192・宮廷魔導師の困惑
その日、ホルト皇国の宮廷魔導師、スイール・スイーズは、いつものように朝から惰眠を貪っていた。
朝寝は良い。
睡眠時間をしっかり確保した後、自然な流れで目覚めた上で、それでもなお、お布団の中に埋もれ、好きなだけまったりと過ごせる宝石のようなこの時間……
それは前世の社畜人生においては考えられない贅沢であり、スイールがもっとも大切にしているものでもある。
もし「睡眠時間を削って働け」とか言われたら、今の地位を投げ捨てて、どこかに隠棲する――それだけの「覚悟」をもって、彼女はこの特権を享受している。
寝かせろ。起こすな。ぬくいぬくい。はふー。
「……スイール様、おやすみ中のところ、たいへん申し訳ありません。城より火急の知らせが届きまして、陛下が今すぐに来ていただきたいと――」
……今朝の惰眠は、聞き慣れたメイド(割と美人)の声に邪魔されてしまった。
もちろんスイールは慌てないし怒らない。外面は良いつもりであるし、そう頻繁にあることでもないから、たまには仕方ない。長いものには巻かれておいたほうがいい。
「……いま起きる。準備を手伝ってくれ」
こういうタイミングで狸寝入りをしない程度には、彼女も分別を備えていた。小心ともいう。
すぐに寝室の扉が開き、三人のメイドが着替えを持って入ってくる。
「火急の知らせとは穏やかでないな。使者はなんと?」
「詳しい事情は知らされていないようです。『とにかくすぐに来て欲しい』とのことでした」
家臣達にも言えないことか、と、ひとまず見当をつける。
メイド達の手でテキパキと着替えを手伝われつつ、スイールはなるべく真面目な顔を維持した。
彼女の対外イメージは、「いつも冷静沈着」「目つきが冷たい」「口数も少ない」というラインを守っている。ついでに「でも意外と面倒見が良くて優しい」という、猫を助けるヤンキーみたいなギャップも狙っている。
もちろん、このキャラ設定には相応の理由がある。
いつも冷静沈着なのは、「偉い人とか嫌いなヤツ相手に表情を作るのがめんどくさい」から。
目つきが冷たいのは、「いつもそういう状態なら、『そういうもの』だと思って周囲が納得してくれる」から。
口数が少ないのは、「どうせ大してうまいことも言えないし、弁が立つほうでもないし、喋るのが億劫」だから。
その上で「面倒見が良くて優しい」ふりをしているのは、「敵を作ってばかりだと生きにくいので、周囲にはちゃんと味方を作っておきたい」からである。
……まぁ、元々、そんな悪辣なこととか思いつかない小市民でもあるので、これは演技というより自然体の結果なのだが、動機があくまで「自分が楽に生きたい!」という部分にあることも否定できない。
そんなスイール・スイーズは、今まで割と流されて生きてきた。
――実は水精霊の好きなタイプが「流されやすい子」であるという事実についてはいまだ知らないままなのだが、それはそれとして、スイールはとても流されやすい。
魔導師としての才があったことから、そっち方面の進路に流され。
確かな才能があったものだから、褒められ引っ張られるようにして城に就職し。
引退した先代宮廷魔導師の推挙に乗っかる形で、その後任となった。
まさに順風満帆である。
ちょっと上手くいきすぎている感はあるのだが、逆に『水精霊からの祝福』を得られるほどの人材が、この国で人生ハードモードになるという事態もちょっと考えにくいので……これはまぁ、別に特別なことではない。
もしもそんな人材を冷遇すれば他国へ逃げられるだけだし、実際、他国からホルト皇国へ逃げてきた上で、重用されている人材もそこそこいる。
ホルト皇国の「強み」は、ラズール学園による「人材の育成」と、国際的な好評価による「人材の流入」にあると分析する識者も多い。
着替えを終え、ちょっと堅苦しい長衣をまとったスイールは、「四階の窓」から適当に飛び降りながら思案する。
