279・公爵家の菜園
ピルクード・ペルーラ公爵は、つい先日、心筋梗塞で死にかけた。
運動不足、加齢、夜会での飲酒に脂っこい料理、日々のストレス。
贅沢な暮らしをしている割に⋯⋯いや、「だからこそ」というべきか、高位の貴族は意外と早死にしやすい。
とはいえ末娘のセルニアはまだ幼いし、さすがにまだ死にたくはない。
いろいろ反省して医師に相談した結果、「まず食生活を変えましょう」とのことで、野菜を積極的にとるように言われた。
ちょうどそんな折に、娘のセルニアが突然、「園芸をはじめますわ!」と言い出した。
高位貴族の趣味としては一般的なものである。育てるのはバラや孔雀草、水仙、ダリア、スズラン⋯⋯子供ならチューリップなども可愛らしくて人気である。
庭師に相談して、庭の一隅を整備し直し⋯⋯娘が植えた植物は、『トマト様の苗木』だった。
「⋯⋯ど、どこから手に入れたんだい⋯⋯?」
「魔導研究所で育てていたものを分けていただきましたの! もう小さな実がなっていますから、きっとすぐに収穫できますわ!」
公爵家への贈り物としてはなかなか絶妙なラインで、「現時点での希少性」という意味では価値があるし、「話題性」としてみればもちろん話のネタになる。セルニアも喜んでいるようだし、この点では良いものを貰った。
⋯⋯が、それから数日のうちに、セルニアはどこからともなく「平民のような野良着」と「麦わら帽子」「軍手」「スコップ」「ハサミ」などの装備一式を入手してきて、本格的な庭仕事を始めてしまった。
貴族の園芸というのは、もっと、こう⋯⋯高貴というか、お遊び程度のものである。
メインの仕事は庭師に任せ、その手伝いぐらいの作業を気晴らしにやってみたり、あるいは咲いた花を摘んで飾ってみたり、そういうラインが普通なのだが、セルニアはだいぶ本格的というか⋯⋯これはもはや「農夫」の格好だった。
ごっこ遊びにしても少々度が過ぎていると感じ、それとなく「そこまでしなくても⋯⋯?」と注意したのだが⋯⋯セルニアは満面の笑顔で胸を張った。
「こちらのトマト様は、栄養満点にして神聖なるお野菜なのです! 特にお父様のような、しんきんこーそくよびぐん? の方には劇的な効果があり、血液をサラサラにして血管年齢を若返らせる効果があるそうですわ!」
言っている言葉の半分ほどは意味がわからなかったが、どうやら宮廷魔導師ルーシャンからいろいろ説明を受けたらしい。
「私はこの実を育てて、お父様に食べていただきたいのです! そうすれば、きっとお体の具合も良くなります!」
⋯⋯愛娘が、自分のために野菜を育てようとしてくれている⋯⋯!
その事実に感極まって男泣きしたピルクードは、娘の新たな趣味をそっと見守ることにした。志は尊いが子供の思いつきであり、いずれ飽きて投げ出すだろう、という予感もあった。
かくしてペルーラ公爵邸の庭の一角ではトマト様の栽培が始まり⋯⋯今日はその原産地を治めるリーデルハイン子爵家の当主、ライゼーが来訪する。
同行者は冒険者ギルドのメテオラ支部長候補、ベルガリウスと、宮廷魔導師の弟子のアイシャ。
馬車は魔導研究所のものを用意してもらった。一応、お忍びでの会合ということになるが、「本気で隠す」意図はなく、「お忍びのように見える」形を整えただけである。
実際に隠せればそれでよし、もしも露見しても「魔導閥が隠蔽に関わって、税務閥の長が軍閥の使者と冒険者ギルドの職員を交えて秘密の会談をした」となれば、大抵の貴族は「あっ⋯⋯」と何かに感づいて気づかないふりをしてくれる。
ここまで役者が揃ってしまえば、さすがに国家機密レベルの話し合いだと想像がつく。
まず応接室に三人を通しておいて、ピルクードは後から部屋に入る。
非公式の場でもあり、煩雑な挨拶は省いた。
「久しぶりだね、ライゼー子爵。壮健そうでなによりだ」
「はっ。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」
長旅をしてきた直後のはずだが、ライゼーはいたって身綺麗で、そこに疲労の様子は微塵もなかった。
思えば昨年も、彼は春の社交の後、国境線での対レッドワンド戦に参陣し、その直後には秋の社交でまた王都へ来ていた。
戦争自体は魔族オズワルドの介入で避けられたものの、移動だけでも相当な疲労が溜まっただろうに、あの時期もライゼーは若々しく健康そのものだったように記憶している。
⋯⋯これもあるいは、『トマト様』という作物の効果なのだろうか?
