猫「拙者が居らねばあの男、戻って来なかったのかも知れぬぞ。全く世話の焼ける連中だ」
ブライズ・エイヴォリー艦長は第四作英知と決断編の第20話と第65話で登場しました。幕間の話ですしあまり皆様の印象には残らなかったと思います。
年齢は30代前半くらい、肩口で揃えた金髪をきちんと結んだ、苦労性の綺麗なお姉さんです。若い頃から肩こりにお悩みだとか。
一時間後。眠くならないようファウストの奇書『航海者の為の面積速度一定則、そして楕円軌道と調和』を読み続けていた私は、本を閉じる。最近ようやく本に書いてある事が面白く感じられるようになって来た。
艦長室の扉を開け、外を伺う……もう皆寝たかしら? ロイ爺やアレク、ウラドは元々寝ていたようだった。不精ひげ、カイヴァーン、そしてアイリさんももう寝たか。
船酔い対策としてバニーコートに着替えた私は、慎重に足音を忍ばせ、海図室へと降りて行く。
もう二度と使うまいと誓ったのになあ。
巨大ロブスターはとても美味かった。私は代金として銀貨5枚を払ったが、あのロブスターに銀貨5枚は無い。金貨5枚でも安いのでは? 私はアンソニーさんから特別製のロブスターを御馳走されてしまったのだ。
狭い海図室に入った私は、信号旗や製図用具の箱を一つ一つ静かに取り除ける。
これだけは使いたくなかった。だけどマリー・パスファインダーはレイヴンでは重要参考人として捜索されている。嫌に精細な人相書きを添えて。
やがて積み重ねられた箱の下から、それは出て来た。御丁寧に蓋を釘で打ちつけた木箱。ストーク王国の子爵家の四男坊フレデリク・ヨアキム・グランクヴィストは、この箱に封じられている。まあ実際に入っているのはただの船酔い知らずの服とアイマスク数点だけど。
フレデリクはフレデリクでレイヴンでは賞金付きで指名手配されているようだが、フレデリクの人相書きはマリーのそれと違い、私とは似ても似つかぬ他人の絵が描かれている。何故そうなったのかは解らないが、私にとっては好都合だ。
私は深呼吸をして、フレデリクを封じた魔の木箱を見つめる……前回はこの場で開封しようとして二の足を踏んだが、今日は箱ごとどこかへ持って行って開封する事にする。
覚悟を決め、私は箱を持ち上げる。あれ? この箱こんな紐ついてたっけ?
―― からん、コロンからん(笑)
ひ……ひいいっ!? 箱には罠が仕掛けられていた! 不用意に持ち上げると釘に引っ掛けてあった紐が引っ張られ、取り付けられた鳴子を鳴らしながら、異変を……士官室へと伝える仕掛けに……
―― バーン!
「マリーちゃぁぁん!!」
士官室の扉が音高く開き、アイリが飛び出して来た!
「そんな事だろうと思ったわよ! 美少年ごっこはもうやめるって言ったじゃない! 夜中にこんな海賊だらけの港で一人でどこへ行くつもり!? いい加減にしなさい!」
「ぎゃあああぁあああごめんなさいひ゛ゃ゛ぁぁあ゛あ゛」
ただの夜遊び少女としてアイリに捕まった私は艦長室に連れ戻され、眠くなるまで分数の割り算を解き続けるの刑に処せられた。
コンウェイ港の船乗り達は深夜まで騒いでいたようである。方針を巡ってなのか、ただ単に機嫌が悪いのか、波止場で怒鳴り合いや喧嘩をする声も度々聞こえた。
◇◇◇
翌朝。夜明け前から波止場で人の声がする……船乗り達は夜通し騒いでいたのか? いや……これはごろつき共の声とは違うような。
私は艦長室の壁の、以前敵の銃弾で空けられた穴からコルク栓を抜き、外を覗く……やっぱり、集まっているのは船乗りじゃない、町の堅気の人々だ。
そうだ。私が売った証券が利益を出す為には、債務者となる事業主達が事業を成功させなくてはならない。
なのに昨日、その債務者の一人であるアンソニー船長が逮捕され、漁獲して来た海老やロブスター、それに証券の資金で買ったばかりの資材も没収されてしまったのだ。
アンソニー船長はもう商品の代金を払えず、商品を返す事も出来ないかもしれない。そんなニュースを知ったら、マリー証券を買ってしまった人達はどう思うか……!
私は大慌てで真面目の商会長服に着替える。手配書と同じ服装になってしまうなんて気にしてる場合じゃない、少しでもまともに見える服で行かなきゃ!
艦長室を飛び出し、艦首舷門に繋いである渡し板をよろめきながら降り、私は集まった人々に駆け寄る。
「御報告が遅れて申し訳ありません! アンソニー船長の件で御心配されている事は解ります、ご希望の方がいらっしゃれば、証券は今すぐパスファインダー商会が全て金貨10枚で買い取ります! ですからどうか……」
私はなるべくはっきりした声でそう言った。しかし皆さんは少し驚いたような顔をするばかりだった……あっ、アイビス語じゃ駄目ですよここは!
