88・王弟と猫
ロレンス・ネルク・レナードの立ち位置は、つい先日、「第三王子」から「王弟」に変化した。
とはいえ、「予備の王子」から「予備の王弟」に変わった程度の話であり、予備であることには変わりがない。
兄であるリオレットが妃を迎え、王子が生まれれば、玉座はさらに遠のく。
それはロレンスにとって、喜ばしい。
――もしも兄のリオレットが暗君であったならば、王位の簒奪も選択肢になりえた。
ただし、ロレンス自身は決して「王になりたい」わけではない。人々の生活にとって特に問題がなく、周囲の国々に戦争をふっかけない程度に理性的な王であれば、むしろ誰でもいい。
父である前王は浪費が激しく、内政にも問題があったが、リオレットならば父よりずっと良い王になるとも思う。
君主には、あるいは王族には、果たすべき最低限の役割がある。
国を守ること、民を守ること、良心を保つこと。
これは師だったカルディス男爵の教えだが、これらを損なった時、国は滅びに向かう。
国がなければ民を守れず、民がいなければ国たり得ず、そこに良心がなければ人心を得られず、結果として国家を長く存続させられない。
逆説的に言えば、人心の離反さえ防げれば、独裁国家でさえもある程度は存続できてしまう。
兄のリオレットならば、うまく国を導いてくれる――ロレンスはそう期待しているし、不安要素は数えるほどしかない。
その不安要素の一つが、母たるラライナである。
今はまだ「正妃ラライナ」としての印象を保っているが、前王が死に、リオレットが即位した今後は、「正妃」ではなくなる。
他国ならば仰々しく「王太后」などと呼ばれることもあるが、リオレットの実母ではないし、ネルク王国の場合、単純に「寡妃」と呼ばれるようになる。
王家に嫁いだ妃が夫に先立たれると、正妃も第二妃も関係なく、皆まとめて「寡妃」となるため少々紛らわしい。
また、王の死後一年程度は、その威光を偲んで「正妃」と呼び続けるといった妙な慣例もある。
法制化された呼び名でもなし、実際には「呼び間違えを非礼扱いしないための猶予期間」といった感もあるが、貴族達にも今までの慣れがあるため、「正妃ラライナ」が「寡妃ラライナ」と呼ばれるまでには、まだ少し時間がかかりそうだった。
いずれにしても、これから始まる謹慎生活で、母のラライナには王族としての在り方を考え直してもらいたい。幸い、時間はたっぷりとある。
アルドノール・クラッツ侯爵領地への移動を数日後に控え、ロレンスは自室で史書を読んでいた。
手荷物は少ないし、家具類は置いていくことになっている。
城を出ることにも抵抗はないが、通い慣れた書庫へもう行けないのは、少し寂しかった。
一方で――不謹慎かもしれないが、『王都の外側』への興味はある。
ロレンスは旅をしたこともない。生まれてからずっと、王都の中だけで生活をしてきた。
(侯爵領か……どんなところなのかな)
領都は栄えていると聞く。王都よりはもちろん小さいはずだが、国境に近く主要な交易路ともつながっているため、他国の商人や旅人なども来るらしい。
まだ見ぬ土地に思いを馳せていると、扉にノックの音が響いた。
「ロレンス様、失礼いたします。リオレット陛下が、内々の相談をしたいとのことでおいでになりました」
「ありがとう。お通しして」
知らせてくれたのは、従者であり護衛の女騎士、マリーシアだった。
彼女は司書カルディスの孫娘であり、ロレンスにとっては姉のような存在である。本人たっての希望で、侯爵領にも随行してくれることになっていた。
さほど間を置かずに扉が開き、国王リオレットと、その恋人のアーデリア、さらに宮廷魔導師のルーシャン・ワーズワースが居室に入ってくる。
リオレットが「国王」である以上、用があるならば、ロレンスの側を呼びつけるべきなのだが、それをしなかったということは、近臣や侍従にも知られたくない用件なのだろう。
ロレンスもそれを察したからこそ、あえて居室にそのまま通した。
「陛下、皆様、おはようございます。どのようなご用件でしょう?」
「ああ、おはよう、ロレンス。ええと……実はちょっと、込み入った話をしたい」
リオレットは困ったように笑い、背後のアーデリアを振り返った。
遅れて気づいたが、彼女は一匹の猫を大事そうに抱えていた。
やや太り気味の、妙に愛嬌がある顔立ちのキジトラである。
猫は短い前足を掲げて、ロレンスに肉球を見せつけ、
