カイヴァーン「お前、何か重くなってない?」猫「オ……オアア。アーォ」
割と長くなりましたシリーズ第六作、マリー・パスファインダー船長の肖像画もそろそろ終わりが近づいております。今回のマリーの冒険は如何でしたでしょうか……
この話はレイヴンを離れたマリーの一人称になります。
洋上に出てから、私はもう一度艦内全ての場所を自分の目でチェックした。
マカーティという人間の善性は承知している。あれは素晴らしい艦長であり、誠実で正義感が強い軍人で、弱い者の為に命懸けで戦う勇敢な戦士だ。
だけど人が閃光弾の暴発で死に掛けている時に、突然耳元でクンクンハフハフと鼻息を荒らげて人の臭いを嗅ぎ始める変人でもある。まさかあんな所まで狼犬っぽいとは思わなかった……ああいうのは狼犬がやるなら可愛いが、人間にやられたら鳥肌が立つだけだ。無理だ。
とにかく、私はこれ以上はマカーティの事を考えない事にする。彼は私の思惑通り生き延びてくれた。仕事を見つけてあげられなかったのは申し訳ないが、生きていれば楽しい事もあるでしょ、きっと。
「アイリさん。このボロ切れを雑巾にでもリフォームして貰えませんか」
それから、私はそう言ってアイリさんにキャプテンマリーの服を引き渡した。この服はもう駄目だと思う。上腕と太腿の所に小さくない鉤裂きがあるし、閃光弾の暴発でついた焦げ目もある。これはもう、この服の寿命だ。
「そう……いいのね? もう美少年ごっこはしないのね?」
「美少年じゃないけどフレデリクは本当に終わりです、二度としません! もう絶対に絶対に出て来ませんから!」
今度こそフレデリクは消えた。多分あの空飛ぶ大怪獣と共に月にでも行ったのだ。今頃はうさぎ達と餅つきでもしているに違いない。
そもそもあの怪獣は何故あんな所に現れたんだろう。解らないけど今後は間違っても夜空に向かって助けてーなんて叫ぶような真似はしないよう気をつけたい。
腕と脚の傷は結構深く残ってしまった。これじゃバニーコートも着れないですねえ。何が恥ずかしいってこの傷、まるで大きな獣に引っ掛かれて出来たみたいな形をしているのだ。
誰かに聞かれたら、ライオンと戦って出来た傷だと答えようと思う。
顔の傷の方は……遠目には解らないと思うけど近づいたらバレるかな……どうか綺麗に治りますように。こんなやくざなマリー姉ちゃんでは、文字通りソフィに合わせる顔が無い。
姉ちゃんと言えば。私は今回の旅での唯一の戦利品であるダーリウシュのサーベルを、カイヴァーンに渡した。
「何であの親父の剣がレイヴンの博物館にあるんだよ……あれは形見分けだって言って別の船長が持ってったのに」
「レイヴン海軍がダーリウシュを倒して奪ったみたいに展示されてたわよ」
「……剣がこんなになるような生き方をしてたら、誰に殺されても仕方ないけど」
カイヴァーンはボロボロの刀身を見て溜息をつくと、それを鞘に収めた。
「一応、昔の親の剣だし、変な所にあるのはちょっと嫌だな……ありがとう姉ちゃん、俺が責任持ってどこかで鋳潰す事にするよ」
この子、背が伸びたなあ。廃船の中で見つけた時は私より少し背が低かったのに、今ではちょうどマカーティと同じくらいの背丈になってしまった。これはまだまだ伸びるわね……フォルコン号の食べ物がいいのかしら。
「コンウェイ近郊で苦労して集めた商品だよ」
アレクは地元産のチーズ、羊毛、錫地金などを仕入れてくれていた。市場が小さいのでフォルコン号を満杯にするのにも結構時間がかかったそうだ。
しかし町の景気は確実に上向いていて、既に地元の元海賊も何隻かは商船として、やはり地元の産物を積み、アイビスやレイガーラントに向けて出港していたそうだ。商売が上手く行けば、帰りは向こうの産物を積んで来るだろう。
