6・賢い猫は喋れる
……なんだかおかしなことになった。
クラリスお嬢様の腕に抱かれた俺は、猫らしく眼を細め、こっそり途方に暮れていた。
野菜泥棒……の件は、どうもあまり気にされていないらしい。
が、「そもそも何を食ったのか」という、予想外の疑問をもたれてしまった。
俺が食ったのは間違いなくトマト様だ。
呼び名の違いはあるかもしれないが、少なくとも味と食感はまさしくあの太陽の恵みの塊たるトマト様そのものであり、間違えようがない。
この地の人間はトマト様を食わないのか、とも思ったが、あんな美味しい野菜をわざわざ染料としてだけ使うというのは、どう考えても正気の沙汰ではない。
やがて辿り着いた、先程のトマト畑には――
見間違えようもない、あの真っ赤に熟した大ぶりなトマト様が、たわわに実っていた。
壮観である。
コレほどのトマト畑には、あちらの世界でも滅多にお目にかかれるものではない。
じゅるりと生唾を飲んだ俺の頭上では、ライゼー子爵が眉をひそめていた。
「…………なんだ、あの赤い実は?」
――おっと、ライゼー子爵、やはりトマト様をご存じない?
というか、なんで所有者の知らん植物が畑に生えているの? 自生? 鳥さんが種運んできたとか?
「やっぱり違う野菜なんです?」
「少なくともレッドバルーンではない。いつの間に植え替えたのか……いや、三日前までは確かにレッドバルーンだったはずだ」
呆然と呟いて、子爵様がトマト様を一つ手にとった。
「……重い。ぎっしりと中身が詰まっている……ルーク、君が食べたのはこれなんだな?」
「はい。あまりにおいしそうだったので、つい手が伸びまして」
「確かに、うまそうではあるが……甘いのか?」
「甘みはそんなに強くないですが、爽やかな酸味と独特の風味があります。青臭さを気にする人もいましたが、基本的には生でも調理でもイケる素晴らしいお野菜です」
なぜ俺は異世界の貴族様相手に、トマト様の説明をしているのか……
何度も言うようだが、そもそもここはライゼー様の畑である。どう考えても俺が説明する側ではない。
整理しよう。
この世界にトマトはない。
あ、いや、もちろん、名前が違うだけで同じような植物はどこかにあるかもしれないが、少なくともライゼー様は知らないらしいから、このあたりの地方にトマトはないと見ていい。
で、ライゼー様の畑に植わっていたコレは、間違いなく俺のよく知るトマト様なのだが、本来はここに違う植物が生えていたという。
――一瞬、なんかすげー嫌な予感がした。
俺はその予感を心の隙間に封じ込め、トマト様を一つもいで、自らの毛で軽く拭き、大口を開けてかぶりつく。本日三つめ。ちょっと食い過ぎか?
味はトマトである。間違いない。みずみずしくジューシーで、めっちゃくちゃ美味いブランドトマト様である。
…………うん。あのですね。ぶっちゃけ、記憶にある味なんスよ、コレ。
前世にて近所の農家の人からもらった、品種改良をガンガン重ねた末に生まれた、最高級のお高いブランドトマト様……
正確なご尊名は忘れてしまったが、あの美味しさは衝撃であった。
そしてその衝撃が、今再び、俺の手元に……
……理屈はわからん。何がどうなっているのかさっぱりだ。
でも多分、コレは俺がやらかした案件である。
ココに植わっていたレッドバルーンなる見知らぬ植物を、俺がなんらかの力(?)で、トマト様に変えてしまった……そんな可能性がががががが。
……人間だったら冷や汗ダラダラものであるが、しかし猫は肉球周辺にしか汗腺がない。わお便利。でも手汗すげぇ。
もぐもぐと無心にトマト様を頬張る俺を見て、クラリスお嬢様も興味しんしんの御様子だった。
「お父様、私も食べてみる」
「や、やめなさい! 万が一、毒だったら……!」
「だからお父様じゃなくて、まず私が食べるの」
お嬢様、毒味とはなんと献身的な……!
……あ、いや違うこれ。好奇心に負けてるだけだ。家来に毒味させるとかそういう発想をすっ飛ばして、もうただ自分で食べてみたいだけだ……
さすがにライゼー子爵はこれを許可しなかった。
「バカなことを言うな! とりあえず、この実をいくつかとって屋敷にもっていき、皆に見せて心当たりを聞く。リルフィも呼んできなさい。あの子は私より物を知っている」
……そーだ、パンに挟んで他の具材と一緒にサンドイッチにしよう。台所貸してくれるかな?