そして、初顔の客も一人いる。
「⋯⋯お、恐れ入ります。冒険者ギルドの職員、ベルガリウス・オプトと申します。ピルクード閣下におかれましては、ご機嫌麗しく⋯⋯」
平民らしく縮こまっているが、ピルクードはこれを「演技」と看破した。
別に他意があってのことではなかろうが、雰囲気から海千山千の曲者という印象を受ける。「相手から自分がどう見えるか」を意識し、わざと小物を演じているのだろう。
「ああ、よろしく、ベルガリウス殿。今日は礼儀作法のことなど気にしなくていい。貴殿も⋯⋯『猫の精霊』様のことを知る身だと、ルーシャン卿から聞いている。ゆえに聖地メテオラのギルド支部長を任されたのだと」
ライゼーがふと怪訝そうな顔をした。
「⋯⋯聖地⋯⋯?」
「おや、違うのかね? 冒険者ギルドから回ってきた報告書には、そう書かれていたが」
二人を連れてきたアイシャ・アクエリアが楚々と一礼した。
「いえ。聖獣・落星熊と猫の精霊様を信奉する集落ですので、聖地という認識で合っております。ただ、集落の有翼人達にとっては紛れもなく聖地なのですが、麓にお住まいのライゼー子爵がその地を発見したのは、つい去年のことでしたので⋯⋯」
「ああ、なるほど。そういうことか」
以前から麓に住んでいたライゼーにしてみれば、「近くの山が知らないうちに聖地扱いされていたことを、つい最近知った」という感覚なのだろう。多少の違和感があっても仕方ない。
合点しつつ、ピルクードは応接室に飾った木彫りの落星熊と猫の像へ視線を向けた。
落星熊は尻で「でん」と座り、「やぁ」とでも言いたげに片手を挙げている。
猫はその足の間に座り、両手で大きなトマト様を抱えている。
これらは先日、トマティ商会のナナセとブラジオスが土産として置いていった品である。娘のセルニアが大層気に入り、こうして応接室にも飾ることになった。
彼女の部屋にもいつの間にか増えていたが、どうやらトマティ商会本店で別ポーズのものをわざわざ購入したらしい。
ライゼーも今気づいたようで、「おぉ⋯⋯」となんとも言えない微妙な表情へ転じる。
「メテオラの特産品ですね。トマティ商会の者達がお持ちしたのですか?」
「うむ。ナナセ嬢とブラジオス殿からいただいた」
相手は一介の商人ながら、「命の恩人」でもある。彼らがあの場にいなければ、ピルクードはあの発作で命を落としていた。
ベルガリウスも興味深そうに覗き込み、「なるほど」と頷いた。
「⋯⋯猫の精霊様にそっくりですな。公爵閣下もお会いになられたとか」
「ああ。トマティ商会の者達が来た折、胸に発作が起きてしまい⋯⋯救っていただいた。君はどういう御縁で?」
「メテオラへのギルド支部長就任が内定した折に、『里のことをよろしく』と、ご挨拶を受けました。私の時も、ナナセ殿と、それからアイシャ様がご一緒でしたね」
ベルガリウスに続き、ライゼーにも視線を向ける。
精悍な顔立ちの武人は、ことさらに声をひそめて語りだした。
「⋯⋯娘のクラリスと姪の魔導師、リルフィが、猫の精霊様と大変、懇意にしております。私も昨年、命を救われまして⋯⋯いえ、私だけでなく、ルーシャン様やこの王都の人々、すべてが救われたのですが⋯⋯」
昨年の春の祝祭、最終日に起きた精霊同士の争いと、それに伴う猫騒動――
あれこそが、猫の精霊が歴史上で初めて公に姿を見せた瞬間だった。しかしライゼー達はそれ以前から交流を持っていたのだろう。
ピルクードは目を細める。
「⋯⋯ふむ、御令嬢と姪御殿を通じて⋯⋯もしやルーシャン卿と猫の精霊様の御縁も、リーデルハイン家がつなげたものかね?」
応じたのはアイシャだった。
「御賢察の通りです。師が精霊様と親しいのは事実ですが、そもそもは王都へいらしたリーデルハイン家の皆様を通じての御縁でした。昨春の時点では、子爵家に好奇の視線が集まるのを防ぐため、『師が加護を受けている』という形で発表しましたし、それも事実なのですが⋯⋯精霊様の加護を受けている者は、他にも複数おります」
