エイヴォリー「チャティ、貴方も行ってしまうのね……短い間だけどお友達になれて本当に良かったわ。元気でね」猫「武運長久を祈る。さらばだ」
日没前のコンウェイに到着したヘッジホグ号に戻りましょう。
マリーの一人称になります。
コンウェイで投錨したヘッジホグ号から、ボートで上陸した私を真っ先に迎えてくれたのは、フォルコン号の仲間達だった。
「ぶち猫! 良かった、怪我もしてないし元気そうだ!」
「ぶち猫ちゃん! 帰って来てくれたのね、心配したのよ!」
「みんな心配してたんだよぶち君、何も言わずに居なくなるから!」
カイヴァーンが、アイリが、アレクが、私と一緒に上陸したぶち君に駆け寄る。三人の目には私は見えないらしい。
「お前も随分乗組員から愛されてるみてえだな? フレデリクよお」
しかしマカーティが唇を歪めて下品な笑いを浮かべながらボートを降りて来ると、さすがに皆一斉にこちらを向いた。
「うわっ、マカーティだ!」
「ちょっ……何でその人がここに居るのよ!?」
「あの、フレデリク船長、どうしてレイヴンの軍艦で帰って来たの……?」
訝しむアレクに、掃除夫のおじいさんが止める間もなく言う。
「フレデリクはレイヴン海軍の軍艦を強奪してここまで来たのだ」
「ハハ、ハハハ! 冗談! 冗談だから! そんな事より、みんなー! 聞いてくれー!」
コンウェイの船乗り達も私を訝しげに見ている。例によって皆、私をマリーだと気づいてくれてないらしい。
私は大袈裟な身振り手振りで叫ぶ。
「ここに居るこの男はマイルズ・マカーティ、こいつは何と! たった一人で14隻の海賊船をぶちのめしスヴァーヌの平和を守った、国王陛下ご自慢の海軍の超人だ! アレク、フォルコン号の金庫を開けてくれ、この男の、大々大歓迎会をぶち上げるぞ! コンウェイの船乗り共ー! 今夜の酒はマリー船長のおごりだー! 飲みたい奴は、取引所に集まれー!!」
「あ……ああ!? そいつは何の真似だフレデリ」
「うおおおおおおおーっ!? 大英雄の御出座しだ!」
「英雄マイルズ! 超人マイルズだ!」
「酒だーッ! タダ酒だああああ!!」
一瞬で数人から数十人へと膨れ上がったコンウェイの船乗り共の集団は、目を白黒させるマカーティを飲み込み、担ぎ上げるようにして取引所の建物の方に運んで行く。
◇◇◇
私は取引所だけじゃなく近くの飲み屋や料理屋、惣菜屋にも金をばら撒き、酒や料理を運んでくれるよう頼んだ。
「オーロラきらめく極夜の北極海、深海より迫る悪魔は音もなく、凍てつく海面下を忍び寄り、ざばぁざんざ、ざばぁざんざと、竜巻のような水飛沫を上げながら我等人類の船に悪夢のように襲い掛かった! 波は荒ぶり甲板を洗い、軋むマストが悲鳴を上げ! 巨大ダコの腕が! 船体を! ギリギリと締め上げ押し潰す!! 黄色く濁った巨大な瞳、紫と緑のおぞましい皮膚、あの巨大ダコを相手に、肝を潰さぬ船乗りなど居るだろうか!?」
フレデリクは取引所のカウンターの上に立ち上がり、マイルズ・マカーティの物語、その業績をある事ない事、講談のようにまくし立てる。
「しかし我らがマイルズは、玉の刀を抜き放ち、勇躍艦首に踊り立つ! 蛸の化け物め、深海で大人しく暮らしていれば良いものを、何故人の世の仇となるのか!」
「いや俺は、そんな台詞は」
「カップが空ですわマイルズさん! 今ビールをお注ぎします!」
アイリさんはかなり嫌がっていたが、何とかマカーティの隣で酒を注ぐ係を引き受けてくれた。アイリさんにもアイリさんの御両親にも誠に申し訳無いと思う。
「巨大と言えどタコはタコ、足は八本に相違ない、乗組員達は叫ぶ、艦長! 艦長! 奴の足には気をつけて下さい、なにしろ奴の足は八本もあります! しかし我らがマイルズ少しも慌てず、八本しか無いとは残念だァ、えいやッ! とまずは一本! 胴回り2mはあろうかとという、蠢く吸盤だらけのその足を、一刀の元に切り捨てたァ!!」