時間があれば煮込んでミートソースを作るのもいいな……
ゆくゆくはケチャップ、トマトジュース……あ、トマトゼリーなんてのもあった。夢がひろがりんぐー。
トマト様をかじりながら現実逃避している間に――
ライゼー子爵は慣れない手付きでトマト様の収穫を始め、クラリス様はそんな父親をおいて、俺を抱えたままたったか歩き出した。
どうやらリルフィという人を呼びに行くらしい。
そして彼女は、俺の耳元でそっと一言――
「……あれ、ルークが持ってきたんだよね?」
――――聡い。
さすがである。肝心の俺自身が現実を認められず逃避しているというのに、クラリスお嬢様はもう気づいた。
「ちょっとよくわかんないですが……無関係ではなさそうです……あれは私の世界にあった、人気のお野菜でして」
「おいしそうだった」
「すげーうまいです。生でもいけますし、もちろん料理にも使えます」
「私もたべたい」
「……それは子爵様のご許可がでてから、ということで……」
幼女の好奇心をなだめ、俺は三つ目のトマト様を食べきる。
さすがにおなかいっぱいである。猫の胃袋はもっと小さいイメージだったが、三日の餓えを経て健啖であった。トマト様おいしいからね仕方ないね。
「ところでクラリス様。リルフィ様というのはどんな方なのですか?」
「私の従姉妹で、お父様の姪。私は“リル姉様”って呼んでるけど、魔導師の素質があって、普段は離れを研究室として使ってるの。とっても物知りで、とっても優しいのよ。ただ……少しだけ人見知りが激しいから、ルークも気を使ってあげてね」
……猫に気遣いを求めるレベルの人見知りって、本当に「少しだけ」なのだろうか……?
若干の不安要素を匂わせつつ、クラリス様は大きなお屋敷の前を通り過ぎ、隣接した別の棟へ入っていった。
リーデルハイン邸の母屋周辺には、他に五軒ほどの家がある。
たぶん使用人や家臣の住居だったり物置だったり、なんやかんや使いみちがあるのだろう。一見して放置されている家は一つもない。
敷地はやたら広そうだし、別の場所には兵舎なんかもありそうだ。厩舎はぜったいあるはず。ルークお馬さんすき。万馬券とかすごいすき。
リルフィ様とやらの研究室は、割とこぢんまりとした2階建ての一軒家だった。
クラリス様は俺を抱きかかえたままで、金属製のドアノッカーを三回鳴らす。
「リル姉様、入るね」
返事を待たずに、クラリス様は扉を開け、屋内に踏み込んだ。
「え。いいんですか?」
「リル姉様って、集中している時は誰かが来ても気づかないから。待っていても無駄」
室内はなんかいい匂いがした。
こっちの世界のハーブかな?
日頃から香水でも調合しているのか、壁に備え付けの棚には、大量のガラス瓶と調合道具っぽい諸々が収まっている。
「もしかして、香水とか作ってます?」
「交易品。リル姉様の作る香水と魔法水は人気の商品なの。うちの領地は特産品が少ないから」
魔法水ってなんだろう? ポーション的なモノ?
その質問をする前に、二階から人の気配が降りてきた。
「……あ……クラリス様……え……猫……?」
囁くような小声が、印象的な――
ピンクブロンドで、ポニテの。
儚げな、青く澄んだ眼の。
ものすごい。
美少女が……
え。顔面偏差値高っ! 何者!?
クラリス様も将来楽しみな感じではあるけれど、なんかもう女神様とゆーか、ちょっと尋常ならざる超絶美少女が目の前に降りてきた。まさに降臨である。
スタイルもすごい。あしながい。ちちでかい。こしほそい。はだつやっつや。ちちでっかい。ほんとでっかい。服の上からでもわかる確かな存在感……
……貴族すげぇ。やっぱアレか。権力者は代々美人を娶るから、子孫も美形になっていくとゆーアレなのか……
おめめにハイライトがなくて若干ダウナー系な感じだが、そんな佇まいも個人的に加点材料である。けしからん。
びっくりして挨拶すら忘れた俺を抱え直して、クラリス様とリルフィ様が言葉をかわす。
「クラリス様……? 猫を……拾われたのですか……?」
「うん。リル姉様も猫好き?」
リルフィ様が穏やかに微笑む。こうしてみるとちょっと大人っぽい。お年は十八歳から二十歳くらいだろうか。即ち前の世界なら大学生くらいの印象である。
「……そう……ですね……あまり……触ったことはありませんが……」
「ふっかふかだよ。ほら」
「ふふっ……猫ちゃん、びっくりしているみたいですね……今、私が触ろうとしたら、引っかかれてしまいそうです……」
「ルークはそんなことしないから大丈夫。ね、ルーク?」
「も、もちろんですっ!」
リルフィ様が眼をぱちくりとさせた。あ、かわいい。美人さんだけど表情があどけなくてめっちゃかわいい。天使かな?
