2・猫も歩けば精霊さんに出会う
猫の姿で。
猫の姿で!
大事なことなので強調しておいた。
転生直後。
俺は――根来海人は、人里離れた山奥で途方に暮れていた。
何はともあれ。
放り出された。
これといった追加の説明もなく。
子猫ですらない成猫の姿で。
……唐突に! 一匹で! しかも素っ裸!
「……まぁ、猫だしな……」
素っ裸は仕方ないかもしれない。むしろ服を着ていたら、それはそれで反応に困る。
改めて観察した自分の身体は、なんというか――
毛深い。
当たり前だが、全身が毛に覆われている。
ついでに立ち上がってみる。
……四足歩行より二足歩行のほうが楽だ。
おかしい。何かがおかしい。骨格どうなってんのコレ?
視界にうつる木々の緑は清く鮮やかで、青空は抜けるように青く、少し離れた場所には見たことのない真っ赤な花がたくさん咲いていた。
猫の視覚は赤系統の色を把握しにくく、世界がモノトーンのように見えている――なんて話を、テレビの動物番組で見たことがある。
が、少なくとも今のところ、世界は別に色あせていない。
地球の猫と異世界の猫とでは性質が違うのか、はたまたこれも転生特典の一種なのか、あるいは――
「……人間の時の感覚が、そのまま受け継がれてるっぽいな……」
少なくとも思考能力は変わっておらず、脳が小さくなった影響も特に感じられない。
なるほど、チートである。
――“猫”としては。
「……まじか。ここから裸一貫、野生からやり直せ、と……?」
思わず肉球で目元を覆った。
――そう。俺は一応、現代日本出身の文明人である。
別に都会育ちではないが、地方都市の住宅地でごく平均的な……むしろ平均よりちょっと下気味の日本人として育ったため、サバイバル技術なども当然持っていない。
キャンプにすら行ったことがなく、もちろんここには道具も何もない。
懐中電灯、ナイフ、ライター、釣り竿、スマホ――
一切ない。
………………あれ? もしかして、いきなり詰みかけてない?
なんだかんだで転生はした。
しかし猫の姿。
しかも異世界。
山奥で周囲に人影はなく、地理も環境もよくわからない。
熊とか狼とか、下手をすれば魔獣とかもいそうだし、自分の餌の確保すら難しい。
そもそも野生の猫って何を食うんだ?
ネズミ? セミ? カブトムシ? 鳥なんて滅多に狩れないだろうけど、狩れたとしても生?
無理である。
つい数時間前(推定)まで呑気に酔っ払ってふらふらしていた一介のサラリーマンに、いきなり生の昆虫食はレベルが高すぎる。
――よし、優先順位を決めよう。
まずは餌……いや、安全な寝床……ちょっと待て、俺はこんな山奥で暮らす気か?
とにかく人里、せめて街道とかを目指すべきじゃないのか?
――うむ。移動だ。
「山中で迷ったら動くな」
なんて常識は、「いずれ助けが来る」場合にのみ取れる選択肢だ。
ここは異世界で俺は猫、誰も助けになんか来るわけがない。
考えてみれば、そもそもこの世界に人類がいるかどうかすら怪しい。
そうなると人里もないわけだが、とりあえず意思疎通のできる知的生命体さえいてくれれば希望はある。
(しかし、移動……移動かぁ……)
猫の足で、すたすたと少し歩いてみる。
完全に山の中なので道はないが、荷物も一切ないため、そこそこ快適に素早く進める。
が、いかんせん一歩の歩幅が小さい。
ぶっちゃけ遅い。
走れば早そうだが、疲れるし、何よりどこまで進めばいいのかもわからない。ここは慎重にいくべきだろう。
(……そういや超越者さん、“魔法能力”がどうとか言ってたな……空飛べたり、ワープできたりしないかな……)
試してみたいのは山々だが、試し方すらわからない。
とりあえず手(前足)を前に出して、「炎よ、でろー」的な念を送ってはみたが、しかし何も起きなかった。
――うん。知ってた。そんなにうまくいくわけないって、あたい知ってた。
転生特典とやらが実際に付与されているのかどうか、確認の仕方、その使い方……何もかもがわからない。あるいは全部が超越者ジョークだった可能性すらある。
ちょっとだけ精神集中してみたりポーズを決めてみたり、いろいろやってはみた。
無駄だった。
落ち込んで、木の幹に頭をぶつけていると――
『……そこの猫さん。見ない毛並みね? どこからきたの?』
木の上から、からかうような声が聞こえた。
振り仰ぐと妖精さん。
…………妖精さん!?
