222・猫と大司教
浄水教の神殿を訪れた我々一行は、ほぼスイール様の顔パスによって、すんなりと応接室の一つへ案内された。
同行者の身元確認とかないんだ……? と、猫はちょっとびっくりしたが、「普通はある」「今回は私が身元保証人だから」とのことで、この国におけるスイール様の影響力、存在感の大きさを改めて実感した次第――見た目は米食う幼女なのに……
なお、俺はウィンドキャットさんに乗り、ステルスで身を隠している。
動物の連れ込みはちょっと何か言われそうだったし、バロウズ氏が議会であんなことを言った直後なので……さすがに配慮した。
まぁ、この後で自己紹介はするんですけど。登場のタイミングはスイール様が指示してくれる。「大司教はいいお年だし、心臓に悪いから急に出てくるな」とのことである。はい。
……まぁね。ルークさん単体だと、どう足掻いても初手に「どうも、猫です!」せざるを得ないので……
オズワルド氏に初手威圧されるのもちょっと困るし、スイール様が来てくれたのは助かる。
勝手に持ち込んだお茶菓子のラングドシャをみんなでサクサクかじりながら、しばしご相談。
ちなみにこちらのお菓子はコピーキャットで増やしたものではあるが、元はなんと「リルフィ様の手作り」である。
いつぞや雑談で、「『猫の舌』というお菓子がありますよ!」というお話をしたらたいへん興味をもっていただけて……ついでに「割と手作りしやすいお菓子です」と言ったら、「では作ってみましょうか」という流れに。
材料はコピーキャットでご用意し、猫も一緒にキャッキャウフフと作業をした。たのしかった。
「このラングドシャはおいしく出来ましたよねぇ。分量の記憶が曖昧だったので少し不安だったのですが、さすがはリルフィ様です!」
「いえ、あの……ルークさんの指示通りに作っただけですので……」
と、リルフィ様は微笑とともに謙遜されたが、香水を作り慣れているリルフィ様は「分量の測り方」や「素材の混ぜ方」のコツをすでに体得されており、さらに水属性の魔法によって「生地を少し冷やす」などの手法も使えるため――実はけっこうなレベルの製菓の才をお持ちである。
手先も器用なので、チョコレート細工とか飴細工なども練習すればできそうなのだが……どっちもこの世界では材料の入手からして難しい。
もちろん俺ならば用意できるが、作ったところで作品を流通させるわけにはいかないので……単なる趣味の領域にとどめざるを得ない。磨けば光る原石なのは間違いないが、痛し痒しである。
廊下側から足音が聞こえてきたタイミングで、俺はウィンドキャットさんのステルス機能により、さっと身を隠した。
「スイール様。バロウズ・グロリアス大司教がおいでになりました」
少し遅れて、案内の神官が扉を開ける。
部屋に入ってきたのは――さっきも議場で見た、上品な雰囲気のおじーちゃん。
ホルト皇国に来てからというもの、カルマレック氏とかアークフォート氏とか爺さんキャラとの御縁が多い気がする……
かといって、みんな猫力がさほど高いわけでもない。カルマレック氏に関しては、『不帰の香箱』という厄介要素ゆえに『奇跡の導き手』さんが水面下で作動した可能性が高いが……アークフォート氏はクロード様の関係者だし、こちらのバロウズ氏は本人の特殊能力による察知だ。まぁ、称号案件ではあるまい。
案内の神官を下がらせてから、バロウズ大司教はスイール様に向けて深々と……「大司教」という立場には不似合いなほどに深々と、ほぼ直角まで頭を下げた。
「スイール様、お久しぶりです」
「はい。お久しぶりです、バロウズ猊下。急な訪問にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
スイール様が丁寧だ……やっぱり大司教クラスともなると、スイール様もちゃんと対応するんやな……と、俺が思った矢先。
ソファに座ったタイミングで、彼女はニヤニヤと嗤いながら、わざとらしいため息を吐いた。
