147・猫がネズミの真似をする
その夜。
レッドワンドにおける要衝の一つ、クドラの町では、物資の欠乏を理由とする戒厳令がしかれていた。
町の倉庫にある残り少ない小麦や豆を、夜間に盗まれないように――という建前だが、実のところ、もう物資など残っていない。
しかし、『残っていない』ことが町に知れ渡れば治安は崩壊する。
残る物資は各家庭や商店の備蓄分くらいであり、近い将来、それらを奪い合う暴動が起きる。
町の領主を務める伯爵は、フロウガ将爵に付き従って出征中――
ネルク王国での略奪を成功させて彼らが戻ってくるまでの期間、どうにか耐えれば希望はある。それでも、ある程度の餓死者が出るのはもう避けられない。
後を任された官吏達は途方に暮れていた。
戒厳令は時間稼ぎにしかならない。あと数日もすれば実情が広まってしまうし、遠からず衛兵達すら命令を聞かなくなる。なまじ権力側にいる分、それを笠に着て人々を弾圧する側へ回るか、あるいは上層部の無能を嘆いてクーデターでも起こすか――どちらにしても混乱を加速させる。
クドラの町はそこそこ規模が大きく、住民も多い。
最低限の食料すら足りない環境になれば、多くの人間が、法を守って死ぬよりも罪を犯して生きざるを得なくなる。その状況下で「物資の奪い合い」という非合法の競争を放棄すれば、飢えて死ぬしかない。
近隣の町も多かれ少なかれ、似たような状況だろうが……クドラの町は住民の多さゆえに、混乱はより大きくなる。
行く宛があって目端の利く者はもう逃げ出した。
平年通りの収穫高を保っている地域へ、物資の買付に向かった者もいるが、こちらも足元を見られて価格が高騰している。他の町も同様の動きを見せているため、ここでも水面下での奪い合いが起きている。
おそらく確保できるのは焼け石に水程度の量で、町の住民達にはとても行き渡らない。
――こうした「詰み」の状態で為政者側が次に考えることは、主に「保身」となる。
自分の分、家族の分の物資を確保し、隠蔽し、防御を固めて生き残りを図る――「民衆を指揮する重要な立場だから」と理由をつけて、果たす気もない責務を盾に、自身を正当化する。
クドラの町の官吏達もまた、その傾向には忠実だった。
そして深夜、寝ていた彼らは、変事を知らせるけたたましい鐘の音に起こされた。
「も、申し上げます! 西地区と東地区で住民が武装蜂起! 倉庫が……町の倉庫が襲われた模様です!」
報告を受けた官吏の一人、ラキタスは、寝起きの頭を思わず両手で抱えた。
――倉庫はもう既に空である。中には何もない。
武装蜂起した住民は、おそらくこの後、続けてこちらの官舎や役場に狙いをつけるだろう。彼らとて馬鹿ではない。官吏達が『自分の分』だけは別にして物資を隠しているとわかっている。
「すぐに鎮圧の兵を向かわせろ! 道を封鎖し、バリケードを……」
「そ、その……数がまったく足りません。そもそも精鋭部隊は領主様と共に出征しておりますし、ただでさえ住民が多いので、こちらは圧倒的に寡勢となりますが……」
終わってた。
もう既に命運は尽きていた。
官吏が爆発のタイミングを見誤っていただけで、このクドラの町は、もうそういう状況下にあったらしい。
レッドワンドにおける民衆の暴動は、その多くが計画的ではなく、ちょっとしたきっかけで偶発的に起きる。
おそらく今回は、市中の誰かが、『我々は困窮しているのに、倉庫には物資がある』とでもデマを飛ばしたのだろう。
……いや、そのデマはむしろ、「まだ町には物資がある」と、人々を安心させるための嘘としてラキタス達が流していたものなのだが、自分達の想定よりも市中の飢えは深刻だったらしい。
今の彼は知らないことだが、市中に本来、流れるはずだった物資の多くは、兵や下級の役人達によって着服され、帳簿上の数字と現実が大きく乖離していたのだ。
流すべき情報とタイミングを完全に間違えていたラキタス達は、自分達がどれだけの失政を重ねてきたのか、まるで自覚できていなかった。
「留守役のシャフラ男爵は!?」
「……ゆ、行方不明です……」