(あー、そういえばそろそろ年末か……またラズール学園にも、他国から王侯貴族とか来るんだろーなぁ……私が有名なせいで、『ちょっと顔出して講演しろ』とか『ちょっと会ってなんかうまいこと言え』的な要請が来るんだろーなぁ……めんどくせぇなちくしょう)
念のため、スイールは二十代後半の女子である。前世も女子だったし、ちょっとやさぐれた男子高校生とかではない。そんな因子は持っていない。
さほど得意でもない風魔法を駆使してふわりと滑空した後、城門の近くに着地したスイールは、そのまま何事もなかったかのように、するすると城内へ入っていく。
さすがに無断で塀を越えると怒られるため、急ぎの呼び出しであっても、なるべく門は正規の手続きを経て通るようにしている。
「ご苦労。陛下より急ぎの招集を受けた」
「うかがっております、スイール様! どうぞお通りください」
顔馴染みの門番に声をかけて通り過ぎ、そこから先はまた少し急ぐ。
スイールの足取りそのものはゆったりしている。しかし、その足裏が地面を滑るように前へ進むため、たった一歩が数メートルにも伸びる。ゆえに速い。
これは「風踏み」という、風魔法と体術を融合させた技術である。
制御の難度が高めで使い手は少ないらしいが、スイールは子供の頃から遊びで……それこそアイススケートかローラースケートのような感覚で実践していたため、もはや普通に歩くよりもこっちのほうが動きやすい。
城内の階段をのぼるのが面倒だったので、三階の高さまで飛び上がり、バルコニーから城内へ入る。これはスイールにしか許されていない出入り口である。
……というより、普通の人間は三階の高さまで飛び上がれないらしい。便利なんだからみんな練習すればいいのにと思うが、「この技術が普及したら防犯対策が面倒になる」と知人から言われて、「まぁそれもそうか」と納得はした。
バルコニーの向こう側は控えの間である。中年の侍従が待機しており、文字通り飛んできたスイールを見て深く一礼した。
「恐れ入ります、スイール様。実はさきほど、急な来客がありまして……」
「来客? 私にか?」
「いえ。皇族の方に――しかし少々、想定外のお方でして、この後、陛下もご挨拶をいたします。その場にスイール様も同席して欲しいとのことです」
「……いったい誰だ? ご多忙な陛下が、予定外の客にわざわざ会うとは思えないのだが」
侍従の男はスイールに近づき、声をひそめた。
「……純血の魔族、オズワルド・シ・バルジオ様です――ついさきほど、転移魔法にて、いきなり城内に――」
スイールはたちまち総毛立った。
純血の魔族。
それはつまり『亜神の核』を引き継いだ直系の魔族であり、人類が太刀打ちできる存在ではない。
まず物理攻撃は効かない。その肉体はむしろ「質量を伴った精神体」に近いとされ、仮に穴があいたところで、霧がその隙間を埋めるようにすぐ塞がってしまうと聞く。
たとえ腕がちぎれても、ちぎれた腕は跡形もなく霧散し、新しい腕がそのまま顕現するらしい。転移魔法で神出鬼没な点もあいまって、印象としてはもはや幽霊に近い。
魔法ならば多少は効果もあるらしいが、その強大な魔力によって形成される魔力障壁を、人間の魔導師がどうこうするのは難しい。百人以上の魔導師部隊が一斉に火力を集中させても、傷一つつけられなかったという伝承もある。鋼鉄の盾に小さな麦粒をいくら投げつけたところで意味はないのだ。
同じ魔族といっても、『純血の魔族』の弟妹やその親族であれば人類の攻撃も通じるし、殺すことも可能ではある。
ただし――その後に訪れる純血の魔族からの「報復」を、跳ね返す手段はない。
純血の魔族の来訪とは、一歩間違えれば国の滅亡につながりかねない一大事であり、皇が挨拶に出るのも当然だった。
スイールも内心で冷や汗をかきつつ、表情の上では、どうにか眉をひそめる程度にとどめる。