「はじめまして、ロレンス様! お目にかかれて光栄です!」
と、元気に声をあげた。
……………………ロレンスは、思わず返礼した。
「はじめまして。ええと……えっ?」
つい挨拶を返した後で、まじまじと猫を見つめてしまう。
猫はアーデリアの腕から床へと降り立ち、ぽてぽてと二足歩行でロレンスに歩み寄ると、片膝をついて恭しく頭を垂れた。
「私はリーデルハイン子爵家のペット、ルークと申します! 実は今回、ロレンス様にお願いがありまして、リオレット陛下に取次をお願いいたしました! 引越し前のご多忙な時期に恐縮ですが、少しお時間をいただけますでしょうか?」
朗々と、明るく、元気よく。
ハツラツとした声音で喜色満面、キラキラとしたお目々でロレンスを見上げ、猫はにっこりと微笑んだ。
ドアの傍に控えていた女騎士マリーシアが、空気の漏れるような妙なうめき声を漏らす。
声を出してはいけない、という自制心に、体がついていけなかったらしい。吹き出す寸前であるが、「びっくり」と「かわいい」の感情が暴発し、顔色を読む限りでは「ヤバい」「かわいい」「すごい」「何コレ」「変なの来た」「どうしたらいいのこれ」と、珍しく混乱の極みにある。
ロレンスも胸の奥底から湧き上がる未知の感情に頬を染め、わなわなと震えながら兄王を見上げた。
「兄……上……? あの、こちらの猫さんは……?」
……猫……? 猫なのか、それ以外の何かなのか、確証を持てぬままに、ロレンスは兄へ問う。
リオレットは曖昧に微笑み、ルークと名乗った猫を背後から抱え上げた。
猫は「にゃーん」と甘えて、大人しく国王陛下の腕に収まる。
「ルーク様は我が国の恩人だ。祭の最終日に現れた、あの大量の猫達もこちらのルーク様のお仲間で……いや、驚かせてすまない。私もあの騒動の直後に知り合ったばかりなんだが、いわゆる『人よりも上位の存在』と思ってくれていい」
「そんなんじゃないです。ただのペットです。もしくはトマト様の栽培技術指導員です」
後者の立ち位置はよくわからないが、王都で噂になっていた『猫の精霊』――その正体が、このキジトラだったらしい。
動いて喋る姿を間近に見ては信じるしかない。
「よもやこの方が、王都で噂の『猫の精霊』様ですか? ルーシャン卿に加護を与えているとの噂でしたが……兄上も、その加護を?」
答えたのはルークだった。
「まぁ、精霊ではないんですが、あまり素性を探られたくないので、対外的にはそういうことにしてあります。ちょっと前に、ルーシャン様のお弟子のアイシャさんに私の存在がバレまして……それでご挨拶の後、ルーシャン様と意気投合し、その御縁でリオレット陛下を陰ながらお守りしていたのです。で、このたびライゼー様がロレンス様のお引越しの警護を仰せつかりましたので、一足先にご挨拶をさせていただこうと、お邪魔しました。とりあえず私の飼い主をご紹介しますので、まずはこちらへ!」
猫が爪を剥き出し、リオレットの腕から飛び降りながら空間に縦線を引いた。
たちまち、その場に木製の扉が出現する。
猫の顔を真正面から簡素に描いたような、少々不気味なレリーフが掛かっており、その先はおそらく人外の領域と思われた。
背伸びをした猫が、扉を開ける。
室内から少女の声がした。
「ルーク、おかえり」
「クラリス様、ただいま戻りました! ロレンス様達もご一緒です」
ロレンスとさほど年の変わらない少女が、部屋の奥から現れる。
長い銀髪をさらりとなびかせ、スカートの裾を摘んで楚々と一礼した彼女は、まるで物語に出てくる精霊のように神秘的な存在に見えた。
「お初にお目にかかります、ロレンス様。リーデルハイン子爵家のクラリスと申します」
「これはご丁寧に……ロレンス・ネルク・レナードです。どうぞよしなに」
子爵家の子女ということは、精霊ではなくもちろん人間であろう。
先程、ルークも名乗っていたが、『リーデルハイン』という家名にも心当たりがある。
先だってのパレードの折、かの家の当主たるライゼー子爵が、軍閥からロレンスの護衛についてくれた。
また、アルドノール侯爵領への移動に際しても、彼らが護衛についてくれる予定となっている。
リーデルハイン家はまだ三代目の新興子爵家とあって、家格は高くないし正妃の閥にも属していないが、当主であるライゼーが槍の達人として名声を得ていた。