妖精さんである。
小さな美少女で、トンボみたいな羽が生えてて、微妙に身体が透けている、あの有名な妖精さんである。
「わぁお」
思わず感嘆の声が漏れた。
異世界、ここは異世界! やっぱり南アルプスの山中とかではなかった。何やら感動してしまう。
俺の反応を見て、妖精さんがわずかに顔をしかめた。
『……ん? ……猫? 貴方、本当に猫さん?』
「あ、はい。わけあって今は猫の姿になっていますが、別の世界からお邪魔した元人間です」
綺麗な妖精さん相手に嘘をつく気にはなれず、俺は正直に応じた。
変人扱いされたところで、相手は妖精さんである。つまりご褒美である。
そして今更のように気づいたが、言葉が通じる。
喋っている言葉はなんか日本語ではないようなのだが、そこそこ自然に言葉が出てくる。これはいわゆる転生特典と判断して良いのかもしれない。超越者さん、一応仕事してた。
妖精さんはますます顔をしかめてしまった。
『ええー……いや、ちょっと待って。普通の猫さんじゃないことは理解したわ。立って歩いてるし、喋ってるし……で、別の世界ってどこ?』
「……どこと言われても……日本っていう国なんですが」
妖精さんが笑った。
『あ、知ってる。マルムストの近くでしょ? リズール山脈の向こう側よね?』
……たぶんそれは俺の知っているニホンではない。オーストラリアとオーストリアくらい違いそうな気がする。
『ずいぶん遠くから来たのねー。あっちじゃ人間が猫になるのが流行ってるの?』
「いえ。たぶんそのニホンじゃないです。あと、俺はこっちの世界に来たばかりなんで詳しくないんですが、そういう流行も特にないと思います」
『そっか。で、こんな山の中で何してるの?』
妖精さん的には割とどうでもいいことだったらしく、あっさり流された。
「異世界から飛ばされてきたら、いきなりココにいまして……これからどこへ行ったらいいのかと、途方に暮れていたところです……」
『へぇー。じゃ、気をつけてね。ここ、落星熊の縄張りだから、夜になると危ないよ』
暗くなる前におうちへ帰るのよ、くらいの軽さでヤバそうな情報をぶっこみつつ、妖精さんはそのまま何処かへ飛び去ろうとした。
俺は慌てて上空の彼女に追いすがる。
「待って待って待って! お願いします、この哀れな野良猫めに少しだけでも情報を! 助言を! お慈悲を! お手間はとらせませんので!」
『ええー……まぁ、どうせ暇だからいいけど。で、何を聞きたいの?』
妖精さんの態度からは、かなり気紛れな気配を感じる。大事なことを真っ先に聞いたほうが良いと察して、早々に本題に入った。
「こ、このあたりで一番近い人間の集落って、どっちの方向でしょう? できれば距離も教えていただけると……!」
『あぁ、迷子なの? うーん……ま、いっか。喋る猫さんとか珍しいし、少しだけ助けてあげる』
妖精さんが頭の上に降りてきた。
空気が少し揺れた程度で、重さはまったく感じない。
『最寄りの町は、向こうに見える山を越えた先。斜面はなだらかだけど距離があるから、猫の足なら……そうね、三日か四日くらいかかるかなぁ。不眠不休なら二日でいけるかもだけど、無理でしょ?』
「無理っすね」
昔から体力には自信がない。猫形態のスタミナがどの程度なのかはわからないが、不眠不休での山歩きはさすがに自殺行為と思われる。
『で、このあたりは夜になると強い魔獣も出るから、日が暮れたら木の上に登って、夜明けまではじっとしていること。木の上なら絶対安全ってわけじゃないけど、下にいるよりは見つかりにくいから。それに一番怖い落星熊は木登りが苦手だし、群れで行動する灰頭狼はそもそも木に登れない。どっちも夜行性ね。他にも怖い獣はいるけど、猫さんにとって一番やばそうなのはこいつらかな』
すげぇ役立つ的確な情報!
妖精さんが神様に見えた。
「ありがとうございます! ところで落星熊ってどんな獣なんです?」
一応、アライグマとかレッサーパンダ的なサイズ感という可能性もないわけではない。儚い一縷の望みではあるけれど。
……そして妖精さんは、事も無げに。
『ええとね。身長は人間の二倍から三倍くらいで、自分の体より大きな岩を遠くまで放り投げる習性があるから、“落星熊”なんて物騒な名前がついてるの。木登りが苦手なのは、力が強すぎて木が折れちゃうからなんだけど、強さは人間の騎士団があっさり壊滅しちゃったりするぐらい?』
――儚かった。本当に儚かった。
『でもまぁ、数は多くないから、目立つ真似をしなければ大丈夫よ。遭遇したら諦めて。どうせ逃げられないから』
「…………ウェイ……」
パリピではない。恐怖による吐き気を堪えつつ「はい」と言おうしたらこうなった。
猫なのにチキンとか嘆かわしい限りだが、怖いものは怖い。クマほんと怖い。根来クマ嫌い。大熊猫は断じて猫ではない。
「……ありがとうございました……がんばって生き延びます……」
現実から逃避する余裕すらなく、俺は妖精さんの示した方向にとぼとぼと歩き出す。
その寂しい背中(猫背)に哀愁を察したか、妖精さんが溜息をついた。
『あー、もう……なんか不安だし、ついでに道案内してあげる。猫さん、お名前は?』
「……海人……根来海人です……」
『ネゴロカイト? 変な名前ね。呼びにくい』
「カイトでいいです……妖精さんのお名前は?」
『ん? 妖精さんって何?』
猫耳のすぐ隣を漂いながら、妖精さんが不思議そうに首を傾げた。
「え? お姉さん、妖精さんじゃないんです?」
『違うわよー。私は風の精霊。名前も特にないっていうか、私らはみんな霊的につながった状態だから、個体を識別する名前とかはないの。自我は基本的に一つで、混ざったり分裂したりしながら、全ての記憶と経験を共有して……まぁ、そんな話はどーでもいいか。妖精っていうのは見たことないけど、精霊の仲間?』
「うーん……元いた世界では、伝説上っていうか想像上の存在だったので、俺も見たことはないんですが……こう、美人さんで、羽が生えてて、ちょうどお姉さんくらいの大きさで、実体がなくて……っていう話でした」
『ふむふむ。それは精霊ね。人型で羽が生えているって話なら、他にも有翼人とかいろいろいるけど……だいたいは人間と同じような大きさだし、小さくて精神体なら精霊で確定』
わぁい、有翼人。根来、有翼人大好き!
