196・水ちゃんの寝起きドッキリ
ホルト皇国の宮廷魔導師、スイール・スイーズは、世話役の侍女達からこっそりこう呼ばれている。
『眠る魔導姫』
……別に姫ではないのだが、見た目が子供っぽいせいで妙に可愛がられている。年下の新人メイドに頭を撫でられた時は「……えぇ……?」と戸惑ったが、職場環境を保ちたい一心で何も言わなかった。後日、「新人のメイドに偽装した皇族のお遊び」だったと知って、自分の英断にガッツポーズをした。
ともあれ、彼女はよく眠る。
研究や仕事、付き合いの関係で夜ふかしすることもちょくちょくあるが、基本は「早寝遅起」、もしくは「遅寝遅起」で、つまり単純に朝に弱い。
起こされれば起きるが、自発的に起きることは少ないし、それを知っている部下達も配慮してくれている。
昨日のスイールは、城へ来訪した魔族オズワルドへの対応のため、早朝(※言うほど早朝ではない)から起こされた。
だから昨夜、スイールはいつもよりだいぶ早くベッドに入り、たっぷり十四時間は寝るつもりでいた。
そんな決意のもとに十時間ほども寝て、明け方――
常人ならば「そろそろもう起きよう」と思うあたりで、彼女は懐かしい前世の夢を見た。
隣接する台所から、母親が包丁を使う音が聞こえる。
漂ってくるのは味噌汁と焼き鮭の香ばしくも優しい匂い。卵焼きを焼く音も聞こえてくる。
いつもそんな凝った朝食が出てくるわけではない。普段は手軽にパンとヨーグルトだけ、みたいな朝食なのだが、予定が入っていない休日の朝だけは、「せめて朝食ぐらいは」と気合いをいれるのが母の方針だった。
月に一度、あるかないかのそんな日が、彼女は割と好きだった。
母は、「たまには作らないと、作り方を忘れちゃうから」とも言っていた。母にとってもそれは、自分の母の……すなわち、前世のスイールの祖母から受け継いだ思い出の味だったのだろう。
布団にくるまったスイール――否、スイールではない少女は、起きるのが嫌で、差し込む朝日から懸命に顔を背ける。
……起きたくない。
起きればこの「朝」が終わってしまう。
味噌汁の匂いも焼き鮭の匂いも、今は遠い思い出の中にしかなく、目覚めてしまえばそこには「スイール・スイーズ」としての日常が待っている。
別に今の自分の生活が嫌いなわけではない。ただ、もう戻れない「前世」に対する望郷の念だけは……やはり、いかんともし難いのだ。
夢の中でも布団をひっかぶり、いくら逃避しようとしても――やがて目は覚めてしまう。
ただ、その日の朝は――
いつもと明らかに、様子が違っていた。
「…………ほへ……?」
……『匂い』が消えない。
焼き鮭と、味噌汁と……炊けた御飯の、ほのかに甘い香りまで続いている。
卵焼きを焼く音は目覚めと同時に消えてしまったが、代わりに、これは……納豆と、焼き海苔の匂いか?
スイールが恐る恐る目を開けると――
目の前で、青い髪の小さな上位存在が、枕に腰掛け微笑んでいた。
「……水精霊、さま……?」
『スイールちゃん、おはよー。びっくりしたぁ?』
やや間延びした声とともに、水精霊がそっとスイールの頬を撫でる。
びっくりはしている。が、悲鳴が上がるタイプのびっくりではなく、「なんだこれ?」と戸惑う方向性のびっくりである。
「なんで水精霊様が官舎に……え? あれ? 官舎じゃないですね、ここ……?」
ベッドはスイールのもので間違いない。天蓋付きの大きな、寝心地の面では最高級の特注品である。
こうした家具は宝石・彫刻などの装飾を凝りだすといくらでも値段をつり上げられるため、「価格面での最高級品」とまでは言えないが、それでも庶民には手が届かない逸品だった。
そんな愛用の大きなベッドごと、彼女は知らない場所に移動していた。
天井にはきれいな木目の梁が交差しており、天窓の向こうに青空が見える。
壁は清潔感のある、白っぽい壁紙――いや、これは珪藻土か? 均一すぎて壁紙に見えたが、どことなく「前世」を思い出す内装である。壁にはキジトラ柄の猫を模した時計がかかっていたが、これも明らかにホルト皇国の品ではない。
『猫さーん。スイールちゃんが起きたよぉ』
「こちらももうすぐ準備が終わります! どうぞー」
響いたその返事は、口調は青年のようで、声質は少年のようで、柔らかさはまるで猫のようだった。
わけがわからないまま、スイールは水精霊に先導されてベッドから降りる。
床はクッション性のある毛足の短い絨毯――猫カフェによくあるタイルカーペットである。汚れたところだけ外して交換できるやつ。
高めの天井を再び見上げれば、梁の部分にキャットウォークや猫用の昼寝スペースが併設されており、部屋の隅にはキャットタワーまで見えた。
(……おしゃれな猫カフェだな、ここ?)
