150・トルネードとトラネーコとトメイトゥ
ネルク王国の軍閥を束ねるアルドノール・クラッツ侯爵は、その地位にもかかわらず前線型の将官である。
もちろん最前線で自ら槍を振るいはしないが、前線の部隊に指示を出せる程度の位置に本陣を据え――敵の目標を「わざと」自分に向けさせた上で、別部隊にその側面や後背を突かせるという、囮戦法も平然と駆使する。
一見すると危ういが、彼の身辺を守る拳闘兵部隊は精鋭中の精鋭であり、接近戦にめっぽう強い。
本陣を置く位置も、地形を存分に考慮した上で、敵が攻めにくく味方が撤退しやすい場所を確保する。このあたりの見極めは軍師が舌を巻くほどで、危機に陥った「ふり」をしたことはあっても、実際に危機的状況へ追い込まれたことは一度もない。
レッドワンドからの過去の侵攻時にも、彼は敵軍を散々に翻弄した。
軍閥での確固たる地位はそうした戦功あってのもので、決してお飾りの将官ではない。
そして彼は今回も、目立つ高所に陣を置き、わざわざ狼煙まで焚いて存在をアピールしたのだが――
「……いかんな。レッドワンドの連中、こっちにまるで興味を示さん。むしろ周囲に散開して、穀物の強奪を優先する構えだ」
本陣からの遠眼鏡で、眼下の平野を見回し――アルドノール侯爵は、鼻筋を歪めた。
王命によって王都を出発した時は「国境付近の警備、及び軍事演習」という名目だったが、道中で『レッドワンドに侵攻の兆しあり』という追加の報告が来て、部隊はそのまま実戦へ投入される流れとなった。それはいい。予想通りでもあるし、国境警備などという名目は『侵攻の予測が外れた時のための、単なる言い訳作り』だと、誰もが承知の上で出発していた。
だからこそ精鋭部隊も連れてきているし、演習では有り得ない兵数も確保したし、総指揮官にもアルドノール・クラッツ侯爵が自ら立っている。
急行したため、今はまだレッドワンドのほうが兵数は多いが、こちらにも一週間前後で後続の援軍が来る。侯爵自身がわざわざ先行している以上、遅参すれば貴族としての面目を失うため、皆が必死である。
彼らの到着までは無理をせず、自ら姿をさらしてでも敵をひきつけ、見せかけの撤退を繰り返して遅滞戦闘に勤しむ――これが本来の戦略だった。
しかし敵は、少ない兵力のこちらを無視して――むしろ遠ざかるようにして、周辺地域の穀物庫「だけ」を目指す動きを見せつつある。足止め用の部隊くらいは残すようだが、誰もこっちに向かってこない。
「……あれは本当に侵略軍か? 野盗の群れではなく?」
「戦いに来たつもりはないのでしょう。レッドワンドで飢饉が起きつつあるという噂は、どうやら本当のようです。地域差はあるようですが、去年もそこそこ酷くて貯蔵分が尽きていたところに、今年は大凶作だそうで……」
傍らで応じた声の主は、辺境からいち早く駆けつけたライゼー・リーデルハイン子爵だった。
兵は神速を尊ぶと言うが、それにしても早い。もちろん、騎馬のみで少数の部隊だからこそ実現できた速さだが、今夏の侵攻を予想し、事前に周到な準備をしていたのだろう。
トリウ伯爵の懐刀と聞いて一目置いてはいたが、なるほど、戦場で浮足立つこともなく、若い割に落ち着いている。
「ライゼー子爵、これはどう対応したものかな?」
ちょっとした試問のつもりで、アルドノール侯爵はそう水を向けてみた。
さして考える間もおかず、ライゼーは淡々と応じる。
「各地の穀物庫の荷は、なるべく王都方面へ後送するよう、通達をだしてありますが……荷馬車の数にも限りがありますし、今日中にはさすがに間に合わないでしょう。人的被害をおさえるため、周辺民の一時避難が第一ですが、これも既に進行中です。今からできることは多くありませんし、向こうが仕掛けてこないなら、多少の物資はくれてやってもいいでしょう」
「ふむ……敵が分散しているならば、こちらから精鋭部隊を出せば各個撃破も可能ではないか?」
「突出すると囲まれる懸念はありますが、ある程度の戦果は得られるでしょう。とはいえ、最寄りの部隊は足止め役に徹するでしょうし、こちらも兵が余っているわけではありません。後続の援軍が到着するまでは温存したいところです」
血気にはやって敵を蹴散らす――などとは言い出さなかったことに、アルドノールは安心した。