「……え? あの……? クラリス様……? 今の、声は……?」
「ルークは喋れるの。ほら、ルーク。ご挨拶して」
「は、はじめまして、リルフィ様! 私つい先程、クラリス様に拾われました、野良猫のルークと申します! 不束者ですがよろしくお願いいたします!」
緊張のあまりなんか間違えたような気もするが、そこは猫なりのご愛嬌というものである。
リルフィ様は停止した。
見開いた眼はまばたきを忘れ、ぽかんとあいた小さなお口は微動だにせず、おっぱいはでかい。あいかわらずすごくでかい。肩幅は細いのに。淫魔かな?
そのままたっぷりと、十秒以上が経過した後――
「えっ……と……猫……さん……?」
「ちゃん」から「さん」へと、距離感が適切に遠のいた。
俺はビシッと敬礼を決める。クラリス様に抱っこされている関係でお辞儀はできないが、前足は自由である。
「はっ。ルークと申します。言葉を喋れる以外はただの猫ですが、それでも引っ掻いたり噛み付いたりは決していたしませんので、ご用命がありましたらなんなりと! ……あ、ネズミ捕りは苦手です」
姿が苦手とかではなく、たぶんヤツらの動きの速さに俺はついていけない。所詮、俺ごときはなりたての猫初心者である。愛想の振りまき方すらよくわからぬ。プロの猫には敵わぬのだ。
リルフィ様は後ずさろうとして……階段につまずき、三段目あたりに尻もちをついた。意外とそそっかしいのかもしれない。どじっこ女神かな?
「ク、クラリス、さま? あの……え? え? ねこ? え? ねこなんですか、このひと? ねこ?」
理解した。
リルフィ様は割と常識的な御方らしい。
初手から好奇心全開だったクラリス様や、こんな怪しい野良猫を寛大に受け入れてくださったライゼー子爵のほうが、おそらくこの世界においては少数派である。
特にライゼー子爵には驚かされた。思わぬ傑物……という感想は失礼かもしれないが、正直、あそこまで有能感ある貴族様に、初っ端から出会えるとは思っていなかった。ここまで連れてきてくれた精霊さんに改めて感謝である。
クラリス様が、俺の脇の下を掴んでリルフィ様の眼前に突き出した。
だらんと伸びる胴体。あ、クラリス様、この持ち方はあんまりよろしくなさそうです。腰にけっこうな負担が来てます。のびるのびる。のびーる。……あ、床……ってゆーか階段に足つくわ。
「お父様の許可も貰ったから、ルークはうちで暮らすことになったの。リル姉さまも仲良くしてあげてね」
「……あ、あの、ことば、ことば……このねこさん、しゃべ……しゃべって……」
「うん。ルークは賢いの」
「……か、賢い猫って……喋れるんですか……!?」
至極当然なリルフィ様の問いかけに、俺は眼を細めて前足を差し出した。
「信じていただけないとは思いますが、実は俺、他の世界から来た猫なんです。あの……その……こちらでは、他の知り合いもいなくて心細いもので……仲良くしていただけると……」
「ふぇっ……!?」
数瞬の間をおいて――
差し出した俺の小さな手が、しなやかな指に包まれた。
「よ、よ、よ、よろしくっ! おねが……おねがい、しまっ!」
……おや? リルフィ様、なんかさっきよりおめめがキラキラしてません?
「わ、わぁぁ……逃げない……猫さん……触れてる……あ、あの! クラリス様、このまま抱っこさせていただいても……?」
「うん、いいよ」
よくない。ヨクナイヨ? なんか流れ変わってない? このお姉さん、もしかして……?