「さて……大司教猊下。神を試すのは、さすがに不敬じゃないかな?」
ガラリと態度を変えたスイール様に、猫は唖然とする。
大司教は瞑目し、深く頷いて――「返す言葉もございません」と静かに応じたのだった。
§
大司教バロウズ・グロリアスと宮廷魔導師スイール・スイーズとの縁は、実はそれなりに古い。
初めて会ったのは、彼女がまだ学生の頃。
夜道で酔漢に絡まれていた浄水教の女神官を、ふとした縁でスイールが助けてくれた。
飲み屋街での小規模な乱闘を経て憲兵沙汰になり、女神官の当時の上司だったバロウズも、連絡を受けてすぐに憲兵の詰め所へ向かった。
スイールと女神官はもちろん正当防衛だったため、簡単な聴取を受けただけで解放され――この時にバロウズも彼女に礼を言った。
第一印象は「まだ幼い子供」だったが、実年齢を聞けば十四とのことで、だいぶ驚かされた。
成長の遅さから「皇族の関係者か」とも疑ったが、「単純に背が低いだけ」と冷め切った顔で言われ、非礼を詫びたものである。
その後も幾度か顔を合わせる機会があり、決して親しくはないものの、会えば挨拶と雑談をかわす程度の関係性を維持してきた。
年齢的にはバロウズのほうがはるかに年上だが――政治的な影響力では、もうスイールのほうが圧倒的に上である。
大司教という立場は、神殿内という狭い社会では上位だが、そもそも官僚でも貴族でもない。
皇国議会には参加可能だが、これも他の神官達との交代制であり、つまり「複数いる神殿側の代表者の一人」でしかない。要するにいくらでも替えが利く。
一方で、「宮廷魔導師」はれっきとした高級官僚であり、しかもスイールは『水精霊の祝福』を得た稀代の魔導師である。世間での知名度も高く、各官庁にも顔が利く。加えて皇からの信任も厚い。
旧知ではあるし、年下でもあるが……バロウズにとっては、いまやはるか格上の相手でもある。世間はどう見ているかわからないが、彼の中ではとうに格付けは済んでいた。
そのスイールが『亜神からの使者』として現れたことには、驚くよりもむしろ納得感と安心感がある。
バロウズは、「この国に亜神の関係者がいない」可能性をもっとも恐れていた。
外交官リスターナ子爵の議会での反応を見て、「彼は接触済み」だと判断したが、それとて推測でしかない。
だから今、スイールがこの場にきてくれたことは――もしもこの後に断罪が待っていたとしても、バロウズにとっては間違いなく「良いこと」だった。
「神を試したつもりはないのですが……国難と推測し、あえてこの首を差し出したのは事実です。それを不敬と思われたのならば償いますし、スイール様がご対応をされているのであれば、何も思い残すことはございません。この身、いかようにも――」
改めて頭を下げ直すと、スイールがますます深い溜息を漏らした。
「……いやいや、重い。重いよ……冗談のつもりでなんとなく不敬とか言っちゃったけど、実際はそんなことないし、バロウズ猊下、なんかすっごい勘違いしてるから……とりあえず、まずはこっちの人達、紹介しておくね?」
スイールの左右には、見慣れぬ軍服姿の黒髪の青年と、ピンク色の髪をした魔導師風の娘がいた。
護衛と弟子――に見えるが、わざわざこの場に連れてきたということは、おそらく違う。
黒髪の青年は会釈もせず、不敵に嗤った。
「魔族、バルジオ家の当主、オズワルド・シ・バルジオだ」
その名乗りを受けた後……バロウズはつい、目元を歪めた。
――違う。この男が、オズワルドのはずはない。
彼が『夢見の千里眼』を通して見たオズワルドは、金髪の美青年だった。髪色も顔つきも違う。
どう反応したものかと一瞬迷ったバロウズを見て、青年はニヤリと笑った。
「……ああ、やっぱり私の顔を知っているのか。こっちの顔は、幻術で作った偽物だよ」