これもトマティ商会の社員達から聞いた情報と一致する。
「商会の二人から、『猫の精霊様はトマト様の普及を目的とし、それに従事する人々に加護をもたらしている』と聞かされた。つまり、貴殿らもそれに協力する立場であると判断して良いのだな?」
ライゼーが頷く。
「私はそうです。ベルガリウス氏に関しては、メテオラにおける冒険者ギルドの管理のほうに、より重きがあるはずですが⋯⋯」
「ええ。自分はトマト様の普及そのものへの協力というより、『その生産地の環境を守る』ことを依頼されました。冒険者には、少々荒っぽい連中も多いので⋯⋯彼らの手綱を握り、目に余るようならメテオラへの滞在を制限するのが役目です」
ピルクードは改めて思案する。
つまり『猫の精霊』は、冒険者の流入そのものを止める気はなく、むしろ『迷宮の攻略を支援する』立場なのだと思われる。
精霊はあまり人の世に関わらないはずなのだが、あの猫達は例外らしい。
「⋯⋯ライゼー子爵。貴殿のほうが、あの精霊様との付き合いは長い。現時点では言えぬこともあろう。だから一つだけ、確認させて欲しい。あの精霊様は⋯⋯ネルク王国にとって、どういう存在だと思うかね?」
トマティ商会の商人達にも向けた問いだが、同じ「貴族」からも見解を聞いておきたい。
ライゼーはしばし考えた後、迷いながら口を開いた。
「ネルク王国にとってはもちろん守護者といえます。そして同時に、この世界そのものを慈しみ、守る存在だとも感じております。トマト様の普及もまた、そうした広い視野で理解すべき事柄なのではないか、と――」
世界そのものを慈しみ、人々のために神聖なる作物を広める⋯⋯
それはまるで『神』の振る舞いではないか。
そう問う寸前で、ピルクードは口を閉ざした。
もしも本当に、神が「精霊」に偽装しているとしたら、そこには理由がある。目立ちたくないとか、国に利用される気はないとか、あるいは名を隠したいとか⋯⋯いずれにしても、「人」の身でそこに踏み込むべきではない。
「⋯⋯わかった。私も精霊様に助けていただいた身だ。互いに協力できることがあれば話を通して欲しい」
「恐れ入ります」
ライゼーはすでに陞爵が内定している。伯爵位ともなれば貴族の中でも上位、つまり「こちら側」であり、今後は家同士の付き合いも発生するだろう。
今日の会談の目的は、単に情報を得るというより、「互いの人となりを把握し、敵対を避ける」ための親睦である。
特に今年のライゼーは各家の夜会に呼ばれまくるはずで、スケジュールの重複から断りをいれるのにも難儀すると目に見えている。
こうして縁を結んでおけば、ひとまずピルクードの派閥関係者に対しては「ライゼー子爵を個別の夜会へ招待するのは控えるように」「代わりに公爵家の夜会に招くから、話はそこでしろ」と自制を促すこともできる。
そして公爵家の夜会であれば、ピルクードの目があるために、他の貴族から変な圧力をかけられる心配もない。つまり今日の会談は、今後の社交会を乗り切る上でライゼー側に明確なメリットがある。
その後も和やかに世間話は進み、やがて互いの子供達の話になった。
「そういえば、御子息のクロード殿は昨年の士官学校でご活躍だったな。ギブルスネークの死体は私も見たが、よもやあの巨体を一矢で仕留めるとは⋯⋯」
⋯⋯あれにも猫の精霊が絡んでいたのか? と、遠回しに聞いたつもりだったが、ライゼーは気づかなかったようで、普通に苦笑いで応じた。
「いや、恐縮です⋯⋯弓の腕に関しては、親の私ですら遠く及ばず⋯⋯幼い頃からうちの騎士団長が教導にあたっていたのですが、あそこまで上達していたとは予想外でして⋯⋯」
⋯⋯あっ。これガチのやつ?