ファンタジー感あるよねこの単語。男キャラなら陽気で筋肉質な兄貴分か耽美なイケメン、女キャラなら小悪魔でセクシーなお姉様か庇護欲を誘う儚い系美少女といった感。
妖精さん改め精霊さんの存在といい、これはこの世界への希望が出てきた。熊は怖いけど。
『ちなみにこの世界で、精霊が見えて意思疎通ができるのって、強めの魔力がある人だけだからね? 私とお話できる猫さんは割とレアな存在よ。さっき話しかけたのも返事は期待してなくて、暇だったから独り言のつもりだったんだけど』
おっとこれはテンション上がる情報だ。そういえば超越者さんも魔法能力がどうとか言っていた。使い方はわからんままだけど、付与されてはいるらしい。
「魔力かぁ。実は魔法とかにすごい憧れがあるんですが、俺でも使えたりします?」
精霊さんが首を傾げてしまった。
『どうかしら? 魔力の強さと魔法の才能って、必ずしも一致しないのよね。たとえば、格闘術や剣術の強さって筋力だけじゃ決まらないでしょ? それと同じで、“魔力が強ければ魔法が使える”ってものでもなくて、魔力は強いのに魔法はまったく使えない、なんて人もいるのよ。もちろん世間の大半は、そもそも“魔力の有無に関係なく、魔法なんか使えない”って人達なんだけど』
ふむ。この世界で魔法が使えるのはごく少数、と――これは大事な情報と思われる。
「ほう? そもそも魔法って、どういうふうにして使うんですか?」
『それは人間の魔導師に聞いて。精霊の使う魔法と人間の使う魔法ってまったくの別物だから、参考にならないわ』
「……でも俺、そもそも猫なんで……人間の使う魔法は、どのみち使えない可能性も……?」
精霊さんが納得顔で頷いた。
『言われてみればその通りだけど……私も、魔法の使い方とか言われてもよくわかんないのよね。私達にとっての魔法って“人間が手を使って目の前のものを掴む”ような、ごく当たり前のものだから。実体がないから、何かしようとすると全部魔法ってことになるし……いまこうして猫さんと話しているのも、私達にとってはただの会話だけど、人間側の分類では“念話”っていう魔法の一種なの。だから普通の人には聞こえないわ』
まじか! 普通に耳で聞いているつもりだった。こっちの思念が向こうには聞こえていないっぽいのは、つまり俺が“念話”とやらを使えないからなのだろう。
「そうなると……俺が魔法を使ってみたいと思ったら、“猫だから無理”って可能性を覚悟しつつ、やっぱりどこかの魔導師さんに弟子入りするのが近道ですかね?」
『うん。だけど、喋る猫さんを弟子にするって、ちょっと変わった人じゃないと厳しいかもね……“実験動物”として欲しがる人は物凄く多いと思うけど』
ド正論きた……精霊さん、こんな山奥にいる割に、意外と世故長けていらっしゃる?
「じっけんどーぶつ……それはイヤですねぇ……」
『あえて忠告するとしたら、大きい研究施設なんかには近寄らないこと。僻地で薬師とかしながら隠居してる魔導師を見つけて、個人的な信頼関係を築いた上で情に訴えるの。おかしな人間関係や派閥争いのある世界に踏み込むのは、まず基礎を固めてから。でないと、猫さんなんて捕まってそのまま実験動物よ』
「……ご、ご助言、心に刻みつけます……」
ていうかもう、この精霊さんに俺の保護者になってほしい――
『じゃ、急いで移動しましょ。日が高いうちに距離を稼がないと、近くの町まで四日じゃ着かないわ』
「うぃっス。お手数おかけします」
こんな流浪の野良猫一匹に構ってくれる精霊さんには、もはや感謝しかない。
そして俺は、精霊さんからこの世界の情報を仕入れつつ、道なき山中を猫の体でたったか進んでいった。