75・拳闘興行と職人街
香魚の塩焼きはたいへん美味であった。
前世において、「香魚」とは鮎の別名であった。こちらの魚は鮎とは少し違いそうだが、近縁の種には違いなく、味覚的にはほぼ同じ。
程良い苦味が香ばしく、塩気もちょーど良くてぺろりと平らげてしまった。これは素材の勝利であろう。手のこんだスイーツも美味しいが、シンプルな焼き魚の美味しさにもまた格別なものがある。
市場見物が一区切りしたところで、我々は『職人街』へ向かった。
缶詰製造機はもう諦めたが、瓶詰の場合も「ラベル」が必要であり、そのための「紙」と「印刷技術」が欲しいのだ。
これは品を発注すれば済む話なので、職人さんにわざわざリーデルハイン領まで来ていただく必要はないのだが、工房に目星はつけておきたいし、理由の大半は個人的な好奇心である。技術的に可能な範囲とコストについても、きちんと確認しておきたい。
……そう、コストは大事である。缶詰計画ではこの部分の早期確認を怠ってしまった……
そんなわけで、まずはそのあたりについて助言をくれそうな職人さんを、アイシャさんから紹介していただくことに。
「それなら、前にもご案内したクロスローズ工房がいいと思います。あそこのおねーさんは紙作りの職人で印刷にも詳しいですし、筋金入りのお人好しなので助言者にぴったりです」
そう、職人街へ出向くのは初めてではない。祭の期間中にも既に観光済みである。
王都滞在中のルークさんは予想外に忙しい日々を送ってきたが、それでも敵だった頃のオズワルド氏による「リオレット様狙撃未遂事件」後から、パレード中の「アーデリア様狂乱事件」が起きるまでの数日間は、割と時間に余裕があった。
間に一日だけ、「王位の行方を決めるお貴族様の会議」もあったが、用事らしい用事はそのくらいで、他の日は王都観光を存分に楽しませていただいた。
ただ、あの時期は職人さん達もほとんどが休暇中であったため、工房に併設された小売店などをちらほら眺めた程度。クラリス様のレターセットや折り紙の用紙を調達したのもその時だ。
また職人街だけでなく、露店や土産物屋、古書店や観光名所なども回ったし、王都で一番の娯楽たる「拳闘」の観戦までした。
この時もアイシャさんが割としっかりガイドしてくれたのだが、『戦乙女の園』と呼ばれる女子選手のみの拳闘場があり、彼女は子供の頃、そこを目指して練習していたらしい。
しかし当時、偶然出会ったルーシャン様に「魔導師としての才能」を見出され、今では御覧の通りである。
もしその出会いがなければ、「私も普通にリングにあがって、がっぽり稼いでたと思います!」とのことであった。アイシャさんの適性、『拳闘B』は、その時期に培われたものか。
で、今でもその拳闘場には彼女の友人達が所属しており、応援がてら、一緒に観戦をさせていただいたのだが……
いろいろと衝撃ではあった。
見た目は完全に前世の「ボクシング」そのまんまで、ルールもだいたいそんな感じなのだが、力強く速い打撃には『魔力』が込められていた。
これは魔導師が外部に放出するタイプの魔力とは違い、人間の誰もが持っている、生存に不可欠な「体内魔力」というもの。
一般市民がランタンなどの簡単な魔道具を扱えるのも、この体内魔力のおかげである。
これを練り上げ、拳にのせて打撃を放つと、その接触面から相手の身体に強い衝撃が伝わる。要するに漫画でよく見る「気」とか「生命エネルギー」みたいなものと思って差し支えない。
しかしこれは達人の一撃ともなると、魔獣を即死させるほどのとんでもない威力になってしまう。
だから、試合では「伝わる衝撃」を大幅に減衰させる「ボクシンググローブ」が必須であり、その上で試合後にはリングサイドに控える「治癒士」の治癒魔法を受けることが義務付けられている。
また、この体内魔力は「防御力」にもそのまま作用するため、その制御技術が高い選手ほど打たれ強くなる。
つまり、見た目には前世同様の「ボクシング」であっても、勝敗を決する要素や必要とされる才能にはだいぶ違いがありそう。
そして体内魔力の制御技術は、男子よりも女子のほうが先天的に得意としている傾向があり、一撃の威力が凄まじく見応えのある女子のボクシングは、この王都で絶大な人気を博している。
前世の感覚では「女子同士の殴り合い」とか、眉をひそめてしまう人もいそうだが……しかし、なんかこー、想像していた空気感とは割と大きく違っていた。
そもそもフツーに美男美女が多いこの世界。