嫡男の弓の腕は精霊とは関係なかったらしいと察し、ピルクードは慄然とする。
あの日は四女のセルニアも後妻と一緒に学祭の見物へ出向いていた。
ギブルスネーク討伐の瞬間も目撃したようで、帰ってきた後は興奮してその様子を聞かせてくれたものである。
セルニアは話を盛るような性格ではないが、正直に言えば信じ難く、新聞に書かれてもなお「本当か⋯⋯?」と微妙に疑っていたのだが⋯⋯ライゼーの態度を見る限り真実らしい。アイシャまで真顔で頷いている。
「ライゼー様は槍の名手として名高いですが、クロード様は弓の名手です。これは誇張でもなんでもなく⋯⋯飛ぶ鳥を落とすとかそういう次元すら超えて、飛んでくる矢を矢で撃ち落とすレベルだとお考えください」
ちょっと何を言ってるのかよくわからない。
武芸にはあまり詳しくないが、それは弓術ではなく「魔法」の領域ではないかと思う。
「ん? 風魔法の使い手なのかね⋯⋯?」
「いえ、魔導師ではないです。猫の精霊様も関係ないです。単純に御本人の才能です」
怖。
⋯⋯気を取り直して、ピルクードは話を続ける。ベルガリウスも詳しくは知らないようで、「???」と不思議そうな顔をしているのが救いだった。
「と、ともあれ、御子息の弓の腕を、うちのセルニアも絶賛していてな。あの時、士官学校の学祭に出向いていたものだから、間接的には御子息に救われたようなものだ。遅くなったが、改めて感謝したい」
「もったいないお言葉です。しかしクロードが仕留めずとも、他の方が制していたことでしょう。ギブルスネークは集団になると厄介ですが、一匹ずつならさほど恐ろしい魔物ではありません」
⋯⋯この父親もやっぱりちょっとおかしいな? と、ピルクードはようやく気づいた。
ギブルスネーク退治は基本的に「部隊単位」で行うものだし、一匹とはいえ、アレを「さほど恐ろしくない」と言い切れる精神性は尋常でない。子牛を丸呑みできるサイズの空飛ぶ蛇が恐ろしくないはずがない。
僻地の実戦派貴族は、時に自ら魔獣退治も行うと聞いたことはあったが⋯⋯敵には回したくないと改めて再認識した。
「ああ、そうだ。セルニアもぜひ紹介したいのだが⋯⋯庭にいるはずだから、ご一緒願えるかね?」
この機会に末娘を紹介しておこうと、ピルクードは席を立つ。
長男のクロードにはすでに婚約者がおり、一緒に留学までしているようだから、結婚相手としての望みはないが⋯⋯
セルニアもこれから社交会に出席する機会が増える年齢だし、そこでの話題に困らない程度の縁はつないでおきたい。
「それはぜひ。セルニア様はたいへん素晴らしい御令嬢だと、ラドラ伯爵家のランドール様からもうかがっております」
ラドラ家のランドールには、以前からセルニアと懇意にしてもらっている。
公爵家にとっては軍閥との貴重な人脈だが、ライゼーにとっては寄親のラドラ伯爵家嫡子であり、その結び付きは強い。嫡子のクロードも士官学校で同室だったと聞いている。
客達を連れて、ピルクードは庭へ出る。
公爵邸は王都の中では大きいほうだが、領地にある屋敷と比べればだいぶ狭い。土地の限られた王都では、高位の貴族といえど常識的な範囲の敷地しか持てないよう法で規制されている。
これは「貴族の権限で土地を取り上げ、高値で貸しつける」といった横暴を防ぐためで、王都の土地は基本的に王家が一元管理しているのだ。
自由に取引される土地もあるが、それらも「王家が不動産の管理を委託している」という建前であり、問題が起きた場合には没収できる。
これはこれで王家側役人の汚職や賄賂の温床になりやすく、問題も多いのだが⋯⋯しかし撤廃するとなると、それ以上の弊害が大きい。
先代の王が何も考えず第二妃に唆されてこれらの法を撤廃しようとした時には、正妃たるラライナと共に必死で諌めたものだった。
幸い現王のリオレットは、父王や母親だった第二妃と違って、このあたりの感覚が常識的かつ堅実である。様々な法の重要性とその効果、利点も弊害も総合的に理解してくれている。