「ロングストーンに持って行くのに丁度いいわね」
「サフィーラに寄ってもいいね。船長の都合が悪いのでなければ」
私が商品から顔を上げると、アレクはそう言って目を細めて私を見ていた。
「まだ話してくれる気にならないの? レブナンで何があったのかも、フレデリク君が船を離れて何をしていたのかも」
そうは言われても、私はアイビス国王の頬を引っ叩いた事やレイヴンの死刑囚を脱獄させてしまった事を話したくないので、微笑みを浮かべて小さく首を振るに留める。
「どうって事無いんだけどね! でもちょうどいい機会かな。太っちょ、皆を艦長室の前に集めてくれない? 話したい事があるから」
アレクが皆を集めて来る間に、私は艦長室の中で真面目の商会長服からオレンジ色のジュストコール、貴族マリーの服に着替える。今日の泰西洋の波はそこそこ高かったけれど、私も最近ではこのくらいの波はへっちゃらになって来た。
―― トン、トン、トン。
「船長、全員揃ったぞい」
ロイ爺に呼ばれた私は、艦長室の扉を開けて、外に出た。
「ぶ……ぶはっ!?」「ひゃっ!?」「ふお……ふおほほほ!」
たちまち不精ひげが、アレクが、ロイ爺が吹き出す。ウラドとカイヴァーンは真顔で、アイリさんは苦笑いをしている。
私はブレイビス大橋の店で買っておいた、金髪くるくる巻きの兜のようなかつらを被っていた。何がおかしいのだ。ブレイビスの貴族達はみんなこんなのを被っていましたよ。このオレンジのジュストコールにはぴったりだと思うのに。
「皆さん。この数週間、クレー海峡で私が学んだ事について御説明致します」
私がそう言うと、不精ひげとアレクとロイ爺は必死で笑いを堪える。
「レブナンでリトルマリーが国王陛下の拝謁を賜った事は大変光栄な事でした。陛下があのような小船に何故興味を持たれたのかは今もって謎ですが、ともかくこれは済んだ事です」
私は皆の顔を、端から端まで見渡す。
「そしてレイヴンでは驚きに出会いました。あれは何と豊かな国なのでしょう。広い世界に漕ぎ出すという事があんなにも多くの富を運んで来るのだとは!」
「コンウェイもプレミスも、全くそんな感じじゃなかったような」
「シーッ、不精ひげ」
私は自分がブレイビスに行った事すら誰にも話していない。父もファウストも日記や著書に書いている。船長は何でも秘密にしていいのだ。
「それに引き替え、クレー海峡の何と狭い事か。両岸のしがらみ、古い因縁、多過ぎる競合相手に圧縮される利益、それでいて常に存在するリスク……まあ、リスクの無い海などありませんが」
ちょうどその時、不意の横波が来て船が不規則に揺れた。
「ぎゃっ!?」「船長!」
―― カーン
転倒した私はいい感じに船鐘に頭をぶつけた。すぐにアイリが助け起こしてくれたが、目の前を飛ぶ星が消えるのに、私は五秒くらい俯いていなくてはならなかった。さて。気を取り直して。
「しがらみだらけの狭い海は、レッドオーシャンはもううんざりです! 我々はより広い海を、ブルーオーシャンを目指すべきだと思いませんか!?」
私は拳を握って顔を上げる。
「泰西洋を南下し、潮流に乗って新世界へ行きましょう! 広い海でどでかく稼いで、船一杯の銀や金を積んで大手を振って故郷に帰る、そんな航海に出ませんか! 我々はそんな事が出来る、そんな夢を見られる時代に生きているのです、皆さんが船乗りになったのは何故ですか!? いつまでも船の上で働き続ける為ですか!? そんな事はないでしょう、いつか大金を掴んで、陸で遊んで暮らす為ではないのですか! さあ今こそ出掛けましょう、一攫千金を掴む旅に!!」
―― ミャア、ミャア、ミャア、ミャア……
マストの天辺で休んでいたカモメが、猫鳴きしながら飛び立つ。
―― ポト
私のかつらの上に何かが落ちた。
