175・王弟の家庭教師
ペズン・フレイマー伯爵は、かつてネルク王国の税務官僚として辣腕を振るっていた。
彼の持つ伯爵位は、あくまで官僚用の一代限りのものであり、子供や孫には継がせられない。俸給は得ているが、もちろん領地も持ってない。
王都での住まいも官僚用の官舎であり……引退した今はもう引き払い、生活の場をクラッツ侯爵領の街、『オルケスト』の離宮へと移している。
離宮といっても、さほど豪奢な建物ではない。
田舎の大きな子爵家、もしくは小さな伯爵家くらいの規模の、手頃な屋敷である。ただ、周囲には閑静な林、正面には美しい湖があり、風光明媚にして実に落ち着いた環境だった。
この屋敷で、彼は教え子たる王弟ロレンスに様々な講義をしつつ、悠々自適の老後を過ごしている。
妻には先立たれ、子供達はもう自立した。今の彼にとって、ロレンスへの教導は最後の奉公であり――彼はもう、この地で寿命を終えるつもりでいる。
ロレンスはいずれ、国王リオレットの治世を支える官僚として王都へ呼び戻されるだろうが、その頃にはもう、ペズンは何の役にも立たない老人となっているはずだった。
自分の人生の終わりを予感し、一抹の寂しさはある。だが、最後に極めて利発な教え子を得て、その教導に残りの人生を捧げられることは、今の彼にとって喜びでもあった。
……ただし、ちょっとした懸念もある。
「……ペズン伯爵。本当に王都に戻らずとも良いのですか……? 政治的な敗者である私達に、気を使う必要はないのですよ……?」
同じ離宮で暮らす寡妃ラライナは、昔から温厚で物静かな、思慮深い貴婦人だったが――この地での謹慎が始まってから、以前にも増して塞ぎがちになってしまった。
この離宮での生活は、当初、危惧していたような「幽閉」ではなかった。護衛さえつければオルケストの街へも自由に出かけられるし、食事も王宮のものほど華美ではないにせよ、貴人に振る舞うものとして恥ずかしくない品質が維持されている。
クラッツ侯爵家の親族なども気遣って普通に顔を見せるし、先日などは「ハズキ・シベール」という新進の演奏家がわざわざ聖教会から来て、邸内での演奏会まで催した。
音楽に造詣のないペズンでも「これは上手い」とわかるほどの腕前で、なおかつ魔道具のバイオリンも実に立派な品だった。
これは音の響きが良いばかりでなく、精神に安定をもたらすような効果まであったらしく、ラライナも久々に手放しで喜んでいた。
以降、聖教会の音楽会などには出かけるようになったが……これも彼女にとっては、少々の気休めにしかならないのだろう。
ペズンを前にして昼食後の茶を飲むラライナは、どこまでも寂しげな眼をしていた。
彼は臣下の分をわきまえつつ、彼女に告げる。
「私などは、もう老いて隠居するだけの身でしたので……こうしてロレンス様の家庭教師としてお役に立てている現状は、むしろ望外の喜びでございます。また、ロレンス様と陛下の親交は決して表面的なものではなく、ロレンス様の国政復帰もそう遠くない話でしょう」
同席しているロレンスは、ペズンよりもさらに現実的だった。
「母上、そろそろお認めください。母上は聡い方だとは思いますが、リオレット陛下に、亡き陛下と第二妃を投影しすぎです。兄上はあのお二人とはむしろ真逆の、生真面目な性格の方です。母上としては、兄上に恨まれる『心当たり』があるせいで、過敏になっているようですが……兄上のほうは、とっくに過去を水に流し、この国の未来だけを見つめておられます。我々に対する高待遇もその証ですし、移動や手紙の制限すらされていないのですよ? ここまで丁重な配慮をしていただいた上で、まだ不満があるのですか?」
ラライナが口ごもる。
「不満などは……ただ、ペズン伯爵は税務閥の重鎮だった方です。王都に残っていれば、それなりの……」
「ははは。私はむしろ、王都よりこちらのほうが水が合うようです。派閥争いにも飽いておりましたし、この任は良い機会でした。陛下からのご依頼では、家庭教師役は数ヶ月の予定だったのですが、このまま継続するご許可もいただいております」
またライゼー子爵からも、ロレンスの教導をしかと頼まれている。
ペズンは口を挟んでこの話題を流したが、ラライナとロレンスの関係性はあまりよろしくない。
かつてのラライナは、ロレンスを手駒のように思い、侮っていた――ロレンスはそう思っているらしい。これは少々うがちすぎだと思うが、しかし「幼い子供に政治のことなどわかるはずがない」と思い込んでいたのは事実だろう。
しかし、先の王位継承争いで露見したことだが――ロレンスの弁舌はラライナを上回り、その見識の気高さでも圧倒してしまった。
彼は内乱を防ぐために、正妃達を出し抜いてまで自ら身を引くと表明し、兄のリオレットと早々に歩調をあわせた。
以来、ラライナが妙におとなしい。ロレンス相手に萎縮しているようにも見える。