逃げたな、と即座に察した。逃げ足の速さは、レッドワンドの文官にとってもっとも重要な才能と言われる。その意味でもラキタスは無能だった。
文官の育成校で同期だったダムジー・サイトウという友人も逃げるのが下手で、よく二人で貧乏くじを引かされたものである。
走馬灯の如くに当時を懐かしく思いながら――ラキタスは、せめて家族だけでも逃がせないものかと思案を巡らせた。自分ももちろん逃げたいのだが、留守役の上司が先に逃げてしまったため、いまやラキタスがこの場のトップである。
困り果てている衛兵達に、「君らも逃げろ」と指示する仕事が、彼にはまだ残っていた。
そして対応策を練る暇もなく、次の伝令が駆け込んでくる。
「申し上げます! 倉庫にあった大量の物資は強奪され、現在、町中に配られているようです。一部では奪い合いになったようですが、衛兵達が仲裁に入り、当初の混乱は収まりつつあるとのことで――」
……この伝令は何を言っているのかと、ラキタスは耳を疑った。
「……奪い合い……? 物資の?」
「は。それはすでに沈静化し、現在は行列を作って、住民有志による当座の配給が始まっております」
ちょっと何を言っているのかよくわからない。
「倉庫はほぼ空だろう? 木箱くらいは積んであったと思うが、中身はもうなかったはずだが……」
「……いえ? ほぼ満載だったと聞いていますが……現に配給が進行中です。一部の衛兵も、現場の判断で行列の整理に駆り出されております」
ラキタスは最初の伝令役に助けを求めた。
「……買付が成功して、物資の搬入があったのか? そんな報告は受けていないんだが……」
「い、いえ……大量の物資搬入があれば我々も作業に加わりますので、それは有り得ません。ここ二ヶ月ほど、倉庫からの物資の持ち出しはあれど、搬入作業はほぼなかったはずです……なにせあの凶作ぶりですから」
兵からの返答も想定通りのものだった。
「住民達は、物資を隠していたことに怒ってはいますが――なし崩し的にとはいえ配布が始まったため、現在は落ち着いているようです。その……配給を止めますか?」
指示を仰ぐ兵に、ラキタスは困り顔を返してしまう。
「……止めればそれこそ暴動になるだろうな。止められると思うか?」
「指示を仰いでおいて恐縮ですが……なるべくなら、そのご命令は避けていただきたいとも願っております」
上司と部下の間柄ではあるが、不可解な状況を共有する仲間として、妙な連帯感はあった。そもそもラキタスも貴族ではなく、ただの役人である。
「……当面の配給は有志に任せておいていい。我々が下手に介入すると恨まれるだろう。それより、それらの物資の出処を知りたい。内容は小麦か?」
「小麦と大豆、オレンジが主で……ニンジンやラディクスといった根菜類もあったようです。あとはカボチャにじゃがいもなどもあったようですが、総量はわかりません」
ラキタスはますます混乱した。
果実のオレンジなど、他国ではいざしらず、レッドワンドでは高級品である。近隣の町でおいそれと買える品でもない。
「……まさか、王都へ運ぶ途中の荷を誰かがぶんどったわけじゃあるまいな?」
ラキタスの疑問に、今度は兵が困り顔となる。彼も答えなど持っていない。
しばし思案の末、危険を承知で、ラキタスは現場の様子を直に見に行くことにした。
ラキタスはこの町で代官の補佐役を務めている。
折悪しく領主の伯爵やその腹心達は出征中。唯一の上司となる代官、シャフラ男爵も、事態が落ち着けば何食わぬ顔で「飲みに出ていた」とでも嘘をついて戻ってきそうだが……今の時点では、下級役人に過ぎないラキタスが状況を把握し、必要な指示を出すしかない。
外へ出ると、夜空の巨大な月に照らされて、石造りの町並みが白く浮かび上がって見えた。
倉庫へ近づくにつれて、夜にもかかわらず人出が増え始める。
整然と並ぶ人々と、配布された物資を持って家路を急ぐ人々と――
その流れが妙に落ち着いていることに、ラキタスは違和感を持った。
「……人々が妙におとなしいな? どうしてこんなに平然と並んでいるんだ? 急な配給……いや、正しくは強奪だが、そういう騒ぎならなおさら、人を押しのけて我先にと殺到しそうなものだろう」