勇猛果敢な将は好ましいが、戦地にあって冷静な将はより得難い。
「また恐れながら、敵のフロウガ将爵もかなりの智将と聞き及んでおります。わざと分散してみせて、こちらの出撃を誘い、戦力を釣りだしてから本陣を急襲するといった策も有り得るかと――その可能性を踏まえた上でもし一当てするおつもりでしたら、虎の子の拳闘兵部隊よりも、機動力重視の騎馬隊による一撃離脱が良いでしょう。お命じいただければ、我らリーデルハイン騎士団はいつでも出撃可能です」
「いや、その必要はない。兵が避難誘導に出ているせいで、こちらも手薄なのは事実だからな。今の兵数で正面からぶつかるわけにはいかん――しかし、連中を放置してやる義理もない。夜襲の準備を進めてくれ。分散した部隊は今日中には結集できまい。留まっているならそこを、もしも夜を徹して移動するようなら移動中を狙う」
嫌がらせ程度にしかならないが、おそらく敵もこの流れは織り込み済みである。分散して少数になった部隊を生贄に捧げてでも、残りの部隊で物資を確保する――そんな狂気にも近い意気込みが遠目にも感じられた。
一部は死兵になりそうで、これも正面から戦いたくない理由の一つである。死を覚悟した兵ほど恐ろしいものはない。
物資を確保した後で生まれる、わずかな気の緩み――叶うなら、そこを狙いたい。
経験を積ませる目的で連れてきていたアルドノールの息子が、問いを発した。
「このまま放置すれば、戦闘にはならず、連中はレッドワンドに引き返す可能性が高い――ということですか?」
彼も三十歳になり、そろそろ後を継がせてもいい頃合いだが――今はリオレットの即位直後とあって、国内が不安定で時期が悪い。また、軍事面の経験がまだ足りていないことを本人も自覚しており、疑問があればその都度、こうして確認をしてくる。
アルドノールは端然と頷いた。
「今回に限っていえば、そうなるかもしれん。しかし何もせずに見逃せば、連中はこちらを弱気と見て、来年もその先も続けて何度も侵攻してくるだろう。また、調子に乗って侵攻の範囲も広げるはずだ。苦労して軍を動かす以上、兵力さえ無事なら、より大きな成果を挙げたくなるものだからな」
今回はレッドワンド側の事情が複雑である。
ライゼー子爵がもたらした機密情報によれば、敵国では内乱が起きており、侵攻してきたのも反乱軍――目的は糧食の略奪「のみ」で、引き返した後は向こう側の国王軍と一戦交える肚らしい。
いっそ見逃して敵勢力同士の潰し合いをさせても良いのだが、完全に見逃してしまうと「ネルク王国軍」の沽券に関わる。
この心構えは、他の部下達に対しても言い聞かせたい。
「侵攻のツケはきちんと払わせる。その手間すら厭うような者に国は守れん。無謀な突撃で兵を損耗させるほど愚かでは困るが、戦意を封じて敵を見逃すようではもっと困る。最後に国を守れるのは軍事力――この現実から目を逸らして滅んだ国は、枚挙に暇がない。夜襲には、クァドラズ伯爵、コーバー子爵、ライゼー子爵の三部隊をそれぞれ派遣する。基本的に騎兵で統一し、わざと馬蹄を響かせて闇夜の混乱を煽れ。深追いする必要はないし、明日以降の戦いに備え、敵を休ませないことが目的だ。混戦だけは絶対に避けるように」
後続の援軍が着くまでは、現有の戦力だけで戦わねばならない。
この分だと援軍が着く頃には敵が撤退していそうな気もするが、その時に、「何もせず指をくわえて見ていました」などと告げるわけにもいかない。
「報告! 敵方に妙な動きが……えっ……? なんだ、あれ……?」
物見台から遠眼鏡を覗いていた監視の兵が、不意に素の声を漏らした。
同時に他の兵達のざわめきも起きて、その場に緊張が走る。
「……たっ、竜巻! 竜巻です! レッドワンドの部隊の進路に、無数の竜巻が発生!」
遠眼鏡を覗くまでもなかった。
アルドノールが視線を向ければ、眼下の平原には明確にして不可解な異変が起きていた。
空に雲はなく晴天――にもかかわらず、地上では風が渦を巻き、土煙を空へ巻き上げている。
その数が尋常でない。
竜巻の一つ一つは直径にして10メートル前後と思われるが、それらが何キロにもわたって整然と列をなし、敵軍の進行方向を完全に塞いでいる。