「猫さん……ふわあ……猫さんだぁぁ……!」
…………抵抗する間もなく、予想以上に、がっちりと全力で抱きしめられた。
その先は当然、先程から主張しまくりのあの分厚い、えーと、ホラ……アレである。
やわらかい。すげぇやわらかいしすげぇいい匂いするけどダメだろコレ! ガチの猫さんならともかく、俺みたいな不純物の塊がこんな超絶爆乳美少女に抱きしめられるとか、前世でいったいどんな功徳を……あ、スピード違反の車から猫助けたか。アレか。アレのせいか……功徳すげぇな。釣り合ってないんちゃう?
「ク、クラリス様! この子、この子、クラリス様のご都合が良い時には、私のほうでもお借りしてもいいですか!? 私、猫大好きで……! でもいつも、逃げられてばっかりで! 逃げない猫さんって初めてで……!」
……あ、うん、たまにいるよね、そういう人……たぶん、テンションあがりすぎて構いすぎて逃げられてるだけだと思うヨ……? 最初、冷静そうに見えたのは、第一印象で逃げられないようにとゆー経験則か……?
ともあれ俺も理性と良識ある大人である。いくら相手が女神様とはいえ、前世の俺よりは年下なわけだし、ここで不埒な欲望に溺れるわけにはいかない。
「あ、あのリルフィ様! 私、一応、オスでして……!」
「はぁぁ……猫さん、かわいい……かわいい……抱きしめても引っかかれない……しゅごい……やわらかい……さらっさらっ……すき……かわいい……」
聞いちゃいねぇ。
ついでに幼児退行してないか? 猫不足にあえぐ猫好きに対して、俺の存在はもしや刺激が強すぎたんじゃないか?
ふと振り向けば、クラリス様は――非常にご機嫌だった。
……これはあれだ。身内に対する「武器」、もしくは「切り札」を手に入れたというお顔だ。
「リル姉様、ルークは必要な時に貸してあげるね。その代わり……私がお父様を説得したい時は、私の味方になってくれる?」
「う、うんっ! それはもう……!」
……クラリス様に対する「クレバーな印象」は、間違っていなかった。リルフィ様とは違い、この子はただの猫好きではない。猫好きの策士である。将来有望である。
「それでね、お父様がリル姉様を呼んでいるの。敷地の端っこに植えてあったレッドバルーンが、見たことのない植物に変わっていて……ルークがそれを食べていたんだけど、“トマト様”って知ってる?」
うっかりおつけした敬称が定着しそうな勢いです、トマト様。
「トマト様? それは心当たりがありませんが……レッドバルーンの変異? ということでしょうか?」
お、変異という概念はあるのか。
遺伝子とかそういう話ができるくらいに文明が進んでいるとは思えないので、「たまになんか変な実ができる」くらいの感覚だろーな。
「あの、そもそもレッドバルーンって、どういう植物なんでしょうか。絵とかありますか?」
「えっと……それでしたら、実物がここに」
リルフィ様が俺を抱えたまま、戸棚の一隅へ手を伸ばした。そろそろ下ろしていただいてもいいんですが……あ、まだ逃がさない? はい。
そして彼女が差し出したのは、からからに乾いた……なんだか見覚えのある植物だった。
ホオズキ……っぽいな、コレ。
ただ、俺の知っているホオズキとは形が違う。よりトマトに近い横長の楕円形で、サイズも大きく、色も赤方向に強い。ここでは染料に使うとゆー話だったし、厳密には違う品種なんだろう。
ただ、外側が薄いガサガサの皮で覆われていて、中身がほぼ空で、中心に小さな実があるという構造的な共通点はある。
そして、遠目に見れば――このサイズ感と色彩は、トマトによく似ている。
同じナス科の植物であり、中心の実は食用には適さないとはいえ、プチトマト感がある。食ったことはないが、前世の世間には食用ホオズキというものもあったらしい。
山を降りてきて空腹だった俺は、これを「トマト」と見誤った。
結果、その実は「トマト」様になった。
……マジか。
いや落ち着け。実験が先だ。
「……あの、すみません。このレッドバルーン、いただいてしまってもいいですか?」
「はい? ええ、たくさんありますから……どうぞ」
手渡されたホオズキっぽい実を、俺は小さな両手で支えるように持ち――これはトマト、これはトマトと、しばらく念じた。
そして、目を開けると……
レッドバルーンの実は、ずっしりと重く、つややかな光沢を放つ、真っ赤なトマト様へと変貌していたのだった。