「私は、証券を今日買います! 金貨10枚! 貴方は、安心して下さい!」
私は手持ちのレイヴン語の語彙を尽くし、何とか気持ちを伝えようとする。だけど善良な町民の皆さんは顔を見合わせるばかり……どうしよう。やっぱり私も海賊なのかな……こんな風に人々に迷惑を掛けてしまうなんて……
「お嬢さん、何か勘違いしてないか?」
鍛冶屋のような前掛けを掛けたおじさんが、アイビス語でそう言った。
「私達、貴方の証券を買いに来たのよ?」
「この港の為の投資だって聞いたぞ! 職人に工具を、問屋に材料をってな!」
お針子風のお姉さんや、調理人のおじさん……様々な職業の町の人々が、様々な言葉で、私に向かって話す……
「この町は、あんたのような人が来るのを待ってたんじゃ。わしにも証券を売っておくれ」
「アンソニーの事は残念だが、投資にリスクがある事なんか重々承知さ。頼むから、これくらいの事で止めるなんて言わないでくれよ!」
「そうだよォ。そもそもあんた、あのごろつき共に堅気の仕事をさせる為にこの投資を始めたんだろ? たいしたもんだよ、本当に」
ほとんどの人達はレイヴン語で話しているから、正確には何と言ってくれているのか私には良く解らない。だけど皆さんの気持ちはすごくよく伝わって来る……
「君の商会の人が昨日言ってたからね、早くしないと売り切れるって。早朝から押し掛けて悪いが、証券を売ってくれんかね?」
その一言を合図に、町の皆さんが私を取り囲む。
「俺は2口買うぞ!」「私は3口ちょうだい!」「待てよ! 皆が買えるようにしてくれよな!?」
「あど。皆゛ざん待っで下゛さぃ、いば皆を起ごじで用意させまずがら」
こんな事をされてしまったら、どうすればいいのか。元からボロボロの私の涙腺は完全に決壊し、涙は目と言わず鼻と言わず溢れ出し、町の皆さんの顔も、まるで滲んで見えなくなってしまった。
◇◇◇
―― ババーン!
一時間後。私は取引所の両開きの扉を両方、音高く開けていた。たちまち中から、酒と煙草と胃液の臭いが溢れだす……キツいけど、負けるものか。
船乗り達は音に驚き、外の眩しさに目を細めていた。どいつもこいつも酷い顔である。アンソニーの心配をしていたのか善後策を練っていたのか、はたまたただひたすらに酒を飲んで気を紛らわせていたのか。喧嘩でもしたのか、顔に痣だの隈だの拵えた男も居る。
「マリー……船長」
私はテーブルの間をずかずかと、カウンターまで進む。男達の視線が集まるが、口を開く者はほとんど居ない。
「あんたの船の周りで騒ぎが起きてたな……その……出資者達がアンソニーの話を聞いて、金を取り戻しに来たんだろう?」
そしてカウンター席に居た船長の一人がようやく、沈んだ声でそう言った。
一瞬バカヤロウとでも言ってやろうかと思ったが、私だって最初はそう思ったんだった。
「逆ですよ! 町の皆さんはアンソニーが連れて行かれた事を聞いてなお、証券を買いに来てくれたんです、お陰様で証券は売り切れ、商品は正式に皆さんの事業組合の物となりました。貴方達も井戸水で顔でも洗ってシャキッとして下さい、町の皆の心意気に応えて、力を出すのは今ですよ!」
「何だって!?」
周りの船乗り達の何人かが立ち上がる。
「それで。アンソニー船長の事はどうする事に決まったんですか」
「そ、それはその、プレミスに抗議に行こうって奴と少し様子を見るべきだって奴で意見が分かれて……」
「解りました。じゃあ私がプレミスに行って来ましょう。海軍はまだ代金を貰ってないうちの商品まで持って行ったんです。私にだって言い分がありますよ」
周りの船乗り達が一斉に立ち上がる。
「ちょっと待ってくれ、何でアンタがそこまで!」
「そうだ、それにその、あんたは……この……」
あの人は確かペンドルトンさん。その筋骨隆々の船長は、懐から一枚の紙を取り出す……ってそれ私の手配書じゃん! 何で持ってるのよ、捨てるって言ってたのに。
「ちょっと待て、何だそれは、貸せよ」
「触んな、俺のだ! マリー船長、あんたレイヴンの司法局が探してるぞ、詳しい事は何も書いてねぇが……」
船乗り達がペンドルトンの周りに集まり、皆で手配書と私を交互に見ている……何ですか。小娘の手配書が珍しいんですか。
「本当だ、マリーちゃんあんた何をしたんだ」
私は腕組みをし、目を細める。実際、レイブンの役人がマリー・パスファインダーに何の用があるんですかね……いやまあ、どうせ父の事でしょ? いいよ。もし捕まったら普通に洗いざらい話してやりますよ。私には後ろめたい事は何も無いのだ。フレデリク君は別として……
「貴方達はアンソニーさんみたいに逮捕されるかもしれないから、様子が解るまでプレミスには行きたくないんでしょう? だからその様子を私が見て来ます」
「いやだけどマリー船長、あんただって逮捕されるんじゃ……」
「私にやましい事はありません! 世界の海は繋がっていて船乗りは自由です! 私はどこにでも、必要な所に行きますよ!」