レッドワンドの前線部隊は立ち往生し、そのまま後退を始めた。
アルドノール侯爵は、目の前で起きている異常事態に思わず呻く。
「……なんだ、あれは。この世の終わりか?」
ついそんな独り言が漏れたが、明らかに自然現象ではない。おそらくは、何者かが使用した『風属性の魔法』である。
熟達した魔導師ならば旋風程度は作れる。竜巻クラスとなると難度は跳ね上がるが、有り得ない話でもない。
――ただ、それも「一つだけならば」という前提がつく。数える気にもなれないほど無数の竜巻を一度に制御するなど、明らかに人間業ではない。
遠眼鏡でよくよく見れば、すべての竜巻は虎の縞模様にも似た気流を描き、上部には不自然に尖った三角形の突起も見えた。
自然の竜巻と比べて、造形までもが少し違うらしい。
呆然と言葉を失う将官と兵達の中で、ライゼー子爵だけは何故か目元を指で押さえていたが、その仕草に気づく者はいなかった。
やがて――
敵軍と味方の、ちょうど中間地点あたりの空中に、黒い人影が浮かび上がる。
距離が距離だけに点のように小さいが、遠眼鏡で見ればそれは「人」だとわかった。
杖のような棒状の道具を、天に向け構えている。
そして、その人物の頭上高くに――魔力の炎でできた、大輪の花が咲いた。
ドォン、と臓腑に響くような轟音を伴って衆目を集め、美しい火花は青空に散華し消えていく。
戦場のすべてに、若い男の嘲るような声が響き渡った。
『これはこれは、驚いた――実に驚かされた。よもや、私の誘いがこうもあっさり「無視」されるとは……私は君達に告げたはずだね? そんなに戦いたいのなら、この私が直々に遊んでやろう、と――こちらとしては、誠意をもって丁重な招待状を差し上げたつもりなのだが……それに対する返答が「無視」とは残念だ。非常に……残念だ。「魔族からの招待」を無視した輩が、どんな末路を辿るのか。まずはその身に、教えて差し上げるとしよう――』
どういう原理なのか、遥かに距離のあるアルドノール侯爵達にまで、その声は明瞭に届く。
空に浮いた男が、片腕を水平にかざした。
それと同時に、無数の竜巻がゆっくりと、レッドワンドの軍勢に向かって這うように動き始める。
逃げ惑う兵達は明らかに恐慌状態へ陥り、腰が抜けて立てない者まで続出していた。そんな彼らは、竜巻に呑まれてあっという間に消えてしまう。
――アルドノール達のいる高台の陣地からでは、遠すぎて彼らの肉片や血までは見えない。
だが、巻き上げられた遺体が空から降ってくる様子もなく、まさしく『消えた』としか形容できなかった。
敵とはいえ、あまりにむごい。
アルドノール侯爵はその凄惨な光景から思わず目を逸らし、わずかにふらついた。
すぐ近くにいたライゼー子爵が、慌ててこれを支えに入る。
「侯爵、お気をつけて。『魔族からの招待』などと口にしていましたが、あれはおそらく……純血の魔族です。レッドワンド側で、何か我々の知らぬ異変が起きているのでしょう。どうもあの国は、魔族を怒らせたようで――」
余人に聞こえぬよう、アルドノールは小声でライゼーに問う。
「……もしや、先日の王都での一件にも関わりがあるのか……? リオレット陛下の恋人が暴走した件――発端は陛下を狙ったレッドワンドの暗殺者だった。あれが逆鱗に触れたとか……」
ライゼーが言葉に詰まった。
別に答えを期待しての質問ではなく、「可能性として有り得るだろうか」という程度の問いかけだったのだが、存外、真剣に考え込んでいる。
「……さて、先方の事情はわかりません。ただ、レッドワンドの部隊が後退している現状が、我々にとって有利なのは確かです」
「有利……? いや、まさかこの機に乗じて兵を出すわけにもいかんだろう。あの竜巻がこっちに向かってくる可能性もある。むしろ我々も早急に撤退すべきか?」
「……いえ。恐れながら、しばらくは動かず、このまま傍観するべきでしょう。あの魔族はわざわざ、敵軍が国境を越えるのを待ってから手を出してきました。その上で、我々にも聞こえるように魔法で声を届けています。この光景を見せつけるのも目的の一つだとすれば……今、下手に動くと、それはそれであの魔族の怒りを買いそうです」
ライゼーの懸念を、アルドノールは正確に理解した。
