259・白猫の来訪
その夜、十歳のカティアはなかなか寝付けずに、ベッドの中で猫を数えていた。
本物の猫ではない。頭の中にいる想像上の猫である。
猫が一匹、猫が二匹、猫が三匹……数の勉強も兼ねて、数えているうちに眠くなる――という昔ながらのおまじないだが、普通は羊を数えるらしい。でもカティアは猫のほうが好きなので、猫を数えることにしている。
やがて四十三匹目がのっしのっしと通り過ぎたところで――窓枠をカリカリと引っ掻くような音が聞こえた。
母のジャニスは隣でもう眠っており、気づいていない。以前は長かった赤毛を最近になって短めに切ったばかりで、「寝やすくなった」と喜んでいた。
母を起こさぬように用心しつつ、カティアが窓に目を向けると――そこには、真っ白な毛の猫がいた。
部屋を覗き込みながら、カリカリと窓枠を引っ掻いている。
部屋は三階である。窓枠の傍に足場などはない。
まさか屋上から落ちて、かろうじて枠に足を引っ掛けたのか――一瞬焦ったが、白猫は片方の前足を適当に浮かせ、もう片方の前足で窓枠をカリカリしている。特に踏ん張っている様子もなく、まるでそこに浮いているかのようだった。
不思議に思って、カティアは静かに起き上がり窓へと近づく。
その猫には白い翼が生えていた。
月明かりを浴びたその姿はあまりに神々しく、彼女は思わず見惚れてしまう。
黒目がちな目は優しくカティアを見つめ、穏やかな口元はわずかに微笑み、白い翼は羽ばたくこともないまま、その身を宙に浮かせていた。
翼はあっても、その飛び方は鳥とは違う。これは話に聞く「精霊」に近い存在なのではないだろうか――?
「……ねこさん……?」
カティアが夢現に呟いた直後、白猫の声が脳裏に届いた。少し高めの、少年のような……あるいは愛想のいい商人のような声である。
『はじめまして。私は猫の精霊です。ホルト皇国にいる私の仲間が、貴方の兄君、イグナス君と仲良くなりまして……その御縁で、お二人の様子を見てきて欲しいと頼まれました。もしよろしければ、窓を開けて中にいれていただけますか?』
カティアは警戒もせず、言われたとおりに窓を開けた。猫が「開けて」と言っている。ならば開けないわけがない。
多少怪しかろうとも、猫のかわいさの前に人類は無力である。仮に猫以外の存在が「窓開けて」などと言い出したら、もちろん衛兵に通報する。
背伸びして窓を開けると、白い猫はするりと室内に入ってきて、カティアの眼前で優雅に翼を畳んで香箱をキメた。猫にしてはちょっと大柄で、犬ぐらいのサイズ感がある。長毛でモッフりしていてかわいい。
『どうもどうも。えっと、お母さんはもうお休み中です? すみませんが、割と大事なお話になりますので、起こしていただけると――』
「はい。少々おまちください」
猫さんが丁寧な口調なので、カティアも丁寧に返す。こんなところに住んでいるが、カティアは『はくしゃくけのせいりゃくけっこん』によってちょっと良い家に嫁ぐ可能性があるので、最低限の礼儀作法の勉強は欠かしていない。
「お母さん、お母さんってば。起きて。お客さんだよ」
「……んぅ……? ……お客様……? うちに……?」
肩を強めに揺すると、母のジャニスが眠たげに目を開けた。
ベッドサイドで香箱座りをした神々しい白猫は、おとなしくその様子を見守っている。そこはちょうど月光の差し込む範囲で、体はキラキラと光って見えた。
……おそらく本当に、かすかに光っている。魔力の光かもしれない。
「お客さん。お兄ちゃんのお友達……の、お友達だって」
『はい。私の眷属の猫さんが、御子息のイグナス君と親しくしておりまして……はじめまして、猫の精霊です! おやすみ中のところ、急に押しかけてしまって申し訳ありません』
ぺこりと一礼。
母のジャニスは目をぱちくりとさせ――
部屋の中を少し見回した後、眉間を指先で押さえ、「……あの子、向こうで一体何を……」と、やや困惑気味の寝ぼけた声を漏らした。
白猫が自身の手の甲を舐めながら、念話で説明をはじめる。
『実は、ホルト皇国のラズール学園に留学中のナイブズ様一行が、イグナス君の母君と妹さんのことをとても心配していまして……現在、イグナス君の帰国に向けて旅費を稼いでいるところなのです。ただそれを待っていると、こちらへの到着は一年ぐらい先になってしまうはずなので、「ちょっと助けてあげてほしい」と、私の知り合いの猫さんからご依頼を受けました』