さっと自身の顔に手をかざすと、オズワルドの面相が一瞬で変化した。肉体的な変化ではなく、むしろ光学的な――まるで本の頁を一枚めくってみせたかのような、あっさりとした、それでいて劇的な変化だった。
「普段は転移魔法で移動するんだが、正面から神殿へ出入りするとなると、人目につくのでな。多少は配慮した」
「これは……はい。恐れ入りました」
納得して、もう一人の魔導師にも視線を向ける。
少しおどおどしたところはあるが、穏やかな顔立ちの優しげな娘だった。
「……リルフィ・リーデルハインと申します。ネルク王国からの留学生達の付き添いで……留学期間中だけ、スイール様に弟子入りをさせていただいております……」
声はか細いが、懸命に喋っている。あまり人馴れていない様子ながら、言葉遣いと姿勢からは貴族らしい育ちの良さも感じた。
スイールが見慣れない黄色い茶菓子をサクサクとかじる。
「リルフィは優しい外見だからともかく……オズワルド様を見ても動じない、か。本当にいろいろ覚悟しちゃってるんだね、バロウズ猊下」
「そもそも、オズワルド様がおいでになられるのは想定しておりました。でなければ、議会の席であのようなことは申しません。スイール様がご一緒というのは意外でしたが……」
こんな状況ながら、目の前の平たい黄色の焼き菓子にバロウズは違和感を覚えた。
まるで見覚えのない茶菓子である。
神殿にある品ではないし、おそらくスイール達が持ち込んだものか。もしそうだとすると、魔族の土産か、あるいはネルク王国の菓子か……
視線に気付いたスイールが、菓子を盛った皿を手のひらで示した。
「あ、これは私達の持ち込み。猊下もどうぞ? おいしいよ」
「……はぁ。いただきます……」
勧められたことにはおそらく意味がある。気になっていたのも事実だが、「客が自ら茶菓子を持ち込む」という流れ自体が通常は有り得ない。「スイールが口寂しかっただけ」などという真実に、今の彼が辿り着くことはない。
バロウズは少しだけ指を祈りの形に組み、それを解いた後は、まるで聖なる品を手に取るように茶菓子をつまんだ。
見た目以上に軽い。
口元に運べば、甘やかな香りが鼻腔をくすぐる。
さくりとした軽妙な歯応え。
その後に広がった甘みは、この世のものとは思えぬ鮮烈なものだった。
焼き菓子なのに、焦げた風味や苦みは欠片もなく、ただ卵とバターの豊かな風味が口いっぱいに広がる。
バロウズは刮目し、再び指を祈りの形に組んだ。
今度こそ、敬虔なる祈りを捧げる。
「……この品は……この品は、もしや……神の叡智による……」
「あ、リルフィの手作り。材料は亜神様に提供してもらったみたいだけど、おいしくできてるよね」
なんと。
いやしかし、バロウズは今、確かに神の叡智を感じたのだ。
それが錯誤とも思えず、ついリルフィという娘をまじまじと見つめてしまう。
「リルフィ様は、もしや……大いなる存在の加護を得ておいでですか……?」
おずおず問うと、オズワルドが軽く口笛を吹いた。
「その勘は当たっている。彼女こそが、この場にいる我々の中で、もっとも『亜神』との距離が近い存在だ」
スイールもリルフィの肩を撫でた。
「ついでに私と同じく、水精霊様からの祝福も得てる。これは世間には内緒ね? めんどくさいのが寄ってきそうだから」
かすかに震えながらも、バロウズは頷いた。
水精霊の祝福――その称号を持つ者は、浄水教の信徒達から聖人、聖女も同然に扱われる。教団内の人間であろうとなかろうと、『水精霊の祝福』を得ている時点でそうなる。
それで問題が起きたことは特にない。そもそも上位精霊からの祝福は悪辣な輩には与えられないし、精霊が望まぬ悪事を働いた時点で剥奪されてしまう。
「他の人には内緒だし、魔力鑑定はなし。信じてもらえなくても支障ない。ただ、『何か』あった時にはバロウズ猊下にも協力して欲しいから、情報の共有はしておくね。で、肝心の『亜神』様についてなんだけど……」
本題が来た。