「どうしちゃったのマリーちゃん……私が言うならともかく、大金を掴んで遊んで暮らそうだなんて、一番貴女らしくない台詞じゃない」
最初に口を開いたのは、過去に何かで天文学的な巨額の負債を背負った事のあるアイリさんだった。
「あの……船長が船長になってからの商会は好調続きで、無理なんかしなくてもこのままやっていけば、数年で全員引退出来るくらいのお金が溜まりそうだけど」
「この船は速いし、少人数で運航出来て護衛も要らないし品物も傷まない、普通にしてたって十分儲かるんだ、何なら穏やかな内海を往復してるだけでも」
「新世界での交易は我々の誰もが未経験で、どんな商習慣があるかも解らず、人脈も無い……進出するならそうした準備をしてからでも遅くないのではないか」
アレクが、不精ひげが、ウラドが後に続く。ここまでの抵抗を予想していなかった私は、二歩後ずさる。
「そうですか……ごめんなさい。じゃあもうちょっとよく考えます」
私はそう言って舷側の手摺りに寄りかかる。
「いや……この船の船長はマリーちゃんじゃ、船長が行くと言えば、わしらはどこにだって行くがの」
ロイ爺はそう言ってくれたけど、さっきの話に賛成しているというよりは気をつかってそう言ってるだけみたい。
私がそんな事を考えていると、途中から話を聞くのをやめて見張りの為にマストに登っていたカイヴァーンが叫ぶ……
「甲板ー! 8時方向のアイビス海軍艦が信号旗揚げてる! 停まれだって」
「えっ……?」
にわかに皆が色めき立つ。確かに8時方向からアイビスの船がこちらに向かって来る……真っ直ぐこちらを向いているから艦種はよく解らないけど、ブリッグ船かしら?
「5時方向からレイヴン海軍艦もついて来るけど」
レイヴン艦ですか。こちらは平行方向に進んでいるのでマストが三本あるのが見える……フリゲート艦かな? 補助帆をどんどん張り増して加速しようとしているように見える。
「この風では、じきに追いつかれるような気がするんじゃが」
風は今は概ね7時方向から吹いていて、フォルコン号もすいすい進んではいるのだが。順風だとああいう帆の面積の広い快速船には追いつかれる事も多いのだ。
「とりあえず、あのアイビス艦の方に寄せて減帆していいよな?」
不精ひげはもう帆の向きを変えるつもりで、動索を手にして私の返事を待っている。私は振り返って答えようとしたが、不意の緊張感に眩暈を覚えたと思った、次の瞬間。
「びゃっ☆ んェッ! ぐえええ○★ぅ□#ぇ@ぇぇぇ◎◎ぇぇ~」
「きゃあああ!? マリーちゃん!?」
舷側から顔を出すのに間に合わず、私はまた甲板でやらかす。
「あー、今掃除するよ」
「いィッ! 来ないで太゛っぢょ! ア゛たじ自分でや゛るから! それより!」
私はやけくそで手摺りを掴んで這い上がり、大きく腰と両腕を振り回す。
「風よーッ!! 回れェェーッ!!」
―― バサバサ……バン! ボン!
「回ったー!?」
「1時の風だ、裏帆を打ったぞ!」
偶然だよ! 偶然風が回る直前に私がそう叫んだだけだから!
私は再び、拳を握って号令する。
「タッキング始めますよ! メンスル畳んで、ジブスルもう一枚出して! ウラド取り舵5分! あんな軍艦共、仲良く置き去りにしてやりますよ!」
「ええええーっ!? 逃げるの!? 逃げないといけないの!?」
「だからマリーちゃん、今度は一体何をやらかして来たのよ!」
「もしかして俺達、本当に新世界まで逃げなきゃならないのか……?」
風が募り、波が高くなって来た……早くしないと甲板を波が洗い出しそうだ。波は私のゲロを綺麗に流してくれたりはせず、そこらじゅうに広げてしまう。私は大急ぎで、モップとバケツを取りに行く。
ごめんなさい、あとちょっと、おまけの話が続きます。




