96・王弟と家庭教師
クラッツ侯爵家では、「王弟ロレンス」の扱いについて、数日前まで議論が割れていた。
これは情報の錯綜が原因である。
ロレンスの立場が、「新王リオレットの立場を脅かす不穏分子」なのか、それとも「王から信頼されている弟」なのか。
今回の措置は「遠回しな左遷」なのか、「ていの良い幽閉」なのか、それとも「混乱を避けるための一時的な避難」なのか――
領都で暮らす侯爵家の親族・家臣達は、王都における情勢の変化に疎く、最新の正しい情報を入手する手段も限られていた。
今回は特に、流言飛語にも等しき悪質な噂もあった。「アルドノール侯爵が拘束された」だとか「諸侯が内乱のための兵を集め始めた」だとか、あるいは「猫の精霊が王都の危機を救った」などといった現実味のない内容で、王都にいれば「明らかに嘘だ」とわかる情報でさえ、こちらでは精査が必要になる。
これはある意味で、クラッツ侯爵領に特有の問題でもある。
近隣にダンジョンを抱え、交易の中継地でもある領都は、ただでさえ旅人や冒険者が多く、デマや誤情報が生まれやすい。
酒場の与太話がさも真実のように独り歩きしたり、敵国の間諜が人々の不安を煽ろうと欺瞞情報を流したり、悪知恵の働く商人が物資を高値で売るために嘘をついたり――
そんな中でもっとも信頼性が高いのは、もちろん当主たる「アルドノール・クラッツ侯爵」直筆の書状であり、その正確な指示が届くまで多少の混乱はあった。
『王弟ロレンス殿下は、新国王リオレット陛下から深く信頼されている。しかし王都にいると、寡妃ラライナ様を担ぎ上げる貴族達から利用されやすく、余計な陰謀に巻き込まれる危険性があったため、数年間は当家でお守りする流れとなった。今のうちに政治や経済等の知識を蓄えていただき、数年後には閣僚として政治の中枢に復帰される予定である。世の噂に惑わされず、くれぐれも粗相のないようにお迎えし、不自由のない生活をご提供するように』
この方針は家中で共有され、結果、王弟ロレンスは粛々と迎えられた。
滞在場所は侯爵邸ではなく、王家所有の離宮――街から離れた、閑静な湖の傍に建つ別荘である。
決して大きな屋敷ではないが、少数の貴人が長期滞在するのに手頃な広さでもあり、到着したロレンスも嬉しそうな様子を見せていた。
「侯爵領にこんな別荘があったとは驚きました。アルドノール侯爵のご配慮に、改めて感謝します」
ロレンスの言動は穏やかで優しく、侯爵家の人々はそのことにも安堵したものだった。
ここに住み暮らすのは、ロレンスと母親のラライナ、使用人達で、いずれ人員の入れ替わりはあるだろうが、概ね十人前後の予定だった。
この中には当座の家庭教師、税務閥のペズン・フレイマー伯爵も含まれている。
彼がロレンス達に同行していたことは、侯爵家の人々を驚かせた。
ペズンはそもそも学者ではなく、実務畑の人材である。王族の教養を通り越して、官僚レベルの知識を身につけさせるためだろうとは推察できたが、この人事も実は判断が難しい。
まずペズン本人にとって、これは「左遷」なのか、それとも「引退前の滅私奉公」なのか、はたまた「むしろ望むところ」なのか――
侯爵家の人々どころか、教え子となるロレンスですら、ペズンの本音を測りかねていた。
§
ロレンスが離宮に着いた翌日。
護衛をしてくれたライゼー子爵達が、領地への帰路についた後で、彼はやっと、余人を交えずこのペズン伯爵と話し合う機会を得た。
道中でのロレンスは、ルークやクラリス達と行動を共にしていた。他の人々がいる場での会話は少しあったが、ペズンとの込み入った話はできていない。
ロレンスを前にして、老いた官僚はどこか懐かしげに微笑んでいた。
「……思えば、不思議な御縁となりましたな。カルディス殿とは長い付き合いでしたが、晩年の彼は、書庫でのロレンス様との日々をとても楽しんでおりました。確か……『書庫に子供の精霊が出た』と、勘違いをされたのがお二人の出会いでしたか?」
そんな昔話をされて、ロレンスは気恥ずかしくなって笑う。
「あはは……はい。人がいない場所だと思って、こっそり忍び込んで、本を読んでいました。そこをカルディス先生に見つかって……」
――カルディスの第一声は、「遂に書の精霊が見えたかと――」だった。
当時四歳、無心で本を読み続けるロレンスの姿は、大人の眼には奇異に見えたのかもしれない。
読んでいた本が、ルーシャン・ワーズワースの著した『精霊概論』という専門書だったことも誤解の一因ではある。もちろん幼児の読み物ではない。
「カルディス殿が、『書庫で賢人の友を得た』と喜んでいたので、出向いてみれば――そこにいたのは、まだ四歳のロレンス様でしたからな。それはもう驚きました」
「あの時はお名前を存じ上げず、失礼しました。幼かった私は、官僚の方々とは面識がなかったもので……」
「何をおっしゃいますか。四歳の子供が一官僚の名まで知っていたら、それこそ正体は精霊かと疑ってしまいます」
談笑を重ねるうちに、話題はライゼー・リーデルハインとの関わりに及んだ。