その後、アレクが他の店を回って呼んでくれた女給仕の皆様も合流し、マカーティを幾重にも取り囲む包囲網は完成した。
「レイヴン海軍の英雄、マイルズ・マカーティ万歳!」
「お前こそ王国一の海軍艦長だ!」
「もっと聞かせてくれ! 艦長の英雄譚をもっと聞かせてくれ!」
コンウェイの船乗り達も、このタダ酒と御馳走がどこから出たのかをよく解ってくれていた。そして当のマカーティ本人は。
「いやいや、大袈裟なんだって、フレデリクの奴は、だぁハハハハハハ! 俺はそこまで男前じゃねーって!!」
女給仕達と船乗り達に煽てられ、すっかり酒が回った様子である。ああ。今が人生の頂天という表情だなあ。良かったねマイルズ。
なんだかんで言って、頑張った人間が正しく評価され、喜ぶ姿を見るのはいいものだ。こちらまで少し幸せな気持ちになる。
だけど私は、そろそろ行かなくてはならない。
「アイリさん太っちょ、今だ抜け出そう」
「何か、少し気の毒だね……」
「嫌よ私、あの男を船に乗せるの」
私達三人は取引所をそっと抜け出し、フォルコン号へと走る。
フォルコン号ではロイ爺とウラド、カイヴァーンが密かに出港準備を進めていた。
「皆揃ってる!? 急いで! マカーティはまだ取引所に居るから!」
「船長、不精ひげがまだ戻っておらんのだが」
「何だって!? あいつこんな肝心な時にどこを遊び歩いてるんだよ!」
気が気ではない。
下品で頭が悪そうなマカーティは、実は恐ろしい洞察力を持った抜け目ない奴なのだ。あの男を出し抜くのは容易な事ではない。
最悪、不精ひげを置いて行く事も考えなくてはならないのだろうか……いや、さすがにそれは駄目だ。
「僕が探しに行って来る、皆はいつでも抜錨出来るようにしといて!」
◇◇◇
その少し後で。私は樽の陰に隠れ、ガタガタと震えていた。
「うちの船長が……とても世話になったんじゃないかと思って」
人気の絶えた波止場の片隅で、不精ひげは覆面を取り、エイヴォリー艦長と真っ直ぐに向き合っていたのだ。
私はそれを慎重に樽影から覗く。やめなさいマリー、こんな所を覗くだなんて悪趣味だよ。解ってるんだけどやめられない。
「ありがとう……親友の忘れ形見なんだ、あの子」
「ジャック様……やはり貴方はジャック様でしたのね……」
「う、うん。嘘をついてごめん。だけど俺にはジャック・リグレーという名前はもう重過ぎて。15年間、一度も口に出した事が無かったよ」
何故だろう。ずっと覆面を被っていたからだろうか? 今日の不精ひげは嫌に男前に見える。いや、多分エイヴォリーさんのような大変な美人が瞳を潤ませて見つめているからだな。私はそう冷静に分析する。
「私の方こそ、ごめんなさい……貴方にとっての15年、私、そんな事全然考えられなくて……」
エイヴォリーさんはきちんとつま先を揃えて、真っ直ぐに立っている。いいのエイヴォリーさん? 今度会ったら絶対に抱きついてやるんだって、会った瞬間抱きしめるんだって航海日誌に何度も書いてませんでした? どんなに嫌われたって構わない、絶対そうするんだとまで書いてましたよね?
「いや、まあ……たいした事じゃないんだ。あれから15年、俺は商船の水夫をやっている。俺に船乗り以外の仕事は出来ないし、海軍に比べたら気楽なもんだよ……君はその間ずっと、そして今も海軍に居るんだろう? その……その事について……俺は君に謝るべきなんだと思う」
不精ひげはいつものように背中を丸めて申し訳なさそうな顔をする……馬鹿ッ、そんな顔したら男前が台無しだよッ、胸張ってしゃんと立っとけ! エイヴォリーさんが見てるだろ!
