不精ひげ「これじゃ見えないな、覆面を取るか……いや、カンテラを借りて来ようか」
ピジョン船長? そんな人今まで出てましたっけ?(すっとぼけ)
「海軍の水兵が脱走したらしいよ、もう聞いたかい」
「いや、ちょっと野暮用で内陸の方に行ってたんでね」
ピジョン船長が言う内陸とはレイヴンの内陸の事か、北大陸の内陸の事か……しかし船長はそれ以上は言わず、給仕も何も聞かなかった。
「とりあえずビール」
「今持って来るよ」
給仕は離れて行く……そしてピジョン船長は、私が隠れているテーブルの前の椅子に座り、私の方に足を投げ出して来た。ブーツが泥だらけなので、これは本当に山歩きをして来たのだろう。
私は恐る恐る、そのブーツに鼻を近づける……うぐっ!? この臭いは間違いない。
「ここに居たあの給仕の女の子はどうしたんだよ、ほら、蜂蜜色の長い髪をいつも横にまとめてた」
「ああ、結婚して辞めて行ったよ、もう半年も前だ」
「なんだと! 本当かよ……タイプだったのになぁー、あの子」
私はテーブルの下で酷く動揺していた。これは一体何の冗談なんだろう? 私は今何をどうするべきなのか? 私は必死に考える。しかし考えれば考える程頭は混乱し、まともな考えが何も浮かばない。
「はいお待ちどう。ビールだよ。今日はいい焼き海老があるけど」
「ハハハ、露店で焼いたのを食って来たよ、ビールだけでいいや」
ピジョン船長は笑い、ビールを飲みだしたようである。給仕はもう一つ二つ雑談を交わしてから去って行く。
そして、考える時間はそれ以上貰えなかった。
―― トン、トン、トン……
誰かが……一階から階段を上がって来る!? それがアイリだった場合、この場はどうなってしまうのか!?
私は力技に出る。ピジョン船長の膝に抱き着き、足と腰と腕、全身の筋肉を使って、その体格の良い大人の男をテーブルの下へと引きずり込む!
「ヒッ!? なんモゴッ」
こういうのを火事場の馬鹿力というのか。私は椅子から滑り落ちた男をさらに奥へと引きずり込みながら男の口を手で塞ぎ、その顔に自分の顔を近づける!
「マッ!」
「しいっ!」
男の口から手を離し、私は静かに、という風に指をかざしてみせる。
ピジョン船長は非常な驚きに目を極限まで見開き大口を開けていたが……どうにか、私が誰なのかという事に気づき、口を閉ざしてくれた。
下から上がって来たのは、覆面をしたままの不精ひげだった。
「給仕さん、一階の厠は無くなったのか?」
「二年前に取り壊しました、三階へ行く階段の下の扉を出て左に、新築したのがありますよ」
給仕が厨房の奥からそう言うと、不精ひげは小走りでそちらに去って行った。
私は安堵の溜息をつき、ピジョン船長に向き直る。
「こんな所で何してんの……お父さん!?」
ピジョン船長。それはリトルマリー号の元船長で、一年前に南大陸最西岸の港タルカシュコーンでレイヴン海軍の軍艦を一人で強奪して逃亡し、追手が迫るとパンツ一丁でサメだらけの海に飛び込み行方不明となり、公的には死亡扱いとされていたが実は生きていて、南大陸の人里外れた砂漠の海岸で私と再会し、再び別れた、私の実の父、フォルコン・パスファインダーだった。
「驚いたよ! 久しぶりだなあマリー、こんな所で会えて嬉しいよ!」
「シーッ! 今、下の階にアイリが居るんだよ!」
「えっ……あ、あの」
「いいから! とにかくここは危険だから他所で話し」
私がそこまで言い掛けたその時。宿の玄関扉が再び開いた。私は思わず口をつぐむ……いや、玄関から入って来たなら、私とは関係無い人だよな……
「夜分ごめんなさい。お部屋はまだありますかしら」
だけど新たに現れた客、私はその人の顔を知っていた。レイヴン海軍の軍服をきりりと着こなし、だけど胸の周りはちょっと窮屈そうな、折り目正しいしっかり者美人……あれはブライズ・エイヴォリー艦長じゃないですか。
「ごめんください」
艦長は再び声を上げるが、その声は少し小さいような気がする。給仕さんは出て来ない。
エイヴォリー艦長は疲れた様子で溜息をつき、自分の肩をとん、とんと、左右交互に叩く……そして、手近な椅子に、膝を揃えてそっと腰掛けた。
給仕さんが出て来るまで待つつもりなのだろうか。随分控え目な人ですね。
私は再び父に向き直り、小声で囁く。
「それで、こんな所で何してんのよお父さん! 見たでしょ今、不精ひげ、じゃなかったニックを!」
「ニック?」
「さっきトイレの事を聞いてた覆面男よ! 私ニックやアイリやカイヴァーンとここに泊まってんの!」
私の気持ちは複雑だった。
今、私のちっぽけな頭には余裕が無い。海老やロブスター、アンソニー船長、自分の手配書、アイビスで仕出かして来た事、考えなきゃいけない事がたくさんあるのだ。その上アイリさんが居るこの宿に、腐れ外道のラーク船長でもある父が滞在するという特大のリスクを冒したくはない。理性では、今すぐ父にここから出て行って欲しいと思っている。
だけど……私には父と出会えたら話したい事が山ほどあったのだ。何なら一晩掛けても語りきれない程に。
私にとっては祖母で父にとっては母のコンスタンスの亡くなる直前の日々、とても心細かった、一人で暮らしたヴィタリスでの半年間、父の形見となった、リトルマリー号での航海。
そして前回の出会いの後で起きた事も。父が退治した奴隷商人ゲスピノッサの脱走、コルジア王宮での女王や王子との出会い、極北の海で出会った巨大ダコとドラゴン、それから、我らがアイビスの国王陛下との話。
今別れたら、次にいつ出会えるか全く解らない父。私は父に、今すぐこの宿から出て行けと言う事が出来なかった。
出来る事なら心行くまで父と話したい。私はその願望に抗えなかった。
「ええっ!? あの覆面男、あれがニックか! あはは、あいつ何であんな覆面」
「シーッ! 声が大きいよ! お父さん、とにかくここじゃ話が出来ないから上の階に行こう、ついて来て」
「ちょっと待ってマリー、父さん急に引っ張られたからビールをテーブルの真ん中へんに置いちゃって」
「いいでしょビールなんて!」
私は父を引っ張って階段の方へ連れて行こうとしたが……階段下の扉が不意に開いたので、慌ててテーブルの下に戻る。
「暗くて見えないよ、カンテラを貸してくれ」
不精ひげが戻って来たのだ。扉の向こうは外で、厠は外にある……明かりが足りなくて厠が見えなかったのだろうか? とにかく不精ひげは一旦戻って来た。
宿の給仕はやはり厨房の奥に居るらしく出て来なかった。
不精ひげは食堂に誰か居るとは思わず、何の気もなしに、外から戻る扉を開けてすぐ、厨房の方に向かってそう言ったのだと思う。
しかしその不精ひげの声に、劇的に反応した人が居た。宿の給仕でもないし父フォルコンでもない、勿論、私でもない。
「その声はジャック!? ジャック・リグレー様ではありませんか!?」
エイヴォリー艦長は、たった一言不精ひげの「暗くて見えないよ、カンテラを貸してくれ」という声に反応し、肩をすぼめて座っていた席から立ち上がって180度振り返り、さっきまでとは比べ物にならない大声でそう叫んだ。