即位以前は目立たない存在だったものの、城での会合を重ねるにつれて、諸侯や官僚からの評価も高まってきた。
一方で権益に群がりたい不心得者達からは不人気だし、現状の財務にも課題は多いのだが⋯⋯迷宮からの琥珀やトマト様の普及促進事業、レッドトマト商国からの鉱物資源輸入などの好材料もあり、将来的には好転を見込める。
先日の心筋梗塞ではヒヤリとしたものの、この国の財政を立て直すために、ピルクードはまだ死ぬわけにはいかない。
客達を連れ庭に出て、新たに整備した「家庭菜園」へ向かうと――
セルニアと誰かが、楽しげに会話する声が聞こえてきた。
「トマト様は本来、荒れ地でも根を張るほどの強い植物です! そのためか肥料をやりすぎると、葉ばかりが成長して花が咲かず、実がつきにくくなったりもしますので⋯⋯重要なのは、肥料をあげすぎないこと、そして矛盾するようですが、土の『水はけの良さ』と『保水力』の両立です!」
はきはきとした楽しげなその声には、ピルクードも何やら聞き覚えがあった。
やや後ろを歩くライゼーの顔色が、さあっと青ざめていく。
「では⋯⋯この土では、肥料が多すぎるのですか?」
と、この問いは末娘・セルニアの声だった。
「おそらく。こうして葉が丸まってしまうのは、まさに肥料が多すぎる証拠なのです。しかしご安心ください! 肥料をあげすぎた場合には、あえてしばらく水を多めにして、肥料の成分を薄めることでも対応可能です。また少し労力はかかりますが、この土を多少取り除いて、代わりに栄養成分の少ない土を足すのも良いですね。農作業においてもっとも重要なのは『土作り』であり、その植物に合った土を試行錯誤によって見極めることに、先人達は多くの時間を費やしてきました。よいせっ、と⋯⋯」
幼女相手に農業論を披露する声の主は、喋りながら何かの作業をこなしているようだった。
「ふむ⋯⋯幸い、根腐れはしていないようです。トマト様は水分が多すぎてもダメなので、『なるべく見守って放置する』ぐらいの感覚で良いでしょう。危険なサインの見極め方については、後ほど、うちでまとめたトマト様専用の農業指導ミニブックをプレゼントいたします!」
「たいへんありがたいですわ! よろしくお願いいたします、ルーク様!」
ピルクードの背後では、ライゼーが両手で顔を覆っていた。
ベルガリウスは視線を逸らして頬を引きつらせ、アイシャはにこにこと硬直した笑みを浮かべている。目は笑っていない。
ピルクードは足を止める。
今はまだ、建物の陰だが⋯⋯少し先の角を曲がれば、そこには整備したばかりの家庭菜園がある。
そこへ歩み寄ってしまえば、農夫ルックの『セルニア』と、もう一人⋯⋯否、『もう一匹』の姿が、間違いなく見えてしまうだろう。
「⋯⋯もしや、引き返したほうが良いかね?」
声をひそめて問うと、アイシャに拝まれた。
「⋯⋯ピルクード公爵閣下は、たいへん思慮深く、そして気遣いのできる方なのだと改めて認識いたしました⋯⋯その賢明なご判断、師に代わって厚く御礼を申し上げます」
⋯⋯何も聞かなかったことにして、一行はひっそりとまた応接室へ戻る。
その後の会談はスムーズに終わったものの、ピルクード・ペルーラは新たな事実を追加で把握することとなる。
猫の精霊の正体が『亜神』であること。
その亜神がトマティ商会の社長をやっていること。
娘のセルニアがその加護を得ていること⋯⋯
「⋯⋯現時点で実際に称号がついているかどうかはわかりませんが、おそらく時間の問題かと思いますので⋯⋯魔力鑑定をなさる際には、お気をつけください。学校への入学などで必要な場合には、裏から手を回して魔導研究所の人員を鑑定要員として派遣いたします」
アイシャは事務的に楚々と一礼し、そう説明を終えた。微妙に慣れていそうなのが気にかかるが、まさか「称号持ち」の実例がそんなに多く存在するはずもない。
この日のうちに、ピルクードは愛娘のセルニアに称号「亜神の加護」がついていることを知り、さらに困惑の度合いを深めたのだった。