とりあえず、ボディガードの役割は果たせない。魔族を怒らせればその時点で城ごと消し飛ばされるだろうし、対抗する術はない。
一方で、さすがにこれは杞憂だろうとも察している。
知る者は極めて少ないが、ホルト皇国の皇族には『魔族』の一人が嫁入りをしている。もちろん純血の魔族ではなく、その妹にあたる人物だが、彼女に何か用があったのかもしれない。
ただ……その人物は『バルジオ家』の者ではなく、オズワルドが来る理由がない。
考えられるのは、「オズワルドからホルト皇国に対して何か用事があり、その窓口として魔族の知人が選ばれた」か、あるいは「魔族の領地側で何か変事があり、それを知らせに来た」か……
もっとも、後者であれば血縁者が来るはずなので、やはり前者と思われる。
「……警戒が必要だな。オズワルド様は今、どちらに?」
「皇族の方々の居住区画です。ヴァネッサ様と話しておられますので、この後、陛下がお会いになります」
「ならば私も、陛下の元で待たせてもらう」
魔族同士の会話に途中で割り込むような図太い神経は持ち合わせていない。
それどころか、もう全部無視して布団をかぶっていたいのは山々だが、皇を見捨てて職務放棄すれば名声に差し障るし、今の地位を失う。宮仕えの悲哀である。
侍従の後について城内を歩きながら、スイールは細めに嘆息した。
(オズワルド……オズワルド・シ・バルジオかぁ……)
もちろん会ったことはない。『流星の魔弾』なる異名を持ち、狙撃……というには少々威力の高すぎる、遠距離から放たれる魔弾によって建造物ごと吹き飛ばすやべーやつらしい。
機密情報ではあるが、正弦教団とかいう裏組織のケツ持ちもやっている。
直近の危険行動としては今夏、隣国レッドワンド将国の内乱に介入し、砂神宮を制圧して国王軍でも反乱軍でもない第三極の立ち上げを支援したようだが……詳細はまだホルト皇国側でも調査中で、伝聞情報の虚実を仕分けきれていない。
ただの一瞬で山がなくなり農地になっただとか、その農地で喋る猫が農業指導をしていただとか、飢餓で苦しむレッドワンドの各地に出所不明の支援物資が大量にばら撒かれただとか……
いかに純血の魔族絡みでも「これはない」と断言できる程度には荒唐無稽な誤情報が紛れ込んでおり、諜報部も困惑している。
スイールの元にも第一次、第二次報告書は届いているが――ここに先日、水精霊から聞いた「亜神の顕現」という情報を加えると、猛烈に嫌な予感しかしない。
有り得ない類の情報を、仮に「虚報」ではなく「亜神の所業」だと想定した場合。
(……亜神が顕現した場所は、旧レッドワンドの可能性がある……オズワルドが第三極、およびレッドトマト商国の立ち上げに協力した経緯は、『知人が無実の罪で投獄されたせい』らしいけれど、もしもそのあたりにも、新しい亜神がなんらかの形で関わっていたとしたら……)
……オズワルドと亜神はもう、つながっているかもしれない。
純血の魔族と亜神が共同戦線を張ったとしたら、それを止められる者などこの世に存在しない。
そして水精霊は、「世界征服」「侵略」という単語も口にした。
もしもレッドトマト商国とやらが今後、亜神の尖兵として世界征服に乗り出せば――隣接するホルト皇国は、その第一の犠牲者になるだろう。
総合的なリスクを考慮すると、オズワルドとの面会は決して油断できない。亜神や魔族が絡む案件では一手のミスが致命打になりかねないし、先方の目的次第では、現時点でもう詰んでいる可能性すらある。
ホルト皇国の皇、レイノルドはもう応接室にいた。
「スイール、よく来てくれた。多忙ではなかったか?」
「陛下からのお呼び出しとあらば最優先です。滅多にあることではありません」
笑顔こそ見せないものの、そつなく応じる。
皇のレイノルドは外見こそ四十代そこそこだが、その実年齢は八十歳にも及ぶ。
ホルト皇国の皇族は概ね長命で二百歳前後まで生きるが、そもそも老化の速度が一般人の半分程度であり――百歳に至ってもなお、見た目は五十歳前後を維持する例が多い。