「……猫さんからの依頼……? あの、まだちょっと混乱しているのですが……イグナスのお友達の猫さんが、その……精霊様に、私達のことを相談したと……?」
『より正確には「元気がないので相談にのってあげて」ぐらいのご依頼だったのですが……その原因がお二人にあるとわかりましたので、保護のためにこうしてうかがった次第なのです』
ずいぶんと丁寧でしっかりした猫さんである。たまに視線が泳いでいるものの、いたずらをすることもなくおとなしい。
「そんなことが……お心遣い、たいへん恐縮です」
寝起きで乱れた髪を改めて手櫛で整えつつ、母のジャニスはベッドから降り、白猫の前で深々と頭を下げた。
……混乱する母に寄り添うか、こっそり白猫を撫でるかの二択を迫られたカティアは、あまり迷わず猫の隣に座り込む。母とはいつも一緒だが、この猫の精霊はたぶんレアである。触るなら今しかない。
歓迎の意を込めてそっと撫でると、白猫は嬉しそうに目を細め、「にゃーん」と甘えた声を漏らした。言葉遣いは真面目なものの、やはり猫である。
「……ええと、カティア……あのね……?」
当たり前のように猫を撫で回す娘を、止めるべきか否か……母がそう迷っていることを察しつつ、カティアはあえて白猫をモフり続ける。
白猫は上機嫌なので、この行動でおそらく正解なのだ。人に触られるのを嫌がる猫も少なくないが、とりあえずこの精霊様は友好的な存在らしい。
母のジャニスにもそれは伝わったようで、結局、制止の言葉は紡がれなかった。
「それで、あの……私と娘の保護のために来てくださったとのことですが……精霊様はつまり、はるか彼方のホルト皇国から、わざわざそのためにこの地までおいでくださったのですか……?」
『はい! とはいえ私は転移魔法を使えますので、ついさっきまで向こうにいました。それでですね、その転移魔法で、お二人にもホルト皇国へ来てもらおうと思っておりまして……その上でイグナス君達と相談し、今後の対応を決めてもらえれば、と思います。お手数ですが一旦、ホルト皇国までおいでいただけますか?』
これに対して母が何かを言う前に、カティアはかぶせるように言い放った。
「行く。行きたいです。お兄ちゃんのところ」
「えっ……! カ、カティア……?」
あまりの即断即決ぶりに、母が動揺した。
カティアはまだ幼いが……それでも今の状況を、多少は把握している。
お城がなくなった。王族がいなくなった。そのせいで街が混乱している。
混乱を嫌がって人が減った。カティアの友達も別の街へ引っ越した。
王都は近いうちに戦場になるから、なるべく早く離れたほうがいい――大人達もそう噂している。
父親にあたる伯爵も、城で王族と一緒に亡くなったらしい。訃報を知った夜、母のジャニスは途方に暮れていた。
カティアは父親のことをよく知らないし、母も悲しくて落ち込んでいたわけではないように思う。
ただ、家賃や警備費を含むここでの生活費の多くを、伯爵本人からの支援でカバーしていたので……
その父の死によって、伯爵家からの支援が即座に打ち切られたとカティアが知ったのは、昨年末のことだった。
また、母は小さな商店で店番と経理の仕事もやっていたが、この店も衛兵の不在に乗じた暴徒の略奪によって破壊され、店主は王都での商売を断念しよその街へ移住していった。
現在、王都ではまともな仕事を得るのが難しく、母と自分は貯蓄を切り崩して生活している。
一般の店舗はその多くが略奪に負けて撤退したため、今は略奪者が報復を恐れて襲えないタイプの店舗……早い話が、裏組織の後ろ盾を持つ闇市場ぐらいしかまともに機能していない。
衛兵達の不在を好機と見て、「そういう状況」をあえて作り出そうと、裏組織の面々が他店舗への略奪を扇動したとの噂もある。
さらに貨幣価値の下落もあって物価は高騰しているが……それでも実は、「物資そのもの」が不足しているわけではない。
農作物の収量は平年並みだし、領主が健在の地方都市へ逃げれば衛兵も機能しているため、「ここから逃げればひとまずはなんとかなる」状態ではあるのだ。王都における「物資不足」の正体は、流通の麻痺と商会の撤退につけ込んだ裏社会の仕込みであり、国として物資が本当に足りていないわけではない。
こうした細かい部分までは、幼いカティアは知らない。しかし、「このままここにいるのは良くない」ということぐらいは理解している。
