アレク「……船を降りるのはやめてくれたのかな?」ロイ「……まだ解らん、もう少し様子を見た方がええの」
一ヶ月前、内海のどこかでそんな事が起こりました。
それでは本来の時空に戻り、主人公マリーの一人称で、今回の物語を始めます……
森の中を続く、なだらかな登り坂の道。小さな沢を横切ってあと少し登れば……道が開けて、牧草地が見えて来た。
彼方の丘の上には三階建ての教会が建っている……田舎には勿体ない程立派な、村の自慢の教会だ。教会の周りには畑や集落が広がり、古い砦跡も見える。
帰って来たんだ。私はヴィタリスに帰って来た。もう苦しい想いをして船に乗る事なんてない。風紀兵団に追われる事も無くなった。
森を抜けた私は走り出す。荷物なんか一つもない、海で手に入れた物は全部船に置いて来た。
私が着ているのは出掛けた時のままの、始まりの普段着。そうだ。これは父が母にプレゼントしたのだが母は気に入らず、ほとんど着ないまま家出の時に置いて行った不遇の服、だけど私は気に入って着てるのだ。
私にはこの服だけがあればいい、バニーガールもキャプテンマリーも必要ない。
青い空、流れる雲……なんと気持ちのいい日だろう。涙がむやみに溢れる。故郷の村がだんだん近づいて来る。
おや? 道端の小麦畑に居るあれは……幼馴染のサロモンだ。意地悪で口の悪い、大農家のおぼっちゃんでガキ大将のサロモンが珍しく、牡牛を励ましながら、力を合わせて犂を引き、畑を耕している。
また嫌味を言われたら嫌だなあと思いながらも、私は足を止める。私はヴィタリスに帰って来て、これからはこの村で暮らすのだ、村人の一人としてサロモンとも上手くやって行かなくてはならない。
「珍しく頑張ってるわね、サロモン」
私はいつものお返しにと思い、ちょっと意地悪にそう言った。サロモンはこちらを見た……あれ? サロモンが引く牡牛の向こうから、小柄な女の子が現れる。この村の子ではない、眼鏡を掛けた可愛い子だ……ロングストーンのクラリスちゃんにとても良く似てる。だけどクラリスちゃんがここに居る訳無いわよね?
「なんだ、マリーじゃないか」
今日はどんな嫌味が飛んで来るか? 私はそう構えていたが、サロモンは素っ気無くそう言っただけで、牛を引く仕事に戻ってしまう。
張り合いの無さを感じた私はもう一歩踏み込む。サロモンにはさんざん牛糞集めの仕事をバカにされたのだ、少しくらいお返ししてもいいだろう。
「その子はお友達? サロモンもなかなか隅におけないじゃない」
私はそう言って、冷やかすように笑ってみせる。サロモンは……私を一瞥すると、真顔で大人のような溜息をつく。
「お前はいつまで子供のつもりなんだよ……紹介しておかなきゃな。これはクラリス、バロワから嫁いで来てくれた、俺の大事な女房だ」
「えっ……え、ええええ!?」
私は驚きのあまり腰を抜かす。サロモンとクラリス……何で名前もクラリスなの!? 若い二人はにっこりと笑って見つめ合う……ああ……あのサロモンが、何て優しそうな顔で……しかし、再びこちらを向いたサロモンは真顔に戻っていた。
「船長令嬢だか何だか知らねえけどいい気なもんだな。お前が舟遊びにうつつを抜かしている間にも、皆どんどん成長して行ってるんだぞ。ニコラにも縁談が来たって言うし、エミールだっていつまで一人で居るか解んねえな。ああ、もう行けよマリー、俺は夕方までにこの畑全部掘り起こさないとならないんだ。家族の為、クラリスの為にな」
サロモンは私に自信と誇りに満ち溢れた一瞥をくれると、クラリスの手を取り、牡牛を引いて共に畑を耕す仕事に戻って行く……
私は道に這いつくばったまま、立ち上がれずにいた。何て事だ。私は海に何年居たんだっけ? 何年ヴィタリスを留守にしたんだろう? そもそもこの村に、まだ私の居場所はあるのか?