「……つまり、この後、我々に対しても何か要求があると? レッドワンドを追い返した見返りに、何か求められるというわけか――」
「それはわかりません。しかし要求が出たら、それを検討し、受け入れ可能な内容であればなるべく従う――我々人間が『魔族』相手にとれる選択肢など、それぐらいなものでしょう。侯爵、どうかここは冷静に。先日の王都での一件は、我々の運が良かっただけなのです」
それはよくわかっている。この場には宮廷魔導師ルーシャンもいないし、『猫の精霊の加護』なども望めない。
ライゼーとの会話を経て思考を落ち着けたアルドノールは、再び戦場を見据えた。
竜巻は移動を止めていたが、敵軍の撤退は続いている。もはや潰走と言っていい。
所詮は人間の移動速度であり、遠目に見るとその動きはいかにも緩慢だが、おそらく現場は大混乱に陥っている。
長距離を行軍し、やっと戦地に辿り着いたかと思えば、魔族の介入で目的の略奪もできずに撤退へ追い込まれる――
軍を動かす者として、敵ながらその徒労ぶりには同情しそうになったが、そもそも宣戦布告なしの侵攻を数年ごとに繰り返してくるような相手であり、無理矢理連れてこられた兵には気の毒だが、概ね因果応報とも言える。
「……ま、魔族がこっちに来ます!」
その時、見張りの兵が悲鳴じみた報告を寄越した。
アルドノール侯爵は、せめてもの矜持とばかりに悠然と構える。
(ライゼー子爵の読みが当たったか? さて、どんな無理難題を突きつけられるやら……)
とはいえ、リオレット王の恋人、アーデリア嬢との交流を経て、『魔族』というものが決して、尊大で理不尽なだけの存在でないことはもう理解している。
飛んでくる青年がどういう性格なのかは不明だが、まずは言葉をかわす必要があり、その役目は他の者には任せられない。
「皆、手を出すな。兵は下がり、武器をおろせ。敵意を見せてはならん。私が対応する」
兵達をそう諌めておいて、アルドノール侯爵は昔馴染みの伯爵、クァドラズへ目配せをした。
万が一、自分が殺されたら後を頼む――視線にそんな意を込める。伯爵は無言で頷き、その場に率先して膝をついた。
飛んできた魔族の青年は、迷う様子もなく、ふわりと優雅にアルドノールの眼前へ降り立った。
そして意外なほど軽やかな笑顔で、芝居がかった会釈をよこす。
「お初にお目にかかる。ネルク王国の勇将、アルドノール・クラッツ侯爵とお見受けした。私は純血の魔族、オズワルド・シ・バルジオ――まずはこのたび、貴国とレッドワンドとの戦場を荒らした無礼をご容赦いただきたい」
言葉の上では下手に出られたが、そのままの意味で受け取るほど彼も愚かではない。
謙遜――いや、むしろこちらの出方を見るための演技と察し、アルドノールの側も恭しく頭を垂れる。
「私の名までご存知とは、恐れ入ります。挨拶として、改めて名乗らせていただきますが――ネルク王国の軍務を取り仕切っております、アルドノール・クラッツと申します。オズワルド様には、我が国の民、及び物資をレッドワンドの略奪から守っていただき、感謝の言葉もございません」
丁重に応じると、オズワルドという魔族は目を細めた。
「噂通り、賢い御仁のようで安心した。しかし今回の件は、貴国のためにやったわけではなく、あくまでレッドワンド側の内紛と理解して欲しい。実はレッドワンドには、私の友人が暮らしていたのだが……今の王や、反乱軍を束ねるフロウガとやらに、その友人が酷い侮辱を受けてな。その仕返し――いや、違うな。少々、見るに見かねたのだ。だから貴国に対して含むところはないし、先程の件で恩を売る気もない。事前に連絡をする暇がなかったことは謝罪する」
アルドノールは困惑した。
魔族の立ち居振る舞いとして、やはり聞いていた話とは印象が異なる。アーデリアもそうだったが、西方から流れてくる噂には、悪意からのデマが相当に含まれていそうだった。
「いえ、滅相もございません。あのような大魔法を直にこの目で見られたことは、この上なき幸運でした。もちろんレッドワンドの兵達にとっては、酷い不運だったかと思いますが――」
これは社交辞令だったが、オズワルドは軽く肩をすくめた。
