エイヴォリー「帰れと言われても……私、今夜の宿を探していたのに。はぁ……」
レイヴン海軍の美人艦長、ブライズ・エイヴォリーは不精ひげことジャック・リグレーの事を知っていた。それも不精ひげの説明とは反対に、ブライズがジャックの熱烈なファンだった様子。
指名手配とマリー証券とロブスター、不精ひげ……そして色々な事を考えなくてはいけない時に出て来てしまった、父フォルコン。
大丈夫か、マリー。
「ニ……ニーナに、母さんに会ったって!? ど、どこで?」
「教えたら押し掛ける気でしょ。教えられないよ」
エイヴォリー艦長が去った後。立ち上がった私は父に、つい先日母と出会った事を明かした。父は顔色を変え、立ち上がる。
「そんな、マリーだってお母さんに帰って来て欲しいって、ずっと言ってたじゃないか……ニーナはどんな様子だった? 元気でやってるのか? 彼女、御世辞にも生活力のある人とは言えないだろ? 頼むよマリー、教えてくれ!」
「御安心だよ、お母さんとっても逞しくなってたから。仕事も頑張ってたし、頼りになる味方も居たわ。申し訳ないけど、ヴィタリスに居た頃よりよっぽどいい暮らしをしてたよ、色んな意味で……あの人の事は忘れなよ、もう」
父は壁に手を突き、深く項垂れ、暫くは無言で居たが。
「たった今も他所の女の人に声を掛ける所を見られた後じゃ……信じて貰えないかもしれないけどさ。父さんにとっては、本当に大事な人だったんだよ」
じゃあ何でもっと頻繁に帰って来なかったのよ、お金なんて無くたってお母さん、お父さんが家に居る時は嬉しそうだったわ……そんな台詞はもう何度口に出したか解らない。
そして父は決して嘘をついているのではないのだろう。父にとってニーナは本当に大事な人だったのだとは思う。ただ、船乗り根性が抜けなかっただけで。
父に聞きたい事はまだ山ほどある。
「それからね。ジゼル・シュゼットさんって誰?」
「ジゼル……シュゼット……」
父は顔を上げ、壁から手を離して腕組みをして、首をひねる。それから空を見上げる……月が明るい……明日あたりが満月だったかしら? ああだけど雲が、雲が流れて来て……月を隠してしまった。
「ごめん、父さんに解るのは、ジゼルもシュゼットもお芝居の演目の名前だって事くらいかなあ。ジゼルは確か……貧しい女の子が偶然出会った魔法使いのお婆さんから正拳突きの極意を習い、悪い公爵を倒しに行く話だったかな」
「全然違うよ……そう。そうなの」
偽マリー・パスファインダーこと、ジゼル・シュゼットさん……その名前も偽名だったのか。何故だろう、少し残念だ……本当の名前を教えてくれなかっただなんて。まあフレデリクがそんな事言えた義理じゃないけど。
「お父さんを知ってるみたいな事を言う女の人が居たのよ。赤毛ですらっと背が高くて凄い美人だったわ、多分レイヴン人でお父さんより8歳年下だって」
私がその話を始めると、次第に父の顔色が変わって行く。驚愕に目が見開かれ、鼻腔が開き、肩が震え、膝が笑う。
「きりりと切れ長の目は少し吊り上っててクールで知的な感じ、かなりの教養もあるみたい、そして猫のように素早いの。自分では役者をしているって言ってたわ、お父さんに初めて出会ったのは今の私ぐらいの年の頃だって」
「そ、そそそんなおっお女の人にはここ心当たりがなないな、パパパはゆ有名人だからファファンも多くくて」
私は貴族マリーの恰好をしているのだが、この姿の時は武器は何も身につけていない。何故私はピストルの一丁でも持って来なかったのか。
「そこへ直れ」
「ほほほ、本当だよマリー、お父さんその人には何もしてないんだ本当に!」
「やかましい! あんたのせいで私はアイビスに」
帰れなくなったんだと。まあそれは八つ当たりもいい所なのだが、私がそう口に出そうとした瞬間。
「マリーちゃん! そこに居るの!?」
宿の方から、アイリの声がした。
私は父に飛びつく。
「アイリが来る! 早く逃げて!」
「ちょ、ちょっと待ってまだ話が」
「うるさい! 行け! 行けッ!」
私は何も考えず父を突き飛ばす。そして振り返る……アイリはもう、先程私が全力で走りながら曲がった角を、全力で走りながら曲がって来た!