王都に現れたギブルスネークを退治した一件もあり、子爵家の中ではそこそこの存在感がある。
戸惑いながらも反射的に返礼し、その後、ロレンスは兄を仰いだ。
リオレットが弟の肩をそっと押す。
「ロレンス、行こう。この先の部屋なら、盗聴される心配もないし、落ち着いて話ができる」
猫もいそいそと先導した。
「おいしいお茶菓子もご用意いたします! そちらのマリーシアさんもぜひご一緒に!」
促されるままに、ロレンスと従者のマリーシアは未知の空間へと踏み込む。
その部屋は、見たことのない建築様式だった。
壁は概ね白い。
片面はほぼ全面がガラス製の引き戸となっており、その向こう側に清水を湛えた滝壺が見えている。
非現実的なほど美しい光景だが、そんな外の景色よりも、まず内装が気になった。
四方を布団で囲まれた細長いローテーブル。
その周囲に置かれた座椅子と、猫耳の生えた動くクッションの群れ。
壁面側にはカウンターテーブルや椅子も置かれていたが、いずれも王都では見慣れないデザインである。
室内には、クラリス以外にも二人の女性と、一匹の大きなウサギがいた。
うち一人は見知った顔で、ルーシャンの弟子の魔導師、アイシャである。直接、会話をしたことはなかったが、精霊からの祝福を得た俊英として名は知られている。
もう一人は桃色の髪をポニーテールに束ねた物静かな娘で、服装の雰囲気からしてこちらも魔導師らしい。
「王立魔導研究所の主任研究員、アイシャ・アクエリアです。ロレンス様には、ご機嫌麗しく」
「は、はじめまして……リーデルハイン家の親族で、魔導師のリルフィと申します……」
「はじめまして。ぴたごらすだよー。ほおんせいのうにていひょうがあります」
……保温性能? 定評?
やや舌足らずな口調でよくわからないことを言われたが、発言者はおそらく、眼の前の「ウサギ」である。
(この方達は、もしかして……神獣?)
喋る猫と、喋るウサギ。どちらも神獣と思われるが、もちろん王都で見かけたことはない。
神獣の助力を得た英雄が活躍する絵物語や伝承の類は、ロレンスも胸を躍らせて読んだことがある。
まさかその実物に会える日が来るとは思っていなかったが、仮に神獣だとすれば、リオレットの言ったとおり『人間よりも上位の存在』だった。
……が、神獣にしては、もう一つ迫力に欠ける感はある。
猫は明るく物腰が丁寧だし、ウサギは少々子供っぽい。
物語に出てくる神獣は、もっと、こう……尊大で、神々しく、口調にも威厳があった。
たとえ史実であっても、後世の記述と当時の現実との間には食い違いが生まれやすいものだし、神獣ごとの個体差もあるのだろうとは思うが、ちょっとした違和感は拭えない。
「ロレンス様、こちらへお座りください! このテーブルは『コタツ』といいまして、内部がとても暖かいのです」
愛想のいい猫に袖をひかれ、ロレンスはテーブルの一隅に座らされた。
足をいれると、確かに暖かい。
左右には兄のリオレットと護衛のマリーシアが座り、正面には先程のクラリスという令嬢が座った。
猫はテーブルの上へ香箱座りをしたが、リルフィという魔導師がすかさずこれを抱き上げ、膝上に載せた。
猫は慣れているのか、特に抵抗もせずそのまま居座る。
そして眼をキラキラさせて、一同を見渡した。かわいい。
「えー。本日、ロレンス様をお招きしたのはですね。ご挨拶と、自己紹介と、それからちょっとしたお願い事がありまして……とはいえ、まずは親交を深めるのが第一ですね。お茶とお菓子をご用意いたしますので、少々お待ち下さい」
猫は、どこからともなく――本当にどこからともなく、何もない空間から数本の薪を取り出し、テーブルの上の皿に並べた。
なにかの儀式かとロレンスが戸惑っているうちに、薪は陽炎のように不自然に揺らいで、そこに白い円形のホールケーキが現れる。
緑色の見知らぬ果実をあしらった品だが、どんな菓子とも違う鮮烈なまでに甘い芳香が漂ってきた。
猫がケーキナイフを取り出し、器用に切り分け始める。
「本日午前のお茶菓子は『メロンのムースケーキ』です! スポンジ生地の上に、メロンという果物のムースとたっぷりの果肉を載せ、表面をメロンゼリーで薄く覆い、生クリームでデコレートした贅沢な逸品となります。ごろっとくり抜いたメロンの果肉、その爽やかな甘みと確かな歯ごたえ。そしてなめらかなムースに詰まった豊かな香りを存分に楽しんでいただければと! ……あ、飲み物は紅茶でいいですか? ご希望でしたら、変わったお茶や甘い飲み物、オレンジジュースなどもご用意できますが」