皇族ごとの個人差もあり、単純に「寿命が二倍~三倍以上」とも言い難いのだが、長命の傾向にあるのは間違いない。
レイノルド皇が侍従を下がらせ、スイールと彼は二人きりになった。隣の部屋から護衛達にも会話を聞かれているため、もちろん迂闊な発言はできない。
「やれやれ……私の治世は穏やかだったはずなのに、ここに来てオズワルド様の来訪とはな。国難につながらぬことを祈るばかりだ」
「何か要求があるとお考えですか?」
「純血の魔族ともあろう御方が、何の用もなくわざわざ出向かれるはずもない」
ホルト皇国の皇族にとっても、『純血の魔族』は完全に目上の存在である。
戦力的な意味で人類が到底及ばぬ高みにいる上、そもそも年齢・寿命でも及ばない。ホルト皇国の皇族は、「一般人よりも長命である」ことを、自らの尊さを証明する精神的基盤としている節があり――必然的に、『より長命な者』に対してはへりくだる傾向がある。
なお、魔族相手に尊大な態度をとるような国は普通に滅ぼされるので、そもそも存在すらできない。これは歴史が証明している。
スイールとしても、少なくとも自分が生きている間は、ホルト皇国に滅亡国家の仲間入りをしてほしくない。
ぼんやりだらだら気楽に天寿をまっとうして死んだ後なら、まぁ別にどうでもいいのだが……あと百年くらいは平穏無事で過ごさせて欲しい。
水精霊から託宣を得た『亜神の顕現』。
オズワルドという『魔族の来訪』。
すぐ隣で起きたレッドワンド将国の滅亡と、レッドトマト商国の建国。
スイールの脳裏では今、これらの点が線を結びつつある。勘違いという可能性も考慮はしつつ、絶対に油断はしない。
さほど間をおかずに、廊下から複数の足音が聞こえた。
「オズワルド様御本人がわざわざいらっしゃるなんて、本当に何事かと思いました。よもやサリール家のほうで何か変事があったのかと……」
「ははは! いや、失礼した。バルクホーク殿は息災だ。先日もどこぞの貴族の領地でひと暴れしたと聞いている。あれは……どこだったかな? 西のほうだったとは思うが」
「アロケイル粛清の余波でしょう? 魔族の脅威と理不尽さを、定期的に知らしめるための制裁――巻き込まれた側は気の毒ですが……」
「聞いた話では、そう気の毒でもなかったな。どうもかなりやらかしていた領主らしく、領民からは逆に感謝されたと……バルクホーク殿は侵攻前の調査を軽視する傾向にあるが、それでも不意打ちなどはしないし、襲撃の前に相手と対話もする。そして、初対面でも気に入った相手には甘いから……その慈悲がおりなかったということは、まぁ、そういうことだろう」
廊下を歩きながらの雑談で、あんまり恐ろしい話をしないで欲しい。足が震える。
扉が開き、いかにも自然体で『オズワルド』と、彼が話していた皇族、『ヴァネッサ』が入室してきた。
スイールはかろうじて無表情を貫いた。
皇族のヴァネッサとはちょくちょく会う。見た目は三十歳前後で銀髪の怜悧な美女なのだが、魔族の血縁者なので、実年齢は六十歳を越えている。
この場にはいないが、彼女の夫はレイノルド皇の弟……つまり皇弟であり、こちらも同じく、見た目が三十歳前後で実年齢は五十歳を越えていた。
この二人に関しては、「ヴァネッサが正体を隠して皇立ラズール学園へ留学していた頃に知り合い、卒業後に結婚した」という馴れ初めを聞いている。
政治的な権力闘争などとは距離をおいているヴァネッサだが、『魔族の血縁者』としての存在感は大きく――こと魔族絡みの案件では、官僚も皇族も、まず彼女に相談するのが慣例となっていた。
そして一緒に入室してきたのが、本日の急な来客。
純血の魔族、『オズワルド・シ・バルジオ』である。
……その容姿は、金髪、黒い軍服、美青年。
スイールは戸惑う。
アレは乙女ゲーの攻略キャラか? ガチャだと初期のSSRとして出てくるやつ?