当時はペズンも戸惑ったものだが、その後の流れを見て、「ロレンスの決断は正しかった」と実感した。
新王リオレットの政務能力は、ペズンの予想を超えていたのだ。
彼は財政の立て直しに向けた経済政策の検討を指示し、疲弊していた地方貴族の負担軽減措置を進め、各派閥間の連携強化を急いだ。
さらには「トマト様」という新種の作物にも目をつけ、これを普及させるという名目で、矢継ぎ早に産業の振興策を制定しつつある。多分に実験的な試みも含まれているようだが、官僚達からの評判は悪くない。
かつては「研究者肌の世間知らず」という認識だったが、王位についた後のリオレットは迅速にして果断であり、有能だった。
さすがは賢者ルーシャンの愛弟子、というのが世間の評価だが、どうやら腹心にも優秀な人材を得ているらしい。特に王妃候補の弟である「ウィルヘルム」という少年が、積極的にサポートをしているとも聞く。
いずれはロレンスも、兄の治世を支えていく優秀な官吏になる。そのためにも、今は学業をおろそかにはできない。
ラライナの前を辞去し、ペズンはロレンスへの午後の授業を始める。
ロレンスは飲み込みが早く、学問に対する感覚が鋭い。質問も的確で、時にペズンが解答に困ることもある。
いずれは自分以外の教師役も必要になるはずだが――王都にいればまだしも、この地では少々、教師の確保が難しいかもしれない。
十歳の子供に教えるには少々難度が高すぎる算術の公式を説明していたペズンは、ふと、対面のロレンスがよそ見をしたことに気づいた。
真面目な生徒である彼にしては、とても珍しい。
「ロレンス様? わからない箇所がありましたか?」
「い、いえ! 説明はたいへんわかりやすかったです。そうではなくて、あの……実は、ちょっと……まったく別の、ご相談が……」
ロレンスは、何故だか急に動揺を見せていた。
「今からここに、一匹の猫……様がいらっしゃいます。私の大切な恩人なのですが、ペズン伯爵を紹介して欲しいとのことで、あの……少し、講義を中断して、お時間をいただいても?」
……ちょっと何を言っているのかよくわからなかったが、これは謎かけか?
ペズンが戸惑っていると、テーブルの下からロレンスの脚を伝い、一匹のキジトラ猫がのそのそと天板の上へのぼってきた。
どこかから紛れ込んだ……? いや、これはおそらく……
ペズンは思わず笑ってしまった。
「ロレンス様、もしや近所で猫を拾われたのですか? で、この部屋に隠して、こっそり飼っておられたと」
ロレンスにもそんな子供らしい一面があったことにほっとする。
どこかに隠していた猫が、意図せず勝手に出てきてしまったのだろう――この時は、ペズンもそう考えていたのだ。
猫はテーブルに香箱座りをすると、にっこりとほほえみ、ペズンに向けて片方の前足をあげてみせた。肉球。
「どーもどーも、講義中に突然、失礼いたします! 私、ロレンス様のお友達で、猫のルークと申します。ちょっと前から、ペズン伯爵にご挨拶させていただく機会をうかがってはいたのですが、なかなかタイミングがつかめず……」
「……………………こ、これは、どうも……ご丁寧に……?」
相手に流されるまま、ペズンも反射的に返事をしてしまう。これは官僚としての反射行動のようなものであり、脳内では思考が完全に停止していた。
ロレンスが困ったように脱力し、この猫を後ろから抱え込む。猫は「にゃーん」と鳴きながら身を任せた。よくなついている。
「ルーク様……いきなりすぎます。もう少し、説明の時間をいただきたかったのですが」
「すみません! でもペズン伯爵にも、今後はこういう突発的な事態に慣れていただきたく……『向こう』では何があるかわかりませんので、今のうちからビックリ耐性をつけていただきたいのです!」
わけがわからないなりに、ペズン・フレイマーは座ったまま後ずさろうとして、椅子の背もたれに阻まれた。
ロレンスは慣れた様子で猫の喉を撫でる。
「ルーク様、『向こうでは』、というのは、どういうことですか? 我々をどこかへ連れて行くかのような口ぶりですが……」
「あっ。そうではなくてですね。実は昨日、リオレット陛下と話したのですが、ロレンス様が『ホルト皇国への留学』を希望されているとうかがいまして! いろいろ込み入った事情もあり、『どうせ行くなら早めに』ということで、近いうちに許可が下りそうなのです!」
ペズンは瞠目した。
留学については、ペズンが「そういう道もある」と示した話だが……それに対する国王からの返答を、『この猫』が持ってきたことに驚く。
リオレット陛下ともつながりがある猫――となれば、その師であるルーシャン・ワーズワースとも当然、つながりがあると見ていい。あの賢人の猫への傾倒ぶりは、王都でもよく知られている。
(人の言葉を喋る猫……神獣……いや、もしや、先だって王都を救ったという……ルーシャン卿を守護する『猫の精霊』か……!?)