「バロウズ猊下の推測通り、顕現された亜神は『猫』……それで今は、リーデルハイン子爵家のペットになってる」
「ん……?」と、バロウズはしばし固まった。聞き間違いかもしれない。格の違いを考慮すると――
「……子爵家の人間を……ペットに?」
「なにその聖職者にあるまじきヤバい発想……そうじゃなくて、猫の姿で、普通にペットとして飼われてるって話。少なくとも本人はそのつもりだし、ペットの立場にも誇りを持っているみたいなんで、そこは間違えないように。それから、見た目もあくまで普通の猫さん。世界を滅ぼせる程度の能力はあるだろうけど、そんな予定もないし……ちゃんと目的もあるっぽいし」
「目的……目的があって、降臨された亜神様なのですね?」
ゴクリと唾を飲み、確認を求める。『世界征服』ぐらいならば受け入れる覚悟はある。
スイールは軽く肩をすくめた。
「詳しくは本人から話してもらおうかな。ルークさん、そろそろ出てきていいよ」
「は! 失礼いたします!」
『待ってました』と言わんばかりの元気なお返事とともに、リルフィの足元から、一匹の猫がひょこっと顔を出した。
そのキジトラ柄には見覚えがある。
バロウズは思わず平伏しようとしたが、その間にも猫はリルフィに抱え上げられ、胸を枕に前足を挙げた。
「お初にお目にかかります、バロウズ大司教猊下! 私、リーデルハイン子爵家のペットにして、トマティ商会の社長を務めております、亜神のルークと申します! このたびは私の使用した魔法の影響でご心労をおかけしてしまい、なんとお詫びしたら良いか……あ、こちら、お詫びの品となります。ぜひお納めください」
どこからともなく猫が取り出したのは、赤い泥のようなものが詰まった瓶詰め――ラベルはないが、食べ方の解説書きが添付されている。
困惑しながらも反射的に受け取ってしまい、バロウズはそこに、自分の名と部分的に同じ文字列を見た。
「……トマト様の……バロ……メソース……?」
「はい! 春から販売予定の、リーデルハイン領の特産品です! 温めてからパスタに絡めるのがおすすめですが、パンに塗ったり煮込み料理に使ったりもできます。本日は瓶詰めの形でお届けしましたが、実際の輸出品は灰色の袋になる予定でして、今年中にネルク王国で売り出し、数年後にはレッドトマト経由でこちらにも輸出できればと考えております!」
まるで商人のようなことを語り出した猫に、バロウズは呆気にとられる。
口調は慣れたもので、耳への響きも良い。そしてとても愛想が良く、愛嬌もある。
……『夢見の千里眼』で見たあの惨状とは、どうしても印象が結びつかない。
このイメージの差異に戸惑っていると、猫はくりくりとした目でじっとバロウズを見つめ、色艶の良い肉球を向けてきた。
「えー……実はですね。さっきの議会を、私も隠れてこっそり見学していたのですが……」
接触の速さに合点がいった。あの時、リスターナはこの亜神の監視下にあったらしい。
「私には、魔力鑑定みたいに、お会いした人の『特殊能力』や『称号』を見る力があります。なので、バロウズ大司教が『夢見の千里眼』をお持ちだと気づきましたし……おそらく私が使った魔法を夢で見て、いろいろ誤解や懸念をお持ちなのでは、と推測しました」
力を把握されていた――これも想定内である。むしろ亜神相手に隠し事ができるなどとは思っていない。
「実は私の友人にも、バロウズ大司教と同じ力を持っている方がいます。なので、『夢見の千里眼』の欠点というか……魔法を使った『場面』だけは見られても、前後の詳細などは把握しておられないのではないかと思いまして――できれば誤解を解き、私のことも正しく理解して欲しいのです。まず、猊下が見た夢の内容をお聞かせいただけますか?」
バロウズは頷き――ゆっくりと語りはじめる。
「後日になって得た情報も入りますが……最初に見たのは、ネルク王国の王都上空と思しき場所でした。炎を操る美女を、多数の『猫のような何か』が集団で制圧する様を――」