純血の魔族は寿命に縛られないとは聞いていたが、二百歳越えの爺さんだけに、もっと威厳とかあって超越系な、雰囲気のアレな輩が来るかと警戒していた。
もっとも、見た目は割とチャラい感じの兄ちゃんながら、うっすらと感じられる「魔力の気配」はやはり格が違う。一目で「あ、こいつヤバい。関わりたくない。おまわりさんこっちです」と察してしまった。もちろんおまわりさんでも対応できない。
一介の宮廷魔導師ごときがしゃしゃりでる場面でもないため、まずは控える。
レイノルド皇が膝をつき、臣下の礼で出迎えた。スイールも同じように膝をつき、深々と頭を垂れる。
「お初にお目にかかります、オズワルド様。ホルト皇国の皇、レイノルド・ホルト・カミーヤと申します」
「……宮廷魔導師のスイール・スイーズと申します。お目にかかれて光栄です」
「ほう。貴殿が賢王と名高いレイノルド皇、そして当代最強の魔導師と名高いスイール嬢か。こちらこそ、急に押しかけて失礼をした。貴殿らの礼節は受け取ったから、まずは頭をあげてくれ。外交の席というわけでもなし、自然体で構わんよ」
応じるオズワルドの声はやけに気さくだった。上機嫌である。想定していた事態の中では、かなり「良い」ほうに振れたらしい。
とりあえずは安堵して、レイノルド皇と並んでスイールもソファに座る。上座は当然、オズワルドである。
純血の魔族は明確に「皇」よりも上位であり、もはや信仰の対象にも近い。ホルト皇国では水精霊を信仰しているため、純粋な意味での「信仰」とは違うのだが、たとえばそれは「歴史上の人物を神格化する」ような感覚だろうか。
前世の感覚でいえば、「徳川家康の上座に座れる」ほど厚顔無恥な権力者はそう多くあるまいし、魔族相手にそれをやらかせば命の危機に直結する。
オズワルドと先に対話していたヴァネッサが、ため息まじりの苦笑いを漏らした。
「皇、ご安心くださいな。オズワルド様がいらっしゃったのは、レッドトマト商国と、ぜひ外交関係を結んで欲しいというご依頼と――それから、ネルク王国からの留学生を転移魔法で連れてきたので、その受け入れに関するご依頼でしたよ」
……びっくりするほど平和的な案件だった。
え? 魔族ってそういうのもやるの? ……と、スイールは動揺したが、皇より目立ちたくないのであくまで無表情を貫く。
レイノルド皇もやや安堵をみせた。
「ほう、それは素晴らしい。レッドトマト商国に関しては、先日、諜報部からの報告書を目にしたばかりです。オズワルド様が建国にご協力なさったとか?」
「あれは成り行きでな。私の友人を無実の罪で貶めた連中を、ちょっと脅した上で粛清するだけのつもりだったんだが……おもしろい人材に会えたから、予定を少し変えて、彼女の成長を見てみたくなった。国家元首のトゥリーダという娘だ。元はただの子爵だが、あれはなかなか見所がある。いわゆる天才や麒麟児の類ではないが、周囲が勝手に助けたくなる雰囲気があってな。価値観もホルト皇国と近いから、レッドトマト商国は、これからの貴国にとって良き隣人になれるだろう。こちらが委託された挨拶状だ。急ぐ話ではないから、私が帰った後にでもじっくり検討してくれ」
オズワルドが懐から厚めの封筒を差し出した。
……見方によっては、これは「レッドトマトが魔族を使い走りにした」ようなものであり、新しい国の潜在的な恐ろしさを実感してしまう。
それでも、戦争や敵対の気配がないのはひとまず喜ばしい。
皇が文書をうやうやしく受け取る。
つまるところ、これは「お前の権限で、国内の有力者達にこの方針を認めさせろ」という魔族からの指示でもある。口ぶりからして交渉の余地はありそうだが、中身が多少の無理難題であっても認めざるを得ない。
緊張するスイールに、ヴァネッサがくすくすと微笑みかけた。
「スイールちゃん、飴ちゃん舐めるかい?」
「いただきます」
ヴァネッサは見た目が三十歳前後ながら、すでに孫もいるし、精神の熟成具合はおばあちゃんである。
どういうわけか、若い子に飴をあげたがる癖があり、素直にもらっておくと機嫌が良い。これに気づかず遠慮とかしていると仲良くなれない。スイールは遠慮がないので可愛がられている。
カラコロと喉に優しい飴を舐めはじめるスイールに、レイノルド皇が「マジかコイツ」と言いたげな視線をちらりと向けた。『純血の魔族』の前でこうした形で飲食をする無礼が気になったのだろうが、スイールとて何も考えずに飴をもらったわけではない。
「ね、オズワルド様。うちの宮廷魔導師ちゃん、かわいいでしょう? 私のお気に入りなんです。娘達はもう結婚しちゃって構ってくれないし、孫達もお母さんのほうにべったりだしで、最近はもうこの子が癒しなの」
「ヴァネッサ嬢がそんなことを言うようになるとは、さすがに歳月を感じる。どれ、私も一つもらおうか」
「あらあら。はい、どうぞ」
オズワルドもどこか楽しげだった。
飴を介した今のやり取りは、ヴァネッサからスイールに対する「この子は私のお気に入り」という意思表明であり、それをオズワルドに印象づけるための行動だった。
オズワルドも、レイノルド皇のことはある程度の重要人物だと理解しているだろうが、スイールのことはほぼ眼中になかったはずで……この援護は、正直に言ってありがたい。
甘さの控えめな麦芽糖の飴はヴァネッサの手作りで、麦の香りが濃い。喉に良い薬草の成分が混ざっているため、ちょっと変な風味もあるのだが、慣れると癖になる。
オズワルドが飴を舐めつつ話題を変えた。
「それから、留学生については……詳細は外交官のリスターナ子爵から聞いてくれ。私とリーデルハイン子爵家の関係についても話してある」
(……リーデルハイン子爵家?)
