デニス「あの二人、急に金持ちになったよな……立派な馬車に乗って執事と一緒に来るんだぜ」
ブギーマンのような扱いを受けるマカーティ。まあ以前ファウストが密航して来た事もありましたので、用心に越した事はありません。
今度はマリー達が去った後の話。三人称で御願い致します。
取引所で目を覚ましたマカーティは起き上がって周りを見る。酔い潰れた男達が、方々に転がっている。
外は明るくなり始めていた。波止場では漁師達が船出の準備をしている。マカーティはまず井戸を見つけると、少し潮の混じった水を汲み、顔を洗う。
フォルコン号が夜中に出て行ったのは承知している。
宴会はとても楽しかった。あんなに大酒を飲んだのは久し振りだし、食い物も美味かった。何よりあんなにも持ち上げられ崇められるのは悪い気がしない。女達も自分の周りに集まり、愛想よくしてくれた。何なら、いつまでもあの輪の中に居たかった。
マカーティは桟橋に立ち、腕組みをする。
―― 頼むよマイルズ、一緒に来てくれ!
救いの手はいらないと何度も断ってやったのに、しつこくやって来ては一緒に来いと繰り返し、しまいには処刑場から命懸けで救い出しておいて、仲間になる事は拒み、こんな露骨な奸計を使って置き去りにして逃げて行く。そんな人間が本当に居るのだろうか。マカーティは真顔で穏やかに揺れる海面を見つめ、そんな事を考えていた。
あの時、処刑場にまで現れたフレデリクに、自分は何と応えたのだろうか?
―― 俺の為に命なんか賭けるな、フレデリク、お前は自由に生きろ!
よく覚えていないが、確かそんなような事を言ったような気がする。
マカーティは波止場を歩き出す。彼も世間の船長の例に漏れず、港を散歩する事が好きだった。
フレデリクが居なくなった事に、ホッとしている部分もある。
処刑場でのスペード卿の部下達との戦闘の最中、フレデリクは閃光弾を暴発させて倒れた。自分は何とかして、彼を起こそうとした。
―― 残念だよマイルズきゅん海軍卿のちんちろりん本当に君のペケポンポン
あの時スペード卿は後ろで何か言っていたが、マカーティの耳には全く入って来なかった。あの瞬間マカーティの意識は、嗅覚に全集中していた。
それまでマカーティはフレデリクにそこまで鼻を近づけた事が無かったので、気付かなかった。この男、何といういい匂いがするのだろう。
―― 君がホニョロと言うのならホーホーホニョロのチャンちきチン
方向としては幼い頃に嗅いだ母の匂いに似ているが、より強く本能を刺激する何かがこの匂いにはある。嗅いでいたい。この匂いをずっと嗅いでいたい……マカーティはその時、正直そう思っていた。しかしスペード卿の御託はそこで終わってしまった。
マカーティは波止場を歩きながら眉間に皺を寄せ、沈思黙考する。
健全な男子である自分がこんな事を考えるのはおかしな事だし、絶対に誰にも知られる訳には行かない。だがあれ以来自分はフレデリクのうなじに顔を近づけて匂いを嗅ぎたい、何ならそのままそこに顔を埋めてみたいという妄想に取りつかれている。
いくらフレデリクのマスクの下の素顔が少女のようだったからと言って。自分は女にモテないあまり、そこまで錯乱してしまったのか。
マカーティはふと、顔を上げた。港湾事務所の入り口で、痩せた老人が辺りを見回しながら、掲示板に何かを貼ろうとしている。
「おう、港湾役人さん。それはフレデリクの手配書か?」
「ヒッ!?」
港湾役人のトレバーは小さく飛び上がる。彼は海軍士官のズボンを穿いたマカーティを見て、彼には何か見られても大丈夫と考えていたのだが。
「何でビクビクしてんだよ。俺の顔に何かついてるのか」
「いや……あんたは……海軍士官じゃな?」
マカーティの上着は私物である。それは処刑台に向かう時に着ていたものだ。彼は他の私物入れを処刑場に置いて来てしまったので、この服の他に持ち物と言えば、ダンバーに言われた通り処刑の時にもポケットに入れておいた、母の形見の銀のスプーンだけだ。
「いいや、元海軍士官で脱獄囚だ」
「なッ……なんだとッ……!?」
「それでその手配書はフレデリクだろ? 見せてくれよ、嫌に良く描けてんな」
マカーティは老人の手からそれをゆっくりと奪い取る。
