勇者噂話「へへっ、今度は間に合ったな!」
意気揚々、コンウェイを離れ東へ向かったマリー船長。
ここで三人称の話が入ります。レイヴンの首都、ブレイビスでの話。
レイヴン王国外交における国王に次ぐ最高責任者、外務卿を務めるロータス伯爵は現在59歳で、今年中には役職を辞し、所領に帰って趣味の造園に勤しむつもりでいた。
―― トン、トン、トン
「閣下、ブレイストンより急使が参りました」
「ああ、少し待て」
執務室でこっそり植物図鑑を眺めていたロータスはそれを机の引き出しに仕舞い、居住まいを正して答える。
「入りたまえ」
ロータスが許可すると、外務卿専用の執務室の重厚な黒樫の両開きの扉が開き、高等外務官のベルミットとその補佐官が、緊張の面持ちで入室して来る。
「さて、急使とは?」
「はい、ストークの使節団が現れたとの事です」
ロータス卿は深い溜息をついて立ち上がり、窓辺へと向かう。
「ダグラス君はストークに随分翻弄されたな。彼にはこの仕事は荷が重かったのだろうか。そうか。ようやく来たのか……ダグラス君も一緒かね?」
「いいえ……ダグラスは使節団には同行しなかったそうで……」
「はて、まだイースタッドに仕事が残っているのか。気の毒に。ストークの先遣使節の団長の肩書きは何だね?」
普通、大事な交渉を行う使節団には先遣隊が居る。そして外交交渉に於いては相手が出して来た団長の肩書きに合わせて、誰が交渉に当たるかを決めるのだが。
「それが……シーグリッド王女だそうで……」
「何? 何の冗談だ、それは」
窓辺で背を向けて立っていたロータス卿が振り返り、足早にベルミットに歩み寄る。
「冗談でも先遣使節でもありません、ストークは予告もなくシーグリッド王女を差し向けて来たのです」
「待て、待て、何カ月も待たせたと思ったら、今度は話が早過ぎる。確かに我々は我が国の王子殿下とストークの王女の縁談も有り得るのではとは言った、しかしそれは一つの可能性に過ぎず、そもそも殿下にはまだ何も……」
「閣下。とにかくシーグリット王女を乗せたストークの軍艦は8隻の護衛艦と共にブレイストン港に入港してしまいました、副団長としてストークの宰相エイギルまで同行しております」
ロータス卿は少しの間、丁寧に手入れされた立派な髭を持つ口を開け、呆然としていたが。
「ふふ……はははは……」
やがて掌で顔を覆うと、天井を向いて。外務卿ロータスは低く唸るように笑った。
「ストーク人らしいと言えばストーク人らしい……なるほど。レイヴンに従うと決めた以上、友情の出し惜しみはすべきではないと、彼等はそう考えたのだろう。これは大変だ、こちらも盛大に歓迎して見せなくてはならないな。ブレイストンには私が直接赴こう。ははは……この仕事は私の外務卿人生の集大成となるだろう」
ロータス卿は、ストークがレイヴンへの恭順を決め、シーグリッド王女をレイヴンの王子の妃として差し出す事を決めたのだと考えた。そう決めた以上、レイヴンの気が変わらないうちに急いで差し出すつもりだとも。
◇◇◇
ブレイビスには冷たい、煙るような霧雨が降っていた。黒い外套をしっかりと着込んだロータス卿は外務省の庁舎の門を出て、待機している天蓋付きで四頭立ての馬車の方に向かう。
「ホライゾン君は今日も来なかったな」
外務高官のベルミットとその補佐官も、ロータス卿に付き従っていた。ホライゾンというのは海軍の外交担当の事務高官で、普段は一日おきに外務省に出向して来るのだが……もう一週間は来ていない。
「そう言えば、海軍が何か隠してると司法局に出向いた連中が騒いでおりました」
「市中の指名手配犯の事だそうですが……」
上機嫌のロータス卿は、部下二人の言葉を気に留めなかった。
「ふふ。我々の仕事には関係無さそうだ。まあ、今回の件ではもう海軍の手を借りる場面は無くなったんじゃないかね」
ロータス卿は従者が開けた扉から馬車に乗り込む。ベルミットと補佐官も続く。
「しかし何だね。ランベロウの愚行から始まった話が案外上手い所に落とし込めたようだ。あの男を許す気にはならないが」
「同感です閣下。やはり金貨50万枚は大きな痛手でしたし……ですがそれがストークを恭順させる切っ掛けになったのだとすれば、ランベロウの刑も、市中引き回しの上での火炙りではなく、より人道的な銃殺刑にするよう働きかける事も出来るのではないかと」
「それに銃殺刑の方が、費用も安上がりだそうですよ」
三人の男が悪趣味な話で盛り上がる中、従者は馬車の扉を閉めた。そして馭者の合図で、馬車はゆっくりと走り出す。