まだ寝ぼけつつも、スイールはそんな見当をつけた。
というか水精霊もいるし、「まだ夢の中」という可能性は大いにある。皇都近郊だと、彼女は浄水宮でしか顕現できないはずだった。
そして、スイールのベッドと居間を遮るパーテーションの向こうには、昔懐かしい丸い卓袱台があり――
その上には、前世の「和食」がずらりと並んでいた。
白い御飯。梅干し。なめこの味噌汁。焼き鮭。秋刀魚。海苔。納豆。あんかけ豆腐に柚子白菜――
浅漬け、柴漬け、ぬか漬けなどを少量ずつ揃えた漬物の盛り合わせもある。
卵焼きだけでも三種類あり、これはおそらく味付けが砂糖、塩、だし巻きに分かれている。
他にも里芋と筍の煮物、茄子の梅肉和え、刺し身、天ぷら、山菜のおひたし、蕎麦の小鉢、そうめんの小鉢、山芋や各種の薬味と――まだまだある。
広い卓袱台の上には、「そもそもこちらの世界に存在しない」という意味で、宝石よりも価値のある品々が、ところ狭しと大量に並べられていた。
(……ああ……まだ、夢の中だ――)
スイールはそう直感して、その哀しさにひとすじの涙をこぼす。
夢としては、こうして見られる。
匂いは記憶の中から拾った思い込みの産物だろう。
しかし……これらの品々を、彼女が「食べる」ことはできない。
口に含んでも味はしなくて、起きれば枕か毛布の端が、ヨダレでべちゃべちゃに濡れているだけなのだ。
もう二度と味わうことのできない品々を眼前に見せつけられ――スイールは思わず、両手で顔を覆った。
「……えっ!? あれっ!? 水精霊様、これ大丈夫なんです!?」
『……んー……? スイールちゃん、まだちょっと寝ぼけてる感じ? はぁい、こっちに座って座ってぇ』
指で塞いだ視界の外から、どこか慌てたような声が響き……水精霊が、座椅子のほうへスイールを手招きした。
そこに座ってしまえばきっと、もっとひどい虚しさに襲われる――そう感じて足を震わせていると、彼女の足元にてちてちと小動物が寄ってきた。
「あのー……? スイール様、もしかしてこの系統の和食ではダメでした? 他のものもご用意できますが……」
白い割烹着を着込み、頭巾をかぶったキジトラ柄のおさんどん猫が……米粒のついたしゃもじを片手に、足元からスイールを見上げていた。
あまりにファンシーである。
夢の虚しさもどこへやら、スイールは呆けてその猫を見下ろした。
猫がちょこんと一礼する。
「あ、ご挨拶が遅れて失礼いたしました! 私、水精霊様のご紹介でスイール様と接触させていただきました、猫の『ルーク』と申します。水精霊様より、スイール様が前世をお持ちで、なおかつ『日本』のご出身だと聞きまして……同郷の身として、ささやかながら懐かしい味をご提供できればと思い、本日の朝ご飯をご用意させていただきました! ぜひご一緒にいかがですか?」
ルークと名乗ったその猫は、猫とは思えぬ優しい笑顔を浮かべ、スイールのパジャマの裾を引っ張った。
導かれるまま、呆然と座椅子に座り……
食卓から放たれる各種メニューの鮮烈な香りと湯気に、これが「夢」ではないと気づく。
「……あ、あの……あの……水精霊、さま……?」
水精霊は猫の頭上で頬杖をつき、にこにこと微笑んでいた。
『スイールちゃん、前に浄水宮で、「和食が食べたい」って愚痴ってたでしょ? で、この猫さんもスイールちゃんと同郷だって聞いたから、相談してみたの。そうしたら、『だいたい再現できそう』って言ってもらえたから……たまに寝言で、ギンシャリ? とか、ウメボシ? とか言ってたよね?』
スイールは瞠目し震えた。
まさか、これ……ほんもの?