「見た目は派手だが、そう不運でもなかろう。さっきの竜巻に巻き込まれた敵兵は、転移魔法で我が友人達のいる拠点に送ってある。捕虜としてしばらく働かせるつもりだが、食料には困らんだろうし、そうそう悪い生活でもないはずだ。少なくとも、意味のない負け戦で命を散らすよりはよほどいい」
転移魔法にはそんなことまでできるのかと、慄然とした。
大軍をこうもたやすく手玉にとられたら、人が魔族に抗う術などもはやない。レッドワンドはそれこそ「遊ばれた」ようなものである。
「御友人のおられる拠点というと……つまり、はるか西方の、魔族の方々の領地に?」
「いや、これは誤解を招く言い方だった。拠点というのは、レッドワンドの『砂神宮』のことでな。国王軍と反乱軍、そのどちらにも属さぬ第三勢力が、今はそこを占拠している。目的は戦争ではなく、レッドワンドで進行しつつある飢餓への支援で――実はこれについて、少々、込み入った話をさせてもらいたい。兵にまで聞かせるような話ではないから、将官だけで、どこかの天幕を借りたいのだが……」
ライゼー子爵が横から声を発した。
「それでしたら、我が部隊のものをお使いください。あちらになります」
アルドノールは助け舟にほっとした。
本来なら自分の天幕に招きたいところだが、作戦会議に使用しているため机上は雑然としているし、一応は機密文書の類もある。見られても困らないものが大半とはいえ、敵方に「誤情報」を流すための仕込み文書もあり、これを見られるのは少々都合が悪い。
いかにも自然体のライゼーに先導されて、一行は少し離れた天幕へ導かれた。
天幕の生地は淡く光を通すため、昼間はそこそこ明るい。
中央には組み立て式の大きな簡易机が置かれ、その上の籠には、赤く大きな実が山盛りに積まれていた。
アルドノールにとっては初めて見る植物だが、心当たりはある。
先だってリーデルハイン領から贈られた『トマト様のバロメソース・黒帽子ソース』なる、赤っぽい瓶詰め――
届いたのが出兵直前で多忙だったため、まだ開封すらしていないが、リーデルハイン領の特産品を使った新たな輸出品らしい。
加熱してパスタに絡めるだけで美味しい、パンなどに塗っても良いとのことだったが、初めての食材だけにまずは毒味が必要と気後れしていた。
おそらくは、そのソースの原料となった植物だろう。
まさか生の実を戦場に持ち込んでいるとは思わなかったが――見ればライゼーは、何故か頭痛をこらえるように目元を押さえていた。
魔族のオズワルドが目ざとく反応する。
「む? 見慣れぬ赤い実があるな? これは何だ?」
「………………は。トマト様と言いまして、我が領の特産品……になる予定の、新種と思しき植物です。何処からか、渡り鳥が種を運んできたようでして――」
「ほほう……なんとつややかで見目麗しい……生で食せるのかね?」
「……はい。そのまま皮ごとお召し上がりいただけます。もしよろしければ、お一ついかがですか?」
「それはありがたい。先の戦いで、ちょうど喉が渇いていたのだ」
ライゼーから手渡された赤い実に、オズワルドがざくりと小気味よくかぶりつく。
トマト様というその作物は、かなり水気が多そうだった。
咀嚼していくなり、オズワルドの頬に笑みが浮かぶ。
「……これは素晴らしい! なんと滋味に溢れた清涼たる味わいか。ライゼー子爵、もしよければ、後日、この植物の苗か種を譲っていただけないか? ぜひ我が家でも栽培したい。もちろん礼は弾ませてもらう!」
「……う、うけたまわり……ました」
やはり彼でも魔族と関わるのは怖いのか、珍しく歯切れが悪い。
しかしオズワルドは上機嫌でトマト様をかじり、戸惑う諸将にも笑いかける。
「ライゼー子爵、この実はまだあるのかね? こんな旨いものを、私一人で食べるのはいささか心苦しい。こちらの方々にも振る舞ってはどうかな?」
「……は、はい。もしよろしければ、皆様も、ぜひ」
魔族に勧められては断れない――のも事実だが、もちろん好奇心もある。オズワルドが実をかじる様子はいかにも美味そうで、正直に言って食べてみたくなった。
そして――
『トマト様』なる赤い実を皆でかじりながら、『交渉』の続きは和やかに始まった。
……気温差にやられて……orz(毎年の恒例)




