43・クロードと猫
士官学校、第一学生寮に駆け込んだクロード・リーデルハインを出迎えたのは、片思いの対象である楚々としたメイドの無表情と、賢い妹の冷ややかな眼差しと、従姉妹のリルフィが抱えたキジトラ猫の穏やかな睨み顔だった。
従姉妹のリルフィは猫を撫でるのに夢中で、軽い会釈のみで流された。そもそも口数の少ない娘であり、これはいつも通りである。彼女はあまり人間に関心を示さない。
「……兄様。おかえりなさい」
クラリス様が――思わず「様」をつけてしまったが、妹たるクラリスが、目の前のソファに視線を向けた。「お前ちょっとそこ座れ」の意である。怖っ。
そして一行の傍には、にこにこと愛嬌を振りまく同室の友人、ランと、見知らぬウサミミの娘もいた。バニーガールかよ、とでもツッコミたいのは山々だが、おそらく既にそんな状況ではない。泣きそう。
「あ、クロード! もう、こんなに可愛い妹さんを待たせるなんて、悪い子ねっ☆」
ランが跳ねるようにソファから立ち上がり、クロードの腕にぎゅっと抱きついた。
クロードは青ざめて頬を引きつらせる。
「ちょっ、おま……! いえ、ラン様! ふざけないでください! ほんとにやめてくださいよ! 今回ばかりはキレますよ!?」
「えー。クロード、こわーい。どうしたの?」
ランはくすくすと笑いながら、クロードの肩にわざとらしく頬をすりつける。
……わかっている。こいつはすべてを理解した上で張り切ってやらかしている。いつもならこんな真似はしない。
クラリス様が――我が妹ながら、怖くてもう「様」をつけずにはいられない――クラリス様が、じっとりと冷たい眼で兄とそのルームメイトを見据えていた。
「……兄様。少し見ない間に、ずいぶんとお手が早くなられたみたいで……私、兄様の一途な所『だけ』は尊敬していたのですけれど――」
「そ、そこは尊敬したままで大丈夫! 違うから! ぜったいに、クラリス達が誤解しているような状況じゃないから! 全部誤解! 僕はずっとサーシャ一筋だし、そもそもこいつ……いえ、こちらの御方は……!」
クロードはランの細い肩を掴み、前へと突き出す。
その時だった。
「……………………ランドール・ラドラ……じゅうごさい……にんげん、おす……オス!? は!? オス!? はぁぁ!?」
……………………………………………………ねこが、しゃべった。
その猫目を驚愕に大きく見開き、口も割と大きめにぽかんと開け、全身の毛を震わせながら、なにもない手元の空間とランの姿を何度も交互に見る。
何の変哲もない猫が見せた予想外の行動に、クロードとランは固まった。
一方でクラリス達も、その猫の言葉に驚いて色めき立つ。
「ルーク、急に何を言って――」
「……い、いえ、クラリス様……そういえば、領主課程に入学できるのは跡継ぎになる男子のみで、この第一学生寮は領主課程の生徒しか入れないはずです……女子は、他の課程にしか……」
「あの、それより……ルークさん、この場で喋っては……!」
混沌とした場に、ウサミミ娘の欠伸が重なった。
「……ふぁ……ねむくなっちゃった。おひるねするねー……」
ぽん、と可愛らしい爆発音の後に、脱ぎ散らかされた服と、やけにでかい兎が現れる。
兎はソファに悠々と身を横たえ、くうくうと寝息を立て始めた。
沈黙の中、クロードはやっと理解した。
「……あ。これ、夢か」
よくよく考えてみれば、ひきこもり気味の従姉妹・リルフィがわざわざ王都まで出てくるなど有り得ない。サーシャへの思慕が募るあまり、自分は寝ぼけてしまったらしい。
ランがぽつりと呟く。
「……喋る猫……? しかも私のこと知ってる……? まだ素性は話してないのに……?」
「いや、ラン様。これ夢ですって。ああ、サーシャは夢の中でもきれいだなぁ……ラン様、前に話しましたよね? あの子が僕の片思いの相手です。だから将来、リーデルハイン家との友好関係を続けたかったら余計な邪魔をしないでくださいお願いしますいやマジで。だいたいあんた一応、いずれは伯爵様だろ! 常識にはもう期待しないからせめてもう少し良識をもて!」
「ご、ごめん! それは謝る! でも、あのね? ……クロード、これ夢じゃないよ?」