いや待て。見た目だけかもしれない。味は違うかもしれない。幻術かもしれない。
……食べてみれば、はっきりする。
状況はわけがわからない。それでもなお、まず真っ先に確かめるべきは、猫の素性やこの場所についてではなく――目の前の「和食」の味だった。
「……い……いただき……ます……?」
新品の箸を手にとり――久しぶりに使う「箸」の感覚に戸惑いながらも、御飯茶碗の白い米をつまむ。
柔らかく炊けた白米は、独特の粘りをもって箸の先に吸いついた。
湯気とともに漂うほのかに甘い香りは、こちらの世界の「米」にはないものである。以前、「南方に米がある」と聞いて取り寄せたことはあるのだが、インディカ米よりもさらにパサついたそれは、日本人のイメージする「ごはん」とは別の穀物だった。
しかし今、スイールの箸に乗っているそれは、おそらく本物の「コシヒカリ」である。
彼女は震えながら、それを口にいれる。
もきゅもきゅと噛みしめるうちに――その頬を、自然と涙がつたった。
「……おこめ……おこめだぁぁ……」
感動のあまり、パジャマの袖で涙を拭う。
優しい甘み、柔らかな歯ごたえ、馥郁たる香り――夢にまで見たほかほかのごはんが、今、スイールの口の中にあった。
舌が歓喜にしびれ、喉が蠕動し、胃袋が唸りだす。
猫がほっとしたように目を細め、急須でお茶の準備をはじめた。たぶん番茶である。
スイールは取り憑かれたように、目の前のおかずへ箸を伸ばした。
山菜とかもう三十五年ぶりくらい……前世でも、死ぬ前の数年間は食べる機会がなかった気がする。
一口ずつ、まるで惜しむように噛み締めながら、合間に米を口へ運ぶ。
泣きながら朝ご飯を頬張るスイールを、水精霊と謎の猫は、和やかな笑顔で見守っていた。
§
スイール様懐柔計画――
その恐るべき内容を聞かされた時、ルークさんは慄然とした。
計画の立案者は水ちゃんである。
昨日、浄水宮を去る前に、『後で猫さんだけ、もう一回来てくれる?』とお願いされてしまい、うかうかと誘いに乗った俺は、水ちゃんからいくつか衝撃の事実を知らされた。
スイール様が転生者であること。
しかも日本出身の元ブラック企業(※本人談)OLであること。
和食に焦がれるあまり、浄水宮で居眠りしている時などに、寝言で異世界の言葉を漏らしていること……
ごはん、みそしる、やきじゃけ、その他いろいろ……
「……私と同類じゃないですか」
『あははー。猫さんもそんな感じなの? じゃあ、神様からいい能力もらったねぇ』
食いしん坊のルークさんに与えられし『コピーキャット』は、魔法というより奇跡の領域に踏み込んでいる……使い慣れた今でも「バグでは?」としみじみ思う。
しかし前世の記憶を持つ転生者にとって、こちらでの食生活はやはり悩みのタネであろう。
決して食べ物がマズいわけではないのだが、海外旅行に行った日本人が「……おにぎりたべたい」と感じるのはもはや本能――クロード様の場合はコーラとかジャンクフードであったが、スイール様はどうやら和の心を知る御方であったらしい。
ネルク王国に醤油とか味噌が根付いているのも、前に来た人達が必死の思いで再現したんだろうなぁ……この点は感謝しかない。
あと、聞けばホルト皇国では醤油と味噌が流通していないそうで――ネルク王国にこれらを普及させたのはおそらく同郷の方なのだが、ホルト皇国にまで広めには行かなかったっぽい。国ごとに好みの差もあるのだろう。
前世でも、醤油や味噌はあんまり西洋圏に普及してなかったしな……そもそも両国の間にレッドワンド将国があったせいで、交易路も大きく迂回せざるを得ず、こうなると商材だけでなく「文化」や「知識」も滞留を起こしてしまう。
ともあれ、「スイール様は和食に飢えている」という水ちゃんからの情報提供を受け、俺はおさんどんに従事する猫さんと化した。
盛り付け時の抜け毛混入を警戒し、ちゃんと割烹着も着た。普段はあんまり気にしないのだが、ガチ和食となると形から入りたくなる……ついでにうどんも打ちたいところだが、これは秘密兵器としてまだとっておくことにして、朝食の小鉢には蕎麦とそうめんをチョイスした。
ていうか、うどん食べて御飯まで食べると炭水化物とりすぎ感あるので……
――しかしぼろぼろと泣きながら朝ご飯を食べるスイールさんのお姿は、なんというか、ちょっと胸にクる。
いつぞやの有翼人、ソレッタちゃんのように、栄養的な意味でおなかを空かせていたわけではないが、精神的な意味で飢えていたのはよくわかる。
水ちゃんに「スイールちゃんは初対面だと体裁を保っちゃうから、仲良くなりたいなら初手から動揺させるべき!」と言われてこの策に乗っかったが、「うおおおお!? ヒャッハー、飯だぁ!」みたいな反応を想定していた俺としては、「……えぐっ……ひぐっ……」という現状がだいぶ気まずい。
喜んでいただけているのは間違いないのだが、ちょっとした軽いプレゼントに号泣が返ってきて困惑するこの感じ……!
水ちゃんはにこにこしながら『おいしい? よかったねぇ』とか話してるし、スイール様は子供みたいに泣きながらそれにえぐえぐ頷いているし……コレが上位精霊の餌付けか……絵面やべぇな……
そんなこんなでゆっくりめの朝ご飯はスイール様が落ち着くまで続き、猫さんからのちゃんとしたご挨拶は、ほんのちょっとだけ後回しになったのであった。
水精霊様はスイール様の急所を知り尽くしているので……
でも猫の力を借りないとその急所は突けないという……
それはそれとして、会報五号のご感想や購入報告、ありがとうございました!
今回はハム先生の挿絵も豪華でしたが、特にルークを抱えたノエル先輩の、猫より猫っぽい笑顔がめちゃくちゃすきだったりします。
六巻の加筆も気合をいれて進行中ですので、今後ともどうぞよしなにーノシ