「…………はい。紅茶で」
嬉々として菓子を紹介する猫の軽やかな弁舌に圧倒され、ロレンスはなかば呆然と応じた。
目は覚めているつもりだが、夢を見ているような心持ちがしてくる。
猫は器用にケーキを皿へと取り分け、クラリスやリルフィがその皿を各自の前へと回してくれた。
アイシャも慣れた手付きで、ポットから人数分のカップへと紅茶を注いでいく。
皿にもポットにもカップにも、簡素でややブキミな猫の顔が描かれており、統一感はあるもののやや反応に困った。
「……ロレンス様、僭越ながら、私が毒味を」
マリーシアが横からそっと囁いたが、ロレンスはこれを止める。
「いや、その必要はないよ。マリーシアも一緒にいただこう」
毒殺する気ならば、こんなわけのわからない演出は必要ない。また、相手が『神獣』、もしくはそれに類する存在と思われる以上、相応の敬意を持たねばならない。
――ついでに、兄のリオレットやアーデリアまでもが、見慣れぬケーキを前にして眼を輝かせていた。
特にアーデリアは早くもフォークを握りしめている。
「これは美しい……! 先日のアンニンドウフやソフトクリームも素晴らしく美味であったが、この品もなんと薫り高く優美な――メロンとは聞き慣れぬ名だが、果物の一種か?」
「そうですね。おいしく育てるには手間がかかる果物でしたので、私の世界でもけっこうな高級品でした。このケーキは、菓子職人をしていた私の恩人の自信作でして――何度も味見をさせてもらったものです」
懐かしげに眼を細め、猫もフォークを手に取った。
肉球でどうやって掴んでいるのか、見てもよくわからないが、器用なものである。
また、ウサギのほうはさすがにフォークを扱えないようで、隣のクラリスが丁寧に切り分け、口元に運んでやっていた。幼い姿に似ず、実に甲斐甲斐しい。
そしてロレンスも、皆に続いてケーキを口に運ぶ。
鮮烈でありながら爽やかな甘み――
口いっぱいに広がる芳香は筆舌に尽くし難く、なめらかな舌触りは他に比類なく、およそこの世のものとは思えぬ滋味に溢れていた。
従者のマリーシアも、眼を見開き無言で固まっている。
兄のリオレットが感嘆を漏らした。
「……これはまた、すさまじい――ルーシャン先生、これは……製法がわかれば、我が国でも作れるものなのでしょうか? それとも、それこそ神々の御業であり、人には到達し得ぬ高みにある菓子なのでしょうか……?」
「――おそらくは後者でありましょう。仮に必要な材料が揃ったとしても、これはさすがに……」
猫のルークが首を傾げた。
「あ。材料さえ揃えば作れると思いますよ? こちらの世界にはないモノがいくつかあるので、完全再現となると無理ですが、代用品を見つけられれば意外とイケるんじゃないかと。たとえば、このムースにしても――これ、主に何を使っているか、わかりますか?」
もちろん誰も答えられない。ルークは事も無げに回答を紡いだ。
「主に卵と生クリーム、それと、ゼラチンとゆー動物の皮から抽出した成分を使っています。これらはいずれもこちらの世界にもありますから、メロンはともかくとして、たとえばオレンジやイチゴ、リンゴなどを使った同じようなスイーツならそのうち作れるはずです。あとは……甘味がネックですね。私のいた世界には、砂糖という非常に効率的な甘味料があったのですが……こちらにはそれがないので、ちょっと工夫が必要かもしれません」
そんな話を聞きながら、ロレンスは改めて猫を見つめた。
「ルーク様は、もしや……こちらの世界で生まれ育った神獣ではなく、他の世界からいらした方なのですか?」
「はい! つい先だって、こちらの世界にお邪魔したばかりです。行き倒れ寸前だったところをクラリス様に拾われ、こうしてペットにしていただきました!」
クラリスがくすりと微笑んだ。
「ロレンス様、ルークは私達の家族です。お察しの通り、普通の猫とは少し違いますが……でも、とても優しくて面倒見が良くて働き者で、一緒にいると楽しい家族です。恐れ多いことですが、ロレンス様にも……これからぜひ、ルークと仲良くしていただけると、嬉しく思います」
おそらくは同年代と思しき彼女から向けられた率直な言葉に、ロレンスは珍しく無心のまま、つい反射的に頷いてしまったのだった。