エイヴォリーさんは、小さく首を振った。
「いいえ。私も海軍の女です。艦を選んだ事を誰かのせいになんてしません。確かに私は、貴方を追い掛けて海軍に入りました。だけど私の15年だって……決して無駄な事ばかりではありませんでしたわ」
「も、勿論そうだろう、立派な仕事ぶりじゃないか、俺なんかとは大違いだよ」
「そんな事を言わないで。私は今もジャック様……貴方を尊敬しています。貴方に教えて貰った事を、大切に、胸に刻んで……」
エイヴォリーさんはそう言いながら、次第に声を落とし、俯いてしまう。
ヘッジホグ号の乗組員は皆エイヴォリー艦長の事が好きで、とても大事にしているように見えた。
だけど女の身で海軍艦長を続けるのは、色々と大変な所もあるんだと思う。明るく元気だった女の子が、少し疲れた顔をする事も多い、苦労性のお姉さんになる程に。
何黙って見てんだよ不精ひげ、アンタが前に出なさいよ。ぶち君といい、どうしてうちの船の男は朴念仁揃いなの。私のお父さんだったらとっくに手を掴んでどっかに連れて行こうとしてたろうな……そんな事を考えたら腹が立って来た。
いや待て、不精ひげが前に出た! そうだ行け不精ひげ、肩に手を回せッ! ああっ、私何考えてんの!? ぎゃあああ顔から火が出るとはこの事だよ、あああ見たいような見るのが怖いような、ああああ、
「立派になったな……エイヴォリー候補生」
バカーッ! そんな呼び方じゃないだろ! ああでも肩に手を置いた! ブライズさんも潤んだ瞳でジャックを見上げた! 行け! 行けー! でもやっぱりやめてアタシ恥ずかしくて鼻血出るぅぅ!
エイヴォリーさんは、涙目で微笑んだ。
「ありがとうございます……リグレー艦長!」
それだけ言って、敬礼するエイヴォリー艦長。
肩から手を離して敬礼を返す、ジャック・リグレー……
「俺はこれからもどこかの海から、君の事を応援し続けるよ。俺の代わりに、この国と国王陛下の事を頼むと言ったら、卑怯かな」
「いいえ! 確かに承りましたわ。私、貴方の代わりにこれからもレイヴンの海を守ります。神よ、国王を救いたまえ」
「ありがとう。神よ、国王を救いたまえ……それじゃあ」
不精ひげが、エイヴォリー艦長の前を通り過ぎて、こちらへと向かって来る……
私と、私と同じように樽影に隠れていた掃除夫のおじいさんは、同時に立ち上がって叫んでいた。
「「キスぐらいするだろ普通!!」」
「マ……マークス閣下!?」
「閣下じゃないわくそバカタレが! リグレー貴様何と言う情けない男に成り下がったのだ!」
「女に恥をかかせるなよ不精ひげ! エイヴォリーさんがこの日をどんだけ楽しみにしてたと思ってるんだよ!」
「やめてフレデリク君! 恥ずかしいからやめて!」
◇◇◇
残念ながら、あまり時間が無い。フォルコン号に戻った私は大急ぎで最後の出港準備を進める。
「誰も来なかったわよ、船長」
「いいから全員、船牢、厨房、納戸、机の下や天井まで、どこかにマカーティが隠れてないか確認して! 樽は叩いて反響を調べて!」
「最下層には居ないよ、船長」
「念の為上も見て来て! いやいいわ私が行くから艦長室を見て来て!」
私はマストに登り畳んである帆の中まで確認する。マカーティは居ないな?
「ボートの中にも居ないよ!」
「船員室、会食室も大丈夫じゃ」
「樽の中身も調べた。潜んでいる者は居ない」
「船牢、厨房にも居ないわ!」
「各所、天井にも居ないね!? ちゃんと見上げた!? 特に船牢の天井は見え難いよ!」
「天井も見たわよ! 誰も居ないわ!」
「それじゃ不精ひげ! いつも通りダラッと御願い!」
「了解船長。抜錨ー!!」
いつも通りダラッとやれと言っているのに。波止場で見ているエイヴォリー艦長と掃除夫のおじいさんを意識したのか、不精ひげははっきりとそう叫んで、錨を上げた。
さらばレイヴン、さらばマカーティ。どこか私の居ない場所で幸せになってね。