「ロレンス様は、ライゼー子爵とは以前からご面識があったのですか?」
「いえ。数年前のギブルスネーク退治の折に、どこかの会合で一瞬だけご挨拶をさせていただいたくらいです。まるで物語に出てくる勇者のようで、圧倒されたのを憶えています」
「確かに、あの方の腕前は本物です。それに加えて……智謀まで備えておられる。正直に申し上げて、あれほどの人物が僻地にいたとは存じ上げませんでした。ライゼー子爵は、ロレンス様のことを非常に高く評価しておられました。何か……彼の忠誠心につながるような、心当たりはございますか?」
ロレンスは、しばし考え込んだ。
――リーデルハイン家のペット、ルークのことは、さすがに本人の許可がなければ話せない。
「私は……王都の商人達と、少し縁がありました。また、貴族の横暴に困っていた侍女を、城から逃がしたり……そういった行為を、ライゼー子爵は知り合いの商人達から聞いていたようです。彼は子爵家を継ぐ前、有力な商家へ養子に出されていた過去があるとのことで、その時期に知り合った商人達との人脈が、今も生きているのだとご息女からうかがいました」
「ご息女……あぁ、馬車に同乗されていたご令嬢ですな。ロレンス様と近いお年頃の――」
「私より一つ下だそうです。しかし……驚くほど聡明で、まるで年上のようにも感じました。立ち居振る舞いには気品があるのに、親しみやすい気遣いも感じられて……単なる高貴さにとどまらず、どこか神聖なものを感じたほどです」
宮廷魔導師ルーシャンは、この感覚を『称号の影響によるものかもしれない』と教えてくれた。
リーデルハイン家の飼い猫、ルーク――彼の正体は、おそらく「亜神」である。仮にそのルークから称号を得ているのなら、クラリスは神の眷属にも等しい。物語に出てくる聖女や巫女、巫姫といった存在を連想してしまう。
ペズンが考え込む様子を見せた。
「……ロレンス様。不躾な問いをご容赦ください。つまり、その……クラリス嬢に対して、特別な感情をお持ちであるということでしょうか……?」
そう問われて、今の発言が少々、一般的な社交辞令から逸脱していたことに気づいた。
「特別……? ……あっ。ええと……特別である点は間違っていませんが、兄上とアーデリア様のような意味での『特別』とは違います。むしろ『畏れ多い』というか……いえ、間違えました。私ごときの器では測れない、という思いです」
ペズンは何か言いたそうだったが、とりあえずは口を閉ざした。
ロレンスからも問う。
「ペズン伯爵。私からも一つ、うかがいたいことがあります。今回の『家庭教師』の件――ペズン伯爵の地位と実績を考えれば、断ることもできたはずです。今の私と母は、兄上の温情によって生かされている罪人のような立場です。いえ、兄上にそんなつもりはないのだろうと、わかりますが……諸侯はそう判断するでしょう。ペズン伯爵は、どうして――こんな仕事を引き受けてくださったのですか」
ペズンが、やや眩しそうにロレンスを見つめた。
「……詳しい事情は申せませんが……私にとって今回のお役目は、むしろ僥倖と言えるものでした。カルディス殿は、ロレンス様の将来を最期まで案じておられた――その遺志にようやく応えることができます。また私自身も、ロレンス様にお仕えできることを嬉しく思っております。個人的な理由を申せば、まず一つには、ラライナ様への恩義。もう一つには、ロレンス様への期待――引退間近の私のような年寄りは、今更、出世がどうこうという話でもありませんのでな。爵位とて一代限りのもので、息子達に継がせるべきものも特にない。老後の仕事として、微力ながらもロレンス様やラライナ様のお力になれるのであれば、我が身に余る光栄です」
ロレンスにとって、それは意外な言葉であると同時に、亡き師の晩年を思い出させるものだった。
カルディス老人は、立場としては城の書庫で不遇をかこっているようでもありつつ、本人は悠々自適と司書の職務を楽しんでいた。
出世して権力を握るばかりが生き方ではないと、彼自身が証明していたようにも思う。
ことに王侯貴族や官僚の場合、権力に近い立場ほど毀誉褒貶も激しい。母のラライナなどは、まさにその好例となってしまった。
強権を振るいすぎれば恨みも買うし、まったく身に覚えのない逆恨みで暗殺されることさえある。
正直に言えばロレンスは、父であるハルフール王の急死にも、誰かの作為があったのではないかと疑っていた。
証拠は何もないし、仮に何者かの関与があったとしても、おそらく今となっては突き止めようがない。いずれは時の流れがすべてを覆い隠す。
その日は本格的な講義はなく、挨拶のような雑談で終わった。
ロレンス自身が学びたいこと、また学ぶべきことへの言及もあったが、ペズンの専門は税法、および法律全般である。史学と数学も少しなら……とのことだったが、専門家には及ばないとも言われた。
幸い、クラッツ侯爵家は軍閥の名門であるため、「軍学」を教えられる人材はそこそこいる。家格が高いため、外交と儀礼に関してもおそらく問題はない。
「あと、足りないのは――」