そこへ。
「……外務卿閣下! お待ち下さい、外務卿閣下!」
誰かが霧雨の中、馬車を追い掛けて走って来る。
「……そこの馬車、止まれー! 閣下! ダグラスです、お待ち下さい!」
補佐官が馬車の後ろの吹き抜け窓を見て告げる。
「閣下、あれはダグラス殿です、馬車を停めて宜しいでしょうか?」
馬車を追い掛けて来た恰幅の良い人物は、レイヴン王国の特使としてストークの首都イースタッドに滞在していたダグラスその人だった。赤ら顔を弾ませ、白い息を吐いて、ダグラスはどうにか、停まった馬車の戸口までやって来た。
馭者の一人が、馬車の扉を開き、だいたい同格の外務高官ベルミットが顔を出す。
「ダグラス君! 随分久し振りじゃないか、いつブレイビスに戻ったのだ?」
「今朝だよベルミット君! そして家にも帰らず急いで出勤して来たのだ、外務卿閣下は御同席かね!?」
◇◇◇
20日程前。
シーグリッド王女は一晩で用意したストーク使節団に同乗するようダグラスにも勧めたが、ダグラスは荷造りが間に合わないと言ってそれを謝辞した。
「まあ、それは……早くお子様や奥様に御会いしたいでしょうに、ごめんなさい、私達少々急ぎますので、先に出発させていただきますわ」
シーグリッド王女のストーク使節団がイースタッドを離れると、ダグラスはろくに支度もせず大慌てで旅立った。何としても使節団を追い越し、先にブレイビスに着いて母国に対策を練らせようとしたのである。
まず彼は、ストーク国内を陸路でコモラン付近まで行こうとしたのだが。
「早馬を貸してくれ!」
「真冬のストークで早馬は貸せねえって。悪い事は言わん、船で行きな」
結局馬は急には借りられず、泣く泣く定期貨客船を探し直して乗り込む頃には丸一日が経過していた。
貨客船はシーグリッド王女が乗ったヒルデガルド号より遅く、痺れを切らしたダグラスはコモランから馬で内陸を移動し王女を追い越そうとしたが。
「ヒャッハー! 護衛も連れてねえ金持ちのレイヴン人だあああ!」
「俺達は肉が喰いてえ! 肉を買う金を寄越しやがれぇぇえ!」
ファルケ領内に入るなり山賊に襲撃され、一度目と二度目は逃げ切ったものの、三度目は谷川の岸辺で髭剃りをしている所を襲われて逃げ切れず、馬も金目の物もほとんど奪われた。
「ファルケの治安はどうなって居るのだー! この野蛮人共めー!」
もう何も出来ないと絶望しつつ、徒歩で峠を越えた所に現れた四度目の山賊団は、ダグラスの話を聞くと同情し、彼等の馬でルーデン近郊まで送ってくれた。
さらにルーデンではたまたま道端で出会った町の材木商の男が、彼の味方になってくれた。
「母国に急を知らせる為、真冬のファルケを一人でここまで……それはさぞや苦労された事でしょうな」
「ご親切痛み入る……しかしもう手遅れでしょう。シーグリッド王女はもう、ブレイビスに到着してしまったでしょうからな」
「あの私、つい最近まで所用でウインダムに居たのですが、ストーク王国の王女はウインダムに寄港し、クラッセ王室の歓待を受けておられたようですよ」
王女が直接ブレイビスに行っていたら、絶対に間に合わない。しかしウインダムでクラッセ王国とも交渉していたら? ブレイビスには間に合うかもしれない。
「ウインダム行きの川舟でしたらもうすぐ出ます、それからこれはレイヴンへ帰る為の船賃です、どうぞお持ちなさい」
「忝いッ……! 忝いハイネン殿、この御恩はいつか必ず……!」
そしてウインダムへ辿り着くと果たして、ストーク使節団の旗艦ヒルデガルド号はまだ港に居た。シーグリッド王女は一週間あまりクラッセ王室の歓待を受けていたのである。
ダグラスは疲れ果てた体に鞭打ち、ブレイビス行きの船を探した。互いに大都市であるウインダムからブレイビスへ向かう船はたくさんあったが、どこにも寄らずに直行する船は無かった。ダグラスはその中から、一番早くブレイビスに着きそうな一隻を選び、乗り込んだ。
◇◇◇
そうして、苦難の旅の末、ブレイビスに辿り着いたダグラスが、ぎりぎり間に合って、シーグリッド王女に会いに行こうとしていたレイヴン王国外務卿、ロータス伯爵に伝えたのは。
「我等が仇敵、フレデリク・ヨアキム・グランクヴィストは、レイヴン海軍艦グレイウルフ号とその艦長マイルズ・マカーティの親友であり、二人は共にスヴァーヌ北部のフルベンゲンで海賊と戦い、拿捕したキャラック船をレイヴン国王に捧げたと……シーグリッド王女とエイギルはその情報と証拠を持ち、レイヴンに外交的奇襲を掛けようとしているのです! 閣下! これは冗談ではありませぬ!」