長の罰金、おいくらですか?」
「……念の為申し上げますが。一度お支払いいただいた罰金は、どんな理由があろうと返せませんぞ」
アイリはその役人の台詞を翻訳してくれた。
これは軽々しく頷いていい問題ではない。フォルコン号のお金は皆のお金だ。余っているなら皆により多く分け与えるべきだし、使うなら皆も納得してくれる使い方をしなくてはならない……実践出来てるかは別として。
私がそう思い、俯いた瞬間。不精ひげが呟いた。
「船長は自分勝手であれ。思いつきで行動しろ」
私は思わず顔を上げた。不精ひげが……珍しく、口元に笑みを浮かべている。
「船長一人で決めてくれ。俺達は全員文句を言わず従うから」
それを聞いて、カイヴァーンとアイリも顔を見合わせ、私の方を見て頷く。
私は思わず息を飲み……二秒だけ考えて、答えた。
「金額を聞いてから、考えます」
◇◇◇
結局私はアンソニー船長の罰金を払った。これでコンウェイでの取引でギリギリ確保していた黒字は完全に吹き飛び、結構な赤字が出る事になった。
そして私達四人は司法局のあまり広くない市民窓口の部屋の壁際の、ぎりぎり四人座れるベンチに座り、一時間近く待っていた。
「ねえ」
カイヴァーンが小声で話し掛けて来る。私は読んでいたちんぷんかんぷんのレイヴン語の小冊子から顔を上げる。
「姉ちゃんって手配されるのは初めてなの? 前にも手配された?」
「無いよ手配なんて、私、ただのお針子だもん」
「いや、フレデリク船長を含めて」
「シーッ……あの男込みでも手配された事なんか無いよ」
「本当? それにしては堂々としてるなって思って」
まあ……ここ、そのレイヴンの司法局だもんね……レイヴンに来るだけでもおかしいのに、その大きな都市にある司法局にまで来るのはおかしいよ。だけどわざとやってる訳ではないのだ。
「フェヌグリークさん、マーガレットさん。貴女達が罰金を弁済した男を引き渡します」
そこへようやく。刑務官と思われる役人が鉄格子付きカウンターの向こうの扉を開け、やって来た。
刑務官の後ろに居たのは、肥満した男性だった。アレクより二回りくらい大柄で、分厚い眼鏡を掛けている。頭髪は異様に毛の量が多く、茶色くてぼさぼさだ……誰? この人は私と関係無いだろう。アンソニーさんはどこ?
「あ……ああっ!? あいつは……」
「ああ、あの人がお前の罰金を払ったのだ。これに懲りたならもう問題を起こすなよ、馬鹿者め」
茶髪に眼鏡の男は私を指差してしばらく呆然としていた。
別の役人がカウンター下の50cm四方くらいの小さな扉を開け、男に手招きする。
「早く出ろ」
男はその扉から出ようとするが、途中で大きな腹がつっかえて動けなくなってしまった。
「何やってるんださっさと出ろ!」「ええい、押せ押せ」
向こうから刑務官らが押して……ようやくその大柄なぼさぼさ茶髪眼鏡はこちらの世界にやって来た……だけど私こんな人知らないよ?
しかしその男は私目掛けて突進して来る! ヒッ、ヒエッ!?
「お、お、お、お前ぇえ!!」
不精ひげとカイヴァーンが間に入る、不精ひげは身長ではその男より少しだけ高いしカイヴァーンは小さな体の勇士だが、その男の質量抜群の突進は、危うく二人を吹き飛ばす所だった。
「やめろっ! 誰だお前!?」「重いッこいつ!」
私の50cm手前でギリギリ止まったその男は。分厚い眼鏡の奥から、ぼろぼろと涙をこぼし出した。
「嘘だろ……俺を助けてくれたのか!? あ……あ……」
ドスン! と。音を立てて男は床に座り込むと、眼鏡を上げ、目の辺りをこすり上げながら嗚咽し、泣きだす……
「ありがとう……ま、まさかお前が助けてくれるだなんて思ってもみなかった、ちくしょう何てこった……涙が止まらねェ……」
「ちょっと待て!」
私はカウンターの中に向かい、レイヴン語でそう叫びながら突進した。
「ま、待ってマーガレット!」アイリさんが叫びながら駆け寄って来る。
「姉ちゃんは駄目だってば!」カイヴァーンも慌てて駆け寄る。
しかし私は一瞬にして頭に血が登っていた。
「私が、金、払ったのは、コンウェイのアンソニー船長だよ! 誰なのこの人! 知らないよ私!」
私は片言のレイヴン語でまくしたてるが、役人も刑務官も、鉄格子の向こうから冷ややかな目で私を見ていた。
「誰って、そいつがコンウェイの海賊アンソニー船長じゃないか」
「確かに引き渡したからな。用が済んだらさっさと帰れ」
呆然自失。私は呆気にとられ、鉄格子の向こうとぼさぼさ茶髪眼鏡を見比べる。
「ありがとお……ありがとおよぅ! お前みたいないい奴は初めてだ、俺がお前の船を襲ったのに、わざわざプレミスまで来て罰金を払って釈放してくれるだなんて! 覚えてろとか言って本当にごめんなぁぁ! グスッ、グスン」
頭の血管が切れそうである。
「はあぁあ!? アンタあの水車の海賊かよ!? 何で! どうして!」
「姉ちゃん駄目だってば! 大声出したら目立つから!」
「え……何でって……ああ、俺、本当の名前はアンソニーってんだ、宜しくな」
ぼさぼさ茶髪眼鏡はそう言って笑う。
「アンタの名前はロブじゃなかったのかよ! そもそもアンタ確か……」
私はぶち切れてはいたが、その言葉を口に出す程無神経でもなかった。しかし、ぼさぼさ茶髪眼鏡はガハハハと笑い……
「ああ、皆はかつらって呼ぶけどなー! ガハハハ」
おもむろに、明らかに毛量が多過ぎるように見える茶色い髪の毛を無造作に掴むと、それを帽子のように持ち上げてみせる……その下にあったのは、後頭部の一部を残して完全に禿げ上がった綺麗に磨かれた頭皮だった。
巨大な水車をつけたボロ船で向かって来たとびきりアホな海賊、その船長で海軍に捕まり連行されて行った禿げ頭の男……
ロブというのは彼の本名ではなく、特徴を示すあだ名だったらしい。