貯蓄が尽きるまでによその街へ引っ越すべきなのだが、王都育ちの母にはよそへ移るような伝手がなく、母娘二人では移動の安全すら確保できない。もちろん家財などは捨てていくことになるし、まともな店舗がない今は、それらを処分し移動費に換えることすら難しい。
移動した先でまともに生活できる保証もなく、今はまだ、慣れた環境であるこの地にとどまっているが――遠からずこの生活が破綻することを、カティアも薄々察していたのだった。
翼の生えた白猫は目を細めてゴロゴロと鳴きつつ、母のジャニスに視線を向けた。
『娘さんもこうおっしゃっています。いきなりのことで不安も懸念もあるでしょうが……今からちょっとだけ、現地に行ってみませんか? その上で実際にイグナス君と話せば、思案もまとまるかと思います』
「今から……えっ!? 今すぐですか!?」
『はい! こんな話を聞いたら、どのみち今夜は気になって寝られないでしょう?』
ド正論である。澄まし顔の白猫に説得され、母のジャニスも肚を決めた。
「……それでは、恐れ多くもご厚意に甘えさせていただきます」
この場に現れた者が、もしも「人間」の姿であれば、カティアも母もおそらくもっと警戒した。
しかし猫である。しかも翼が生えていて神々しく、顔立ちも優しい。
兄のイグナスも顔に似合わぬ猫好きだったし、怪我をした野良猫が回復するまで面倒を見たり、迷子猫の捜索のために友人達を動員して街中を駆け回ったりと、周囲にいる猫との良好な関係を築いてきた。
そんな兄を「猫の精霊」が助けてくれるというのは……なんとなく、説得力のある話に思えてしまうのだ。
適当な外套を羽織り、寝台脇の着替えも持っていく。いつでも逃げられるように、準備だけはしているのだ。
『それでは今から、イグナス君達の宿舎にお送りしますが……今夜と明日一日は、ラズール学園側の様子を見て、判断の材料としてください。明日の夜にでもまたうかがいますので、移住するかこちらへ戻るか、あるいは他の選択をするのか、その時に教えていただければと思います。また移住する際には家具などの配送も承りますので、あとは向こうでご相談を!』
そう告げて、白猫が笑顔で肉球を掲げた直後――
カティアの視界が一瞬だけ暗くなり、ふっと体が軽くなった。
まばたき一回。
たったそれだけの時間で、周囲の景色ががらりと変わる。
きれいに整備された石畳の道と、煉瓦造の長屋。
各部屋の窓からはランプの灯りがこぼれ、開いている窓からは楽しげに会話する若者の声が漏れている。
アロケイルとは建築様式が違うものの、一目で集合住宅だとわかった。
「……まぁ」
精霊の言葉を疑っていたわけではないのだろうが、母は絶句して建物を見つめる。
カティアも似たようなものだったが――彼女の足元には一匹の猫が待機しており、「にゃーん」と鳴いてスカートの裾を引っ張った。
猫には違いないのだが、カーゼル王国風の赤いシノ・ビ装束を着ている。背中には剣のようなものを背負っているのだが、これもカーゼルで使われる「カタナ」という片刃の反った刃物に似ている。もちろん猫が使うようなものではない。
おそらく彼も『猫の精霊の眷属』なのだろう。しかし言葉は喋れないようで、見た目も「神々しい」というより「かわいらしい」雰囲気である。
紅い装束を着た不思議な猫に案内され、辿り着いた扉の先から、母娘にとって懐かしい声が響いた。
「いや、本当だって! 幻聴じゃねえよ! 今、頭ん中に変な声が……お袋と妹をこっちに送ったから出迎えろって、誰かが……」
「別に嘘だとは言っていない! 念話の類かもしれんが、そんな魔法を使えて、しかもお前の家族のことを知っている奴に心当たりがない。いや、昼にお会いしたスイール様やリルフィ様なら、該当するかもしれんが……本当に寝ぼけたわけじゃないんだな?」
「おい、イグナスもトラッドリーも声を落としてくれ……隣近所に聞こえる……」
兄の怒鳴り声と、それに言い返す親友の魔導師、二人を落ち着かせようとする王族の青年……
ほぼ一年ぶりに聞いた彼らの声は、記憶のなかの響きとまったく同じで、カティアはつい、安堵の涙をその目ににじませたのだった。
先日追加しそこねた後半です、お納めくださいm(_ _)m
次の更新は7/24の予定です。酷暑と豪雨が交互に来るよーな日々ですが、皆様どうかご安全にー。