「夢に決まってるでしょう。猫が喋って女の子がでかいウサギになってサーシャが眼の前にいて……これが夢じゃなかったら精神的な病気です。休学を申請して郷里に帰ります」
夢の中だから強気、というわけではない。クロードとランのやり取りは概ねこんなものである。
他の寮生や教官達からは同室ゆえの世話係を任されているし、ランの祖父である「トリウ・ラドラ伯爵」からも、じきじきに孫のお目付け役を頼まれてしまった。「うちの孫は、自分の容姿を利用して人をからかう悪癖があるから……その時はぜひ、強めに叱ってやって欲しい」とのことであった。社交辞令ではなく、ガチの不安顔だった。
ランドール・ラドラ。
どこからどう見ても正真正銘の美少女にしか見えない「彼」は、れっきとした少年であり、ラドラ伯爵家の跡取りである。
軍閥の名門たるラドラ家は、リーデルハイン家の寄親でもある。将来的にはおそらく、ランドールとクロードの友情が両家の絆となるはずだが――ここで恋路を邪魔されては、そんな未来も危うい。
しかしまぁ、夢で良かった。
いまだ呆然としている猫をなだめるように、クラリスがその背を優しく撫でた。
「……ルーク、どうやって調べたのかは聞かないけど……本当なの? こちらの方が、ラドラ家のランドール様で……男性?」
「あ……す、すみません! びっくりしすぎて、つい……! あの、魔力鑑定みたいな感じで、お名前とか年齢とか性別とかをつい見てしまっただけなんですが……間違いないと思います。こちらのお嬢さんは……いえ、こちらの美少年さんは、ちゃんと男性で……あと、クロード様が“いずれは伯爵”とも仰っていましたから、おそらくリーデルハイン家の寄親であるラドラ家のお世継ぎだと思います……!」
猫はクロードの代わりにすべてを説明してくれた。
夢だからなんでもありとはいえ、実に賢い猫である。クロードは父に倣って犬派であったが、夢とはいえサーシャの誤解を解いてくれたなら、いっそ猫に宗旨変えをしても良い。
ランが悪びれもせず、堂々とない胸を張った。さすがにあるわけがない。が、腰が細いせいで微妙にあるように見えてしまう。
「隠すつもりはなかったのですが……結果として、からかってしまったみたいでごめんなさい。改めて――クロードと同室のランドール・ラドラです。お察しの通り、ラドラ伯爵家の跡取りですので、同じ派閥に属するリーデルハイン家の皆様とは、今後もお付き合いをさせていただく機会が多いかと思います。よろしくお願いしますね!」
にっこりとたおやかに微笑むその姿は、貴族の令嬢としてどこに出しても恥ずかしくない、立派なものだった。
……あくまで、「令嬢として」なら。
彼の容姿については、士官学校でも一応は問題になったのだ。
とはいえ、なにせ軍閥の重鎮たるトリウ伯爵の孫であり、しかも次期当主である。
また、あまりによく似合いすぎる女装を除けば他の素行に問題はなく、成績はむしろ優秀であり、人心の掌握にも長けている。なにやら妙なカリスマまで備えており、他の学生達からも男女問わず人気が高い。
男装したところで「男装した美少女」にしか見えないという根本的な問題もあり、制服の変更もなし崩し的に認められてしまった。
クロードの見たところ、ランの強みはその「巧みな話術」にある。彼と話をしていると、いつの間にか気安い感覚になり、味方に引き込まれてしまう。自然体で打算なくそれができてしまう才は、とても恐ろしいが頼もしい。
「……で、そちらの喋る猫さんとウサギさんは……もしかして、神獣ですか?」
ランが発したこの質問によって、クロードも我に返った。
猫が喋って、女の子がでかいウサギに変身する――この現象が「夢」でないとしたら、「神獣」という解釈が成り立つ余地は確かにある。
ただし、そんな御大層な存在がリルフィの膝上でくつろいでいる理由はよくわからない。
ウサギは眠りこけていたが、猫は軽く肉球を掲げ、愛想よく微笑んだ。かわいい。