「あー。それはアーデリア様の狂乱を止めた時ですね。そもそも狂乱が起きた原因も誤解だったのですが、それで王都に被害がでては一大事ということで、仲間の力を借りました。もちろんアーデリア様もご無事ですし、巷では『精霊同士の喧嘩』『王都を守ったのは猫の精霊』ということになっています」
やはりこの猫の仕業だった。戦っていた娘の名は初めて確認したが、アーデリアといえば純血の魔族、コルトーナ家の当主である。
外交情報として伝わっていないことから、これはおそらく機密事項であり……もちろん他言はできない。
次いでルークはモフモフの胸を張った。
「しかし、あの時の被害はゼロでした! 露店から落ちてしまったおさかなを失敬した不届き者や、ご近所で水などをいただいたお調子者はいましたが、死者はもちろん負傷者もおりません! ……あ。アーデリア様のドレスは、あの……ちょっと、破れてしまいましたけど――」
そこはどうでもいい。が、この亜神の気遣いが細やかなことは理解できた。
そしてバロウズは次の夢の話に触れる。
「それから……巨大な金色の猫の神像が、正面に向けて光の柱を吐き――」
猫が目を剥いた。
「ストップ! あれは……あれは違うのです! 迷宮のボスがちょっとでかくなりすぎていたので! 大恩ある風精霊さんから『できれば退治してほしい』と言われて! でも使ってみたら出力が想定より大きくて! とにかく違うのです!」
……何も違わないような気がするが、猫は慌てており、オズワルドやリルフィは怪訝そうな顔をしていた。
「ルーク殿? それは私の知らん魔法だな?」
「あの、ルークさん……迷宮のボスをどう倒したかについては、結局、私達も教えていただいてないのですが……?」
「にゃーん」
猫は顔を洗い始めてしまった。この話は避けたほうがいいらしい。バロウズも空気を読む。
「それから、あの――おそらく旧レッドワンドのどこかだと思いますが、岩山が巨大な猫へと変化し、城か街を呑み込む場面を……」
「……あれ? それはこっちの認識と違いますね……ガイアキャットさんのことだと思いますけど、砂神宮と隣接した土地を、農地に改良した時ではないかと思います。元々空き地だったので、こちらでも人や建物への被害は一切ありません!」
これはバロウズの誤解だったらしい。その言が真実か否かを判断する術はないが、同時にルークがわざわざ嘘をつく理由もない。あと先程の光を放つ神像の件でも思ったが、この猫、たぶん嘘をつくのがめちゃくちゃ下手である。
「そして最後に見たのは……オズワルド様がご一緒で、猫を模した巨大な竜巻の群れが、大軍を巻き込みながら進み……そして、茶色い箱に囚われた兵達が次々に地へ沈んでいく恐ろしい惨状を、拝見しました……」
ルークが苦笑いで頬を掻いた。
「一番の誤解はアレですよねぇ、やっぱり……猊下、もし少しお時間がありましたら、ちょっと外出にお付き合いいただけませんか? 一時間もかかりませんし、おそらくすべての誤解を解く上で有意義な時間になるはずです」
無論、否やはない。もとより命を預けるつもりで接触しているのだ。
即座に了承し、椅子から立ち上がると――
猫は満面の笑みで、「例の茶色い棺桶のような箱」をその場に用意していた。
バロウズは、死を覚悟した。
§
……なんか、すっっっっごい誤解をされているのをひしひしと感じたが……
バロウズ大司教がやたら怯えていらしたので、俺は取り急ぎ「宅配魔法」についてご説明した。
この箱は転移魔法のためのものであり、行き先は地中ではなく遠方の土地だ、と!
むしろこの明らかなダンボール箱を見れば、前世の人間などは「宅配便じゃねぇか!」と即座に察するのだが……こちらの世界ではまだそんな物流サービスが成立していないため、棺桶的な何かと勘違いされた可能性がある……ちょっと残酷すぎる誤解なのでしっかり訂正したい。
そして我々が向かった先は『砂神宮』!