教養も無い、信心も無い、痩せたチビのマリーが海辺で砂遊びをしている間に、幼馴染達はみんな成長し、立派な大人になっていたのだ。
涙が出る……私はどうしてトライダーさんの言う通り、王立養育院に連れて行って貰わなかったのだろう?
村に居ないなら、せめて養育院に居れば、私でも教養や信心を身につけられたかもしれないのに……村の教会の修道女になれたかもしれないのに……
◇◇◇
そういう夢を見て目覚めたものだから、鏡の中の私は実に不愉快そうな顔をしていた。何が砂遊びだよ。
私、船長だよ?
ここは私の部屋。小さいが両袖のある執務机、私の体格なら十分広いベッド、艦尾には開放可能な板窓とベンチを兼ねた衣装箱、壁には上着や武器を掛けるハンガー、本棚……フォルコン号は一本マストの小さなスループ艦だ。立派なキャラック船やガレオン船と比べたら艦長室も狭い。
けれどもこの部屋は、この船にたった一人しか居ない船長、この私、マリー・パスファインダーの物なのだ。
「うっ……ぐえ……」
ああ……馬鹿な事を考えている間に、起きた瞬間から始まっている船酔いがどんどん酷くなる……
でも大丈夫。私には船酔いを止める魔法の服があるのだ。それも四着も。
だけどそのうち一着は酷使の後でのお手入れ中、もう一着は呪いの装備として釘を打った箱に閉じ込めてある。
残る二着のうちの一着はバニーガールの服だ。半年前、私が船長になるきっかけを作ってくれた大切な服である。でもこれは昨日着たので……うぷ……
駄目だ間に合わない、私はパジャマ代わりの父のチュニックに毛布を被っただけの姿で艦長室を飛び出す!
「うえっ! ぐえ◇●××■ぇ○△▲×ぉぇぇえ~」
舷側の波除板から向こうに顔を出した私は、海面に胃液をぶちまける……起きてからまだ何も食べてないというのに。
船長になってからもう半年以上経った。この体はいつになったらこの揺れに慣れてくれるんだろう。ああ……だけどちょっとだけスッキリした。
「……お目覚めはいかがかしら? マリーちゃん」
背後から声を掛けられた私は、手の甲で口元を拭いながら振り返る。
今私を呼んだのは航海魔術師のアイリさん28歳。ウェーブのかかった亜麻色の髪の綺麗なお姉さんだ。
その後ろに居るのは、長い顎鬚のロイ爺、大柄で怠け者の不精ひげニック、小柄で器用な太っちょアレク、それから船で唯一私の年下のぼさぼさ黒髪の可愛い義弟カイヴァーン。
青黒い肌に牙をもつ筋骨隆々のオーク族の紳士ウラドは舵を握っているが、他の皆は私が起きて艦長室から出て来るのを待ち侘びていたように、周りに集まって来た。
私が船長を務めるフォルコン号は商用艦なので、最小限の人数で運航している。洋上ではいつも誰か二人が寝ていて、残り五人が操船をする。五人のうち三人は当直、二人は半休で、半休の者は必要な時だけ手を貸す。
勿論、何か起きた時は寝ている二人も起こして七人で事態に当たる。しかしそんな一大事は滅多に無いはずなのだが……
「うえっ、ぐえ……どうしたんですか、皆で」
「どうしたんですかじゃないでしょう、貴女がレイヴンへ行くって言い出して、理由も説明しないまま艦長室に戻って寝ちゃったんじゃないの」
おっと、フォルコン号にはもう一人、いや一匹乗組員が居る。ぶち猫のぶち君も下層甲板から階段をトコトコと上がって来た。この子も私とたくさんの冒険を共にして来た、ただの猫である。
「理由なら説明したじゃないですか、ウインダムで仕入れた積荷を売る為に、レイヴンの港に行くんですよ、レイヴンにだって得意先はあるんですから」
「今までさんざんレイヴンとの関わりは避けて来たんじゃない、貴方のお父さんが何か、その……レイヴンでは手配されてるとかって……」