アイドル並のルックスな選手達はみんな生き生きとして楽しそうだったし、観客の歓声も統率が取れていて大迫力だったし、衣装やリングも小綺麗で華やかなエンタメ感があったし、雰囲気だけ見ればコンサートでも始まるのかと錯覚したほどである。要するに殺伐感がない。
しかも――選手は、めっちゃ高収入らしい。
ネルク王国において、ボクシングは唯一合法の賭博である。
観客の熱狂ぶりは半端ない。老若男女問わず、完全に国民的娯楽として定着している。
賭博といっても、一試合単位の勝敗を予想するのではなく、その拳闘場で行われる「一日の全試合」に対して、
・赤コーナーのKO勝ち
・青コーナーのKO勝ち
・判定での決着(勝敗は問わず)
の、三択でまとめて賭けるという方式で、全試合で的中すると結構な配当金が得られる仕組みである。
この方法だと、「一試合の結果」だけでは配当が出ないため、八百長が発生しにくいという利点もあるのだろう。
順当な試合ばかりだと配当金も減るが、「判定決着」、つまり規定の最終ラウンド終了までもつれ込む試合がアクセントになっており、これの予想が難しい。実力的に劣る選手でも、防御に徹すると判定負けまで耐えるケースがそこそこある。
また魔力を込めた一撃の威力が高いため、有力選手でも一瞬の油断が命取りになり、番狂わせが起きやすいとか。
以上はすべて、アイシャさんからのご講義である。
観戦の機会を得たルークさんも、選手のことなど何も知らぬまま、宝くじ感覚で賭けてみたのだが――全試合きれいにハズれた。「逆にすごい」とアイシャさんにびっくりされた。
ちなみに全試合外れると、残念賞として選手のイラストを使った非売品ポスターが貰えるという、なんだかヤケにオタク心をくすぐる謎の企画があり、コレを目当てにわざと全ハズしを狙うファンまでいるらしい。
ハズレ確定の投資を誘発させれば、配当金の原資や売上も増えるし、なかなか悪辣で見習いたい経営手腕である。
せっかくなので、やたらかわいいスポーティ系爆乳美少女が真剣な顔でグローブを構えている煩悩あふれるポスターをいただいたが、「……そういう子が……お好きなんですか……?」と、リルフィ様から謎の凍てつく波動を受け、即座にストレージキャットさんへお預けした。こわかった。
そんな楽しくも忘れたい思い出話はさておき、なぜ職人街探訪から、長々とボクシングの話になったかとゆーと。
「この王都の発展と職人街の成立には、ボクシングが密接に関わっています。鉱物資源に乏しかったネルク王国では、建国当時、金属鎧や槍などを必要としない『拳闘兵』の拡充に活路を見出しました。その訓練を安全にこなすためのボクシンググローブが必要になり、意外と複雑で縫製の難しいグローブの製作によって、皮革系の腕利き職人達が育ちました。この皮革職人達は革鎧の製作にも活躍し、さらに縫製技術の発達は服飾分野にも波及します。それらを支える足踏みミシンの開発には、精密な金属加工技術が必要とされ、この技術は他の金属製品、たとえば印刷機などの開発にも……」
……アイシャさんのちょっと長めなご説明を要約すれば、ボクシングの人気を産業の核として、
・皮革の加工、縫製技術の発展
・衣装や練習着に使う布系新素材の開発
・投票券用の紙の大量生産技術
・試合告知や宣伝のためのポスターやチラシ製作
・それらに伴う印刷技術や複製技術の革新
・書籍の低価格化と識字率の向上
・闘技場の建設による大規模建築のノウハウ蓄積
・リング禍を防ぐ治癒士の育成と継続雇用の創出
などなど、影響の及んだ分野は多岐にわたるという。
ぱっと聞いただけでも、皮革、服飾、印刷、製紙、金属加工、建築などの各分野、さらに治癒士や拳闘兵の育成――
もはや「影響がなかった分野」を探すのが難しいレベルか。
金回りの良い娯楽が一つあると、それを中心に周辺が活気づくとゆー好例であろう。風が吹けば桶屋は儲かるのだ。
特にこの王都の「職人街」は、王都におけるボクシングの発展と密接に結びついており、「ぶっちゃけ、もしも拳闘興行が破綻したら、このあたりの工房の半分は潰れますね」との見解であった。
続いてアイシャさんは、俺の耳元で小悪魔の囁きを……
「……トマト様を使った軽食を、もしも拳闘場の出店で売り出せたら……王都中で、一気に知名度が上昇しますよ。私、拳闘場の偉い人にはけっこう顔が利きますから、ご用命の際はなんなりと――」
……ククク……お主も悪よのう――
いきなりトマト様を広めてしまうと混乱が起きそうで怖いが、かといって販売店で閑古鳥に鳴かれても困るので、普及策は複数、用意しておくべきであろう。心強い。
さて、辿り着いた先は職人街、紙作りの老舗、クロスローズ工房!