街に隣接させて造成した、例の広大な農地である。
大部分は秋蒔きの小麦で、こちらはまだ麦踏みが終わったあたり。収穫は夏頃であろうか。
あとはカブとかラディクスとか、ほうれん草や春菊に似たお野菜とか……あとバロメの実も植えてある。
試験栽培中のもの、わざと時期をずらしていろいろ確認中のものもあり、一隅にはちょっとした試験畑の様相も漂っている。
もちろんトマト様の通年栽培も実験中なのだが、連作には向かないため、土作りの実験を兼ねつついろいろ試している最中なのだ。
ダメになってもコピーキャットで挽回可能なので、まさに農業チートなのだが……冬場はさすがに厳しいようで、収穫量は多くない。
砂神宮周辺の冬は「めちゃくちゃ厳しい!」というわけではないのだが、普通程度には寒いし……一応、気温が氷点下に振れることはまずないのが救いだが、これはあくまで『砂神宮周辺』の気候であって、地域によってはマイナスになる。国家単位での農業改革にはまだしばらく試行錯誤が必要であろう。
この広大な農地のそこかしこでは、今日も結構な数の人達が働いている。
いや、実は労働というより、やっていることは「練習」「学習」なのだが……
農地の端から呆然とその景色を眺めるバロウズ大司教に、俺は改めてご説明した。
「猊下が夢で見た、あの竜巻に巻き込まれた兵達は――事情があって急ぎ帰郷した人を除き、ほぼ全員がこちらで農業学習の最中です。あ、指揮官クラスの貴族に関しては、これまでの不正に関する裁判とかが進行中ですし、急場の事務要員に回した人材もおりますが……こちらの方々は実習が終わり次第、農業のマニュアルと作物の種を持たせて、それぞれの故郷へ帰す予定になっています。来年ぐらいには農学校も設立する予定でして、各地から学ぶ人を寄越してもらうつもりです。そしてその人達に、各地域における農作業の指導者になってもらい、いずれは国全体の生産力を底上げしていく――というのが、レッドトマト商国の当面の方針となっております!」
俺の説明を聞きながら――
バロウズ氏は、わなわなと震えていた。
しかしその震え方は先程までと異なり、恐怖よりも安堵、さらにそれを越えて「歓喜」の色を湛えたものである。
「なんと……なんと、徳の高い……敵対者ですら許し、守り、慈しみ、育てる……まさに……まさにこれこそが、神の視座……」
猫ですけど?
あと基本的にはトマト様の尖兵を育てているだけなので、むしろ鬼畜の所業かもしれぬが、洗脳が完了すればみんなトマト様を讃えトマト様にひれ伏しトマト様を煮込む下僕となるはずなので、たぶんバロウズ猊下が感動するようなエピソードではない。やっぱり勘違いが抜けねえな、この人?
でもこの勘違いは好都合なので、俺はキラキラとした偽りの仮面をしっかりかぶる。猫が猫をかぶるとか一番得意なやつ。
「いえいえ、決してそのような大袈裟な話ではなく……私としては、なるべく多くの人々から飢餓を遠ざけ、トマト様の威光に……もとい、平穏にして争いのない耕地侵略……じゃなくて、トマト様の下僕によるトマト様のための政策実現を目指し……」
「……わざと? ルークさん、それもう完全にわざとだよね? なんでわざわざこのタイミングでボケたの?」
クッ……こしゃくな宮廷魔導師め。ファルケさん(キャットシェルターで待機中)の情報によると、こちらの大司教猊下は商売とか交易方面にも強いらしいので、今のうちからサブリミナルでいろいろ仕込んでおきたいだけだというのに……!
猫がそんな策を弄していると、我々の背後の道で、一台の馬車が止まった。
「……あれ? ルーク様と皆さん? 今日、来る予定でしたっけ?」
振り返ればそこには、シャツとネクタイ、タイトスカート姿の事務系OL風・国家元首、トゥリーダ様……
そして護衛の軍服有翼人、シャムラーグさんも一緒である。
二人揃って馬車から降り、我々のほうへ歩いてくるところであった。
猫は機嫌良く肉球を振る。
「あ、どーもどーも! 予定はなかったのですが、ちょっと農地を見せたい方がいたもので――」
「あ、新顔さんがいますね? また新しい人材、引っ掛けたんです?」
かくいうトゥリーダ様も猫の爪に引っ掛けられた人材であるからして、やや苦笑気味である。
そのトゥリーダ様、来週にはホルト皇国へ出張予定なので……今のうちに高位の大司教様と顔合わせをしておくのも悪くない。
そして悪辣な猫は、ちょっとだけ砂神宮での滞在予定を延長し、臨時のお茶会を提案してみたのであった。
いよいよ222話到達! ということで、いつもより少し長めな感じに……
そして会報六号も、おかげさまで無事発売中のようです。お買い上げいただいた皆様、ありがとうございます!
お礼も兼ねて、時間軸が重なる発売記念の追加SSを次話にご用意しましたのでご査収ください。
連載のほうも引き続き、どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m