アイリさんの声が小さくなる。気を遣ってくれてるんだなあ。
そう。私は今までレイヴンという国やレイヴンの海軍との接触を避けて来た。
私の父はおよそ一年前、南方のタルカシュコーンという港でレイヴン海軍艦を一人で盗み出すという事件を起こした。
父はレイヴン海軍の追手の目の前でサメだらけの海にパンツ一丁で飛び込み、以後は行方不明という事になっている。
そんな父が居るからと、今までレイヴンを避けて来たのは私の方なのに。今私は、自分からレイヴン王国の領土にある港へ行こうとしている。
カイヴァーンが一歩前に出て、遠慮がちに口を開く。
「あのさ。姉ちゃんがレブナンで何をしたのか、聞いちゃダメなの?」
レブナンは先日まで私とフォルコン号が居た港である。私はそこから逃げるように出航して来た。
「……何もありません。ただ、新しい御触れによりアイビス王国内での年齢の数え方が変更になり、私が16歳になるのは一年先になってしまいましたので……ちょっと、アイビスの港には今は立ち寄りたくないなーと」
目を逸らす私。そこへアレクが周りこんで来る。
「そこまでは昨日も聞いたけど、それでどうしてレイヴンへ行こうって話になるの。今までだってアイビスの港には普通に寄港してたし、レブナンでは船長、風紀兵団? の人達とも仲良くなってたみたいだったじゃない」
アレクの反論はもっともである。
仮にどうしてもアイビスの港に立ち寄りたくないのだとしてもレイヴンは無い。積荷の工業製品もサフィーラやロングストーンで売る方が高く売れるだろう。
「ごめんなさい……これだから私なんかが船長で居ちゃいけないんです」
私は意気消沈し肩を落とす。
「ちょ、ちょっと待ってよ船長! 僕そんな事言ってないよ!」
「そうじゃ船長、太っちょもわしらも何もそんな、ただどうしてレイヴンなのか知りたかっただけなんじゃ」
「だけど私、ちゃんと説明も出来なくて……航海は遊びじゃないし、皆の大事な仕事なのに、私は足を引っ張ってばかりで」
「ちょっと待って。マリーちゃんまず着替えてらっしゃい、まだあるでしょう、船酔い知らずの服」
アレクが、ロイ爺が困った顔をしている……本当に私は皆を困らせてばかりだ。アイリさんはそんな私を抱え、艦長室へと連れ戻す。
数分後。私は残る一着の船酔い知らずの服、目に痛い程のローズレッドのワンピースと白いブラウスのヒラヒラフリフリの服、私の中での通称、お姫マリーの服に着替えて艦長室を出た。
「あの、船長、さっきの事だけど……」
甲板に戻った私を見て、アレクは遠慮がちにそう言ったが。
「レイヴンに行くったらレイヴンに行く、船長の私がそう決めたの! それよりこの時間の非番は誰なの、何勝手に起きて来てるのよ寝るのも仕事でしょう!」
私は唖然としている水夫共を一人一人を指差してから、手を腰に当てて胸を反らす。私は着ている服で性格が変わる事があるのだが、特にこのお姫マリーを着た時は殊更気が強くなるような気がする。
「あのな船長、それでレブナンで一体何を」
「そんな事どうだっていいんですよ! それより不精ひげアンタまたお腹が痛いとか言い出さないでしょうね、聖女の顔も三度までだよ!? 相手がレイヴン海軍だろうとレイヴン国王だろうと、今度こそ普通に働いてもらいますよ!」
私は着替えのついでに取って来たそれを、不精ひげに投げつけるように渡す。
「な、何だよこれ」
「昨日作ってあげたのよ、不精ひげ専用の特別製よ……さあみんな! パスファインダー商会は正々堂々商売をしにレイヴンに行くのよ! 返事は!?」
「了解、マリー船長!」
バウスプリットの彼方を指差す私に、皆が少しばらけた返事を返す。
ごめんね。私まだ、アイビス国王に平手打ちをかましてしまった事を皆に打ち明ける勇気が無いんです。