ここはアイシャさんのご友人の家でもある。
職人街の工房はそのほとんどがウナギの寝床タイプで、間口はさほど広くないが、奥行きが深い。
大通りに面した店頭は接客スペース、その奥が作業場、そして反対側が資材の搬入搬出経路になっていることが多いようで、さらに大部分の工房は二階を居住スペースにしている。
クロスローズ工房は、店頭だけを見ると、ちょっとオシャレな個人経営の文房具屋さんのよーな佇まい。
二階に掛けられた工房名の看板には、交差したバラの意匠が描かれている。
白く塗装された扉はどことなくカントリー風。ガラスの向こうに見える店内には、いろんな紙製品と文房具類が整然と並んでいる。
大量生産のボールペンやシャーペンみたいなものは存在しないのだが、羽ペンとかガラスペン、毛筆、あと鉛筆っぽいものもある。
ただし鉛筆はけっこうな高級品で、絵描きとかデザイナーとか仕事で使う人が買うもの。
子供の読み書きの勉強は、お手軽サイズな黒板と白墨で行うのがこちらの世界の基本だ。
大人の日常使いの文房具としては、インクを使うつけペンが主流で、このペン先には金属、ガラス、毛筆以外に、魔獣の骨を加工したものなどもある。
ついでに……このネルク王国、インクはかなり安い。しかも色数がやたらと豊富。
どうやら前世にはなかった植物群が原料となっているらしく、それらを「水属性の魔導師」が特殊な魔道具を使って加工することで、様々な色の大量生産を可能としているのだとか。
色ごとの詳細なレシピは企業秘密で、リルフィ様もご存じなかったが、インクを製造する工房はそこそこあり、それぞれが独自のレシピを研究作成し、業界の発展を牽引しているとのことであった。
以前にリルフィ様いわく、
「……『黒』のインクだけなら複数の製法が広まっていますし、私でも作れそうですが……製造用の道具や原料をわざわざ揃えるより、そのまま製品を買ったほうが、安くて質も良いので……」
わかる。どんなに自炊がんばっても、プロの料理人には敵わないもの……
クロスローズ工房さんでもインクは売っているが、こちらはあくまで「紙」の工房であり、インクは近隣の工房からの委託販売品であろう。
黒、赤、青などの小瓶が、日光の当たらぬ場所に並べられている。インク専門店に行けばもっと大量にあるのだろうが、日常使いにはこの三色があれば充分っぽい。
さて、お店の扉を開けると同時に、脳内におばーちゃんののんびりした声が響いた。
(……ん? ルーク様かい? また来たの? あんたも神様の割にはヒマなんだねぇ……)
話しかけてきたのは、こちらの製紙工房の飼い猫、モーラーさん。
先日、職人街にお邪魔した時に知り合った、白と灰色の長毛でモッフモフな同族さんである。
店の窓辺に設置された猫用ベッドに悠々と寝そべり、日向ぼっこをしておられる。優雅でうらやま。
(あ、モーラーさん、数日ぶりです。また来ました!)
(いらっしゃい。またなんか買っていっておくれよ。うちはいつも経営が厳しいから)
大あくびをする猫のモーラーさんは、俺の正体が『獣の王』で『亜神』だともう知っている。
……というか、獣相手には正体を隠せぬのがルークさんの弱点の一つである……たぶん、王都の動物さん達はかなりの割合で、もう俺の存在に気づいている。
それでも彼女は特に驚くでもなく、お店へ最初に訪れた時は「ふーん……こんにちは?」みたいな淡白な反応であった。リーデルハイン領の猟犬、セシルさん達とはだいぶ温度差がある。
つまりはコレが、忠誠心が高く訓練された猟犬と、街で気ままに暮らす自由な猫さんとの性格の違いなのであろう。
ルークさんとしては話しやすくてありがたい。セシルさん達の忠誠心は一介の猫にはちょっと重すぎる。
なお、こちらのモーラーさん。『どうぶつずかん』によると、なんと「御年三十歳」。
猫とは思えぬ長寿ぶりにびっくりだが、聞けばネルク王国の猫さん達の寿命は、事故や病気がなければ概ね三十~四十歳前後と、かなり長いらしい。
前世の地球の猫さんとは種類がビミョーに違うのか、はたまた魔力や餌の影響なのか……
『超越猫さん達の贔屓』という線も有り得るが、だったら魔族並の長命になっていそうなものである。
そういえば……確か前世では、「猫の寿命、その主な死因の一つは腎臓病」という話を聞いたことがある。
もしも餌や薬によってコレを未然に防ぐことができれば、十数年の寿命を二倍くらいまで伸ばせるのでは――みたいな素晴らしい研究を、とある大学の偉い先生がやっていらした。
こちらの世界の猫の体質、あるいは餌などに、そうした腎臓病その他を防ぐ要因が、もしもあるとしたら……それが長命の理由になっているのかもしれない。が、これは根拠のないテキトーな推論である。
店のカウンターは無人。
しかし奥に人の気配はあり、扉の開く音を聞きつけて、ぱたぱたと足音が駆けてきた。
「いらっしゃいま……なんだ、アイシャか」
露骨にトーンを下げたのは、アイシャさんのご友人。
王都で大人気の女性拳闘士、ユナ・クロスローズ嬢である!