「魔導学……ですが、これは魔力のない人間にはあまり意味がありませんので、あくまで一般教養程度で充分でしょう。もしも深く学びたい場合は、リオレット陛下が魔導研究所の職員でしたから、そのお知り合いを紹介していただくことも可能かと思います。それから……護身術ですな。王族の場合、剣か槍を学ぶ方が多いようです。ネルク王国では拳闘も盛んですが、あれはどちらかというと平民が立身するための手段ですので、王族で拳闘を学ばれる方はほとんどいません。基礎体力をつけるため、幼少期に学ぶ貴族はおりますが、それも多数派ではないでしょう」
兄のリオレットなどはそもそも魔導師であり、扱う魔法がそのまま護身術となるため、体術の類はおそらく学んでいない。
また、戦争に関わる軍閥の貴族はさておき、一般の貴族ならば得意分野だけに集中しても問題はない。そしてロレンスも、そのうち臣籍にくだって「一般の貴族」になる身である。
「護身術も、何か学んだほうが良いのでしょうか?」
「はぁ……向き不向きもありますが、ひとまず最低限の『剣の使い方』くらいは学んでおくべきかと思います。実際に使うか否かはさておき、これもまた有事への備えです」
「わかりました。考えてみます」
どのみち、これはペズンから学べる技術ではない。まずは従者の騎士、マリーシアに相談するべきだった。
そして今日の雑談の最後に、ロレンスは大事なことを告げる。
「ペズン伯爵、休日は適宜設けますが――それとは別に『毎月五日』は、従者のマリーシアともども、自由行動の日とさせてください。これは後で兄上にも了解をとりますが、明かせない事情による優先的な措置です。このことは母上にも内密に。またそれ以外でも、急用によって抜ける機会が発生するかもしれません。これは、私個人の都合というより――兄上の利益にもつながる、国務の一つとお考えください」
おそらくは『亜神』と思しきルークとの友好は、この国のみならず、世界の平穏にもつながる。
亜神に関する書物はいくつか読んだことがある。
それらの多くには、『亜神とは、この世界を見守る巡見使である』と記されており、その加護を得れば栄え、逆に怒りを買えば滅ぼされるという。
歴史にはその実例がいくつも残されており、栄えた国も滅んだ国もある。
このクラッツ侯爵領にある『ダンジョン』も、『この世界に対する贈り物』であり、そこから得られる資源が人々の生活を支えてきた。
ルークはおそらく、農業、あるいは飲食物や商売に関わる亜神である。
具体的に何をするつもりなのかは、これから理解していく必要があるが、本人はまず「トマト様」という植物をリーデルハイン家から世間に広めたいらしい。
話した印象では――彼はおそらく、極めて善良な猫である。
ルークとの交流は、今のロレンスにとって、もっとも優先すべき事柄の一つとなっていた。
ペズンは思案顔である。
「……わかりました。気にはなりますが、私の立場で詮索すべきことではないのでしょう。ロレンス様に危険はないのですね?」
「はい。それはありません」
「ならば結構。護衛の騎士殿も一緒とのことですし、私は何も知らぬふりをいたします。ラライナ様達への言い訳が必要な事態が起きましたら、遠慮なくお申し付けください」
もう少し問い詰められるかと覚悟していたが、ペズンはあっさりとロレンスの要望を受け入れてくれた。
官僚としての処世術なのか、あるいはロレンスを信用するという意思表明なのか――いずれにしても、承諾は得られた。
ペズンが部屋から退出し、しばらくしてから――テーブルの上に、一匹の猫が現れた。
濃い灰色の猫である。
ほぼ全身を覆う灰色の衣を身に着け、背には巻物を担いでいる。
『なーう』
ロレンスが戸惑っていると、猫はそそくさとテーブルに巻物を広げた。
そこには可愛らしい文字が連なっている。
『ロレンス様へ。
我々は無事、リーデルハイン領に着きました。ところで明日、そちらの領都で音楽会があるそうですね。興味深いのでクラリス様をお連れするつもりなのですが、ロレンス様ももしお時間が合いましたら、ご一緒にいかがですか? お返事は当日に。
リーデルハイン家ペット・ルークより』
……ルークからの手紙だった。
どうやら魔法の一種と思われるが、ロレンスが手紙を読み終えるのを待ってから、猫は一礼してそのまま消える。
巻物も一緒に消えてしまい、後には何も残らない。
不可思議な魔法と、「もう領地に着いた」という報告と、「明日また来る」という知らせと――その三つに同時に驚きつつ、ロレンスはつい笑みを漏らす。
この離宮での日々は、どうやら王都にいた頃よりも、ずっと楽しいものになりそうな――そんな予感がした。
いつも応援ありがとうございます!
本日「コミックポルカ」にて、三國大和先生のマンガ版『我輩は猫魔導師である』の第四話が更新されました。ニコニコ静画では日曜昼頃に更新予定です。
ルークの顔芸が一層光る、リルフィ様の登場回!
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