「航海者、銃士、剣士、マリー・パスファインダー? 何だこれ。いやこれはフレデリクだろ、フレデリク・ヨアキム・グランクヴィスト。どこで印刷した物だ?」
マカーティはそれを裏返したり空に透かしたりして、つぶさに調べる。非常に良く描けたその人相書きは、マカーティの目にはフレデリクに間違いないように見えた。賞金額は金貨12,000枚。ファウストには及ばないが堂々たる物だ……もっとも、フレデリクの賞金はこれからもっと上がるとは思うが。
「これは印刷ミスか何かだろう……仕方ないな。この間違った手配書は俺が処分しておいてやるよ」
マカーティは手配書に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。勿論そんな事をしても、人相書きからは紙とインクの臭いしかしない。
「あ、あの、それは」
マカーティはマリーの手配書を丁寧に丸めると、折らないように気をつけつつ上着の内ポケットにしまい、冷や汗を流すトレバーを無視して歩み去って行く。
◇◇◇
同じ頃。
ブレイビスの上町の一角に、比較的裕福な者の為の賃貸住宅があった。元陸軍大尉で数日前まで河岸の荷揚げ場で石炭運びの仕事をしていたジョフリー・ダンバーは、備え付けの鏡の前で溜息をついていた。
こんなつもりでは、なかった。
自分はただ、マイルズ・マカーティを救いたかっただけなのに。
自分達の抗議により、枢密院は一度はマカーティの再審を約束した。それなのに司法局はマカーティの処刑をその日の深夜にタイルバンの処刑場で強行した。いや、強行しようとしたという。
その先は情報が曖昧なのだが、マカーティはそこに突然現れたドラゴンに食われて死んだとも、仮面の貴公子に連れ去られて行方不明になったとも言われている。当然抗議者達はカンカンで、連日のように宮殿や司法局に押し掛けては抗議の声を挙げている。
ダンバーは勿論マカーティの身を案じていたし、彼がどこかに居て助けを必要としているのなら駆けつけたいと思っていた。しかしマカーティの居所はその時点ではブレイビスの誰も知らなかった。
そしてダンバーにはたくさんの人々が希望と願いを掛けていて、彼はその為に働かなくてはならなかった。
ダンバーのあまりの人気ぶりに屈した枢密院は、彼を新たな枢密院顧問に加える事を決定した。今やダンバーの支持者は中産階級の裕福な市民だけに留まらず、上は一部の上流貴族、下は貧しい労働者層にまで広がっていた。
彼を支持する動きは今の所ブレイビスに限定されたものだったが、遠からず周辺の都市や地方にも広がって行くだろうという事は、誰の目にも予想出来た。
部屋には彼の支持者の一人であるブラウン伯爵の腹心の若い騎士、コール卿が二人の衛士と共に控えている。
「お待たせしてすまない。そろそろ向かおう」
「大丈夫、時間はまだ十分あります」
コール卿は他の支持者達と連携してダンバーの護衛を務めていた。ダンバー本人を含め、誰もがラディック卿の遺志を無駄にしないよう、誓いを新たにしていた。
そこへ。
「出掛けるのねジョフリーおじさん! あっ、ちょっと待って!」
部屋の戸口に現れた、ダンバーの姪のエイミーは、すぐに彼の元に駆け寄る。
「スカーフが曲がってるじゃない。だめよ、ちゃんとしなきゃ」
「あ……ああ……すまん」
エイミーはダンバーのスカーフが少し曲がっているのを目敏く見つけると、小さな手を伸ばしてそれを丁寧に直す。ダンバーは照れくさそうに、目を逸らす。こうしていると、まるで妹のメアリが帰って来たかのようだ。
若いコール卿はその様子を見て顔を背け、密かに微笑む。きっとこうなると思ってわざと注意しなかったのだ。
「私とデイジーもそろそろ私学舎へ行くの。玄関まで一緒に行きましょう!」
エイミーはそう言って伯父の手を取り、戸口の方へと引いて行く。
ダンバーは彼の新政党の幹事長の座についたモートンらの勧めで、ホワイトオーク宮殿近くのこの高級賃貸住宅に転居していた。住宅には執事や女給、馬丁もついていて、ダンバーと二人の姪の生活を支えてくれた。
刑務所から救いだされたダンバーは、結局石炭運びの仕事には戻れなくなってしまった。彼は今やブレイビスで一、二を争う人気政治家となったのである。