こちらの工房は彼女の実家だ。普段はお姉さんが店番をしているが、今日はたまたまヒマだったらしい。
青みがかった黒髪、当然と言わんばかりに整った顔立ち、健康的で引き締まった肌のアスリート系美少女なのだが、数日前に我々はこの子の試合を目撃した。
その時のルークさんの知見としては、
「人を見かけで判断してはいけない」という前世と同じ教訓を再確認し、
「打撃の威力を決定づけるのは体重よりも体内魔力」というこの世界ならではの常識を知り、
「筋肉と可愛いは両立する」という重要な新発見をも得た。
強い上に美人さんであり、王都では人気、実力ともに五指に入るくらいの有名人らしいのだが、そんな彼女がふつーに店番をしているこの店にファンが殺到していないのはちょっと不思議。
このあたりは文化の違いであろうか。「拳闘士はあくまで闘技場で見るもの」であって、私生活には踏み込まない、みたいな不文律があるのやもしれぬ。
そーいえばアイシャさんも有名人なのだが、街中で知らない人が絡んできたりとかは一度もなかった。
アイシャさんを見てテンション下がったユナさんであったが、その後ろに続く我々に気づくと、慌てて営業用スマイルを取り戻した。
「あっ……す、すみません! いらっしゃいませ」
かわいい。推せる。
白いランニングシャツに作業着風のカーゴパンツ+エプロンという、実に飾り気のない働き者な姿だが、素材の良さが群を抜いている。これはこれでグラビア撮影かなんかの衣装なのではないかと錯覚するレベル。
リルフィ様と出会う前ならルークさんも一目惚れしていそうな逸材であり、先日の拳闘観戦時に入手したポスターもこの子のものだった。
肩や腕などはそこそこ筋肉質だし、腹筋などもキレーに割れているのだが、それでいてゴツくは見えない。まるで美術品のよーに麗しき女子拳闘士様である。
試合中のお姿もとにかくひたすら格好良かった。
飛び散る汗、躍動する肢体、熱い駆け引き――格闘技の試合を生で見たのは、前世も含めて初めての経験であり、たいへんなカルチャーショックであった。
あと、拳闘場内の出店で売っていたお好み焼もたいへん美味しかった。アレはなかなかクオリティ高かった。
ソースについてはもう一工夫いけそうだったが、聞けば「試合観戦には昔からコレがつきもの」とのことで、「もしやボクシングをこの世界に広めた人が、ついでに再現したモノではないか?」と疑っている。
具にはこちらの世界固有の野菜などが使われており、見た目はお好み焼きながら、新感覚な部分もあった。
……いや、お好み焼きの話はどうでもよい。どんな時でも食い物に意識が向くのはルークさんの悪い習性である。
ユナさんを見つめながらお好み焼きの記憶を反芻していると、不意に頭の上から冷たい空気が……?
ふと見上げれば、リルフィ様の穏やかで優しい笑顔。
「……ルークさん……嬉しそうですね……?」
ヒュッ……!
……思わず毛が逆立ってしまったが、誤解はしないでいただきたい。
リルフィ様のお声はいつも通りの、とてもお優しい、ごくごく普通の落ち着いた美声である。決してある種の闇とか病みとかそういう空気感を伴うものではない!
もしもまかり間違ってそういう風に聞こえたとしたら、それはルークさんの心中にやましい部分があるから。すべては俺のせい。リルフィ様はいつだっ……て……
……ハイライトさん……? どうして……?