スイールにとっては初めて聞く家名だった。ネルク王国の有力貴族についてはある程度、名を知っているつもりだったが、子爵家となると数も多いし、さすがに把握していない。
だが、子女をホルト皇国へ留学させられるほど裕福な家なら、ある程度は名も知られているはずで――少々、不自然とは思う。
「昨日の時点で外務省に報告書を提出したはずだから、数日中にはこちらにも回ってくるだろう。その前に、ヴァネッサ嬢と皇には、私からも挨拶をしておくべきだと思ってな。そのリーデルハイン家からは、『トマト様』という新種の野菜の苗を譲ってもらったのだ。今回はそれに対する返礼として、留学生達を転移魔法でこちらまで送り届けた。個人的な友好関係も結んだから、今後も折に触れて様子を見に来るつもりだし、卒業後にはまた領地まで送る。『そういう』関係性だから……まぁ、後は言うまでもなかろうな」
ニヤリと笑うオズワルドの前で……レイノルド皇が深々と頭を下げた。スイールも背に冷や汗を感じてしまう。
「……う、承りました。その方々の、快適な滞在をお約束いたします」
「ああ、よろしく頼む。まぁ、ネルク王国とホルト皇国は昔から友好関係にあるし、留学生の彼らも非常に利発で礼儀正しい子達だから、あまり心配はしていないんだ。ただ、どこの国も決して善人ばかりではないから、何かやらかす輩は必ずいるだろう。限度を越えない限りは、私もいちいち介入したくはないんだが……『もしも』何かあったら、私の暗躍ということで納得しておいてくれ」
いたって上機嫌のままスマートな「脅迫」をするオズワルドに、皇とスイールは再び揃って頭を垂れた。
滅亡の危機は当面、避けられたようだが、火種は残された。今後、留学生達は文字通りの「国賓」として扱う必要がある。
その一方で、大過なくこれからの留学期間を乗り切れば――『純血の魔族・オズワルド』からの、返礼としての助力を期待できる。
何も彼を働かせようというわけではない。今後、何かあった時に「敵対しない」という判断をもらえるだけでも充分な影響力がある。
魔族の怒りは天災に等しい。
しかし天災と違い、人間側の行動次第である程度までは避けられる――ホルト皇国の皇族は、身内たるヴァネッサからの影響もあり、その事実をよく理解していた。
そして、皇族ではないものの――
この地で学び育ったスイール・スイーズもまた、同じ認識を共有しているのだった。
喜々として猫にパシらされている魔族がいるらしい……
あとスイールさんの留学生接触フラグが立ちました。
ところで唐突なのですが、会報5号――もとい書籍版「我輩は猫魔導師である」五巻の発売日が、来月4月15日に確定しました!
今回は余録以外の加筆もけっこう多く、ノエル先輩との接触がWEB版より早まった影響もあり、ちょこちょこ内容が変わっています。
加えて「ユナとサーシャのスパーリング」を見た猫が「???」と宇宙猫になる一幕も。
発売日までまだ3週間ちょっとありますが、店頭でお見かけの際にはぜひよろしくお願いします。m(_ _)m