問えば、護衛の兵も首を傾げる。
「そういえばそうですね。最初はもっと……」
「いえ、暴れた者もいたはずです。ただ、いつの間にか静かになってしまって――」
小声で話す最中、ラキタス達から離れた場所で、小さな騒ぎが起きた。
「よこせ、爺い!」
「ひっ……!?」
配給された物資を抱えていた老人が、行列に並ぼうとしない荒くれ者に突き飛ばされ、そのまま荷物を奪われた。
荒くれ者はすぐに走り去ろうとしたが――ラキタス達が介入する間もなく、直後にその姿が掻き消える。
死んだわけでも倒れたわけでもない。はじめからそこにいなかったかのように、ただ消えた。
そして奪われた物資は、「見えない何か」に運ばれるようにして、突き飛ばされた老人の元へと戻る。
唐突な怪異に動揺するラキタス達をよそに、行列は一瞬だけざわめき、ヒソヒソと囁き声が続いた。
「まただ……」
「騒いだり暴れたりすると、みんな消えちまう……」
「誰かが監視してるってことだよな……? これ、何が起きてるんだ……?」
「ままー。ねこさん!」
「……し、静かにね……? 猫さんなんてどこにもいないから……」
どうやら消えたのは、今の男が最初ではないらしい。
立ち上がった老人は、戸惑いながらも荷物を抱えて歩み去り、ラキタス達は行列の先頭付近へ急ぐ。
倉庫の前では、町の衛兵達が何かに怯えながら、物資の仕分けと住民達への受け渡し作業に従事していた。
流れ作業の手際は見事で、誰かが音頭をとったのだろうが、よく現場だけでこの対応ができたものだと思う。
行列整理に従事していた兵の一人がラキタスの接近に気づいた。
「あっ、ラキタス補佐官! 来ていただけて良かったです。御覧のような状況でして……」
「悪いが、見ただけじゃわからん。いろいろと報告を求めたいが、誰に聞けばいい? 今日の歩哨は?」
「………………行方不明です」
一気に不安が増した。
「……町にも消えている者がいる。主に強盗を働こうとしたり……」
「はい。列を乱した者、配給に協力的でない者、二度並ぼうとした者なども消えたようです――この場には何か、大いなる意志が働いています……」
背筋に寒気を覚えながら、ラキタスは思い至る。
(……もしかしたら、代官のシャフラ男爵も……)
逃げたのではなく、彼もまた事態を把握しようとして『何か』の逆鱗に触れ、消された――その可能性は大いにあった。
「……は、配給はこのまま続けてくれ。深夜までご苦労」
「はっ!」
返礼が礼儀正しいのは、彼なりに緊張しているのだろう。
この場は何かおかしい。「混乱の芽は摘まれる」というルールが、明示されないままに実践され、皆が息をひそめつつも物資欲しさに従っている。
次にラキタスは物資が満載された倉庫に近づき、警護中の兵に声をかけた。
「ご苦労。この物資はどこから来たか、わかる者はいるか?」
「ラキタス様! いえ、我々には知らされておりません。領主様か、もしくは代官のシャフラ男爵が隠していた物資なのでは……?」
「今年の凶作からこの量をかき集めるのはどう考えても無理だ……いや、そもそも住民に配れる量のオレンジなんて普通は手に入らんし、これだけの物資があるなら出征なんぞに付き合う必要もない。出処がさっぱりわからんのだ」
途方に暮れたラキタスの言葉に、警護の兵も頬を引きつらせる。
「それとここに来る途中、狼藉者が消えたのを見た。歩哨も行方不明のようだし――他にも消えた兵を把握しているか?」
「はい。住民の暴動に際し、初期対応にあたった兵は無事なのですが……その後、物資の保全を強硬に訴えた上官と、一部を持ち逃げしようとした兵が、あわせて十名ほど消えました。逃亡に成功した者が一人もいないとは限りませんが――」
ラキタスとしても、見たものは信じるしかない。
町にいた大半の兵は、伯爵と共に出征した。
現在も残っている治安維持の兵力はたったの五十名で、これはもう町を守るというより、文官や施設を形式的に警護するのが精一杯の規模である。それも出征についていけそうにない老人や怪我人が多く、倉庫の監視を続ける彼も骨折した片腕を吊っていた。
(兵の五分の一が消えた……となれば、おそらく住民側にも相当数の行方不明者が……)