うそでしょ!? 私が、私があの腐れ外道のラーク船長と一緒に居る所を、アイリに見られてしまった!?
「マリーちゃん!」
アイリが……アイリが迫って来る……!
「こんな夜中にどこへ行くつもり!? 言ってるでしょう、夜遊びは駄目よって! こんなね、外国の夜の街に一人で出て行って何をしようって言うの!」
私はアイリに首根っこを掴まれながら辺りを見回す。居ない。父は居ない。ほんの一瞬の間にどこへ?? 咄嗟に隠れられるような場所は無い。消えた。父は忽然と……消えた。
◇◇◇
宿の三階の部屋で、私はただ頭を垂れていた。
「私だって口うるさい事は言いたくはないわ、だけど心配なのよ! 貴女は誰かが止めなければ際限なくどこまでも飛んで行くんだから!」
アイリさんの言う事は全く正しいのだと思う。しかし。
「貴女はまだ15歳なのよ! 都会の夜は本当に危険なんだから、都会じゃなくても、貴女だって日が落ちたら外に出てはいけないって、貴女の御婆様からそう言われて育てられたんでしょう?」
私は不良少女かもしれないが今夜は違う。私はただ、父親と話していただけなのだ。本来であれば堂々とそう主張できるはずなのだ。いわゆる「父親と踊っていただけ」だと。だけど私はアイリには絶対にその事を言えない。悔しい。
「マリーちゃんが勇敢で機転も効くのは知ってるわ、だからブルマリンで私を助けてくれたんだという事も、だけど私は貴女の倍近く生きていて、その間に色んな失敗をして、貴女には同じ失敗をして欲しくないと思ってるの、御願いだから夜遊びはやめて。夜の街にはね、動くガイコツより怖い生き物が居るんだから!」
しまいには泣き出すアイリさん……罪悪感で押し潰されそうだ。アイリさんが幾つの失敗をしたのかは解らないが、そのうちの一つは間違いなく私の父との出会いなのだろう。
◇◇◇
翌朝。宿の食堂に降りた時には、私の気持ちは切り替え済みだった。不精ひげとカイヴァーンは既に居て朝食を食べていた。アイリさんはまだ部屋で身支度をしている。
「おはようございます労働者諸君。情報収集、何か進展はあった?」
不精ひげが顔を上げる……相変わらず覆面をしたままだが。寝る時も被ってるのかしら?
「他所の商船も、商売もそこそこに逃げ出す感じらしい。海軍艦長達は欠員の補充を命じられて頭を抱えているそうだ」
「命じられるって……水夫って、海軍が集めて船に振り分けるんじゃないの?」
「基本的に、定員に足りる水夫を確保するのは艦長の責任なんだ。いつまでも水夫を集められず出港出来ないでいると良くてクビ、悪いと命令不服従で逮捕される」
ひえっ……えげつない世界だなあ。そりゃ水夫狩りにも必死になる訳だ。
「うちも乗組員を獲られる前に、やるべき事を済ませて素早く帰りましょう。不精ひげ君、私の朝食を持って来て貰えますか」
「姉ちゃん、この宿の朝食は厨房の前に行って好きな物を取って来る方式だよ」
ベーコンを頬張っていたカイヴァーンは顔を上げてそう言ったが、不精ひげはいつも通り了解、船長などと呟いて料理を取りに行ってくれた。