およそ半年前、春の祝祭の最終日――パレードの最中に起きた騒動を、ペズンはよく憶えている。
あまりに人知を超えた現象だったため、白昼夢だったのではないかと今でも疑っているが、それにしては目撃者が多すぎた。
この不可思議な猫からの知らせに、ロレンスが目を輝かせる。
「本当ですか!? まさか許可をいただけるとは……」
「もちろん単身で、というわけには参りませんので、これから随行者の選定に入ります。あと、そこそこの地位の成人したお貴族様が一名、お目付け役として必要らしいので……その役目をペズン伯爵にお願いしたいのです。法律・税務関係などは、向こうとこっちで違う部分も多いでしょうし、現地ではそのあたりの講義も空き時間に続けていただければと!」
猫の視線がペズンに向いた。
……愛らしく野性のかけらもないが、実に賢そうな目をしている。
ロレンスが納得顔で頷いた。
「ああ、それでルーク様も自己紹介を?」
「そうですね。送迎や警護の関係で、今後、ペズン伯爵との情報共有が不可欠になると判断しました。それから現在、我が主、クラリス様も一緒に留学できないかとご希望されています。まだライゼー様とご相談しないといけませんが、私の感触としてはたぶん希望が通りそうなので――」
ロレンスの納得顔が、そのまま紅潮した。
「えっ!? クラリス様もご留学を……!?」
……ロレンスの反応も気になるが、ここでライゼー、クラリスという名が出てきた。
ライゼー・リーデルハインは、軍閥に属する子爵である。
王都からこの地へ移動する馬車の中で、ペズンは彼と、少々複雑な話をした。
有り体にいえば、ライゼーは「ペズンの罪を見逃し不問にする」「その代わりに、ロレンス様の教導をしっかりお願いしたい」と、そんな依頼をしてきた。
クラリスというのは彼の娘で、道中、ロレンスとも親密にしていた気がする。
……そういえば、彼女も……よく飼い猫を抱えていたような……確か、キジトラ柄の……
ペズンはようやく声を絞り出した。
「あ、貴方は……まさか、リーデルハイン子爵家の……?」
ロレンスに抱っこされたまま、猫が両手を掲げた。
「はい! 改めまして――リーデルハイン子爵家のペット、ならびにトマト様の栽培技術指導員を兼任しております、亜神のルークと申します!」
…………ちゃんとご挨拶できてえらい。
えらいがしかし、「亜神」という要素は聞き捨てならない。神獣ですらなかった。
ペズンは震える声を絞り出す。
「……ル、ルーク様は、その……ロレンス様とは、いつからお知り合いに?」
「春先ですねぇ。王位継承問題の折、私はリオレット様の警護をしてまして。その縁で、問題が片付いた後、陛下にお願いして、ロレンス様を紹介していただいたのです。実は私、トマト様の交易をする商会を立ち上げており、ロレンス様にはその名目上の出資者……要するに後ろ盾にもなっていただいてます!」
猫がこの国で堂々と商売をしているという事実にも動揺する。
ロレンスまで巻き込んだ商会ということは、もちろん税務処理もおこなっているのだろう。税務閥のペズンとしては、猫……しかも亜神から税金を取り立てるというわけのわからぬ事態に畏れを抱く。
もしもその商会に税務調査が入ったら、調査官にはこの猫が対応するのだろうか……? 担当者に同情しつつ、たぶん今考えるべきはそんなことではない。これを現実逃避という。
「ペズン先生。実は……今まで秘密にしていましたが、こちらに来てからも、私とマリーシアはルーク様とたびたび会っていました。茶会をしたり、それから、あの――先日などはリーデルハイン領のメテオラという村まで行って、兄上や、レッドトマト商国の新しい国家元首とも会ってきたのです。こちらのルーク様は昨今の国家間の情勢にも深く関与しており、兄上への暗殺を防いだり、レッドワンドからの侵攻をはねのけつつ、あちらの飢餓を救ったり、新規迷宮の発見にも寄与されたりと、たいへんなご活躍をなさっています。実は、ペズン先生に私の家庭教師を依頼してはどうかと兄上に進言されたのも、こちらのルーク様です」
「えっ」
以前、ペズンはこの措置を「ライゼー子爵からの推挙」と勘違いしたことがあった。その折にライゼー本人からは否定され、その推挙の主については「信頼する家臣……友人……家族……参謀のようなもの?」と、やけに曖昧な誤魔化し方をされたが、つまり……
(……リーデルハイン子爵家の……ペット……?)