殺されたと決まったわけではない。死体も見つかっていない。「どこかへ連れ去られた」と見るのが妥当だが、連れて行かれた先が死後の世界だったとしても不思議はない。
出処すらわからない、大量の謎の物資が、町の人々へ配られていく。
配給を邪魔した者は、問答無用で消される。
事情は不明だが、明らかに人間の仕業ではない。こんな真似ができるのは、もっと高次の――それこそ『亜神』くらいしか思いつかない。
ラキタスはぶるりと肩を震わせ、しばしその場に立ちすくんだ。
その時である。
「にゃーん」
――どこからともなく、満足げな猫の鳴き声が聞こえた。
§
「……やー、思ったよりすんなりいきましたね。こっちはそろそろ撤収しても大丈夫でしょう。お疲れさまでした!」
「いえいえ、お役に立てたなら幸いです」
今回、住民に偽装して、配給の流れ作りや列の整理、「暴れると消されるぞ」という警告を発してくれたのは、ケーナインズのブルトさん達。
依頼前は『レッドワンドかー……』と不安げだったのだが、幸いにも荒事が起きずホッとしたご様子だ。
町の治安に関わったのはキャットデリバリーの皆さんで、暴れた人達の配送先は徒歩で三時間くらいの近くの街道である。強盗までやらかそうとした連中は半日くらいかかる山中に送りつけた。フシャー。
――あと何人か、この期に及んで「この物資を独占しよう」とか「横流ししよう」的なことを思案するタイプの役人もいたので、彼らはもう少し離れた山間部にお送りした。ああいう人達は一回、ホンモノの飢えを体感するべきだと思う(真顔)
ブルトさん達には仕事を終えた後の冷たいビールと焼き鳥を楽しんでいただきながら、俺はシェルターを出てウィンドキャットさんにまたがり、再び夜の移動を開始する。
後ろに同乗するのは有翼人のシャムラーグさん。
「シャムラーグさんは休憩しなくて大丈夫です? ブルトさん達と飲んでいてもいいんですよ?」
「レッドワンドのことでルーク様のお力を借りておいて、それはないでしょう。体力だけはあるんで、この程度なら何も問題ねぇです。むしろ魔法を使っているルーク様こそ、休憩が必要なんじゃないですか?」
「んー。ブルトさん達みたいに、演技したり物資を運んだり指示したりはしてないので、私のほうこそ別に……まぁ、ちゃっちゃといきましょう!」
地図も入手したので、宅配魔法での移動もできなくもないのだが――道中で適当な空き地から物資の補給をしたい。
次以降の行き先はのどかで小さな村ばかりなので、シャムラーグさんの道案内はともかく、もうブルトさん達の仕込みも必要ない。周囲が顔見知りばかりだと、混乱とかは起きにくいのだ。
そして今夜は「本当にヤバそうなとこ」を重点的に急いで回っているので、「ちゃーす、砂神宮からきましたー」系の挨拶もしていない。
この後はまるで夜盗のごとく忍び込み、物資を詰め込んで無言で去るとゆー、ネズミ小僧的なムーブをかます。
……猫なのにネズミ?
ともあれ、受け取った側は「なんで???」と首をかしげるであろうが、「細かいことは気にするな」の精神だ。どーせ百年も経てば「何かの勘違い」「記録上のミス」とかで流されてるであろう。
さらにこの後は砂神宮からの支援物資が国内を席巻する予定なので、記録上はそっちに埋没しそうである。
――その夜、ケーナインズが寝ついた後も、俺はシャムラーグさんと一緒にひたすら各地を飛び回り続けた。
夜中まで内職していた住民に見つかったり、紐に触れるとジャラジャラ鳴るタイプの警報装置に引っかかったり、絶望して自殺しそうになっていた人を慌てて止めたりと、なんやかんやいろいろあったが……とりあえず、大きなミスはなくて一安心である。
今夜の分の仕事を終えて、シャムラーグさんと一緒に、どこぞの山頂で夜明けのコーヒーを味わいながら――俺はふと考えた。
……これ、現地住民の方々から見たら、ただの怪奇現象なのでは……?
「純真無垢な子供には見えてしまうこともある」とかではないです。
単にあの子の猫力が高すぎて見えてしまっただけです。
……え、GW……? ……げっとわいるど……?