「こういう形での自己紹介は、想定していなかったのですが……はじめまして、クロード様、ランドール様! 私、つい先日からリーデルハイン家に飼われております、ペットのルークと申します。元はただの迷える野良猫でしたが、クラリス様に保護していただき、現在はトマト様栽培技術指導員として、日夜、職務に励んでおります! 王都へ来たのは有望そうな魔道具職人さんをスカウトするためでして、できれば金属加工ができる人材を求めているのですが、職人街の案内をクロード様にお願いできないかということで、こうしてお邪魔いたしました。あと、喋れることは一応、秘密なので、他の方にはなるべく黙っておいてください! どーせ信じてもらえないでしょーし、トリウ伯爵様にもまだバレていません。王都で他にご存知なのは、宮廷魔導師のルーシャン様と、そのお弟子のアイシャさんくらいですね」
……流暢で情報量が多い割に、肝心な疑問についてはボカされた気がする。
クロードはうっかり流されそうになったが、話術に長けたランはこうした詐術に誤魔化されない。
「……で、どうして喋れるの?」
「勉強しました!」
ぜったい嘘だ。
しかし本人――本猫が「元はただの野良猫」と言い切っている以上、問い詰めたところでそれ以上の答えは出てきそうにない。実際、その姿は何の変哲もない――少々太り気味ではあるが――ただの猫である。
そして、これが本当に夢ではないのなら……
「つまり、サーシャも……夢じゃなくて本物!?」
「…………クロード様。とうとう夢と現実の区別がつかなくなりましたか……」
冷ややかである。
つまりいつものサーシャである。
「サーシャぁーーー! 会いたかったよー!」
感極まって抱きつこうとすると、真下から顎にワンパンいれられてのけぞる羽目になった。相変わらず初動が見えない。力は入っていないし振り抜かれてもいない、軽く小突くような一撃ではあったが、接近は完全に阻まれる。
「こ、この速さ……! やっぱりサーシャだ!」
「クロード様は、体格は普通なのに無駄に頑丈ですよね……どうして今ので立っていられるんですか……」
呆れ声だが怒ってはいない。
クロードにとっては慣れた塩対応だが、猫は眼を丸くして呆然としている。このスキンシップは少々、(ダメな意味で)刺激が強すぎたかもしれない。
猫は自らの肉球で口元を押さえ、リルフィの膝からクラリスを見上げた。
「こ、こちらの世界では、ああいった愛情表現が普通なんでしょうか……?」
「違うよ、ルーク。これは兄様とサーシャだけだから、勘違いしないで」
「そもそも愛情表現のつもりはありません」
「えー? そうなの? 愛情がなかったら、そんなやり取りできないと思うけど。クロードが女の子相手に積極的なのも初めて見たし」
「……ルークさんは……どういった愛情表現がお好みですか……?」
「えっ……いえ、あんまり考えたことないですね……」
従姉妹のリルフィだけ、何やら以前より目つきが妖しいような気もしたが、気のせいであろう。猫はよく懐いている。問題はない。魔導師というのは、だいたい何処かが余人とは違うものである。大丈夫。怖くない。「やんでれ」なんて忌まわしい言葉はこちらの世界に(まだ)存在していない。
ランも誤解を煽った詫びのつもりか、珍しく殊勝なフォローをいれてくれた。やや悪戯心が旺盛ではあるが、決して悪い人間ではない。
なお、「男の娘」という言葉は、この世界でも物語などを通じて世間に認知されている。
ランの場合はその完成度が桁違いではあるが、たとえば「女装で油断させて敵を倒す美少年」などは、昔からお約束の設定であり、神話にさえ登場するありふれたモチーフだった。
ヤマトタケルという古代史の英雄も――いや、これは「この世界」の知識ではなかった。
たまに知識が混ざってしまうため、注意しなければならない。
喋る猫にはぜひ長靴でもはいて欲しいところだが、脚が短く嫌がられそうなため、この感想もそっと胸に秘めておくことにする。
リルフィの膝上に抱えられた猫は、じっとクロードを見つめ――やや思案げに、尻尾をゆっくりと揺らしていた。
感想やツイッターでの、書籍化へのお祝いコメント、ありがとうございます!
お言葉を糧に、書籍用の追加エピソードを書き進める日々です。
また詳細が決まりましたら、こちらでご報告をば――
……それはそれとしてラン様の男の娘疑惑が初出から速攻で見破られててもはや笑うしか。
……おかしい……男の娘なんて今まで輪環で一キャラしか出していないから、まだ前科一犯(?)のはずなのに……!