……あの時、おそらくライゼーは、「推挙したのはうちのペット」とでも言いたかったのだろう。言えるわけがない。
猫が愛想よく微笑む。
「それでですね! 実は今、ホルト皇国の外交官、リスターナ・フィオット子爵にもこちらへおいでいただいてまして……この機会にぜひ、お二人をご紹介したいのです! あ、ペズン伯爵とはすでに顔見知りだそうですが」
「……ぞ、存じ上げています……」
夜会の席などで、軽く挨拶をした程度の間柄だが、とりあえず顔は知っている。外交と税務ではあまり重なる部分もなく、特に親しいわけではない。
猫がテーブルからジャンプして、空中に爪で線を引く。
するとその場に、猫の顔の看板をぶら下げた木製の扉が現れた。
「ささ、どうぞこちらへ。皆様、お待ちかねです」
「あ、私は鍛錬中のマリーシアを呼んできます。ペズン伯爵はお先にどうぞ」
「えっ」
大人として情けないが、この状況で一人にされるのは心細い――などと彼の立場で言えるわけもなく、猫に先導されるがまま、ペズンは不可思議な扉の先へ連れて行かれる。
そんな彼を玄関先で出迎えてくれたのは、他国の外交官、リスターナ・フィオットだった。
なんだかやけに「わかります。よくわかります……」とでも言いたげな、優しい眼差しをしている。外交官だけにもとから人当たりのいい男ではあるが、今に限ってはちょっとした仲間意識まで感じられた。
「ペズン伯爵……お久しぶりです。実は私も、つい三十分ほど前にルーク様の存在を知ったばかりでして――」
「……そ、そうでしたか……」
互いに会釈しあって、力なく笑う。
「心中、お察しいたします……」
「恐縮です……」
似たような状況の人物がいたことに安堵しつつ、ペズンは室内に導かれる。
リスターナの背後から、見覚えのあるご令嬢達も顔を出した。
「ペズン伯爵、うちのルークが突然押しかけてしまい、申し訳ありません。先日のクラッツ侯爵領への道中でも、軽くご挨拶はさせていただきましたが、改めまして……ライゼー・リーデルハインの娘、クラリスと申します。こちらは従姉妹のリルフィ姉様です」
「……あの、お久しぶりです……先日は、あまりお話しする機会がありませんでしたが……」
ライゼーの娘、クラリスと、ライゼーの姪、リルフィ――
どちらも「そういえばいたな……」くらいには覚えていたものの、旅の間に接触することもほとんどなく、これといって印象には残っていなかった。
この二人が「亜神よりも上位の存在」だと、ペズン・フレイマーが気づくまでには――
もう少しだけ、時間が必要となる。
いつも応援感謝です。
三國先生のコミック版・猫魔導師14話(前編)が、コミックポルカとピッコマにて掲載されました!
今回はストーンキャットさんの登場回。
ヨルダ様と戯れるかわいくて人懐っこい猫さん(※主観)をぜひご査収ください。
ところで11月も末なのにまだたまに扇風機を使ってるんですが、この暑さ……本当に年末……?・ω・




